2. つまんない恋 -Two medians not in quarrel-

 由岐は呆れていた。

 両手を腰に当てて、椅子に座った満久を見下ろす。彼は大柄な身体を脱力させて、教室で丸太のように居眠りしていた。相変わらずの暢気な寝顔だった。

 はあ、と一つ溜息を吐きながら、机に腰を預ける。ついこの前、この教室で唇を盗まれたばかりだというのに、まったく学習していない。無防備にもほどがある。

 満久の寝顔を覗き込む。こうしてまじまじと彼の顔を眺めるのは、初めての経験だった。呼吸する度に、僅かに鼻が動いている。意外と睫毛が長い。顎にはうっすらと髭が生えていた。そして、色素の薄い唇。一度意識してしまうと、そこから目が離せなくなった。

 感触はどんなものだろうか。人体なのだから当然温かいはずだ。彼の皮膚に触れたことはあるが、精々手くらいのものだ。しかし、唇は粘膜なので、皮膚と硬度が同じだとは考えにくい。恐らく柔らかいと予測されるが、どの程度なのだろう。粘膜だけあってやや湿っていると予測される。

 自分の唇を触って確かめてみる。微妙に弾力があるような気がする。少なくとも、頬よりは柔らかい。満久の手は由岐のそれよりも硬かった。唇も同じだろうか。かなり気になる。つい、手を伸ばしそうになって、由岐は固まった。

「……なるほど?」

 由岐はわざわざ声に出して言った。満久の言う意味が解ったような気がする。たしかに、好きな相手が目の前で無防備な姿を晒していたら、思わずキスのひとつくらい、してしまいたくなってしまうかもしれない。

「ほら、ミッチー! 起きて!」

 由岐はそう言いながら、満久の肩を揺さぶった。あまり深くは寝入っていなかったのか、満久はくぐもった声を上げながらすぐに目を開けた。

「おはよう」

「………うん」

 満久は盛んに瞬きをしながら、シュークリームのように腑抜けた声で返事をした。

「もう………」

 由岐は再び腰に手を当てて、椅子に座った満久を見下ろした。

「どうしてまた居眠りしてるかなあ……」

「……ああ」満久は一瞬間を開けてから、首を縦に振った。「ごめんごめん」

「謝られても困るけどさ。待たせてたのはこっちだし……。」

 唇を尖らせながら由岐は思わずそう言った。満久がキスされたことについて、自分がとやかく言うのはなんだか恥ずかしい。

「それで、何の話だったの?」

「あ、うん」

 一度大きく伸びをしてから話を変えた満久に、由岐は小さく頷いた。

 先ほどまで、由岐は担任の教師に呼び出されていた。満久はそれを待ってくれていたのだ。いつぞやと同じようなシチュエーションだった。

「えっとね、来月のスピーチ・コンテストについて」

「……ああ」

 満久は一瞬考えた後に頷いた。

 学校のスピーチ・コンテストは毎年、五月に行われる。学年や語学のレベルに合わせていくつかのクラスで競われる。由岐もここ何年か、客席でスピーチを聞いていた。

「私に、出場しないか、って。しかも一番上のクラスで」

「……ふうん」

 満久はにこやかに頷いた。

「良いんじゃない?」

「えっ」

 由岐は思わず高い声を出した。それからぼそぼそと続ける。

「無理だよ、私なんて。スピーチとか……」

「何で?」満久が小さく首を傾げた。「ちょっと話すだけじゃん」

「いやいや、そんな言うほど簡単じゃないよ」

 由岐は頬に空気を溜めて、口からