3. さくらとことり -Sacred coat of lips-
由岐は慎ましく、寝返りをうった。すると、同じく寝そべっている満久が目に入った。目を閉じている彼の上半身は裸だ。由岐自身も、胸や下腹部などほんの一部しか肌が隠れていない。
しげしげと、満久の上半身を由岐は観察した。南国育ちの所為か、色は浅黒い。見るからに筋肉質というわけではないが、全体的にがっしりしている。二の腕に浮かぶ筋が、少し気になった。普段は彼のことをクマのぬいぐるみのようだと思っていたが、改めて観察してみると、意外と角張っている。同じ人体なのに、自分とは大違いで、少し不思議だった。骨格の所為か、それとも肉の構成物の違いだろうか。
由岐は手を伸ばして、テーブルの上のジュースを手に取った。少し喉が渇いていた。ストローに口をつけ、甘酸っぱいドラゴンフルーツジュースを飲む。黒いつぶつぶが浮かんだ液体は、氷が溶けて薄味になっていた。
また寝そべると抜けるような青い空が目に入った。白い雲が、ところどころに浮かんでいる。目の前のプールでは、白人の家族が歓声を上げていた。
二人はビンタン島のリゾートホテルに来ていた。シンガポールはベサック・デイのため、珍しい三連休なのだ。
ベサック・デイは仏教の祝日だが、多宗教のこの国では各宗教の祝日が休みになる。恐らくチャイナ・タウンでは何か催されているはずだ。一方、リトル・インディアやアラブ・ストリートは平常通りに動いている。
三連休を活かして、蓮見家と神内家は連れだって旅行に来ている。旅行と言っても、ビンタン島はシンガポールからフェリーで西南西に一時間ほどの、領土としてはインドネシアの島だ。シンガポール人御用達のリゾート地として開発された島で、特にゴルファからの人気が高い。そもそも、シンガポールにはゴルフ場が一つしか無いらしい。由岐と満久の父親は朝から喜び勇んでラウンドしている。母親たちもどこかに行った。ビーチか散歩か、というところだろう。まさか気を利かせてくれたとも思えないが……。
残された由岐と満久はこうしてリゾートホテルのプールサイドでのんびりしている。先ほどまでは泳いでいたが、少し疲れたので陸に上がったところだ。肌を灼く日差しが心地よい。
由岐はもう一度満久の方を横目で窺った。自分も水着姿なので肌を晒しているが、別段恥ずかしくはない。二人が住んでいるコンドミニアムにも小さいながらプールがあるし、一緒に泳いだことは数え切れない。
「んん……」
満久がくぐもった声をあげたので、由岐は慌てて顔を背けた。揺れる水面を見つめながら、呼吸を整える。
「ミッチー?」
「うん」
由岐が問いかけると、返事があった。ぐ、と伸びをしている。積分記号のような形だった。
「腹減ったな」
満久が突然そう言ったので、由岐は思わず噴き出した。
「よく寝起きでそんなこと、思えるね」
「そうか?」
満久がまだ眠そうな顔でそう言った。由岐はあまり朝が得意ではなく、朝食もそんなに食べられない。
「むしろ、腹が減って起きない?」
「うーん、喉が渇いて、とかならあるけど。お腹はないなあ」
由岐は小さく微笑んで言った。
「じゃあ、ご飯食べに行こうか」
「うん」
よいしょ、と満久はサン・ラウンジャから身体を起こした。由岐も立ち上がろうとしたら、満久が手を差し伸べてくれたので、ありがたく捕まった。力強く引き上げられる。彼の手は少し硬く、温かかった。
水着の上に薄手の白いパーカを羽織りながら、ホテルの方に戻る。リゾートホテルの周囲には数キロに渡って、自然が広がっている。食事をするならホテルの中のレストラン以外には選択肢は無い。割高だが、シンガポール・ドルがそのまま使える点はありがたい。ただ、キャッシュだけで、ネッツが使えないのは不便だった。
「何にする?」
ホテルの案内板の前で、由岐は満久に問いかけた。候補は和食とイタリアン。それにハラル認証を受けたマレー料理と、インドネシア海鮮料理だった。
「由岐は?」
「和食以外なら、なんても」
由岐がそう答えると、満久は首を傾げた。既に乾いている髪がふっと揺れた。
「なんで和食を外すの?」
「だって……」
由岐は看板を見ながら言った。和食のお店は寿司がメインのようだった。
「こっちで、お寿司のメニューを見るとさ、鮪のところにツナって書いてあるじゃん。あれが嫌」
「……え?」満久は惚けた声を出した。「えっと、鮪がツナって書いてあるから嫌なの?」
由岐が言った通りのことを、満久はそのまま確認した。何の情報も増えていない。
「うん」
由岐が頷くと、満久は頭に右手を遣った。
「そう言っても……、鮪は英語でツナだよ」
「知ってるけどさぁ」由岐は甘えた声を出した。「こう、日本人として、ツナのスシは認めがたいと思うのですよ。ツナって書いてあったら、イメージは完璧にシーチキン」
「……そうかなあ」
「そうだよ、それに……」由岐は右手の人差し指を振った。「寿司の王様と言えば?」
「王様? えーと、サーモンとか?」
「……シンガポール人に訊いた私が馬鹿だったよ……」由岐は精神的に頭を抱えた。「むしろサーモンはアウトローというか、異端だと思うよ、普通」
満久は眉を顰めて首を傾げた。無視して由岐は続けた。
「寿司の王様と言えばトロだよ、トロ。こう、トロがあるだけで、無条件でひれ伏すでしょ、普通」
「う、うん」
満久が不満げに頷くのを待って、由岐は力説した。
「ところが、だ。トロにいたっては、ファッティ・ツナ、と書いてあるわけ。脂ぎってるツナ。もう、全然美味しそうじゃないよね。むしろツナの下位互換。シーチキンの缶詰に入っている液体みたいじゃない?」
「うーん」満久は首を傾げた。「赤身の方が美味しくない?」
「……え?」
「牛肉とかもだけどさ、日本食に出てくる高い食材って、柔らかすぎない? 食べ応えがないと言うか。霜降りとかってさ」
「え? 本気で言ってる?」
「うん」
由岐は凝然と満久のことを見つめた。彼の目は本気だった。文化的差異は限りなく大きいようだった。
由岐は少し不安になった。普段、キッチンに立つことがないので、料理は苦手ですらない。万が一、手料理を振る舞う機会が訪れたとして、彼を満足させられる自信がまったく持てない。美味しい物を作れるかどうか以前の問題として、美味しい、の定義が共有されていない可能性が高い。彼が、異性に対して、どの程度家事能力を重要視しているかは判らないが……。
「ま、まあ、それはそれとして」由岐はとりあえず取り繕った。「ミッチーは何が食べたい?」
「そうだな……」満久は二秒ほど考えた。「イタリアンかな」
「ん、了解」
由岐はにっこりと微笑んだ。こうやって決めてくれるとありがたい。二人で並んで、地下にあるレストランに向かって階段を下り始めた。
*
「あら」
イタリアン・レストランの店内に入ると聞き慣れた声がした。満久と二人して薄暗い店内を見渡す。奥の正方形のテーブルでひらひらと手を振っているのは蓉子だった。手招きするのに従って、歩みを進めた。
「こんにちは」
椅子に腰掛けながら由岐は微笑んだ。場所は蓉子の正面だ。右の辺に満久が座る。蓉子はすでに食事を終えて、食後のコーヒーを楽しんでいたようだった。
「どこにいたの?」
「プールです。泳いだり、灼いたり」
由岐はパーカのファスナを引き上げながら答えた。
「えっと、うちの母は?」
「サイクリングに行くって言ってたわよ」
「……サイクリング?」
「元気よねえ」
のほほんと笑って蓉子は言った。由岐も同感だった。レンタサイクルがあるというのは、案内を見て知っていたが、この灼熱の島でまさか利用する人間がいるとは思わなかった。
やってきたウェイタに、由岐はペペロンチーノを諦めて、クリーム・ソースのパスタを注文した。満久はトマト・ソースのパスタとピッツァを両方頼んだ。よほど、お腹が空いていたらしい。
「そういえば」
料理を待っていると、蓉子が首を傾げた。
「スピーチはどうなったの?」
「テーマは決まりました。桜にすることにしたんです」
由岐は笑顔を作って答えた。蓉子の提案した金魚を採用しなかったことになるが、彼女なら気に入るテーマだと予想していた。
「良いじゃない!」予想通り、蓉子は華やいだ声を上げた。「由岐ちゃんにぴったり。私も見に行くわ!」
「……ええと」由岐は頬に指を当てた。「話すのはミッチーにお願いしようと思ってるんですけど」
「え?」
満久がきょとんとした。由岐もそれを見て首を傾げた。
「え?」
「いやいや……」満久は首を横に振った。「だって、最初に由岐に来た話じゃない。もう、完璧にそのつもりだったんだけど」
「そうだけどさ……」由岐は下唇を突き出した。「私には無理だって。スピーチなんて」
「そんなことないってば」
満久は二次関数のように柔らかい声でそう言った。
「普段からクリスたちと喋ってるじゃん。大丈夫、大丈夫」
「ううん……」
由岐はうなり声を上げた。そんなことを言われても、ただ雑談するのと、スピーチをするのでは、必要とされる能力はまったく違ってくるように思われた。
そもそも、クリスたちと話すだけでも由岐は苦労している。日本語で満久や浅尾などと話すのに比べ、英語だとどうしてもセンテンスが短くなる。意志の疎通には問題が無いが、それは伝える内容を予め削っているからだ。微妙なニュアンスを諦めることで、スムーズな遣り取りを実現している。
「そうよ」
蓉子は両の手のひらを合わせて言った。
「満久よりも、由岐ちゃんの方が良いわよ」
「そう、ですか?」
「だって華があるもの」
にこにこと微笑みながら蓉子は言った。
「華?」
「ええ。こんな薄ボンヤリとした坊主が喋るよりも、よっぽど映えるわ」
「はあ……」
困惑しながら由岐は頷いた。満久は憮然とした表情を浮かべたが、何も言わなかった。
「ぜひ、由岐ちゃんがやるべきよ!」
力強く蓉子が言う。由岐は曖昧に頷いた。
正直なところ、映えるなどと言われても、意味が解らない。由岐と満久では英語の実力に雲泥の差がある。スピーキングだけでなく、ライティングもまったく敵わない。
「解りました。やってみます」
しかし蓉子に言われ、由岐は頷くしかなかった。以前からずっとお世話になっていることもあるし、満久の母親でもある。このように正面から勧められては、とてもではないが断れない。
由岐の返事を聞いて、蓉子はウェーブのかかった髪を揺らし、嬉しそうに笑った。満久も頬を緩めている。この親子は、自分が引き受けただけで、どうしてこんなに嬉しそうなのだろう、と由岐は訝しんだ。
店員が料理を運んでくる。パスタはそれぞれの前に、ピッツァはテーブルの真ん中に置かれた。手を合わせてから、由岐はフォークを手に取った。
「コンテストはいつなの?」
蓉子が訊いてくる。由岐はフォークを回しながら答えた。
「一ヶ月後くらいです。夏休みの前くらい」
由岐の答えに、蓉子は首を傾げた。
「じゃあ、そろそろ原稿書かないといけないんじゃないの?」
「……ええ」由岐は等差数列のように重々しく頷いた。「まあ、テーマが決まったんで、なんとかなるとは思うんですけど……」
「大丈夫よ」蓉子は連立方程式のように真面目な顔をして言った。「満久をこき使って良いから」
「お袋に言われなくても手伝うけどさ」
満久は正方形のテーブルの、誰もいない辺の方を向いて言った。
「うん」由岐は自然と小さく微笑んだ。「頼りにしてる」
「おう」
視線の方向を変えないまま、満久は頷いた。蓉子が小さく嘆息した。それに気がついたのかどうか、満久はフォークいっぱいに巻き付けたパスタを口の中に放り込んだ。
「そうだ。せっかくだから、コンテストで着物を着たらどうかしら?」
「着物?」
「ええ。由岐ちゃんには絶対に似合うと思うの」
由岐は三分の二くらい頷いた。和服が似合うと言われると、どうにも素直に頷けない。たしかに、長方形の一辺を軸にして回転させた軌跡のような体型をしていることは否定出来ない。唯一の救いは、軸と垂直な辺の長さが短いことだ。もっとも、軸自体が短いので、比率としてはあまり褒められたものではない。
「えっと、でも私、着物とか持って無くて……」
「そうなの? もったいない」蓉子はぽん、と手を合わせた。「じゃあ、私が訊いてみるわ。日本人会にすごく詳しい人がいるから。着付けとかもばっちり出来る人」
「いえ、そんな、そこまでして貰わなくても」
「遠慮しないで」蓉子はにこりと微笑んで、不連続な関数のように言った。「満久も、由岐ちゃんの着物姿、見てみたいわよね?」
ピッツァに伸びかけていた満久の手が、一瞬止まった。
「う、うん。見たい」
「……そ、そう」
由岐は満久と蓉子の間にある、正方形のテーブルの頂点を見ながら言った。
「じゃあ、ミッチーも着てよね」
「え?」
「一人だけ着てるの恥ずかしいもん……」
頬を膨らませて由岐はそう言った。満久は苦笑して頷いた。蓉子はにこにこ笑っていた。
*
「先生、ピンク色の白衣って言葉について、どう思います?」
由岐は首を傾げた。浅尾は無表情を維持したまま答えた。
「見えざるピンクのユニコーン、よりはマシなんじゃないかと思うが」
「そうですね」
由岐が思わず笑みを零してそう答えると、浅尾は嘆息して足を止めた。
土曜の塾の自習室だった。夕方に差し掛かり、小学生の姿は無い。部屋にいるのは中高生ばかりで、真剣な空気が漂っている。
「別に全部染まってるわけじゃないだろう」
「ええ」
浅尾の白衣の胸の部分に、赤い飛沫が盛大に散っていた。ホワイトボードに使うマーカのインクのようだ。詰め替えに失敗でもしたのだろう。
「白衣着ていて良かったですね」
「ああ」浅尾はじっくりと頷いた。「そのために着ているようなものだからな」
「……そうなんですか?」
由岐は首を傾げた。確かに衣服への被害を防ぐには効果的だろうが、そうそう起こる事故だとも思えなかった。それに、率直な感想を言えば、服が汚れて気にするタイプであるとも思えない。
「前にいた教室は黒板だったんだ。チョークの粉が飛ぶから」
「なるほど」
由岐は頷いた。浅尾は相変わらずの無表情だったが、どこか恥ずかしそうだった。
「……っ?」
部屋に戻ってきた満久が、浅尾を見て一瞬足を止めた。椅子に腰掛けながら苦笑いを浮かべる。
「血かと思いました」
「……まあ、見えなくはないか」浅尾は苦笑した。「困ったなあ。替えの白衣なんて持ってないのに。ムスタファで売ってるかな」
ムスタファ・センタはリトル・インディアにあるショッピング・センタだ。シンガポールでは珍しい二十四時間営業の店で、なんでも売っている。由岐は勝手に、シンガポールのドンキだと思っている。
「脱げば済む話では?」
由岐の言葉に、まじめくさった顔で浅尾は応じた。
「斬新すぎる意見だ。ありえない」
「……そうかなあ」
由岐は未だかつて浅尾の私服姿を見たことが無い。白衣の下がどんなファッションなのか興味があったが、拝めそうになかった。
「すごく可愛い格好をしているとか?」
満久がストレートに訊いた。蛮勇だと由岐は思った。
「それで?」
満久を完全に無視して、浅尾は由岐に訊いた。
「あ、そうそう」
由岐はぽん、と手を合わせた。
「先生、スピーチ原稿の書き方を教えて下さい」
「スピーチ?」浅尾は一瞬眉を顰めたが、すぐにもとの表情に戻った。「ああ。この前言っていた、日本がどうとか……」
「そう。それです」
由岐は頷いた。浅尾は無表情のまま腕を組んだ。
「そんなこと私に訊かれてもな。別の先生に訊いた方が良いんじゃないか」
浅尾は講師室の外に目を向けた。英語や国語の講師に訊けと言いたいのだろう。しかし由岐は首を振った。
仲が悪いわけでもないし、由岐が習っている英語の講師に訊けば教えてくれるだろう。けれど、彼の言っていることは由岐にはどうにもしっくり来ないことが多い。思考プロセスの違いに起因すると由岐は理解している。話が具体的すぎて、参考にならないのだ。
「簡単なアドバイスだけでも頂けません?」
「まあ、そのくらいなら」
浅尾はこれ見よがしに嘆息してから、由岐の目を悪戯っぽく見た。
「書き方なんて、数学の証明と一緒だよ」
「証明?」
「三角形の合同とか」
浅尾の言葉に、由岐は中学二年の内容を頭から引っ張り出した。ちょうどこちらに越してきたばかりのことだ。浅尾に習った記憶がある。
「えっと、最初に、何の話か最初に宣言して、言いたいことを言ってしまう」
「うん」
「それから三つくらい理由を言って、最後にもう一度本題で締める。お洒落な人はQ.E.D」
「良くできました」
まるで叱っているような口調で、浅尾は頷いた。由岐も一つ頷く。
「え?」
一人、首を捻ったのは満久だった。
「今の説明で終わりですか?」
「うん」
まるで頓着した様子もなく浅尾は頷いた。しかし満久にはあまり納得出来なかったようだ。小さく唸りながら首を捻った。それを見て、浅尾は少し表情を緩めた。
「何はともあれ、まずは構造からだ。コンテンツを入れていくのはその後。最後に適当におまけを付け足す」
「はあ」
「ものを作るとはそういうものだ。デザインがしっかり決まれば、コンテンツは自ずと狭まってくる」
デザイン、を英語の発音で浅尾は言った。日本語でデザインと言うと、見た目の印象が強くなるが、英語でdesignと言えば、設計全体の意味合いが強い。
「まあ、数学の証明と違う点もある。完璧に一般化出来る事柄じゃないからな。適度に実例を挙げて説得力を増す必要があるだろう」
「なるほど」
由岐は一秒半かけてじっくりと頷いた。日本人でも桜が嫌いな人だっているし、満久のように何にも思わないケースもあるだろう。
「そういえば、テーマは結局何になったんだ?」
「桜です」
「なるほど。良いんじゃないか」
浅尾が頷いたので、由岐は胸をなで下ろした。審査員というわけでは無いのだが、由岐としてはどうしても彼女の意見が気になる。
「神内ももちろん手伝ってやってるんだろ?」
「はい」
「じゃあ、問題ないな」
浅尾はそう言って踵を返した。颯爽と白衣を揺らしながら自習室を出て行く。由岐は笑顔でその後ろ姿を見送った。
「あのさ」
「うん?」
少し弱気に切り出した満久に、由岐は首を傾げた。
「由岐と先生の会話って、ときどき理解出来ないんだけど」
「……え?」
由岐は目を丸くした。
「いや、言葉の意味は解るんだけど。どっからそういう発想が出てくるんだろう、って言うか。普通、そんなこと考えないだろ、みたいなのがぽんぽん出てきて、しかもそれを当たり前に打ち返してるのが、また」
満久は目をそらしながら言った。
「いや、別に悪い意味じゃなくて。面白いっていうか、興味深い?」
「……そうかなあ」
由岐は首を捻った。たしかに浅尾の発想はちょっと面白いが、別段変ではない。きちんと体系立っているし、抽象的なので、適応出来る範囲が多い。由岐としても飲み込みやすい。
「なんか抽象的だし」
「そこが良いんだと思うけど」
満久の言い様に由岐が返すと、今度は彼が首を捻った。
「え?」
「抽象的な方が良くない?」
「ううん……。どうだろう?」
満久が本当に不思議そうだったので、由岐は釈然としなかった。
「まあ、良いや」
満久がそう言ってノートを開いた。なんだかもやもやしたまま、由岐もMacをスリープから復帰させた。
*
「ど、どうかな?」
酷く緊張しながら由岐は訊いた。満久の表情がとても気になる。すごく恥ずかしく。胸がどきどきしてしまう。心拍数は普段より二割以上は多い自覚がある。
「ううん……」
困惑したように満久はうなり声のようなものをあげた。眉を顰めている。由岐は逃げ出したくなる気持ちを必死に抑えた。
「はっきり、言って」
「うん」
満久は由岐の目を見て頷いた。Macの画面を向けてくる。由岐は画面を覗き込んだ。自分の書いた原稿が表示されていて、とても恥ずかしい。
「こんにちは。私は蓮見由岐です」
「わー!」
突然読み上げ始めた満久を、大声を上げて由岐は遮った。
「な、なんで声に出すの?」
「だって、スピーチ用の原稿だろ」
「そうだけどさあ……」
由岐はきょろきょろと周囲を見渡した。由岐が大声を出した所為で、数人目を向けていたが、視線はすぐに散っていった。
ファラーラ・パークの駅から少し離れたところにあるコーヒー屋に二人は来ていた。蓉子から豆を買ってくるようにおつかいを頼まれたのだ。蓉子曰く、シンガポールで一番美味しいコーヒー屋らしい。ついでに店に入って一服している。人気店らしく、店内はそこそこ混み合っていた。
シンガポールで一般に飲まれているのは、コピという、濃く出したコーヒーに甘いシロップをたっぷり注いだ飲み物だ。どこのホーカでも売っているが、由岐はあまり好きではなかった。代わりに、マイロというココアのような飲み物をよく頼んでいる。日本ではミロと呼ばれているが……。
「解ったよ」息を大きく吸って、由岐は言った。「続けて」
「うん」
満久は一つ頷いて再開した。
「今日お話しする内容は、私の母国である、日本についてです。ここシンガポールと同じくアジアの島国である日本には、他の国には無い素敵な文化がたくさんあります。みなさんがイメージするのは和食やアニメといったものだと思いますが、今日話したいのは、桜についてです。桜は、我々日本人にとってとても大事な花だからです」
満久は第一パラグラフを読み終えたところで言葉を切った。
「ど、どうだった……?」
「あのさ」満久が首を傾げながら言った。「これ、日本語で原稿作った後に英訳したでしょ」
「うん」
由岐は漸化式のように頷いた。
「それは駄目」
短く満久は言った。冷たく聞こえたので、由岐は驚いて目を上げた。彼はとても真剣な顔をしていた。
「え? なんで?」
「日本語と英語じゃ全然表現とか違うから。日本語だと良い文章でも、英語だと片言っていうか、変な表現になる」
満久はそう少し柔らかい声で言った。
「そう言われても……」由岐は軽く頬を膨らませた。「そうしないと書けないんだもん。いきなり英語で文章なんて作れない」
「そんなことないよ」
満久は笑顔を浮かべてそう断言した。
「クリスたちと話すときは英語でしょ?」
「そりゃね」
「そのときに、いちいち日本語に翻訳してる? 喋るときも日本語で文章考えてから英訳する?」
訊かれて由岐は考え込んだ。改めて確認されると、自分の思考回路がどんなプロセスを辿ってるのか、咄嗟に判らない。
「うーん、と。してないかも?」
考えてみたが判らなかった。しかしまるで意識していないということは、恐らく翻訳などはしていないのだろう、と予想された。
「ほら。なら出来るって」
「ううん………。でも、喋るのとスピーチは全然違うでしょ?」
「同じだよ。変わらないって」
満久は何でもないことのように言った。
そりゃ、満久なら簡単だろう、と由岐は唇を尖らせた。英語が得意だし、文章を書くこと自体も好きそうだ。しかし英語が苦手な自分には、あまりにもハードルが高いように思われた。
しかし、と由岐は反省した。満久から数学や物理の質問をされたときに、簡単だよ、などと言いながら解いていたが、もしかしたら彼の癇に障っていたかもしれない。
「そんなわけで」
すると満久は長々と書かれている英語の文章をすべて選択すると、消去してしまった。
「あっ!」
由岐は思わず、二次方程式で虚数解が出たときのように、悲痛な声を上げた。iが無いととんでもない事になるところだった。
「な、なんてことを……!」
涼しい顔をしている満久を由岐はキッと睨み付けた。満久は一瞬怯んだが、すぐに首を横に振った。
「そんな……。書くのに何時間もかかったのに」
由岐は肩を落とすと、満久は少し目尻を下げた。
