第12話 代替わり
この頃、ひどく眠い。起きて動くのもおっくうになっている。もうそろそろ終りの日が近いのかも知れないと、最近気弱になった京香は、自分の思い通りにならない身体に小さなため息と怒りをつのらせていた。
「大奥様、大先生の代わりの方が、お見えました」
「そう、ありがとう松子さん。ここにお通しして」
「はい」と返事して、松子の足音が遠ざかる。
真は目の手術をして今入院中だ。他にもよくないところがあるらしく、再入院になる可能性が高いので、自分の代わりに、真が目をかけている事務所の若い優秀な弁護士さんを寄越してくれるといっていた。
その弁護士が今、尋ねて来たのだ。
省吾が暮らす別棟の和室に布団を敷き、思い通りにならない身体を横たえていた京香は、ゆっくりと起き上がると薄いピンク色のカーディガンを羽織る。横で省吾が本を読む手を止めて京香の名を静かに呼んだ。
『京香』
いつものその優しい声に京香は安心して、「大丈夫よ、省吾。それより、今からお客様が来るから隣の部屋で待っていてくれる?お客様が帰るまで…」と穏やかにこたえる。
『承知した』
いつものようにそうこたえと省吾は優雅に立ち上がり、京香に優しく笑いかけて隣の部屋へと消えていった。
母屋の洋館から長い廊下を通り、足元に心地よく伝わる畳敷きの離れ和室に通された。お手伝いさんが静かに奥の和室に声をかける。そして返事の声と共にゆっくりと開いた障子の向こうにいた人が、真由美が差し出した名刺の名前を口にした。
「
「はい、そうです。よろしくお願いします」
そう答えながら真由美は、横に広がる畳敷きの縁側をちらりと見た。畳の向こうには黒光りする床板が見える。恐ろしく広い縁側だ。その向こうにあるガラス障子からは柔らかな春の日差しが入り込み、正面には美しい日本庭園が広がっている。
そして縁側に置かれた籐のガラステーブルと椅子に座れば、なぜか真由美は、その日一日が穏やかに過ごせそうな気がしたが、この大きなお屋敷と手入れの行き届いた庭には、やはり気後れしてしまう。なぜなら真由美が一生かかって働いたとしれも到底手に入らないものだからだ。
それに真由美は、自分の目があちらこちらへと動いてしまうのをやめられず、その行動が物欲しそうに思われはしないかと、恥ずかしかった。
おまけにお手伝いさんが障子を開けたとき、真由美を見た彼女の顔は、どうして?という小さな驚きと、少しの敵意のような鋭いものが浮かんだ。ただ、それは一瞬で消えたが真由美は見逃さなかった。
―しっかりしないと、―
折角の大先生のご指名に泥を塗ってしまうと思い、真由美は心の中で〝落ち着け、落ち着け〟と自分に言い聞かせる。
相手は一代でこれだけのものを手に入れた女性だ。老いているからといって侮ってはいけないし、反対に真由美が若くて経験が浅いと思われてもいけない。
気を引き締めていかねばと、真由美はいま必死に自分の心を振るい立たせていた。
この屋敷の主である大奥様と呼ばれた品の良い、若いころは相当の美人だったと思われる彼女は、真由美が差し出した名刺をじって見て名前を小さく呟くと、黙ったまま動かない。
その静けさに真由美のほうが先にまいってしまっていた。真由美の口の中は緊張でカラカラに渇き、妙に喉が詰まって、思わずゴクリと唾を飲みこむ音が自分の耳にも大きく聞こえるくらいだった。
―恥ずかしい、聞こえなかっただろうか?―
一瞬、顔が紅くなってはいないかと真由美はヒャリとした。が、確かめるまもなく彼女が顔をあげ、真由美に声をかけて来た。
「ごめんなさいね。まさか、こんなに若い女性が、お見えになるとは思って見なかったから…。気分を害されたかしら?」と彼女が静かに言った。
その声色に嫌われたのかもしてないと真由美は思ったが、無表情な彼女の顔からはなんの感情も読み取れない。
―いけない、ここで気をくれしてはなめられる。それじゃ仕事にならない。しっかりしろー
と真由美は心の中で自分を叱咤した。
そして、
「いえ、そんなことは有りません。それに、私、もう若くは無いです。今年で32歳になりますから」
行き遅れのおばさんですと続けて言おうとしたが、あまりにも子供じみているので、真由美は慌てて言葉を飲み込んだ。
「そう」といって彼女は力なく微笑んだ。
大先生から渡された資料には、殿山京香と山崎綾乃の二人の名前があった。
山崎綾乃は、不動産会社を経営する女性実業家だ。、ただ、今その会社は大先生の下の息子さんが実質的経営者だ。今回はその会社の株を大先生の息子さんにすべて譲り、山崎綾乃は経営から引退する手続きを取る。
そして会社の陰の立役者であり、会社が恩恵を受けて来た、殿山京香が所有する不動産を整理することだ。真由美は初め、名字は違うが二人は双子の姉妹なのかと思った。なぜなら、二人の生年月日が同じだったからだ。
―だけど、ここには一人しかいない…。―
お屋敷の表札は山崎となっていたから、いま目の前にいる彼女が山崎綾乃なのだろう。では、殿山京香はどこに居るのだろうか…。
そんな疑問が頭の隅に浮かぶが、この屋敷は広い。だから部屋は沢山ありそうだ。ということは、この屋敷のどこかにいるのだろうか?と、ここで勝手に真由美が頭の中でひとり悩んでいても仕方がない。
―私は今日、仕事をしに来たのよ。なにを勝手に想像しているのー
真由美は余計なことを考えることをやめた。どうやらこの屋敷の広さと、目の前の彼女の雰囲気に気後れして、自分を過小評価するイヤなところが顔を出しかけているようだ。
―いい加減、人と自分を比べて惨めになるのはやめにしないと。それに…、私は、これまで随分と努力してきたじゃない。それだって立派なもんよー
真由美は背筋を伸ばしながら深く息を吸った。
そして、
「あの、すみません。失礼ですが、山崎綾乃さんでよろしいんですよね」
真由美の口の中は、カラカラに渇いて喋りづらかったが、なんとか普通に喋ることができた。
「ええ」
よかった、間違えてなくて、とここで真由美は一安心した。
「それでは、殿山京香さんは、どちらにいらっしゃいますか?」
「ここにいるわ」と、さっきとは違う優しい笑顔で山崎綾乃は真由美にそう言った。
「えっ?」
何をいっているんだろう?この人。
ここのどこにいるというのだろうか。
そう思いながらも、山崎綾乃の理解出来ない言葉に真由美は思わず自分と綾乃の二人しかいない部屋の中を、殿山京香の姿を探して腰を浮かせそうになりながら必死で目を走らせてしまっていた。
「私よ、私が殿山京香であり、山崎綾乃なの。驚いた?」
真由美は綾乃の言っている意味が分からず、〝えっ〟という驚きの声も出なかった。ただ口をポカンとあけて、目の前にいる綾乃を失礼だが書類と交互に穴が空くほど見ていたと思う。
「仕事では、山崎綾乃と名乗っていたわ。だから、殿山京香を名乗ることは、ここ何十年は無かったのよ」と山崎綾乃はいった。
「そぉ、そうなんですか。かしこまりました。取りあえず、今日は、ご本人の意思確認にお伺いしたので、よろしいでしょうか?いろいろお伺いしても」と言いながら、真由美は自分の声が少し震えているのに気がついた。
―しっかりするのよ、これくらいで驚いていたら仕事にならない。世の中、私が知らない事なんて山ほどあるんだから、これもその一つ。いいわ、とことん聞いてやる。そして、この出来事を私の経験という武器にしてやるーと真由美は思った。
それに、ここで尻尾をまいて逃げるわけには行かない。他の案件ならいざ知らず、大事な大先生のご指名なのだ。だから意地でも遣り通さなければいけないのだと真由美は覚悟を決めた。
「ええ、構いませんわ。それをお願いしているのですから」
綾乃の声は自信に満ちている。どこまでも余裕だ。真由美はたった今心の中で覚悟を決めたはずなのに、綾乃の、いや京香の持つ気に身体ごと飲まれそうになっていた。
「あぁ、はい、すみません。では、早速ですが会社の株の件で二、三、教えて頂きたいことがあります」
息を整え、整え、質問を繰り返し、今日の要件がすべて終わると、この場から心はそそくさと走り出して逃げ帰りたかったが、それを態度に出さないように真由美は気を付けながら次の約束をし、「お昼をいかがですか」の京香の誘いを断り、お屋敷をあとにした。
玄関を出て、ゆっくりと歩いて門を出たとたんに…、ドッと疲れて真由美はその場に座り込みそうになった。こんなことは、母を捨てたあの日以来のことだと思った。
一人の人間に二つの名前、そんなことあるはずない。けれど、今ここにある。これはきっと大先生が、私と弟を助けてくれたように彼女を助けたのだろうと真由美は思った。だから気にすることは無い。
私は私の仕事をするだけだと、真由美は大きく息を吸ってから背筋を伸ばし、少し肩をいからせ歩き出そうとした。がそのとき、どこからかまた梅の花の良い香りが微かに漂ってきた。
真由美は足を止めて振り返る。一瞬鉄格子の黒い門が地獄の入り口のように思えて息を飲んだ。
ー私は、まだ母のことを許していない。そして、私自身のことも許していない。ー
そう確信した真由美は、小さなため息をひとつ吐いて空を見上げた。
「ねーちゃん、車の免許くらい取れよ」
「うるさい!あんたこそ大学ちゃんと卒業してよ!」
二年浪人して、そのうえ留年しているんだからと言いたいところを真由美はグッと堪えた。出かける前に喧嘩はしたくないからだ。
「へい、へい、で、大先生の病院でいいんだよなぁ?」
「そぉ!お願い」
殿山京香と山崎綾乃、この二人の案件は一つずつなら何ら問題ない。これまでにもいくつか手がけたのだから同じ事なのに…、頭では理解していても心が迷子になるのだ。それに、何だか知らないがあの部屋の緊張感が余計に疲れる。
あの後、2度ほどあの屋敷に行き、二人、いや、一人と話をした。
今日は、その報告に大先生の所へ行くのだが電車に乗るのが億劫になった真由美は、大学の授業も無く、バイトも無く、デートも無く家でゴロゴロしている8歳下の弟、
「大先生、目は治ったのにまだ入院するんだ?」
「うん、心臓がね」
「悪いの?」
「うん、よくは分からないけど。もしかしたら手術になるかも知れないらしい」
「そうなのかぁ~。大先生も年だからな、元気でいて欲しいけど仕方ないか」
「そうね。身体は普段から鍛えているから同じ年の人よりはずっと若く見えるけど、やっぱり内臓はね…、見えない分、悪くなるまでわかんないんだろうね」
