第11話 蘇る湖(下)
「ごめんなさいね、
「いいから、おばあちゃんは寝てて、
「そうよ、お母さんまで寝たきりになったら大変なんだから、風邪は万病の元、早く治さないとね」と娘の亜希子が母親の竹内結子に言った。
京香が会社を辞めてから二十年以上の時が経っていた。あのとき五十歳だった竹内結子も既に八十歳を越えている。
そのせいなのか、あれほど体力には自信があった結子だが、ここ二、三年は風邪を引きやすくなっていた。
「お母さんももう年なんだから無理しないの」と軽く笑いながら娘の亜希子が言う。
隣の部屋のベッドに横たわる友弘が、“姉さんのいうとりだ、母さんおとなしくしてくれ”というように左手を少し挙げた。
友弘の病状はあれから少しずつゆっくりと進んでいった。今では痰を取る為に首を切開してチューブを通しているので声が出ない。栄養もチューブで繋がれている。身体も痩せて一回り小さくなっていた。
―このまま私が死ねば、友弘のことはどうなるのだろうか…。亜希子に負担がかかるー
それだけでは無い。
自分がいなくなれば亜希子には、きっと友弘のことで経済的負担もかけることになるだろうと、この先に起きるであろうことを頭の中で考えた結子は自分の老いを呪った。
「お母さん、夕飯は、チンして暖めたらいいようにしてるからね。また明日くるからね」と言って、夕方近くに亜希子と真希は一駅向こうの自分たちが住む家に帰って行った。
「ありがとう」と布団の中から礼をいった結子は、暫くして日が落ち始めた外の陰りに気がついて電気をつけようと起き上がろうとした。
そのとき、開け放たれた窓のカーテン越しに見えた薄青い空の色が、なぜかは分からないがひどく寂しく思えた。
その瞬間、どうしようも無い不安が結子の胸の中を襲い涙が溢れ出していた。
暫く声を殺して泣いていると、トントンと小さな音がする。隣の部屋の友弘が“母さん、どうしの?”と聞いているのだと分かった。
「なんでもないのよ、空があんまりきれだったから…」と結子は友弘に嘘を言った。
そして、窓を閉めようと結子は再び立ち上がろうとした。すると一瞬強い風が吹いて、レースのカーテンが大きく揺れたと同時に結子は何かの気配を感じた。
『我を呼んだか』
その声の主は結子の目の前に立っていた。
「あなたは、あのときの…」
驚いた結子はそこから声が出なかった。
あの日、京香のマンションで出会った青年は、あの日のままの美しい姿で結子の前に立っていた。そして、あの日と何も変わらない姿の青年は、その美しい瞳を結子に向けて、もう一度聞いた。
『我を呼んだか』
…と…。
「あなたはあのときの、殿山課長の…、でも、どうしてここに?」と最後は消え入りそうな声で、結子は目の前の青年に聞いていた。
『そなたが我を呼んだからだ』
「私が、あなたを呼んだから…」
『そうだ、そなたが我を呼んだ、助けてくれと』
「あぁ・・」
結子はその場にヘナヘナと座り込んでいた。
「そうです。私があなたを呼んだんです。助けて欲しくて、自分の気持ちにもう嘘をつくのが嫌で、嫌で…。ここから逃げ出したかったから、あなたに会いたくて心の中で呼んでいたんです」
そう、結子は思っていた。あの日、殿山京香の家に居たこの人を、もしかしたら人ではなく神ではないのかと思っていた。
なぜなら、決して誰にも悟られまいとして蓋をした結子の醜い思いを、誰も助けてはくれないだろう、いや助けることなど出来ないだろうと諦めた苦しい思いを、心の何処か片隅で彼なら救ってくれそうな気がしていたからだ。
『そなたが本当に愛していたのは、あの男であった。だが、そなたは幼馴染みでもある一族の女に負けたくない一心で、その心を偽った』
「そうです。私は本当は主人のことを、あの人のことを心から愛していました。でも、私はあの女には負けたくなかった。だから嘘をつきました。〝あなたのことなんて初めから愛してなんかいない。
この人は、もう初めから何もかも知っていたのだと思った。多分、あの日、私を見たときからすべて知っていたのだ。だからもう何も隠す必要なのないのだと思うと結子の心が逆に軽くなった。すべて話してしまおうと思った。
『それでもあの男はそなたを愛した』
「そうです。こんな自分が嫌で家を飛び出して死んでしまおうと思いました。だから走ってくるトラックに…。でも、あの人が私を庇って…」
