第11話 蘇る湖(中)

【殿山京香(山崎綾乃)68歳 】



「で、どうやって蘇らせるんだ。新しいものを植えるのは簡単だが、それじゃ藤の木が蘇ったとはいえないだろ?」

 しんが、松子まつこさんの入れてくれた紅茶を飲みながら言う。


「ええ、そのとおりね」

 あれから一週間、何の進展も無いというか考え付かない。


「本当に切ってしまわれたんでしょうか?」と松子さんが不思議そうな顔で私に聞いてきた。

「え、どういうこと?松子さん?」

 私が驚いて松子さんに聞き返すと…、


「いえ、皆さん、藤の木が無くなって、そこに鉄棒が出来ていたとおっしゃいますが切られたと言っているのは冬休みですよね。切るところは見ていたんですか?」と松子さんが言った。

「そう言えばそうね、無くなる事を知っていたのは一部の人達だけだし…。ちょっと待って亮君に電話してみるわ」



 電話には悠美ゆみさんがでた。

 りょう君に代わってもらうと、藤の木が切られたところは見ていないという。冬休み前にはあったのに年が明けて冬休みが終わり学校へ行くと藤の木はなくなり、代わりに鉄棒が出来ていたのだという。

 クラスの皆が切られて無くなったんだというから、亮君本人も切られてしまったと思ったらしい。




「もしかしたらどこかに植え替えたのかもしれないなぁ。まあ、可能性の一つだけど」と真が言う。

「ええ、夏なら無理でしょうけど、冬なら植え替えても根がつくかもしれないわね」と私が真にこたえた。

「ああ、調べてみるか」

 真は、そういうと何だか嬉しそうに出て行った。


「秋川先生、何だかうきうきして嬉しそうですね」

 真の後ろ姿を見送りながら松子さんがおかしそうに笑うので、真もとうとう私に似てきて不思議大好き人間になったのかも知れなと思い、松子さんのおかしそうに笑う声につられて私も笑ってしまっていた。

 

 そして嬉しいことに藤の木は有った。切られてはいなかったのだ。真が調べて来てくれた。

本当は切って処分してくれと校長から頼まれていたらしいのだが、請け負った植木屋さんが切れなかったのだ。


 自分も子供の頃、この藤棚の木の下でよく遊んだ。綺麗な紫の花にどれほど見とれたか知れない。どうしたものかと悩んで、普段懇意にしているお寺の住職に相談した。


 その住職の口利きで、藤の木は山の頂にある真言宗のお寺の敷地内に移植した。勿論、学校にその費用は請求できない。植木屋さんがすべて自分の裁量でしたことだった。


 だが、藤の木は植え替えられて2年、その間一度も花を咲かせてはいないらしかった。



 翌週、私達は悠美さん一家と共に山の頂にある藤の木が植え替えられたお寺、阿弥陀寺へと出かけていた。


「そうですか、そんな夢をこの子達が…、曾おじい様の大切な形見をあの藤の木の為にわざわざ」

 お寺の若いお坊様は優しげに目を細めて、小さな二人の兄弟を見て静かな落ち着いた声でそう言った。



 弟のゆう君は、頭を丸め、黒僧衣が無駄のない筋肉質の身体の上に美しい線をのせて着こなす、どこか異世界の空気を漂わせたこの若いお坊様が怖いのか、亮君の腕に絡みつき隠れるようにしながらも目だけはお坊様を捕らえて離さなかった。


「ええ、それで大変図々しいお願いなのですが、一週間で構いませんから、その藤の木の根元に、これを埋めさせて頂けませんか?一週間後に来て、なにも起こらなければ諦めますからお願いします」と私は言った。


「分かりました。これも御仏の縁というものでしょう。どうそ、こちらへ」

 静かな空気を持つ若いお坊様が、するすると歩いて案内してくれた先には見事な藤棚が有った。



 花が咲けば見事だろう。

 亮君が好きだと言った意味もわかる。

 切りたくないと自腹を切ってここに移した植木屋さんの気持ちも分かる。

 分からないのは、切って処分してくれといった校長の頭の中だ。心も無ければ頭もない、案外、一馬さんが馬鹿だと言ったことは人としてという意味で当たっているかもしれないと私は思った。



「亮君、裕君、こっちに来て手伝って」

 二人は私の呼びかけにこたえて飛んできた。

綾乃あやのさん、ここだよ。僕、夢で見たもん。藤の花が綺麗に咲いて、大きいじぃじがここから龍の鱗をだして湖にいったんだ」と兄の亮君が藤の木の根元の土を指さして言った。


「うん、いったんだ。見たもん」と今度は弟の裕君がこたえる。

「分かったわ、ここに埋めましょう」

 私は二人の目を見てそう言った。

「うん」と二人が同時に返事する。


「私も手伝いましょう」

 静かな声がして、あの若い坊様が膝をつき、亮君が示した藤の木の根元近くの土を掘ってくれた。



 私がお守り袋から取り出した鱗を差しだすと、お坊様は優しげな目をして鱗を手に取り「綺麗な鱗ですね」と言って丁寧に穴の中に入れてくれた。そして真言を口の中で小さく呟き、土をかけて鱗を埋めてくれた。


 それからこの若いお坊様は、鱗を埋めた場所の目印に小さな白い石を置いてくれた。


「では一週間後に、またここでお待ちしております」

 お坊様はそういうと深々と頭を下げて去って行った。余りにも静かな儀式に誰も声を出さず…。

 私達は黙ったままお寺を後にした。




 川田家に帰りつくと、突然、亮君が、「ねえねぇ、綾乃さん!真言宗って空海さんだよね」と興奮しながら私に言った。

「だよねぇ!」と裕君も目を輝かせて私に言う。


「ええ、そうね」と私が驚きながらこたえると、二人は嬉しそうに顔を見合わせて、玄関に入るとすぐ2階にある自分達の部屋へと駆け上がり、一冊の本を持ってリビングにいる私のもとに走って帰ってきた。


 亮君が私に偉人物語ではないが〝弘法大師・空海〟と書かれた、子供が読みやすいように漫画で描かれた本を開いて見せてくれる。


「空海さんは奇跡を起こしたんだよね。雨を降らせたり、土の中なら水を湧かせたり。ほら、ここに書いてるよ、土の下から水が出てくるところ!かいてるよ」と亮君が興奮して言う。


「かいてる」


 ふたりはえらく興奮して本の中の小高く描かれた地面から水があふれだし、喜ぶ人々が描かれた場面を強く指で押さえていた。


「あ!本当ね、すごいは亮君に裕君。私、そんなところまで気が付かなかったわ」


 藤の木の行った先が真言宗のお寺、日本各地に弘法大師ゆかりの水伝説がある密教のお寺だと、子供達に言われるまで私は気が付かなかった。

案外、子供というのは大人が考えているよりも物事をよく見る力があるのかもしれない。


 現実と夢の境があいまいな事を抜きにしても、自由な角度から物事を見て恐れずに進む二人の行動力は、私には心強い味方である。

 それに、私を見る亮君と裕君の嬉しそうな顔を見ていると、なんだか出来ない事も出来るような気がしてくるのが不思議だった。




「だからさぁー、あの、お坊さんにお願いしようよ!綾乃さん!」と亮君が私に言った。


〝えっ!お兄ちゃん、あんな怖い人に頼むの?信じられない?怖くないの?〟という様に目をまん丸に見開き、ほっぺたをキュッとすぼませて、口をひよこのように尖らせながら、甘えるように裕君がもじもじと亮君にくっついていた。

 なんとも可愛らしいその格好に、私は笑いを必死に堪えて亮君に話しかける。



「そうね、それもいい考えね。でも、それを決めるのは来週にしましょう。藤の花が咲いたかどうかを確かめてから、それでいい?」と私は亮君に聞いた。


「分かった!」と亮君は大きな声でこたえてくれた。

「うん、分かった」とさっきまで、もじもじしていた裕君もニコニコ元気に私にこたえてくれた。

相変わらず二人の返事は素早い。


 ちなみにこの本は、源蔵げんぞうが大型ショッピングセンターの本屋さんで見つけて、読んでおいて損は無いと二人に買ってくれたものだと亮君は私に話してくれた。






 ☆-☆-☆


 一週間後、その場所にはあの黒僧衣の…、どこか異世界に生きているように佇む彼の前には、鮮やかな紫の花が風に揺れ静かに咲いていた。


 こちらに横顔を見せて藤の花を見上げている彼の姿と、咲き誇る紫色の花を包み込むようにして雲一つない一面の青空とが溶けあい、まるで色鮮やかな曼荼羅経典の様に彼は美しいと私は思った。