「そうだな」
弟の卓也はそれっきり黙ってしまった。
病院に着くと卓也は、どこかで時間をつぶしてくるから用が終わったら携帯に電話してくれと、ぶっきら棒に言って車で走り去った。
たぶん弟は、年老いた入院姿の弱弱しい大先生の姿を見るのが嫌なのだろうと真由美は思った。
卓也にとって大先生と呼ぶ秋川真は、いつまでも頼れる大人の男、父親代わり、卓也の理想でいて欲しいのだろうと思ったから「分かったわ」と返事して、真由美は別に責めはしなかった。
「そうか、3回訪問出来たか。よし、合格だな」と言って真は嬉しそうな顔で真由美を見た。
「合格ですか?」
何が合格なんだろうかと真由美は思うが…。
この頃、大先生の話は間が無くて端と端、最悪は端だけしか話してくれなから、真由美は理解するために色んな角度からの質問をしないといけない。
それで分かればいいけど、最悪は突撃取材みたいに当たって砕けろだ。まさに殿山京香と山崎綾乃の件は、そのもっとも手ごわい相手だと真由美は思っている。
「京香は、あれでなかなか鋭い。とくに今は若くて綺麗な女性にはピリピリするはずだ。そんな中で3回訪問出来て、仕事の話が出来たなら…。真由美君、君を一人の大人の女性として、人間として認めたという事だ。だから、合格だ」
「はぁー?」と気の抜けた返事をしながら、それでも真由美には意味がよくわからない。
人として認めたという事は、仕事ぶりを認めたくれたという事よねぇ、それは嬉しい事だけど、何で?ピリピリする必要があるんだろう。
―よくわからないー
と思いながら、真由美がその真意を真に聞こうとして、「まぁ、次に行った時くらいには分かるだろう」と先回りされてしまい、結局よくわからないまま、その日は病院を後にした。
だが、ピリピリの意味は真の言うとおり4回目の訪問の時に分かった。
いつものようにお手伝いさんに案内されて向かった離れの広い縁側で、籐の椅子に優雅に座る省吾を真由美は初めて見た。
真由美が、その美しさに息を飲んだのは事実だ。
けれど、ぴりぴりの意味がこの美しい青年のせいだというのなら、それはばかげていると真由美は思った。なぜなら真由美は男性に興味はない。
常日頃、真由美は「私、男性にも、結婚にも興味はありません。あるのは仕事だけです」と公言していた。
していたはずだったが、なぜか興味は無いはずなのに…、彼の綺麗な瞳が真由美に優しく笑いかけただけなのに、たったそれだけなのに、真由美はその場に泣き崩れていた。
止めようとしても涙が止まらない。
どうしてしまったのだろうかと、真由美は自分でもパニックになってしまった。
そして、いつの間にか真由美の目の前に現れた京香が膝を折り、真由美の手を取とると、「泣くことを我慢しなくていいのよ」と優しく言った。
まるで、それが合図かのように真由美の心は制御を失い京香に抱かれるようにして身体を震わせ…、声をあげ大泣きしていた。
それから、少し落ち着いてきた真由美に京香が優しく言ってくれた。
「ねぇ、真由美さん、もしよければ話してくれない?あなたの、その涙の訳を・・」
省吾の美しい瞳は、真由美の胸の奥に温かさをくれる。真由美は、自分の中に渦巻く悪をすべて話してしまいたいと言う欲望が、身体の奥から突き上げてくる衝動にかられていたが、同時に話してもいいのかという思いで混乱もしていた。
だが真由美の心の中で、
―でも、話してしまいたいー
という欲望の方が勝った。
「はい…、あのぉ、どこから話せばいいんでしょう」と、真由美はしゃくり上げながら京香に聞いていた。
「どこからでもいいのよ。真奈美さんが話したいところからで構わないわ」と京香に優しくそう言われて真由美が小さく頷いた。
真由美の父は中学で教師をしていた。
だが事故で、交通事故で真由美が十歳、弟の卓也が二歳の時に亡くなった。だから真由美は車の免許が取りたくても取れない。怖いのだ。もし免許を取れば、今度は自分が父をひき殺した人間と同じことをして、大切な誰の命を奪ってしまうのではないかと考えてしまい、怖くて自分で運転するなどという恐ろしい行為が出来ないでいた。
弟の卓也は、「ねーちゃん、考え過ぎだよ」と言うけれど、事故で血だらけの、到底父とは思えない人の顔を見た瞬間から、どうしても怖くてしかたないのだ。
あるいは、もしかしたら、真由美は父をひき殺した犯人を探し出して、父と同じ目に合わせてやりたくて、復讐したくて、そんな自分の心が怖いのかも知れないと最近は思う事もある。
どちらにしても、自分が車を運転するという行為そのものが真由美にとっては恐ろしい事でしかないのだ。
父は優しい人で、真由美には怒られた記憶がない。いつも思い出すのは、笑顔と頭を撫でてくれる温かい大きな手だ。母は、典型的な夫に頼る依存型の女性だった。
母は両親を早くになくして親戚の家で小さくなって成長したせいか、自分の意志をはっきり持つということが出来なかったのではないかと思う。
生きる為に…。
誰からも必要とされない、大事にされたことの記憶がない母は、自分を大事にしてくれる優しい父と出会い、結婚したことは、母にとって一番の幸せだったのだろう。だから、父に頼り切ってしまっていた。