『そなたの代わりにあの男が死んだ』
「あの人、私を追いかけてきてくれていたんです。でも、声をかければ私が傷付くと思って、黙って私を見守りながら後ろにいてくれたんです。なのに私は…、それさえ気づいてはいませんでした。自分のことばかりを考えていたんです。あの人を殺したのは私です。子ども達から父親を奪ったのは私なんです」
『そして、そなたが心から愛する者を奪ったのも、そなた』
「そうです。悔やんでも悔やみきれないことを私はしました。あの人を好きだと、素直に愛していたと、ずっと側にいて欲しいと、あのときどうして正直に言えなかったのか、麻理子なんてもうなんの関係もなかったのに、素直に麻理子の結婚をおめでとうといえば良かったのに、私は、また麻理子と自分を比べていたんです。
麻理子の夫になる人と、あの人を比べていたんです。愚かにも私は、あの人を物扱いしてしまったんです。
〝麻理子の旦那さんは社長なのに、なんで私はただのサラリーマンの妻なの?なんで、麻理子よりも頭のよかった私が大学に行けなくて、麻理子はいけるの?いつもそう、いいところはお金持ちの家に生まれた麻理子がみんなとっていく。結局、お金がある方が勝ちなのよ、お金があればなんだって自分のしたいことが出来るのよ、お金が無いばっかりに、どんなに頑張っても勝てないのよ〟と言って、私はあの人を傷つけたんです。
そんなバカな私の、麻理子に勝ちたいという考えが、一番大事なあの人の命を奪ってしまったんです」
『それで、そなたは我にどうして欲しい』
「もう、こんな思いから解放されたいんです。自由になりたいんです。でも、息子を残してはいけません。そんなことをすれば、亜希子が、娘が苦労することになります。息子も辛いでしょう。この子は、友弘はもう十分苦しみました。
本当なら自分の足で自由にどこへでも行けて、好きな人が出来て、結婚して子どもだっていたかも知れない。でも、そんなものの何一つさえこの子にはありません。
そのうえ私が老いてこの世を去れば、ただ時間を…、姉や姪に迷惑をかけながら〝すまない、すまない〟と口にも出せず、心の中で詫びながら生きて行かなければならないのなら…」
『ならないのなら、そなたは、あの男のところに行きたいというのだな』
「はい、そうです。どうか私と…、私と息子を自由にしてください。あの人がいて、私が一番幸せだった頃に時間を戻してください」と結子は泣きながら美しい青年に言った。
美しい瞳の青年は、その目を結子に向け、それからゆっくりと隣の部屋に横たわる友弘の方に、その美しい瞳を向けて確かめるように言った。
『承知した。そなたもそれで良いのだな』
小さく、トントンという音が聞こえた。
『承知した。では、参ろう』
トントンという小さな音を聞いた青年は静かにそう言った。
☆-☆-☆
あの小さな子ども達二人と約束してから一ヶ月以上が経った。その間、何があろうと毎日 夜も明けきらぬうちに寺をでて、この地で自分が知る限りの真言を一心に唱えた。
だが湖に水が蘇る気配さえない。
所詮それだけのもの…、自分にはそんな力などないのかとわき上がる空しさに思わず手にした鱗を見た。
そのとき、「お坊様」と突然後ろから若い女性の声がした。驚いて振り返ると、そこには白いベビードレスを着た赤ん坊と、白いワンピース姿の若い女性が立っていた。
こんな時間にどうやってここまで来たのか?思わず足元を見ると踵はそれほど高くはないが白いヒールの靴を履いている。
〝その靴で、この暗い山道を歩いて登ってきたというのか、おまけにこんな小さな赤ん坊を抱いて来たというのか?そんなバカな…、いや、おかしい、白い靴がひとつも汚れていないではないか〟
昨日は大雨だった。
少なくとも山の麓からここまでのぬかるんだ道を歩いて登ってきたのなら、その白い靴には泥汚れがついているはずだ、だが目の前にいる若い母親の靴は、まるでおろしたてのように白くてきれいだった。
〝いったい、この母親と赤ん坊は何者なのか、どこから来たのか、それとも人ではないのか…、〟
すると、この若い母親が私の目を見て、「お坊様、私とこの子を夫の元に送りとどけてはいただけませんか?」と言った。
私には、この若い母親が何を言っているのか、それがどういう意味なのかが皆目見当もつかなかった。とうとう私は、山に住む獣に化かされているのかとさえ思い出していたときだ。