 私は彼のその姿に一瞬息を飲み、すべてのものの時が止まったのかとさえ思えた。

こんな感覚は省吾と初めて会った時以来のことだ。

 それに、これは彼に初めて会ったときにふっと感じたことだが、彼はどこか省吾に似ていた。


 だからこのお坊様は、この青年は…。


 生きているのだろうか?それとも省吾と同じで人ではないものだろうか?という思いが、ゆっくりと私の頭に浮かんでいた。




「見事に咲きました」

 彼は私達に気づくと、柔らかな笑顔をゆっくりとこちらに向けて静かにそういった。

「お坊さん!大きいじぃじの湖を蘇らせて!」


 次の瞬間。

 亮君が、お坊様に走り寄ると激しい声で上を向いてお坊様に訴えた。その後を裕君が、一瞬どうしようかとひるんだが思い直して亮君の後を追いかけて行き。

「蘇らせて!」と叫んでいた。 


 悠美さんと一馬さんが慌てて二人を引き戻そうと、一歩前に出たが、お坊様がそれを素早く手で制して膝をおり、二人と同じ目線になると優しく聞いていた。


「湖を蘇らせるのですね、詳しく教えてもらえますか?」

「うん!いいよぉ」と、不思議な事に黒僧衣の彼のことを一番怖がっていた裕君が、ニコニコ笑いながらこたえていた。


「あの、もしよろしかったら少し早いんですけど、藤の花の下でお弁当を食べながらお話させて貰ってもいいですか?」

 悠美さんが恐る恐るお坊様に提案した。

 それから悠美さんは私に向かい、「ねぇ、綾乃さん。それがいいと思いませんか?」と聞いてきた。


「ええ、そうね。お坊様がよろしければ、そうして貰えると嬉しいわ」

 悠美さんの言葉に答えながら、私は素早く自分の中に有る記憶を探る。


 私も良くは知らないが、僧籍にある者が普通の人と同じように、三食食べるのだろうか?

確か、朝夕の二食と、間にお茶を飲むだけだと何かのインタビュー記事で見たような気がする。


 それに、その一食の量もとても少なかったように思う。


 無論、生臭坊主と言われている人達は違うとは思うが、彼は、このお坊様はそうは見えない。

 でなければ、彼の人であって人で無いような、この一種独特の雰囲気は醸し出せないと思ったからだ。

 そう考えるとこの申し出は、迷惑では無いのだろかと一瞬にして私の頭の中を走っていた。



 だが、お坊様は、にこやかな笑顔を崩さず立ち上がると…、

「さぁ、こちらへ、きっと藤の木も喜ぶでしょう」と言い、亮君に片手を差し伸べた。


 亮君は、その手をにぎり嬉しそうに微笑んでいる。

 裕君が、兄と同じように彼に手を繋いで欲しいのだろう、恥ずかしそうにお坊様に手をさし出すと、彼はその手を空いたもう片方の手で握りしめた。


 そして三人は仲良く並んで、藤の花の下へと静かに歩み出していた。一瞬、そのなんともいえない三人の無垢な姿に見とれてしまった私達が、その後を慌てて追った。




 美味しそうに、おにぎりや卵焼きを次々ほおばる食欲旺盛な子供達の姿を、柔らかな笑顔で目を細めて見ているお坊様に「お口に合うかどうか分かりませんが、何か取りましようか」と悠美さんが声をかけた。


 けれどお坊様は静かに微笑むと、箸を動かそうとしていた悠美さんの行動を小さく手を挙げて制した。


 そして、「私は、これを頂きましよう」

 そう言って小さなおにぎりを一つ手に取り、それを何口にも分けてゆっくり時間をかけて食べ終えた。お坊様は、それ以上の食べ物には手を付けなかった。



 どこか省吾に似たこのお坊様は、始終穏やかな微笑みと柔らかな空気を纏い、亮君の話を、そして私の話しを、私達の話をただ黙って静かに聞いてくれていた。


 枯れ果てた湖を、もう一度蘇らせたいという夢物語のような私達の話しが終わると、お坊様は一言、「私でお役に立てるのなら」と快く亮君と私の申し出を引き受けてくれた。

 だから掘り返した鱗は彼に預けることにした。


 それまで上手く自分の気持ちが言えずに、亮君の横で口を尖らせ黙っていた裕君が、小さな手をお坊様の耳元にあてて小さな声で「これは龍の鱗なんだよぉ、大きいじぃじが教えてくれたんだよ」と耳打ちしている。

 その姿がなんとも微笑ましい。


 その横で亮君が真剣な顔でお坊様を見ている。そして亮君は〝嘘じゃないよ〟と言う様に大きく頷いていた。

 お坊様は小さな勇者二人の言葉に目を細め、優しく頷いていた。その姿を私は美しいと思った。






☆-☆-☆


「本当に蘇るのかしら…」

 あれから半月、あのお坊様からはなんの連絡も来なかった。私は一枚しかない鱗を彼に預けてしまったことは正しかったのかと、心の何処かで後悔し始めていた。


「おいおい、もう敗北宣言かい?京香きょうからしくないな」

 リビングのソファに座り、分厚い難しそうな本を睨んでいた真が〝どうした、なにが気に入らないんだ?〟というような顔をして私に言った。


「だってあのお坊様からは、あれ以来なんの連絡もないのよ、どうやって湖を蘇らせるのかの説明もないのよ?」

 私は少し怒ったような口調になり、真に八つ当たりしていた。真は、分厚い本をポンといわせて閉じると真剣な目をして私を見た。


 そして…、

「落ち着け京香、いつもの京香らしくないぞ。いったん仕事を任せたら相手を信じて待つ、それが京香のやり方じゃなかったのか」

 声は静かだが、少し怒りを帯びた真の声は痛いところを突いてくる。



「ええ、そう、そうね、ごめんなさい」

 確かにそうだ。

 私は、一旦あのお坊さんを信じてすべてを任せておきながら、自分の思う結果が出ないからとイライラして感情的な言葉を真に向けるのは間違っている。

 真のいうことは正しい、私が間違っている。

 私が悪のだ…。




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