父は母のすべてだった、それは仕方がなかったのだと思う。
でも、父の葬儀やら何やらがあるのに、母は半狂乱になり、泣くだけで何の役にも立たなかった。幸い父が勤めていた中学校の小柄な女性教頭が、すべて采配してくれた。
とは言っても細かな家の中のことまでは分からないから、その教頭は膝をつき、小さな真由美の目線に合わせてから「ごめんなさいね。お母さんはショックでお話しできないから、真由美ちゃんが、知っていることでいいから、私に教えてくれる?」と、真由美を気遣いながら優しく聞いてくれた。
真由美は「はい」と返事して、真由美が知る限りの家の中の事を説明もしたし、必要なものが有れば一緒に探した。
…だから真由美は、このときから泣くということを忘れた。…
「そんな、小さな子が…、」と、薄らと目に涙を浮かべた京香が真由美の手を取り小さく呟いた。
その時、「失礼します」と柔らかな声がして、お手伝いさんが絶妙なタイミングで温かい紅茶を運んで来てくれた。そして「どうぞ」と、小さく遠慮がちに真由美に暖かなティーカップを渡してくれた。
真由美は温かな紅茶を一口飲んで、ほっと一息つくことが出来た。このとき真由美は、お手伝いさんに向けて心底感謝の言葉を口にしていた。
「生きかえります。ありがとうございます」
真由美のこたえに、お手伝いさんは小さく微笑むと、ひっそりと静かに部屋を出て行った、と同時に無意識に省吾へと真由美の目線が流れる。
省吾はその美しい瞳を真由美に向けたまま、優しく微笑んでいた。そして、真由美の口は省吾の瞳を見つめたまま再び滑り出した。
母は、父が亡くなってしばらくは魂の抜けたお人形のようになっていた。
真由美は、母も父と同じように突然自分たちの前からいなくなってしまうのでないかと毎日が不安で、学校が終わると一目散に家へと走って帰っていた。
だが、そんなある日、息せき切って学校から家に帰り玄関を開けると、キッチンからいい香りがしてきた。
〝ママが、ご飯を作ってくれている〟
嬉しかった。
嬉しくて、真由美はキッチンへと急いだ。
だが、そこには…、父が生きていたころの母の笑顔と、知らない男の気持ち悪い笑顔があった。
小さな弟は意味も分からずに知らない男の膝にキョトンとした顔で座らされていた。
それからは真由美と弟の卓也にとって、地獄の日々といってもいい日常が始まったのだ。
あの日から真由美の母は、知らない男の言うとおりに行動した。
男と出かけて行って何日も帰って来ず、真由美と卓也は家に食べるものが無くなり、ひもじい思いをする以外にも、男たちが煩いといえば容赦なく母に力尽くで押し入れに入れられたり、母から口汚くののしられたりした。時には訳も分からない理由で母から激しく叩かれもした。
それ以外にも洗濯をしてもらえずに、何日も同じ服を着る羽目になった事も一度や二度のことではない。真由美の給食費が、男のビール代になることは当然の事のように行われていた。
それでも男たちが、プイッと家を出て行ったきり帰らず、次の男が現れるまでの少しの間の母は、昔の母に戻り真由美と卓也に泣いて謝った。二人は、そんな母を許した。だから真由美が中学二年になるまでは、そんなことの繰り返しだった。
異変は真由美が中学二年の春に起った。その前の年の冬から居座る男が、母と弟が出かけていて居ない事をいいことに二階にある自分の部屋で勉強していた真由美に襲いかかってきたのだ。予期せぬ出来事に真由美は身体が固まり動けなかったが、このままでは自分も母と同じように汚され、狂ってしまうと直感した。
理由など無い。
自分に襲いかかってきた男の…、人とは思えない汚らし顔と荒い息になぜだかそう思った。
―こいつに殺されるくらいなら、殺してやる。ー
真由美の身体の奥から自分でも信じられない言葉が湧き上がった。それと同時に真由美は死にものぐるいで男の腕に噛みつき抵抗した。男の腕から肉を噛みちぎってやってもいいと思いながら、力を込めて噛みついていた。
男は何が叫びながら真由美を突き飛ばした。
突き飛ばされた瞬間、真由美は倒れまいと必死に踏ん張った。
―倒れたら、今度こそ私はこいつに殺される。ううん、違う。生きたまま壊される。ー
そう思ったからだ。
だから、真由美は倒れまいと必死にその場に踏ん張った。そして、勢いをつけて振り向きざまに転がっていた椅子を素早く摑むと、男の顔めがけて思いっきり投げおろした。
その瞬間、男はとても人間の声とは思えない叫び声を上げたが知ったことでは無い。その声を聞いたときに真由美は〝これで助かる。私、生きていていいんだ〟と思った。
そう思ったから、振り向きもせずに部屋を飛び出し階段を駆け下りて、必死の思いで家の 外へと逃げた。
そして、走りながら真由美は思った。
―あの家は、もう私の家じゃ無い。逃げなきゃ、逃げなきゃ、振り返っちゃダメ、きっと家に連れ戻されてしまう。だから振り返るな私、振り返るんじゃ無い、ー
と真由美は心のなかで叫びなら前だけを見て必死になって走っていた。
このときの真由美は逃げる事だけを考えて家を飛び出したので、自分が靴を履いていない事さえ気がついていなかった。