『そなた、阿弥陀経は知っているか』
今度も突然背後から声がした。さっきまでなんの気配もしていなかったのに…。
私はその声に驚いて振り返った。
そこには二十歳くらいだろうか、右の瞳が澄んだ青色で、左の瞳が淡い緑色の瞳をした、左右瞳の色が違う美しい青年が静かに立っていた。
「あなたは?」
だが、青年は私に問いかけにはこたえずに、もう一度私を見て聞いた。
『そなた、阿弥陀経を知っているか』
「知っています」と私はこたえた。
『では唱えよ、そなたの目の前で何が起ころうとも唱えよ。それが、この湖を蘇らせる為の我とそなたとの役割』
「分かりました」
私は、自分の目の前に立つ左右違う瞳の色を持つこの美しい青年が何者か、そして赤ん坊を抱いた若い母親が誰なのかは分からない。だがこれは、この湖が蘇る奇跡の始まりなのかもしれないと思った。
私は深呼吸をして精神を統一させると、美しい青年に言われたとおり阿弥陀経を唱え始めた。
如是我聞 一時仏在
舎衛国 祇樹給孤独園
与大比丘衆 千二百五十人倶
皆是大阿羅漢 衆所知識…
暫くすると何か大きなものが動く気配がして、辺りの空気が揺れだしたのを感じた。
そして丁度枯れた湖の真上に、薄墨色の雲が天から空を覆い隠す勢いでわき出るように現れ始めた。
すると私の右頬真横に白銀の龍が顔を出した。
私の心臓は恐怖なのか、それとも喜びなのかどちらとも分からない興奮で高鳴り始めた。
が…、
『唱えよ、何も恐れず、何も求めず、何も感じることなく。ただ、そなたの心で唱えよ』と白銀の龍は私に言った。
私は恥じた。
『恥じることはない。そなたは立派にこれまでやってきた。何も恥じることはない。ただ、そなたの心のすべてで唱えればよい』と白銀の龍また私に言った。
このとき私は、自分の心をこの白銀の龍とともにいようと思った。そう思った瞬間、不思議なことに今まで感じていた心の中の波が静かに消え失せていた。
それと同時に白銀の龍は私の真横をゆっくりと通り過ぎて、湖の中心へと移動し始めた。
龍が前に進むたびに小さな風が起こって、足元の小石がパラパラと音をたて左右に飛ばされていく。
赤ん坊を抱いた若い母親は、ただ一点、龍が向かっているであろう湖の底を凝視している。
赤ん坊は母親の腕の中でむずがる様子も、泣くこともなく、小さな手を握りしめて母親の顔を見て嬉しそうに笑っていた。
龍はその大きな身体をゆっくりと前進させて、かつて湖の底だったところに楕円を描くように降り立った。
私はこれから起こることのすべて見届けたかった。湖が蘇るその瞬間を見逃したくはなかった。
そして私は瞬きさえすることさえ忘れ、龍の姿だけを一心に見つめて阿弥陀経を唱えていた。
湖底に降り立った白銀の龍が、少し宙に浮いた格好で楕円を描きながらゆっくりと回り出す。
それと同時に龍の身体からは幾つもの光る細かな何かが…、初めは小さく舞い上がった。
やがてその小さな光る何かは、まるで噴水の水が勢いをつけてわき出るように天に向けて舞い上がりだした。
そして、薄墨色の雲の間からは幾筋もの光りの帯が湖底にいる龍の身体めがけておりてくる。
その、天から降りてくる光りの帯を龍の身体から舞い上がった細かな光りが渦を巻き捕まえると、光りの帯は一本の大きな光りの円柱になり、湖底で龍が描く楕円中央に届いた。それはまるで光る瞳のようだと私は思った。
その瞬間、ハラハラと宙を渦巻くように舞っていた細かな光りが丸い球体をした幾つもの小さな水の固まりになり、空中でクルクルと踊るように渦を巻きだした。
渦を巻いた幾つもの小さな水の固まりは、やがて一つになって波打ちながら、光りの柱を中心にして巨大な水の球体になってまとわりつき宙に浮いていた。
私は不覚にも言葉を失い、阿弥陀経を唱えることさえ忘れて、ただその不思議な光景を見上げていた。
「あれは…」
水の固まりの中に一人の若い男性が見える。
巨大な水の中にいるその若い男性は、表面が波打つ水の壁の内側に手をつき、こちらを見て嬉しそうに微笑んでいた。
私は、自分の目がおかしくなったのかと思った。
「お坊様、どうか続けてください」
私は、私の横に立つ名前も知らない若い母親の声で我に返った。
〝しまった、何があっても唱えよと言われていたのに…〟
「申し訳ありません」