「うん。でも、ね。残ってるとどうしても日本語に引き摺られるから」
少し柔らかい声で満久は言った。
「ううん……」
由岐は両手でマグカップを包み込んだ。つい唇を尖らせてしまう。昨夜あんなに頑張って書いた力作を一瞬で消されてしまった。とは言え、家で作業した分には自動の差分バックアップが働いているはずなので、その気になれば復元は出来る。
由岐はコーヒーを一口飲んだ。苦いが美味しかった。
「ま、そんなわけで書き直し」
「……はあい」由岐は不承不承頷いた。「はあ、今度は何時間かかることやら」
「そんなにかからないよ。もう、一度書いたんだから、コンテンツは頭にあるでしょ」
満久が不思議そうに言う。由岐は首を傾げた。
「だって、日本語で考えちゃ駄目だって言ったじゃん」
「それは文章の話」
満久の言っている意味が良く解らず、由岐はますます頭を捻った。
「だって、じゃあどうやって考えるの?」
「考えるのに言葉は必要無くない?」
「……んー? だって、考えるときに言葉にしない?」
「しない」満久はあっさり断言した。「だって、テーマとかコンテンツは何語でも一緒でしょ」
「……言われてみると、そうだけどさぁ」由岐は甘えた声を出した。「こう、プロセス的に言語を経ないと固まらないと思うんだけど」
「だから、文章に落とすときだけ英語を使えば良いじゃん」
不思議そうに満久は繰り返す。言っていることを理解は出来るが、どうにも納得出来なかった。言語を介さずに思考は出来ないように思える。
「まあ、大本のテーマだけ決めて書けば良いよ」
首を捻っている由岐に、事も無げに満久は言い放った。
「……ん。やってみる」
由岐は一つ頷いた。彼が出来ると言っているのだから、きっと可能なことなのだろう。自分がその域に達している自信はまるでなかったが、とりあえずMacの画面に向かう。いつも通り、画面のネガポジを反転し、目に優しい配色に変えておく。
書き出す前に、浅尾が言っていた構成のことを思い出す。頭の中で最初から締めまで流れを考えてみた。主題からスタートして、理由は三つ。それぞれ適度に実例。また結論で締め。
一通り計画を纏めてから、由岐は猛然とキーボードを叩き始めた。満久の言う通り、英語のままでネイティブに文章を作っていく。日本語より英語の方がタイピングは速い。頭で考えるスピードに、指が何とか追いすがっていく。周りの話し声など、まるで気にならない。満久が目の前に座っていることも、頭から離れていった。
しばらくの間、由岐は集中して文章を書き続けた。四つ目の段落まで書き終えたところでマグカップに手を伸ばす。指が少し疲れていた。黒い悪魔的な液体はすっかり冷め切っていた。一口つけただけで、また文章に戻る。最後のセンテンスまで書き終えるのに、そんなに時間はかからなかった。
「ん……」
由岐は一つ伸びをした。それから最初の文章に戻って見直していく。いくつか、気になる表現を直す。悩み出すと止まらないので、あまり深くは考えない。細かい部分は、どうせネイティブに訊かないと判らないのだ。
「出来た、かも」
由岐はそう言って、大きく息を吐いた。
「うん」
いつの間にか、数学の宿題に取りかかっていた満久が、目を上げた。
「お疲れ」
「うん」
由岐はぐるぐると首を回した。窓の外は、薄暗くなっていた。
「あ、あれ。もうこんな時間?」
「うん」
由岐が書き始めてからたっぷり二時間は経っていた。自分の中では、精々三十分程度しかかかっていないつもりだったので、少し驚いた。
「ごめんね。退屈だったでしょ?」
「いや、別に」満久は小さく微笑んだ。「すごく集中してたね」
「うん……」
由岐は恥ずかしくなって、頬を手で押さえた。
自身がコントロールしていない姿を見られることには抵抗を感じる。寝顔を見られた感覚に近い。しかし、今までに満久には何度も寝顔を見られているので、改めて気にする必要もないかもしれない。
由岐はMacを回転させて、満久の方に向けた。彼の瞳孔が左右に素早く往復するのを、由岐は緊張しながら見守った。表情はほとんど変わらないため、どんな評価なのか想像もつかない。
「……どう?」
満久が読み終わったのを察して、由岐は静かに問いかけた。
「うん」満久は口元を緩めた。「すごく良くなったと思う」
「……本当?」
「うん」
つい確認してしまった由岐に、満久は笑顔を浮かべてくれた。
「ちゃんと、ネイティブの英語っぽくなってる」
「良かった……」
由岐は大きく息を吐いた。白磁のカップを手に取る。三分の一ほど残っていた冷め切ったコーヒーを飲み干す。冷めても、まあまあ美味しかった。
「まあ、ちょっと怪しい表現もあるけど」
「……うあ」
由岐は呻きながら頷いた。どこかしら指摘されるだろうとは思っていた。
「後、実例をもうちょっと増やした方が良いかも」
「そう?」
由岐は首を傾げた。基本的に、具体的な例をいくら重ねても主張の強さと無関係だと考えている。本質的な正しさに対し、具体例は従属しているものだからだ。
「うん」満久はしっかりと頷いた。「今のだと、一パラグラフに一つずつしかないでしょ。やっぱり説得力が違うからさ。まあ二つずつくらいには」
「ううん……。解った。考えてみる」
満久の目を見て、由岐は頷き返した。彼が言うのだから、それだけの意味があるのだと信じることにする。
「それとね……」
「まだあるの……?」
由岐は呻き声を上げた。褒めて貰ったので喜んでいたのもつかの間、駄目出しの嵐だった。
「ユーモアが足りない」
「はい?」
「笑い所がない」
「そんなの無いよ」由岐は唇を突き出した。「だってスピーチなんだよ? クリスたちと喋ってるんじゃないんだから……」
「必要」
「そうかなあ……」
「そうだよ。無いと聞いてて飽きちゃうから。起伏を作らないと」
満久は真面目な顔でそう言った。少し身を乗り出している。
「でもさ、難しくない?」由岐は眉を顰めて言った。「滑ったら最悪じゃん。会場がしーんとなったら……。そんな、面白いネタなんて仕込めない」
「ユーモアとギャグは違うよ」
「うん?」由岐は首を傾げた。「どういうこと?」
「別に、笑いの渦になんて巻き込まなくても良いよ。ちょっとクスリとできれば、それで」
「そのクスリが難しいんだってば」
由岐はテーブルに肘を突いた。
「……他には?」
由岐の問いかけに、満久は一瞬考えた。
「いや、これくらい」
「そ」由岐は満久を睨みながら言った。「ありがと」
*
「うーん……」
由岐は思わず、身を縮こまらせた。リサとクリスティーンが由岐のことを厳しい顔で見つめている。
「まあ、苦手そうだとは思ってたけどね」
「こんなものだと思うよ、最初は」
二人は顔を見合わせて嘆息した。
「え、そんなに酷い?」
「うん」
リサはすぐに頷いた。由岐はちょっと傷ついた。
「今までにスピーチしたこと無かったの?」
「無いよ、そんな経験……」
由岐は溜息混じりに答えた。
放課後の教室だった。来るコンテストに向けて、三人で練習をしよう、ということになったのだ。もちろん、由岐の練習に付き合ってくれている、という表現の方が実体には近い。
由岐としては、正直、クリスティーンと顔を合わせるのは気まずい。どう接して良いのか判らない。振られたからといってすぐに想いが冷めるとも考えにくいが、由岐の方からどう想っているのか、と尋ねられる訳も無い。
リサにしたところで、あの場では由岐の名前は出なかったとは言え、満久の相手が由岐だと言うことは気がついているはずだ。満久のことを諦めたのだろうか、判断がつかない。少なくとも、恋敵として目の敵にされているような印象は受けないが……。
どちらにせよ、今後とも友人関係を続けていこう、という二人からの意思表示だと由岐は受け取っている。由岐としては、クラスの中で特に親しかった二人と疎遠になりたくないし、有り難い話だと思うことにしている。