だから駅前のコンビニの光りを見ながら、靴も履かず、引き裂かれてボタンが飛び散ったブラウスの前を必死に両手でかき集め、口の中には汚い男の血の味がして何度も吐いた。そして暗い闇の片隅に自分を否定するように蹲り、やがては誰に気づかれもせずに、この闇と一体化していく自分が人では無いものになっていくようで、怖くて、そしてみじめでみじめで仕方なかった。
春とはいえ夜は静かに冷える…。
靴下の下から襲ってくるアスファルトの冷たさは、みじめさ以上に真由美の身体を芯から凍らせていった。
「真由美ちゃん?真由美ちゃんじゃないの?」
そのとき聞き覚えのある声に真由美が顔を上げると、そこには父の葬儀の日、真由美に優しく声をかけてくれた父が勤めていた中学校の教頭が心配そうな顔をして真由美を見ていた。
「先生…」
あとは涙で声にならなかった。
教頭は、真由美が両手で必死にブラウスの前をかき集めている姿と、靴を履いていない靴下だけの足元をみて何かを察したのだと思う。何も聞かずに真由美を連れて駅のタクシー乗り場からタクシーに乗り、自分の家へと真由美を連れて帰ってくれた。
もしかしたらあの頃。母の事が、父が勤めていた中学でも噂になり、教頭は、先生は…、真由美の今の姿を見て、今まで真由美の家に何が起こり、そして何が起こったのかが理解出来たのかもしれない。
―あのときは、そんなことを考える余裕も私にはなかったけどー
そう、あのときの真由美は一刻も早くあの家から逃げ出したかった。父も母もいなくなった家になど二度と帰りたくは無かった。そして、弟卓也のことが心配で心配でたまらなかった。そのことしか頭に無かった。
あの家に帰らなくていいなら、卓也と自分を救い出せるなら、私はなんでもすると真由美は思った。
だから、そのことだけが頭の中を駆け巡り、人が自分を見て何を思っているのかなんてことを考える余裕などなかった。
―もしかして私は、あのとき、本当に人ではない何かになっていたのかもしれないー
それから先生は家に帰り着くと、すぐに真由美を熱いお風呂に入れてくれた。真由美は先生のぶかぶかのジャージをかり、先生の作ってくれた、あたたかいご飯を泣きながら食べていた事をよく覚えている。
先生は、真由美がお風呂に入っている間に「今日は、私の所に泊まりますから」と、母に電話してくれたようだ。例によって母は男の事しか頭にないせいか、真由美が先生の家に泊まることを、あっさりと許してくれたらしかった。
あのとき…、
母は真由美の身に何が起こったのかさえ興味が無いのだと思った。だから、心配して真由美を迎えに来ることより、男といることを選んだんだと感じた。例えあのとき、母が先生の家に真由美を迎えに来たとしても、きっと真由美は帰らなかっただろう。
だから…、それはそうなのだけどと思いながらも、なにか、あっさりと捨てられたような気がして、無性に悲しかったことも真由美の心は覚えている。
だからだろうか、真由美は、その夜一晩かかかって泣きながら今日起こった事を、そしてこれまでの事を、つっかえ、つっかえしながらすべて先生に話した。
先生は真由美の話を遮ることなく、真っ直ぐに真由美の目を見て話しを聞いてくれた。何度も頷きながら静かに聞いてくれていた。
そして最後に真由美が母と離れて暮らしたい。
あの家にはもう二度と帰りたくないと先生に必死に訴えた。真由美と弟の卓也の二人だけで、母や知らない男がいないところで暮らしたいと、何度も、何度も泣きながら訴えていた。
ここまで話して、真由美はプッリと貝のように黙り込んでしまった。
どれくらい時間がたったのだろうか…、
それまで真由美の話を静かに聞いていた京香が、ゆっくりと瞬きしてから真由美を見つめ、黙りこんだ真由美に優しく問いかけてきた。
「それからどうしの、中学生の真由美さんは?」と、真由美の頬を優しく撫ぜた。
真由美は大きく息を吸い、あの日を丁寧に思い出しながら話した。
「その翌日、教頭先生に連れられて、大先生に会いました。大先生は私に、君が本気なら僕は全力で力になる。ただし、それは、ある意味、君が、君の意志でお母さんを捨てる事になる。まだ中学生の君に、そんな決断をさせることは忍びないが、ここで決めなければ後は落ちて行くだけかも知れない。君が、君らしく生きる為に、辛いことだが、どちらかを、今すぐにここで選ばなければいけないと言われました」
「そう、真らしいわね。それで決めたのね」
「はい、母を捨てることを決めました。大先生は、まず君のことが先だから、弟さんのことは少し待ちなさい。でも、必ず一緒に暮らせるようにしてあげるからと言ってくれました。辛かったけど、我慢しょう。もう泣くのは止めよう。もっと強くなろうと思いました」
真由美は京香に向けてそう言いながら、〝私は、何を言っているのだろう。まだ4回しか会っていない。それも仕事での…、ただそれだけの関係の人に、ここまで自分のプライベートにかかわる話しをしてもいいのだろうか〟と半場自分の行動に呆れながらも、不思議なことなのだか省吾の瞳の輝きを、美しい青と緑の瞳を見ていると言葉が勝手に口から滑り出していた。