私は素直に彼女に謝り、再び阿弥陀経を唱え始めた。すると宙に浮いていた巨大な水の固まりが光りの柱をつたってゆっくりと地上めがけて降りてくる。
ゆっくりと…、降りてくる。
やがてその巨大な水の固まりは、湖底にいる白銀の龍の姿を覆い隠し、枯れたはずの湖は天から降りきた光りの柱と美しい水に満たされていた。
蘇ったのだ。
枯れ果てた湖が蘇ったのだ。
「お坊様、そのまま続けてください。そのままで、私達が一緒になるまで」と彼女は言った。
私は返事の代わりに腹の底から声を出して阿弥陀経を唱えた。
彼女は私に向かい深々と礼をした。
彼女の腕の中の赤ん坊が、私を見て声を出し無邪気に笑いかけてきた。
私も目で赤ん坊に笑いかけた、とそのとき私の耳に…ありがとうございます…という優しげな男性の声が聞こえた。
次の瞬間、蘇った湖に突き刺さるようにして天から降りてきた光りの柱の中に、さっき見た若い男性と今の今まで私の横にいた彼女、あの若い母親と赤ん坊が幸せそうに笑いながら居るではないか、私は何が起こったのか分からなかった。
〝待て、では、あの水の固まりの中にいた男性が、今まで私の横にいた女性の夫だということか、つまりは、あの赤ん坊の父親ということなのか…。〟
すぐにでも声をかけて事の次第を確かめたいが、今ここで阿弥陀経を唱えることを止めるわけにはいかない。
約束を破るわけにはいかない。
やがて光りの柱はユラユラと揺れ、太陽の光が辺りを照らし出すと静かに消えて行った。
そしてそこには白銀の龍も、美しい青年も、あの若い母親も、無邪気に笑っていた赤ん坊も…、天から現れた若い男性も居なかった。
居るのは、約束を果たすために阿弥陀経を唱え続ける私だた一人だけだった。
☆-☆-☆
その日の明け方近く、省吾君は僕の家の寝室に現れた。
「うぅ…、冷たい、
そうだ、秋子は昨日から次男坊の家に行っている。ここにいるはずがない。この家に居るのは俺ひとりだ。
じゃぁ、誰なんだ俺の顔を覗き込んでいるヤツは、泥棒か?…そう思った瞬間、相手を刺激しないように薄目を開けた。
『起きよ、
そこには髪の毛からしたたり落ちる水滴を気にすることなく立つ省吾君が、ガラスのように美しい瞳を向けて僕の顔を覗き込んでいった。
「省吾君、どうしてここに?」
驚いた僕は、なぜ省吾君が僕の目の前に居るのか、鍵はかけたはずだ、なのにどうやって鍵のかかった僕の家の中に入れたのかという疑問が頭の中を駆け巡り、省吾君にバカな質問した。
言葉にした途端に僕は後悔した。
彼は龍神だ、鍵などなんの意味もなさない。僕は愚かな言葉を口にしたことを後悔した。
だが、省吾君はそんな僕の言葉など無視するように、
『そなたに頼みがある』と僕の目を見てもう一度言った。
省吾君の眉ひとつ動かさないその顔を見て、多分、省吾君にとって僕がいま何を考え、どう思おうが気にもならないのかもしれないと思った。
僕は省吾君の目を見て頷き、ベッドから起き上がった。そして不思議な事に、さっきまで水滴を含むほど濡れていた省吾君の髪は乾いていた。僕は無言のまま省吾君を連れて二階の寝室から一階のリビングへと移動した。
「僕に頼みというのは?」
僕は省吾君にソファに座るようにと手で合図しながら、自分は省吾君の真正面に座った。
省吾君はゆっくりと足を組みながら優雅に座った。
…珍しいな、今日は全身白ずくめの服装か…
僕の目の前に座る省吾君は、彼の瞳の色に合わせて京香が買いそろえたブランド物では無く、ごくシンプルなどこにでもありそうなデザインの白のシャツとパンツ姿だった。
「僕に頼みとは?」
僕が、省吾君の顔を真っ直ぐ見てそう言うと、
『そなたに、この者達の想いを、この世に残した者に伝えて欲しい』と省吾君は白い封筒を僕に手渡してきた。
「
字は違うが妻と同じ名前だと思った。
「裏は、
『そうだ』
省吾君のこたえはあっさりとしている。
「分かった。で、これを僕が省吾君の代わりに亜希子さんという人に渡せばいいということだね。でも、この、亜希子さんというのはどこに居るんだい?それに、竹内結子さんと友弘さんというのは誰なんだい?」
省吾君が僕の顔をジッと見た。その瞳の奥が一瞬キラリと光ったように思う。
『我はその二人と約束を交わした。その二人の望みを叶えた代償に、二人は京香の望みを叶えるための人柱となった。もうすぐ湖が蘇ったとの知らせが入るだろう』