「だって、授業でやったりしたでしょ? 小中学生のときに」
「日本の学校でそんなことしないよ」
由岐が溜息交じりに答えると、二人は意外そうに目を瞬かせた。
「そもそも、人前で話した経験が無い。言語を問わず」
「そっか」
クリスティーンが頷いた。
由岐は教壇から降りて、二人が座っている教室の後部に近づいた。適当に椅子を引き出して深く腰かける。
「でも、内容は凄く良かったと思うよ」
「そう? ありがとう」
由岐は左の頬を緩めた。
コーヒー屋で駄目出しを貰った後、修正を施したのだが、想定以上の難産になった。追加する実例の中身とユーモアでまず詰まったうえに、細かい文法や表現について満久から偏執的までの指摘を受けた。都合、六回のリテイクを受けて、ようやく完成したのが今の原稿だ。
正直に言って、満久がこんなに細かい性格をしていると思ってはいなかった。もっと暢気で大らかな印象だったので、意外な一面を見たと言って良い。
とはいえ、由岐も大変だったが、満久もそれ以上に大変だっただろう。自分が出るスピーチでもないのに、こんなに時間をかけて貰って、感謝の言葉も無い。しかも、満久自身にはあまり馴染みのない、日本人のメンタリティの話だ。
「だから、上手く喋れればすごくいいスピーチになると思うよ」
クリスティーンがにこにこしながら言う。今までだったら腕に抱きついてきていたところだが、今日は席に座ったままだった。
「うん。頑張ってみるけど……」
由岐は首を傾げた。
「どこが悪かった? はっきり教えて欲しいんだけど」
「顔」
リサが短く言った。由岐は戦慄した。円周率の定義のように、深遠な問題だった。
「う、うん。私はたしかに美人じゃないけど……」
「……何言ってるの?」
おどおどと言った由岐に、リサは胡乱な目を向けた。
「表情の話」
「……ああ」由岐は肩を落とした。「なんだ、びっくりした……」
クリスティーンが少し真面目な顔になって、口を開いた。
「そうだね。たしかにちょっと、表情が硬いというか……」
「引きつってた」
リサがばっさりと補足した。
「そっかぁ」
由岐は何とか頷いた。
「ただ、作った原稿を、思い出しながら読んでるだけに見えるんだよね」
「否定出来ない……」由岐はがっくりとうなだれた。「その、どういうところに気をつけたら良いの?」
「気をつける?」
「うん。駄目だった箇所を全部教えて」
「全部? でも、それは大変じゃないかな」クリスティーンは首を傾げた。「あれもこれも、って考えると、パンクしちゃわない?」
「うん。だから、修正ポイントに優先順位をつける。それを順にこなしていこうかと」
由岐は上目遣いに、二人に向かって言った。
「なるほどねえ」
クリスティーンは頷いた。
「まあ表情というか、全体的に硬いんだよね。身振り手振りもなくてがちがちなのと……。後、視線があっちこっちにふらふらするから、見ていて不安というか、自信無さそうに見えるし」
クリスティーンはつらつらとそう言った。由岐は打ちのめされながら手元の原稿にメモを取った。
「うーん」
リサは腕を組んで唸った。
「多分ね、問題はそこじゃない」
「え?」
「と、いうか、そのレベルに至ってすらいない。問題点を潰す以前に、基本が出来ていない」
いつも通り、はっきりとリサは言った。由岐は原稿から顔を上げた。リサは考える素振りを見せながら続けた。
「どう言ったら良いかなあ……。そもそもね、ユキはスピーチってものが解っていない」
「え?」
「スピーチと朗読は違う。読むんじゃなくて、伝えなくっちゃ」
由岐は首を傾げた。リサが言わんとすることは、何となく解る。
「だから、パラグラフごと、ううん、センテンスごとに、今は何を伝えたいか、ちゃんと考えなくっちゃ。ポジティブな部分なのか、ネガティブなのか。楽しいのか、嬉しいのか、綺麗なのか、それとも、違う感情なのか。そういうところまで意識できれば、表情とか視線とかは、自然に解決すると思うな」
「……なるほど」二秒かけて、由岐は頷いた。「うん、リサが言いたいことは理解した。難しそうだけど……、頑張ってみる」
「うん」
目を細めてリサは頷いた。
「ユキは良い子だね」
突然、クリスティーンはそう言った。どう反応して良いのか判らず、由岐は戸惑った。
「ありがと」とりあえず、由岐はそう返した。「でも、今まで逃げ続けてきたから。ちゃんとしないと」
由岐の答えに、クリスティーンは微笑んで大きく頷いた。一方、リサはぱちくりと目を瞬かせた。それから大きく肩を竦める。
「なるほど」リサは舌なめずりをした。「じゃあ、びしばし指導しても良いのね?」
「うん」由岐は少し不安になりながら頷いた。「お願い」
意を決して答えたが、リサはまじまじと由岐の方を見つめていた。その態度の意味が解らず、由岐は首を傾げた。
「どうしたの?」
「ううん。なんでも」
リサはそう言って、大きく溜息を吐いた。
*
由岐は首を傾げた。
「えっと……」
とても綺麗だった。白地に薄いピンクの花びらが散っている。春風に巻かれて空を舞う花吹雪が目に浮かぶ様で、息を呑むほどに美しかった。
「これ、ですか?」
「そうよ」
傍らに立つおばさんがそう頷いた。少し自慢気だった。
「だってこれ、浴衣? ですか?」
由岐は目の前に吊された着物を見ながら言った。あまり和服を着た機会は多くないが、由岐の記憶の中にあるものと形が異なっている気がする。
「浴衣?」
おばさんは唇の片方を吊り上げた。目も吊り上がっている。
「そんなわけないじゃない。振り袖よ」
「振り袖……」
由岐は鸚鵡返しに呟いた。正直なところ、浴衣と振り袖の違いはよく解っていない。ただ、振り袖の名の通り、袖が大きく垂れていることは見て取れた。
「えっと、どうして浴衣じゃないんですか?」
由岐は何気なく訊いた。今までに浴衣だけは何度か着せて貰ったことがある。
「まあ!」おばさんは半オクターブほど高い声を上げた。「浴衣なんかで、人前に出ちゃ駄目よ!」
由岐の方に、彼女はずずと顔を近づけた。その勢いに由岐はびっくりして、同じ距離だけ身体を引いた。
「浴衣なんてパジャマみたいなものなのよ。寝間着姿でスピーチするつもり?」
「いえ……」
由岐は曖昧に首を振った。それを言ったら夏祭りや花火大会なんて、大規模パジャマパーティになってしまう。恐らく、かなりラフな格好という意味なのだろう。たしかに壇上に立つには相応しくないかもしれない。
二人がいるのはコンテスト出場者の控え室だった。もうコンテストは始まっていて、低学年のクラスがスピーチをしているはずだ。
目の前で振り袖を下ろしているおばさんは、日本人会の着付け教室の講師らしい。蓉子が伝手を辿ってお願いしてくれたらしい。彼女としても、和服を着た人が表舞台に立つのは願ったりだったらしく、着物の手配も含めて全面的の協力してくれている。
しかし、由岐としてはどうも波長や波の速度がまったく合わない相手だった。波長の絶対値が互いに素だといっても問題ないだろう。由岐と彼女のバイオリズムを合成波にしたら、波長がとんでもない長さになりそうだ、と想像して、つい口元が緩んでしまう。
「さ、始めるわよ」
「あ、はい……」
促されて、由岐は衝立の影で服を着替え始めた。用意された襦袢を身につけ、靴を脱いで赤い下駄に履き替える。それから、おばさんに振り袖を着せて貰った。さすがに、手際が良い。あっという間に帯を締められ、あちこち引っ張ったりして調整される。
「苦しくない?」
「ちょっと苦しいです」
由岐が正直に答えると、おばさんはにこりと笑った。
「そう。なら大丈夫ね」
「え? ちょ、ちょっと……」
しかしおばさんは意に介した様子もなく、由岐に背を向けた。持ってきた荷物をいじりながら、何でも無いことのように言った。
「和服ってそういうものよ。ちょっと締まっている方が姿勢も良くなって綺麗に見えるわ」
「……そうですか」