「それから私は施設に入りました。弟は、その二か月後に施設にやって来ました。大先生は約束を守ってくれたんです。大先生は、月に一度は必ず私と弟に会いに施設に来てくれました。教頭先生は、毎日、学校で私に声をかけてくれました。それだけではありません、中学を卒業してからも、何かにつけて施設に会いに来てくれました。お二人がいなかったら、私達姉弟は、今頃こうして普通に生活していたかどうかは分かりません。それで、私も大先生と同じようになりたいと弁護士になりました。勿論、生きるための手段でもあります。だから私は正義の為とか綺麗ごとを言うつもりはありません」
「そうね、その気持ちがあるから、私の事を聞いても臆することなく、変に勘ぐり正論を翳すことなく、淡々と仕事をしてくれたのね。ありがとう」
「いえ、私こそ。こんな恥ずかしいお話を聞いて頂いて、ありがとうございます」
「いいえ、そんなことはないわ」と、京香は柔らかな微笑みを真由美に向けていた。
「ところで、その教頭先生のお名前は、なんとおっしゃるのかしら?」
「はい、お名前は、
「そう。それで、海道まどか先生は、お元気なの?」
「いいえ、去年の春先に、肺炎でお亡くなりになりました。」
「そう、もういらっしゃらないのね」
暫しの沈黙のあと京香が静かに言った。
「はい、先生には身内の方がもう誰もいらっしゃらなかったので、大先生が葬儀のすべてを手配してくださいました。でも…、」
「でも?」
「でも…、悲しかったけど、私と同じようにまどか先生に助けてもらった子たちがたくさん集まってきて、大きな声でワンワン泣いて、でも先生との楽しい思い出に笑って、でもまた泣いて…、すごく賑やかなお葬式でした」
「そう、素適な先生だったのね」
「はい、優しくて…、大好きでした」
真由美の目に薄らと涙が浮かんでいた。
「ねえ、真由美さん。今日は貴女も疲れたでしょう。お話はこれまでにして、仕事のお話しは、明日にしてもれえると嬉しのだけど、どうかしら?」
「あ!はい、失礼しました。私の事ばかりお話してしまい、お疲れになったんですね。本当にすみません」
真由美は慌てた。
何たる失態をしてしまったのかと、真由美は自分の顔から血の気がサッと音を立てて引いて行くのが分かった。
と同時に5年前、母が亡くなった路地裏の、日も当たらない、トイレが共同で、お風呂も無い、小さなキッチンと四畳半一間のアパートに、殆ど必要最低限の荷物しかない母の遺品整理に弟と出かけたとき、角が擦り切れた古い小さな菓子箱の中から、真由美と卓也名義の二つの通帳に、千円、五百円、二百円と、小さな数字が細かく入金されて連なる明細を見た時…。
母の心を、本当の想いを、その中の小さな数字に見つけた時…。
真由美は、自分の罪を、自分の犯した罪の重さがどれ程残酷なものであるかを自覚したあの時の、恐ろしい後悔の思いが身体中に蘇った。
手が震え…、止まらない。
―どうしようー
立てない。
真由美は怖くて…、
喉の奥から何か得体の知れないものが湧きあがりかけて来て絶叫しそうになった。
―だめ、ここでそんなことしちゃだめー
と真由美は何度も自分に言い聞かせ、必死になって自分を抑えるが、抑えれば抑えるほど、胸が苦しくて、どうしょうもなく震える両手を胸の前で固く握り、必死で湧きあがろうとする声と戦った。
―いや、もう…、私を許して。お願い、許してー
その時、ひんやりとした風と共に甘い香りがしたと思ったら真由美の目の前に省吾がいた。
そして真由美の固く握られた手を省吾の手が捕らえた。ひんやりとした省吾の…、
冷たい手、
―まるで水みたいー
と真由美が思った瞬間、真由美の脳裏に木々が生い茂り、誰もいない深い深い山の中で、膝をつき、こんこんと湧く冷たい湧き水に手を入れ、中を覗き込もうとしている真由美自身の姿が浮かんだ。
驚いた真由美は震えながら、瞬きする事も出来ずにいた。
そして…、目を大きく見開いたまま、すがるような気持ちで省吾の瞳の中に、自分自身が抑えようとする声を、言葉を絞り出し訴えていた。
「私は、私は…、自分を産んでくれた母を、捨てたんです。ママを見殺しにしたんです」
ずっと言えなくて言いたかった言葉。
誰かに聞いてほしくて…。でも誰にも言えなくて、心の奥に上手に隠したつもりが、いつも、いつも真由美の心の中でグルグル回っていた、真由美の罪をすべて証明する言葉。
やっと今言えた。
真由美は罰せられるのだろうか、どんな罪を受けるのだろうかと覚悟を決め、問いかけるように省吾の美しい瞳を覗き込んだ。
すると…、
「真由美、ごめんなさい。弱いママを許してね」と弱々しい母の声がした。
「ママを許してあげてくれるかい真由美。ママはいま、パパと一緒にいるから、幸せだから心配しなくていいんだよ」と真由美のことを心配した、優しい父の声がする。
「そうよ、ママはパパといるから、今はとっても幸せよ。真由美は、真由美の幸せを探しなさい。卓也にもそう伝えてあげてね」と先ほどの弱々しい母の声とは違う、幸せそうに弾む声が真由美の耳の奥に聞こえた。
省吾の、澄んだ水を湛えたような青色と、淡い春の山の緑を思わせる瞳の中に、幸せそうに笑う父と母の顔が映って見えた。
信じられない、だけど、信じたい…。
真由美の心はねじれて悲鳴さえもあげることができない。喉の奥が締め付けられ、力が入り苦しい。