なんの感情も現さずに淡々と喋る省吾君のその口元を見ながら「人柱…」と言ったきり僕は絶句した。
『天の決まり事は我の役目、が、人の世の決まり事は美しき闇を持つそなたに頼む』
「まぁ、待ってくれ、あっ、いや、引き受けないと言っているんじゃないんだ…」と僕が言いかけたとたんに、けたたましい電話の音が部屋中に響き渡った。
「ちょっと待ってくれるかい」と僕は両手を使い、省吾君にまだそのままでそこに座っていてくれと合図してから、電話に出ようと慌てて立ち上がった。
頭の中を、
〝人柱とはいったいどういうことなんだ?〟
〝それに、ほんとうに湖が蘇ったのか?その知らせの電話なのか?〟という言葉が素早く過ぎった。
そんな僕を見て省吾君が、『いずれ分かる』言った。
その言葉の意味を聞きたいと思ったが、身体は止まることなく受話器を取っていた。受話器の向こうから京香の興奮した声が聞こえた。
「真、湖が蘇ったのよ」
やはりそうなのかと想いながらも、なんだか僕はまだ信じられなくて「あぁ、」と随分間の抜けた返事をした。
そして、省吾君の姿を確かめようと興奮した京香の声を聞きながら振り返ったが、もうそこに省吾君の姿は無かった。ただ、テーブルの上には、さっき省吾君が僕に差しだした白い封筒が静かに置かれているのが見えるだけだった。
そしてその一週間後、僕は竹内結子と友弘なる人物が誰なのかを知ることになる。
☆-☆-☆
あれからひと月後に湖は蘇った。奇跡としか言いようがない。
その日の朝、省吾の姿が消えていた。伸ばした私の手が空をきり冷たいシーツの上をさまよう、「省吾!」私は飛び起きた。
眠気など一気に吹き飛んだ。
…どういうこと?どこにいったの…
私は呆然としてしまい、いつも私の横にいるはずの省吾の姿を部屋の中に探した。
そこに慌てふためいた松子さんが走り込んできて勢いよく障子を開けると、「大奥さま、亮坊ちゃんからお電話です。湖が蘇ったそうです」と叫んだ。
私は頷き、消えた省吾のことが気にかかりながらも、松子さんとともに電話がある母屋のリビングへと急いで向かった。
亮君から興奮した電話を貰った時は、信じられない気持ちと飛び上がるくらい嬉しい気持ちがいりまじり、どうしたらいいのか分からずに電話口で泣いてしまったので小さな亮君を心配させてしまった。
そのとき私は思った。
亮君と裕君の夢に出て来た源蔵と白銀の龍の龍は、省吾のことだとばかり思っていたが…、もしかしたらあのお坊様の、彼の事だったのかも知れないと思った。
夢は時々象徴的なものを現す。
初めて彼を見たときに感じたものの正体が、省吾と通じるものがあるのなら、それは彼の本質が龍に近いと考えたからだ。きっと彼は自分を律し、孤独をものともしない精神力の持ち主なのだろう。そして弱きものを守る優しさも、耳を傾ける勇気も持ち合わせている。
それに一馬さんが言った「藤の木を蘇らせることが呼び水になる」の言葉と、松子さんの「本当に切られたんでしょうか?」の一言は、結果的に阿弥陀寺の彼の元へと導いてくれた。同時に源蔵の夢がくれた偶然とは言えない何かを感じてもいた。
彼は、あのお坊様はこのひと月以上の間、夜も明けぬうちから湖に向かい日の出とともに寺に帰る。
そこで彼が何をしていたのかは教えてはもらえなかったが、雨が降ろうが、風が吹こうが、一日も欠かすことなくそれは続いていたのだそうだ。
そして、今朝早く彼は川田家の玄関先に立ち、湖に水が満ち溢れている事を二人の兄弟に知らせに来てくれたのである。
朝早くに亮君から知らせを受けた私は、すぐに真に連絡を入れてその日のうちに二人で湖に向かった。美しい湖は、私の頭の中の思い出の記憶から現実の姿として目の前に現れていた。あの日のことは忘れない。
私は彼に、あのお坊様に対して感謝してもしきれないくらいの尊敬の念と、自分の心に限りなくあぶれ出る喜びを忘れはしないと思った。
そう、多分、夢の中の登場人物とキーワードの品がすべて揃って、奇跡は起きたのだ。そしてなにより、なに者をも恐れない小さな勇者二人が私に見方してくれたからだと、亮君と裕君に感謝した。
消えた省吾はいつの間にか現れ、何事もなかったように離れの籐の椅子に座り庭を眺めていた。
そして、「省吾」という呟くような私の声にこたえて、いつもの優しい笑顔を向けて私を抱き寄せてくれたから…。
だから…、
なぜか省吾の髪が少し濡れていたけれど、