由岐は諦めてそう言うに留めた。おばさんは振り向きもしなかった。
「じゃあお化粧しましょう。座って」
「え?」由岐は目を丸くした。「良いですよ。自分でします」
「良いから良いから」
おばさんはそう言いながら、自分の荷物からメイク道具を取り出した。逆らえずに、由岐はぱたぱたと粉をたかれた。
今までの言動から、平安美人みたいな顔にされるのではないかと由岐は懸念したが、杞憂だった。ちゃんと普通にお化粧してくれる。最後に桜色の口紅を引かれた顔は、自分でメイクするよりよっぽど可愛い。それから、慣れた手つきで髪を梳かした後、ウィッグをつける。結い上げるには長さが足りないのだ。最後に銀色の簪を差して、和装の女性があっさり完成した。
「どう?」
由岐は姿見の前で一回転した。普段の自分とまるで別人だった。長い袖が揺れると、本当に桜吹雪のようでとても美しい。自分なんかが着て良いのか、不安に思うほどだった。
普段と違う色の口紅が目に入る。粘膜を覆う、聖なる保護膜は、とても美しかった。
「はい」
なんと答えて良いか判らず、由岐は頷いた。
「うん。大丈夫そうね。似合ってるわ」
おばさんは頷いて、腕時計に目を落とした。
「あら、結構ぎりぎりね」
「え!」由岐は机のスマホの画面を表示させた。「あ、ホントですね……」
「じゃあ、私は客席に行ってるわね」
「はい。ありがとうございました!」
由岐は深々と頭を下げた。おばさんはひらひらと手を振って部屋を出て行く。
「由岐?」
入れ替わるように、扉から顔を覗かせたのは満久だった。
「あ、ミッチー……」
約束通り、満久も和服を着ていたが、こちらは浴衣だった。無地の紺色の生地で少し地味な印象だったが、木訥とした満久にはよく似合っていた。
「あ、その……」
満久が壁を見ながら言った。
「着物、よく似合ってる。綺麗だ」
「……うん」由岐は床と壁の境目を見ながら答えた。「ありがと……。ミッチーも似合ってるよ」
「うん」
満久が小さく頷いたのが、空気の動きで解った。
「どう? 緊張してる?」
「うん。ちょっとだけ」
由岐は素直に頷いた。別段あがり症という自覚はない。しかし英語でスピーチとなると、あまり自信が無い。
「大丈夫だよ、由岐なら」
満久が力強く言った。由岐が顔を上げると、彼はまっすぐにこちらを見ていた。
「話すの上手だし。お袋が言ったみたいに、華もあるから」
「……そうかな?」
由岐は彼を頷かせるために質問した。
「うん」
満久はしっかり頷いてくれた。由岐はそれを見て、肩の力を抜いた。
「解った」
由岐は満久の目を見て言った。それを見て、満久はにこりと笑った。
「ユキ!」
廊下の向こうから担任が呼びかけてくる。もう時間なのだろう。
「じゃあ、行ってくるね」
「ああ。頑張って」
満久の言葉を背に、由岐は廊下を歩き出した。
*
「ハスミ・ユキ」
名前を呼ばれて、由岐は歩き出した。和服なので大股には歩けないが、意識して胸を張り顎を引く。客席の方には意地でも視線を向けず、真っ直ぐ前だけを見据えている。
「……」
演台につくと、由岐は薄暗い会場をゆっくりと見渡した。学校のホールの席は八割方埋まっている。姿を探したが、満久がどこにいるかは判らなかった。
「こんにちは、皆さん」
由岐は、低めの声でゆっくりと話し出した。普段より、周波数は一割五分ほど下げている。
「私は蓮見由岐です。今日は、私の母国、日本の文化について、話したいと思います。日本は、このシンガポールと同じ、アジアの島国です。歴史的に周辺の国々から影響を受けながらも、独自の進化を遂げたユニークな文化があります。今私が着ているのも、日本の民族衣装である和服です。他にも、雅楽という音楽や、寿司や天麩羅、ラーメンといった料理など、他の国には無いとても魅力的なものが、私の国にはたくさんあります」
由岐はそこで一度言葉を切った。会場は、たくさんの聴衆がいるにも関わらず、しんと静まりかえっていた。多くの目が由岐のことを見つめている。
「世界の人が、日本と聞いてイメージするものは何でしょうか。漫画やアニメといったエンターテイメント作品か、あるいは侍や忍者と言った歴史上の人でしょうか。もちろん、そういった文化は日本独自の物であり、とても判りやすい形で表現され、多くの人に興味を持たれています」
由岐は目を閉じた。呼吸を落ち着け、次のセンテンスを思い出す。
「しかし、今日、私がご紹介したいのは、日本人のもっと精神的な部分です。日本人の考え方や行動様式、文化などを考える上で、もっとも抽象的な事柄です。私たちが、何を大事にしてどう考え、いかに行動するのかを表した象徴的な物」
一度大きく息を吸った。それから、会場を睨み付けるように、断言した。
「それは桜です」
少しだけ、会場がどよめいた。主に、日本人から発せられたようだった。それが落ち着くのを待って、由岐はスピーチを再開した。
「日本人は桜を愛しています。イギリス人が薔薇を愛でるように、オーストリア人がエーデルワイスを慈しむように、あるいは、イタリア人が女性を大好きなように」
会場の空気がふっと緩んだのが、由岐にも判った。小さく笑みを浮かべながら、由岐は本題に戻った。
「私たち日本人は、古来より桜を愛してきました。多くの桜の木が日本中至る所で育てられています。また、女性名として、さくら、は非常に一般的です。花が咲く頃には必ず、お花見、桜を見上げながらの宴会、をすることが日本では習わしになっています。このように、桜は私たちにとってとても身近な存在であり、同時に、我々は桜を大切にしています。その理由は、大きく三つあり、美しさ、咲く時期、そして散り方です。桜は、私たち日本人の生活に大きく関係し、また心に響くのです」
由岐は最初のパラグラフを言い終えた。大きなミスは無かったように思う。ここから、ボディの部分に入っていく。長めに間を取ってから、由岐は話を再開する。美しさに触れ、倒錯した語り口になっていく。
「まず、日本人が桜を愛する一つ目の理由は、改めて言うまでも無いことですが、美しさです。春に満開の花を咲かせた桜の美しさは、筆舌に尽くしがたいものがあります。その美しさは、何度も、様々な形で語られてきました。例えば、十二世紀の仏僧、西行法師はこんな歌を詠んでいます。『願はくは花の下にて春死なん。そのきさらぎの望月のころ』 彼は、桜の花の見事な時期に死にたい、と歌い、実際に桜の時期に亡くなりました。あるいは明治の作家、梶井基次郎は『櫻の樹の下には』という小説の中で、桜の美しさについてこう語っています。桜がこんなにも美しいのは、根元に死体が埋まっているからだ、と。このように、古来より日本人は、桜のあまりの美しさに目を奪われ、そして惑わされてきたのです」
由岐は言葉を切った。緩んでいた空気が一転、会場内の視線が俄然自分に引き寄せられているのが判る。満久の言う通り、メリハリの効果は大きかったようだ。
「二つ目の理由は、桜が春に咲く、ということです。赤道直下のこの国とは異なり、日本には四季があります。長く凍える冬を越え、草木が芽吹き出す春は、一年の始まりとして大きな意味を持っています。日本では、学校の入学や卒業、あるいは就職といった人生における大きな転換点は、すべて春に訪れます。その大事な人との別れや新しい出会いを彩り、象徴とされるのが桜です。日本のポップ・ミュージックにおいても、桜をタイトルに冠した、卒業や出会いの曲が多く作られています。また、試験に合格するなど、何かを達成することを、桜咲く、と表現することは、日本人の間では非常に一般的なのです」
由岐は手元の原稿をめくった。内容は完全に頭に入っている。手元に視線を落とすことはない。それでも、満久と一緒に書いたこの原稿がここにあるというだけで心強かった。