それでも真由美は、「パパ、ママは、今、幸せなの…ね」とやっとそれだけは言えた。
幸せという言葉は真由美の心を軽くした。
それまで重い鉛のような固まりが常に真由美の胸の奥に存在していた。
それが一瞬にして消えた。
だが、それまでその固い重りに押しつぶされまいと踏ん張っていた真由美の心はバランスを失い、省吾の顔がぼやけてなにか違う生き物に変わって行くように見えた。
それと同時に真由美の身体がどんどん軽くなる。
―あれ…、私、宙に浮いているの?―
遠くで自分の名を呼ぶ京香の声が微かに聞こえてきたが、
―ごめんなさい、京香さん。私…、すごく眠いのー
返事をする気も失せた真由美は、静かに目を閉じ、耳を閉ざした。
気が付いたときにはリビングのソファに薄い毛布を掛けられて寝かされており、目の前に心配そうに眉間にしわを寄せて真由美の顔を覗き込む弟、卓也の顔があった。
「ねーちゃん!気が付いたか?」
「卓也…」
真由美は〝あんた、なにしてんの?ここは・・家?〟そう言おうとしたが声が続かなかった。
「大先生から、ねーちゃんがクライアントさんの家で倒れたから迎えに行ってやってくれって連絡が来てさ。慌てて友達にバイト変わって貰って飛んで来たんだ。大丈夫か?」
―ああ、そうだ、京香さんと話しをしていて、省吾君の瞳を見ていたら、べらべらと自分のことばかりしゃべっちゃって…、恥ずかしいー
真由美は両手で頭を押さえ、「頭…、いたい」と呟いた。
「大丈夫か?もう少し休ませ貰ってから帰ろうぜ。俺、この家の人に頼んでくるよ」
そう言うと卓也は素早く立ち上がり部屋を出て行った。真由美は卓也の背中をぼんやりと見送った。
―私、さっきまで何処か違う場所にいたような気がしたけど気のせい…。―
といくら真由美が思い出そうと考えても、頭の中に薄い靄のようなものがかかっていて何も思い出せない。
―もういや、疲れたー
暫くしてホッとした顔で戻ってきた卓也が、「どうぞ、ゆっくり休んでから、お帰り下さいて言って貰ったよ」と嬉しそうに行った。
それから少しすると、お手伝いさんが甘くて温かいココアを卓也と真由美の二人分持って来てくれた。卓也と真由美は礼を言い、ココアを両手で包み込むように受け取ると、その温かさを確かめる様にゆっくりと口に運んだ。
「甘くて、温かい」
真由美がホッとしたように言う。
「うん。甘くて、懐かしい味がするよ、ねーちゃん」と卓也の声が嬉しそうにこたえた。
「それはよろしかったです。うちの子も大好きでしたよ。甘くて温かいココア」
そう言ったお手伝いさんは、ふっと包み込むような優しい目をして、真由美と卓也を見てから頭を軽く下げて部屋を出ていこうとした。
そう言えば…、と真由美はここで初めて気がついた。自分は、この人の名前を知らないと…。
「あのぉ、今更なんですが、もし、よければお名前を教えていただけますか?」
真由美の問いかけに彼女は振り返り「松子です」とにっこり笑ってから頭をもう一度軽く下げ、ドアを開けて部屋を出て行った。
それからココアを飲み終えて、少し落ち着いた真由美と卓也は、玄関先で松子に見送られて外に出た。
真由美は、玄関前の広い駐車スペースに止めてある卓也の車に乗り込み、カチャンという小さな音を響かせてシートベルトをかけると…。
〝ふっ〟と思いついたことを卓也に聞いてみた。
「ねえ、卓也。あんたは、まだ、あの頃小さかったけど、ママが連れて来た男の人達のこと覚えている?」と聞いてみた。
「ああ、覚えているよ~」と、ふざけているように語尾を伸ばした卓也だったが、瞳の奥がキラリと光り、それがどうした?と言うように真由美に語りかけている。一瞬たじろいだ真由美だったが、息を大きく吸ってから、吐く勢いに任せて「どんな風に?」と聞き返した。
多分とんでもない奴ばかりだったとか、或いは、あんな母親死んで当然だと罵倒するかも知れない、どうせろくな返事はないのだろうと真由美は思っていたが、卓也のこたえは意外だった。
「ああ、ママは、パパにまだ恋してんだなぁ~て思ったよ」
そう言いながら卓也は勢いよくエンジンをかけると、ハンドルを切った。
「えっ?何それ、どういうこと」
意外なこたえに驚いた真由美は、慌てて卓也に聞き返した。
「ねーちゃん、気づかなかったか?ママが連れてくる男。みんな、どこかパパに似てるんだ。目とか、鼻とか…、眉毛の形とか、口元とか、手とか…。髪質というか、髪型とかがさぁ~。微妙に似てるんだよ。よくあれだけ似ているとこ探して、とっかえひっかえ連れて来るよな~って感心しながら見てたよ俺。だから、あぁー、ママはパパに恋しているんだ。今でも恋している。だから必死になってパパを探しだして、今度こそどこにも行かずに、ずっと家にいて貰おうとしてんだ…、ってね。なんか、いじらしくて可愛かったよ。俺はママのこと…。そんなママのこと嫌いじゃなかった。まぁ、ご飯が無くてお腹が空いたりとか、汚い服ばっか着せられたりは正直まいったけどさ」
「パパに、似たとこ…?」と言いながら真由美は黙った。
卓也は思いだしていた。母親と別れる日の朝、大先生が卓也を迎えに来てくれた日だ。