…私を置いて湖に帰ったのではなかったのだ…と安心したから、「どこにいたの」とは聞かなかった。
☆-☆-☆
朝早くにリビングにある電話がけたたまし音を立ててなった。
「私が出る」といって食べかけのパンを皿にもどし、娘の
だが、初め「はい、はい」といっていた真希が受話器の口を手で押さえて振り替えしざまに、「お母さん、ヘルパーの
「なんですって」
驚いた亜希子は慌てて真希と電話を代わった。
「亜希子さん、大変なんです。結子さんと友弘さんが居ないんです。玄関の鍵が開いたままで、家のどこにも居ないんです。どこを探しても居ないんです。すぐ来て下さい」
電話の向こうにいるヘルパーの土屋の声は殆ど叫び声になっていた。
…ただ事では無い…
「分かりました。今から、すぐに行きます」
そう言って亜希子は電話を切ったが身体に力が入らない。
いったいなにがあったのだろう。
昨日の二人におかしな素振りなど何もなかった。いつもとなんらかわりはなかったのにと、亜希子は受話器に置いた震える右手を左手で押さえ込みながら思った。
「お母さん、私も行く!」
亜希子の後ろのいた真希が叫んでいた。
真希とともに慌てて結子の家に駆けつけた亜希子は、家の前に立っていたヘルパーの土屋と一緒に家に入った。昨日となんの変わりもない。
だけど…、何かが違っていた。
「お母さん、友弘!」
亜希子は、そう声をかけながら家中のドアというドアを開けた。
…どこにもいない…
唯一、二階の和室の押し入れの襖が開いていた。亜希子はそっと中を覗き込んだ。
暫くして警官が駆けつけてくれた。
本人たち以外に何か無くなったものがないかと聞かれたので、亜希子は二階の押し入れの中に母が大切にしまってあった、自分たち姉弟と孫の真希がお宮参りで着た白いベビードレスと、父との大切な思い出があると言っていた母の、結子の白いワンピースが無くなっているとこたえた。
それ以外のもの…、
現金、通帳、家の権利書などの貴重品はどれも家の中にあったと亜希子はこたえた。
おまけに家の鍵までここにある。
…お母さん、友弘、いったい二人とも何処へ消えてしまったの…と亜希子は心の中で呟いていた。
☆-☆-☆
一週間後、省吾のいうとおり真は竹内結子なる人物が誰なのかを知ることになった。
いつものように京香の家のリビングにいたときだ、その日はたまたまテレビがつけていた。
そしていつもは見ないワイドショーの画面からは「〇〇市に住む竹内結子さんと、息子の友弘さん親子の姿が家の中から突然消えて一週間になります。これは、都会の神隠しのような出来事で…」という声が聞こえ、真は心の中で、
―竹内結子、友弘、まさかこの二人が、省吾君のいっていた人柱になった人物たちなのか?―と思った瞬間だった。
京香が、「〇〇市?まさか、あの竹内さん」と呟きながら画面を食い入るように見た。
「知っているのか?」と真が京香に聞き返すと、
「ええ、以前勤めていた会社で私の部下だった人よ。確か、息子さんは病気だと聞いていたし名前も同じだわ」と京香が画面を見たまま振り返りもせずにこたえた。
「もしかしてだが、そのときに、この竹内結子さんという人は省吾君に会っていたりするのかい?」と真はなるたけさりげなく聞いてみた。
「ええ、一度だけ…」とこたえた京香の目は、テレビ画面に映る竹内結子の家とマイクを持ったレポーターをジッと見つめていた。
―間違いない、彼女だ。―
そう確信した真は京香には何も言わずに…、いや、言えずに手紙の宛名の主を探した。
そして、真が省吾君から頼まれた亜希子へと宛名が書かれた手紙を本人に渡したのは、それから三日後のことだった。
竹内結子の娘である亜希子に連絡を入れた翌日、真は亜希子の自宅を訪ねた。そして今、リビングのソファにテーブルを挟んで向かいあわせに座っている。
亜希子は真が渡した名刺を手に取り「秋川法律事務所、秋川真…、弁護士さん」と呟くように言ってから目線を移した。
「これを母が私に…」
そう言ったまま亜希子は真がテーブルの上に差しだした白い封筒を見つめている。
重苦しい沈黙が続く…、
今から、この手紙をどうして真が持っているのかを亜希子に説明しなければならない。
―それに…、―
まさかあの湖を蘇らせる為に二人は人柱になったとは言えない。
まして省吾のことを話すわけにもいかない。