「最後にして、最大の理由として、舞い散る、ということがあります。最も有名な桜であるソメイヨシノは、春、葉が出る前に花を咲かせます。ピンク色一色に染まった木々はとても美しい。しかし、桜の最も見事な瞬間は、花びらが舞い散るときなのです」
由岐は大きく両手を広げた。振り袖に描かれた桜の花びらが、スポットライトを反射して輝く。胸を張って、誇り高く由岐は続けた。
「桜の花は、花びらだけが一枚ずつ離れてひらひらと舞います。春風に巻かれ、多くの花びらが一枚ずつ、ゆっくりと落ちていく。その光景は桜吹雪と呼ばれ、とても感動的なものです。それは、日本人が持っている誇りの象徴となっています。私たち日本人は、潔さ、を美徳としています。困難な状況に挫けそうになっても、決して誇りを失わず、晩節を汚さず、最期まで美しくありたい。そう願っています。醜く落ちるのではなく、散り際に桜吹雪となって美しさを見せる桜の花は、日本人の理想を体現した姿なのです」
由岐は大きく息を吐いた。ここまではちゃんと堂々と言えた。残るパラグラフは一つだけ。冷静さを心がけ、まとめに入っていく。
「このように、日本人にとって桜は、非常に身近な花であると当時に、精神的に極めて重要な位置を占めている象徴でもあります。その美しい木を私たちは古来より愛し続けてきました。千五百年前に書かれた、日本最古の歌集である万葉集には、桜をモチーフにした歌が四十首も詠まれています。現代においても、桜の花びらが舞い落ちる速度を男女の心の離れていく様として表現したアニメーション映画や、桜をテーマにしたボーカロイドの楽曲が若い世代のクリエータによって作られています」
由岐は一度言葉を止めた。二秒ほど、間を置く。会場内の視線が、より一層自分に集中するのが見て取れるほどだった。
「桜の美しさに惹かれる想い。桜と共に刻みつけた記憶。そして、桜の在り方に憧れる心。そのすべてが私たち日本人を表しています。この、我々が愛して止まない花への複雑な感情こそが、日本人の持つ文化や精神性を象徴しています」
由岐は一つ息を吐いて、会場をぐるりと見渡した。遠くに視線を置く。
会場の一番後ろ。ほぼ中央に、藍色の浴衣姿が見えた。
「桜を愛する心。それこそが、私たち日本人の持つ、最も美しい文化なのです」
*
「すごく良かったよ!」
舞台袖に由岐が引っ込むと、リサがそう言ってくれた。彼女は由岐の二つ前の順番だったが、わざわざここで待ってくれていたようだった。
「うん、ありがと」
由岐は小さく微笑んでそう返した。
「リサたちのおかげだよ」
「そうだね」リサはそう言ってにっこりと笑った。「練習しておいて、本当によかった」
リサは事も無げにそう言った。彼女はあまり謙遜しない。しかしストレートな物言いのおかげか、高慢な感じもしない。
二人は並んで控え室に入った。室内は由岐が出てきたときのままだった。テーブルの上には鏡が開きっぱなしだ。
「この後って、どうなってるんだっけ?」
「えっと……」由岐は記憶の中からタイムテーブルを引っ張り出した。「少し休憩時間が入った後に、表彰式だったはず……」
「そっかそっか」
リサはいつも通り、制服のスカートをなびかせながら元気よく椅子に座った。由岐は振り袖の裾を気にしながら、ちょこんと腰掛けた。
由岐は正面からまじまじとリサの顔を見つめた。相変わらず、西洋人らしい彫りの深い顔立ちだ。ぱっちりした瞳は青く、緩くウェーブした髪は綺麗なブロンド。白い肌は透き通るようだった。手足はすらりと長く、主張すべき所はしっかり主張している。
「リサのスピーチは上手くいった?」
練習をときに聞いたので、コンテンツがどんなものだったのかは知っている。しかし、自分の準備に忙しく、本番がどうだったのかは判らなかった。
「うん、まあまあかな」リサは普段通りの様子でそう言った。「私のは、そんなに難しい内容じゃなかったから」
「うん?」
リサの言う意味が解らず、由岐が首を傾げると、リサは困ったように笑った。
「ユキは凄いよね。あんな、抽象的なことをスピーチで話すだなんて、私は絶対したくない」
「……そうかな。うまく伝わった気がしないんだけど」
由岐が溜息交じりにそう言うと、リサはぷくっと頬を膨らませた。
「そんなことないよ!」
リサはそう言って、右手を由岐の方に伸ばした。不意を突かれた由岐はその動きに反応できず、人さし指で鼻を押し上げられた。ピンク色の偶蹄目のような姿になってしまう。
「もう、どうしてユキはいつもそうかなあ」
由岐は身体を引いて霊長類に戻ってから、訊き返した。
「そうって、どういう意味?」
「だから……、なんでそんなに自信が無さそうなのか、ってこと」
「そんなこと言われたって……」
意外なリサの指摘に、由岐は一瞬言葉に詰まった。リサは少し語気を強めて言った。
「見ててさ、時々苛々するよ。すぐにうじうじしちゃって」
「自信も何も、出来ないことばっかりなんだから、仕方ないじゃん……」
由岐は少し俯いた。
「だからさ、そんなこと無いでしょ?」
一転、リサは優しい声になった。
「数学だって物理だって、クラスで一番出来るじゃない。みんなだって、先生より先にユキに訊きに行くくらいだし」
「うーん」
由岐は腕を組んだ。長い袖が膝に当たり、こすれた音がした。
たしかに、数学や物理が得意であるという認識はある。しかしそんなに大したことだとは思えなかった。ちょっと勉強すれば出来る程度のことだし、さほど価値があるわけでもない。
「それに、十分可愛いじゃない」
「私なんて、全然だよ……。リサに比べたら、小さいし」
溜息混じりに由岐はそう零した。
「だからさぁ、もう……」
リサも大きく溜息を吐いた。
「謙虚は美徳だけど、謙遜は美徳でもなんでもないんだよ。シャーロック・ホームズが言ってたけど」
「うん?」
「ちゃんと、出来ることは出来るって、評価しなくっちゃ!」
「うーん……」
由岐はもう一度唸った。リサの両目が吊り上がっている。美人なだけあって、怒ると迫力があった。
「ちゃんと、スピーチだって出来たじゃない」
「そうかな」
「解った」
リサは突然立ち上がった。そのままテーブルを回り込んで、由岐に近づく。
「な、何?」
「約束して」
リサは腰に両手を当てて仁王立ちになった。座ったままの由岐を厳しい目つきで見下ろしている。
「この後の結果発表で、ユキが何か賞を貰ったら、もっと自信を持つって」
「う、うん……」
リサの勢いに押されて、由岐は頷いた。
「うん。じゃあ、行こう」
リサが手を差し伸べてくる。由岐はその真っ白な手を掴んだ。そのまま引っ張り上げられるように立ち上がる。
また廊下に出る。舞台袖の方に戻ると、照明が点けられた会場は少しざわついていた。袖にいた先生に、ここで待つように手振りで合図されるのに、頷いて返す。
段々と、出場者が舞台袖に集まってくる。由岐はリサと並んで待っていた。なんだか緊張してきて、何も話さない。
少なくとも、コンテストの前は賞が欲しいなどとは思っていなかった。今でも、そんなつもりはない。けれど、なんとなく結果が気になってしまう。
別段、賞状やトロフィーを貰ったところで嬉しくもなんともない。しかし、何故か今回ばかりは賞が欲しかった。自分の名誉や実績ののためではない。手伝ってくれたリサやクリスティーン、そして満久のために、成果を形にして見せたかった。
「うーん」
由岐は、目の前で整えられていく、表彰式の準備を見ながらうなり声を上げた。
考えてみれば、今までずっと、どこか満久に遠慮していた部分がある。それは、この国に来て以来、彼にずっと面倒を見て貰ってきたからだ。恐らく、彼にとってある程度は負担になっていただろうし、迷惑に感じたことも少なくなかっただろう。
彼は優しい。しかし、告白し、恋人になった今でも、満久に素直な気持ちで甘えられない自分がいる。恐らく、その一因は、彼が由岐を甘やかそうとすることにある。