〝パパが見つかったら迎えに来てね。それまで、おねーちゃんと待ってるから〟と卓也が少し舌の回らない口で言うと、母親は〝うん〟と涙をぬぐいながら返事をして卓也の頭を撫でてくれた。
だが…、その約束が守られることは無かった。
(結局無駄だったけどな…。パパはとっくに死んでいたんだし、俺もガキだったんだよな~。起こりっこない奇跡を信じていたなんてさぁ)
「ああ、ただ大きくなってから思ったんだ。外見が似ているんじゃなくて、中身がパパに似ている人なら良かったのにて、それならママも幸せになれたんじゃないかって。それに…、」と言いかけて卓也が黙った。
「それに?なに」
夜の街が真由美の目の前を走りながら飛んで行く。
「ねーちゃんも仕事一筋の鬼じゃなくて、普通にかっこいい男みつけて恋する…。ごくごく普通の女の子になれたのになぁ~ってね。あ!、怒るなよぉ!叩くなよ、俺、いま運転してんだからな、危ないからな!」
いつもの真由美なら、小生意気なことをいう卓也の頭を小突いて、叩いて、こねくり回していたかも知れない。
でも今夜は違う。母親に対する卓也の正直な気持ちも、自分に対する思いも、真由美は素直に聞くことが出来た。おかしな感覚だったが言葉で言いあらわすと、卓也の気持ちが、思いが、なんの抵抗もなく素直にスーと胸のなかに入ってきた。
「そうね、そうかもしれない」
卓也のいう事は当たっているかもしれない。
夜の闇が、車の窓に鏡のように映しだした父に似た自分の口元、ふっと目線を落とした先にある父と同じ形の爪を見た。
母の嬉しそうな顔が浮かんで、ほろりと静かに涙が一粒、真由美の目からこぼれ落ちた。
「ねーちゃん?おい、ねーちゃん大丈夫か!今日はもう何もしなくていいから。家に帰ったら直ぐ風呂入って寝ろ!」と卓也が怒鳴った。
だが、その怒鳴り声さえ真由美には心地良かった。だから、「うん、そうする」と素直にこたえた。
真由美はこぼれ落ちた涙を手で拭いながら、乱暴だけど、弟の優しい言葉に頷いていた。
「まどか、ごめん。私、幸せになる。だから探さないで…」
「…、うん、分かった」
ツー、ツー、・・・・。
―あのとき、余計なことは何も聞かなかったね、まどかー
あの時の…。電話を切った後の無機質な機械音を京香は今でもはっきりと覚えている。
もう二十年以上も昔、京香は省吾と二人だけの幸せの為に嫌な役回りを親友のまどかに押し付けた。
きっと、まどかは京香の両親や妹から、きつく問いただされたはずだ。
―たぶん…、―
それに彼女は、海道まどかは、教師という子供の頃からの夢、成りたかった職業で堂々と生きていた。
あの頃、確か「この年になって、やっと結婚したい人に出会ったの京香」と嬉しそうに言っていたけど…。
真由美から聞いたまどかの名字が変わっていないのは結婚しなかったということだろう。
きっとまどかは、麻生真由美のような子を助けることに必死で、自分のことは後回しにしていたんだろうと思う。自分の幸せの為だけに生きて来た京香とは正反対の生き方だ。
「死んじゃたのね、まどか」
京香は呟きながら夜を映す冷たいガラス戸に手を添える。ひやりとした冷たさが、小さな京香の手を通して一気に身体中へと伝わった。
満開の桜の花びらたちが、なまめかしい姿で、愛おしい誰かを誘う様に真っ暗な闇の中で艶やかに浮き上がっていた。
『京香』
一生をかけて守りたかった大切な人の声がして、京香の身体を後ろから優しく包み込んだ。
真は、まどかが亡くなったことを知りながら京香には一言も言わなかった。きっと真は真のやり方で口を閉ざし、京香を守っていてくれていたのだろう。
だが、今自分が病に倒れ、京香や省吾を守れなくなるかもしれない。そうなったときの為に、真は麻生真由美を京香のところへ寄越したのだ。
京香が居なくなって真自身が動けなくても、京香が守りたいものを最後まで守り通すために…。
真は、やはり男なのだと京香は思った。か弱き女性を助け守るのは男の役目。
そしてそれが、多分、秋川真という男が人として生きていくために必要な心の支えであり、糧だったのかもしれない。
それは中学の頃、真に甘える事ができずに、「お前は男だ」と言われた京香が年を経て、年月を経て、しわしわのお婆ちゃんになって、やっと真に守ってもらえるか弱き女性になれたのだと思うと、ふっと京香はおかしくなった。それど同時に真に対して、省吾や家族とは違う意味で切ないあたたかさが込み上げてきて、ほんの少し胸の奥がチクリと痛み苦しかった。
―私は、真が私を愛していることを知りながら気づかないふりをしてきた。私は、私を愛してくれた人を利用して、知らん顔をして生きてきたんだわ。―
『あれは、京香と似ている』
省吾が静かに京香の耳元で囁いた。
「ええ、そうね」
それが目に前の咲き誇る桜のことなのか、麻生真由美のことなのか…。
それとも真のことなのか…。
もう、京香にはどちらでもよかった。
ただ、麻生真由美が省吾の瞳を見ても、狂いも、壊れもしなかったことだけで、それだけで十分だっと京香は思っていた。
龍の鱗 しーちゃん @sea-chan4
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