だから真は、自分が考えた作り話を本当のことのように亜希子に伝えなければいけないのだ。
だが、それもあの白い封筒の中になにが書かれているのかで変わる。
いつになく緊張しているせいか、真の手の内に薄らと汗がにじみ出していることに気がついていた。
―バクチだな、―
勝たなければいけないバクチだと思ったが、それを目の前に座る亜希子本人に気づかれるわけにはいかない。
そう思うと口の中がカラカラに乾く…。
丁度そのとき、さっき紹介してもらった亜希子の娘である真希が、遠慮がちな声で「どうぞ」と言って真の前に涼しげなガラスの器に入ったお茶を置いてくれた。
「これはありがたい、お気を使わずにといいたいところですが、歳を取るとちょっと歩いただけで喉が渇くんですよ。では、遠慮無く」と言ってから、真は真希が入れてくれたお茶を一気に飲みほした。
そして、「あぁ、美味しい。生き返りましたよ、出来ればもう一杯もらえませんか?」と真希に向かってにこやかに言うと、真希は嬉しそうに「はい」と返事して台所の方へと小走りして行った。その後ろ姿に「可愛らしい娘さんだ」と言いながら亜希子の方を見ると…。
「先生、読ませて頂いていいですか」と半ば射るような視線と低い声で聞かれた。
「どうぞ、あなたに宛てて書かれた手紙です」
「ええ、そうなんですけど…」と亜希子は口ごもった。
その手紙の中に何が書かれているのかを知ることが怖いのですか…、と亜希子に向けてきつい口調で危うく言いそうになったが真だが、何とか気落ちを押さえて言葉を飲み込んだ。
そんな分かりきったことを不用意に口に出せば、真自分が、目の前にある何が書かれているか分からない手紙に対して動揺していることを、亜希子たちに悟られるだけだと思ったからだ。
それにそんなことを悟られれば、省吾が言った「人柱」という言葉を自分の意志に反して、愚かにも自分の口から出てしまうかもしれない。だが、それだけは避けたかった。例えそれが竹内結子自身の望んだことだとはいっても、残されたものの心情からすれば決して許されることだとは到底思えないからだ。
そうこうしているうちに真希が「どうぞ」と言ってにこやかに二杯目のお茶を真の前に置き、自分は母親である亜希子の隣に座った。
そして…、
「お母さんが読めないなら、私が読んであげる」と言いながら真希は、亜希子の手から手紙をヒョイと取ると封を切り、中身を出して読み出した。
亜希子へ
この手紙をあなたが読んでいるころ、お母さんは友弘と一緒にお父さんのところに居るということです。
昔、亜希子に言いましたよね。
瞳のきれいな青年に会ったときの話しをしましたよね。覚えていますか?
あのとき、そのきれいな瞳の中にお父さんが現れて、「君がほんとうに僕に会いたくなったら、彼にお願いするといいよ」と優しく言ってくれたと話したことを覚えていますか。
今日、その彼が来てくれました。
亜希子、彼はお父さんの言ったとおり、お母さんの望みを聞いて来てくれたのです。お母さんの願いを叶えてくれると約束してくれたのです。
だから、お母さんは友弘と一緒に一番幸せだった頃の二人に戻って、これからお父さんのところに連れて行って貰うことにしました。だから心配しないでくださいね。
お母さんも友弘も幸せだから心配しないでね。
亜希子、今までありがとう。
でも、もうお母さんと友弘のことは忘れて下さい。
そして、あなたは、あなたの幸せだけを考えて生きてくださいね。
我が儘な 母より
追伸
真希ちゃん、おばあちゃんの孫に産まれて来てくれてありがとう。
最後の一行を読む真希の声は少し震えていた。
そして手紙を読み終えた真希が「瞳のきれいな青年ってなに?誰のこと。お母さん、これってどういう意味」と泣きそうな顔で亜希子に聞いた。
だが亜希子は、真希のその言葉にはこたえず逆に自分の目の前に座る真に向かい、「先生は彼をご存じなのでしょうか、この手紙を先生に預けたのは、母ではなくて彼ではないのですか?」とひと言ひと言の言葉を切るようにして聞いて来た。その目は真剣だ。嘘は聞きたく無いと言っていた。
真はここに来る前、竹内結子から預かったものがあると連絡していた。
だが…、
―今日、その彼が来てくれました…か、なるほど、省吾君の存在を消して話しをしょうとしても無駄なことということか…、―
真は腹をくくった。