英語が話せず、常に満久の後について回っていた頃の、印象が彼にはまだあるのではないか。それを払拭しないことには、対等な恋人関係を築くことなど出来ないのではないだろうか。いつまでも、彼の可愛い小鳥ではいられない。
由岐は思わず、くすりと笑みを零した。
「どうしたの?」
「ううん。何でも無い」
首を傾げたリサに、由岐は笑みを返した。
スピーチが終わった今になって、そんなことを考えたところで仕方が無い。それは解っているのだが、今になって欲が出てきた自分を認識する。
やがて、客席の照明が落とされた。司会台に教師が立ち、表彰式が始まることを、意気揚々と宣言した。
演台に校長が立つ。何ら引っかかるところのない、無難な講評を語り出す。今日、そこに立った人の中で、一番スピーチが下手なのは彼なのではないか、と由岐は不機嫌になった。
低学年から表彰が始まる。一クラスにつき、表彰されるのは三名だけだ。名前を呼ばれた生徒が壇上で喜びを爆発させ、雄叫びを上げるのを、由岐はぼんやりと見つめていた。
「ねえ」
リサが話しかけてくる。由岐は視線だけを彼女の方に向けた。
「なんでユキは怒らないの?」
「え?」
リサの言っている意味が解らず、由岐は首を傾げた。ウィッグの所為で頭が重い。
「私が、ミッチーにアプローチしたのに」
小声でリサは言った。
「……ああ」
由岐は惚けた声を出した。
「だって、それは自由でしょ?」
「え?」
素っ頓狂な声を上げたのは、今度はリサの方だった。
「だって、好きになっちゃったんでしょ。それで、ミッチーが、私よりリサの方が良いって、思っても、それは仕方が無いから……」
由岐が話している最中に、リサは手を伸ばして、由岐の鼻を摘んだ。
「それ、本気で言ってる?」
「う、うん」
リサの手を引きはがしてから、由岐は頷いた。
「信じられない!」
突然、リサが高い声を出した。由岐は慌てて周囲を見渡したが、幸い、騒ぎになるほどのことでは無かったようだ。
「え、何か?」
「あなた、本当にミッチーのこと、好きなの?」
「うん」
「でも、私が手を出しても良いの?」
「うん」
リサは天を仰いだ。その白いのど元に向かって、由岐は小声で補足した。
「だって、私なんかより魅力的な女の子はいっぱいいるし……」
「ユキ」
突然、静かな声になって、リサは言った。
「もし、この後賞を獲ったら、そんな考えは全部捨てなさい」
「うーん」
「大体ね、それはミッチーにも失礼」
「……うん」
リサの言わんとしていることは解るので、由岐はじっくりと頷いた。
「続いて、アッパークラスの表彰です」
司会の声に、由岐とリサは壇上の方を振り向いた。演台の校長が、手元の原稿をめくるのが目に入る。
「銅賞」
呼ばれたのは、隣のクラスのインド人だった。客席から歓声が上がる。緊張した面持ちで、中央に向かう。小さなトロフィーを受け取って、校長とがっちり握手をした。
その様を由岐はぼんやりと眺めていた。小柄な男子が、軽い足取りで舞台袖に戻ってくる。その途中、客席からの声援に応えて、小さく手を振った。
「銀賞」
由岐は目を閉じた。
「ハスミ・ユキ」
また客席に歓声と拍手が満ちる。その中に、聞き慣れた声を、由岐は聞き取った。
リサが由岐の背中を叩いてくる。リサの二の腕を叩き返してから、由岐は壇上に向かった。背筋を伸ばすことを意識し、着物なので気持ち小股だ。
校長からトロフィーを受け取る。小さいのに、ずしりと重かった。銀の比重は十以上だったか、と思い出す。まさか、純銀ではあるまいが……。
左手にトロフィーを持ち替えて、右手で握手をする。一歩離れて、小さくお辞儀をした。
一つ息を吸って、大きく吐いた。
客席の方を向き直る。みんなが、大きく拍手をしてくれていた。
由岐は素早く、客席に視線を巡らせた。最前列にクリスティーンが座っている。マリナやケイたちも、客席中程に見つけた。
そして、最後列、立ち上がって大きく拍手をしている、紺色の浴衣姿が目に入った。
*
由岐は校舎の角を曲がった。約束していたわけではない。けれど、ここだと確信していた。
満開の、けれど葉桜のような、ピンク・メンパットの下で、浴衣姿の満久が、何故か神妙な顔をしていた。
「ミッチー!」
由岐は満久の方に小走りに近寄った。着物の所為で足が開かず、ちょこまかした動きになってしまう。
「うわ!」
そしてそのままの勢いで、満久の胸の中に飛び込んだ。
満久は一瞬、面食らったようだったが、すぐに両手で抱きしめてくれた。回された腕が心強い。
「由岐。おめでとう」
「ありがとう」
満久に、由岐は頷き返した。
「あ、ごめん。トロフィー置いて来ちゃった」
「いいよ、別に」満久はふっと笑った。「帰ってからゆっくり見せて貰うから」
身体を少し離し、由岐は満久の顔を見上げた。十センチほどしか離れていない。目が合い、瞳が揺れているのが判る。
舞台袖でのリサの言葉が思い出される。彼女は金賞だったが、事も無げに受け取っていた。自慢する風もなく、当然のように賞賛されていた。
由岐は、意を決して、目を瞑った。
慣れない下駄で、必死につま先立つ。
待っている時間が、とても長く感じられた。
唇に感触。
想定通り、柔らかく、弾力があった。
唇が触れているだけなので、味は判らない。少なくとも、果糖の甘みや、クエン酸特有の酸味などは感じられない。
感触が離れていく。
由岐は目を開いた。すぐ近くに、少し上気した満久の顔があった。すぐに目を逸らしてしまう。由岐は思わず微笑みながら、身体を離した。
「……レモンの味はしないね」
由岐は思わず、そんなことを口にした。こういう場面で、何を言えばいいのか判らなかったのだ。
「ごめん」
「……え?」由岐は普段より四割ほど周波数が高い声を出した。「なんで?」
なぜ謝られたのかが判らず、由岐は聞き返した。
「その……、ファースト・キスじゃないんだ」
「あ、うん」由岐は三分の一ほど頷いた。「リサのことがあるからでしょ? でも、それはミッチーの所為じゃ……」
このタイミングでそんなこと言わなくても良いのに、と由岐は不満に思った。まったく、女心というものが解っていない。
「いや」満久は首を横に振った。「由岐の方」
「……へ?」由岐は間の抜けた声を上げた。「いやいや。今のが、初めてだけど……」
「その……」満久はピンク・メンパットの幹を見ながら言った。「ごめん。前に、由岐が家のリビングで居眠りしてたときに……」
「……え?」
「こっそりキスした」
小声で満久はそう言った。
彼が何を言っているのか、咄嗟には理解出来なかった。ぽかんと、口を開けてしまう。それから、なんとか言葉を絞り出した。
「う、嘘でしょ?」
「ごめん」
満久はまた謝った。
「いや、だって……。なんで言ってくれなかったの!?」
「だって、その……」満久は頬を右手で二回掻いた。「前に、寝てる間にキスするなんて気持ち悪いって、言ってたから……。言い出せなくて」
由岐は一瞬、きょとんとした。たしかにそんなことを言った覚えがある。気持ち悪い、とそのときは思ったのだ。
「ううん……」
由岐は改めて満久を見た。別段、気持ち悪いとは思わなかった。しかし、釈然としない気持ちは否めない。
「由岐?」
黙り込んだ由岐に、不安に思ったのか、満久はようやく向き直った。両手を合わせて頭を下げる。
「ホントにごめん。その、なんて言うか……。我慢できなかったんだ。でも、軽い気持ちじゃなくて……。その、本気で由岐のことが好きだから」
「良いよ」由岐は満久の言葉を遮った。「許してあげる」
その言葉に、満久はあからさまにほっとした顔になった。
由岐はピンク・メンパットの木を見上げた。自然と笑みがこぼれてしまう。
キスは知っていたのだ
キスのひとつで -Kiss Knows He Tore off His Dear- 葱羊歯維甫 @negiposo
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