「おっしゃるとおりです。この手紙は彼から受け取りました。私は、あなたのお母さんである結子さんには、お会いしたことは一度もありません。ですが結子さんの想いを、この世に残した者であるあなたに、亜希子さんに伝えて欲しいと彼に頼まれました」
「その方に、彼に会えますか」と亜希子は真に聞いた。
「残念ですがそれは無理なことです。彼は、彼が会いたいと思う相手としか会いません。こちらがどれほど会いたいと望んでも会うことは出来ない。彼はそういう存在です。お母様から、彼の話しを聞いていらっしゃるあなたならおわかり頂けるとおもいますが、亜希子さん」
丁寧だが半ば命令的で反論を許さないというくらい冷たい真の声に亜希子の顔色が青ざめる。
「ちょ、ちょっと待ってください。なんなんですかその言い方、まるで母を脅しているみたいじゃないですか」と真に向かって怒りの声をあげたのは真希だった。
そして、「だいたい…、」と言いかけた真希の口を塞いだのは亜希子だった。
「やめなさい、真希。先生はなにも悪くないわ、本当のことをおっしゃったまでのことよ」
「でも、お母さん!」
亜希子は真希のことを無視してしゃべり出した。
「あのとき母は私に言いました。もし、もう一度彼に会うことがあるのなら、それは、そのときは自分がこの世から居なくなるときだろうと私に言いました。この手紙はそういうことだと理解していいんですね」
「そうです」
「そうですか、ありがとうございました。もう、お引き取り頂いて結構です」
今度は亜希子の声が冷たく響いた。
「分かりました。では、これで失礼させて頂きます」と言って真は席を立った。
「お見送りは致しません」と亜希子が言った。
真は軽く頭を下げて部屋を出た。
真希が亜希子に「私が聞いてくる」と言って真の後を追いかけようとする声が聞こえたが、「やめなさい、真希。神様はいつも優しいとは限らないの、でも…、あなたのおばあちゃんには優しくしてくれた。約束を守ってくれた。それだけでいいのよ」と、後は亜希子の声を殺して泣く微かな声と「お母さん、泣かないで…」と弱々しく呟く真希の声が聞こえた。
亜希子は、省吾が何者であるのかを自分の母親の口から聞いて知っているのかもしれないと真は思った。
いや、もしかしたら省吾君のあの美しい瞳に魅入られた宮内加奈、山本和美、物部たちの悲惨な末路を聞かされていたのかもしれない。
だがそれも真の想像でしかない。
それに、いまここで、どこまで省吾のことを知っているのかと真は亜希子に聞く勇気も無かった。
仮に聞いたところで省吾に合わせてやれるわけでも無し、逆に一番口にしたくない言葉を言わなければならないことにもなりかねない。それよりも、省吾が竹内結子の望みだけを叶えてくれたと思われている方がいい。
交換条件を知る必要など無いと真は思った。
玄関を出て、家の前に置いた車のドアに手をかけて真はゆっくりと振り返った。真希が自分を追いかけてくるかともしれないと思ったが、玄関のドアは開かなかった。
真は車に乗り込みエンジンをかけ、ゆっくりと走り出す。バックミラーに写っていた亜希子の家は遠ざかり、やがて消えて行った。
湖は蘇った。
京香の願いは叶った。
だが…、果たしてこれで良かったのかは誰にも分からないと真は思った。
幸せの定義は人それぞれだ。
何が幸せかは本人にしかわからない。
だから残りの命を自分の望みを叶える為に使い切ったというのなら、竹内結子と友弘の二人は幸せだったのだろう。だが、その事実を知ることが、果たして残されたものにとって幸せかといえば、それは違う。
愛するものをなくして悲しみこそすれ、それを幸せだと感じるものはいないだろう。
まして自分の母親と弟が、本人が望んだこととはいえ、自分たちの望みを叶えるために人柱になったなどと聞いて心が痛まないわけがない。その痛みが憎しみに変わることは十分に考えられることだ。
もし、二人が湖を蘇らせる為に人柱になったとの真実を知った亜希子が、或いは真希が、省吾を、いや京香を、或いは真実を話さなかった真を、誰をどう憎むかは分からない。
そう思うと、自分ひとりの胸の内にしまった省吾から聞かされた言葉の重さは、真にもう二度と亜希子親子には会いたくないという思いを抱かせた。
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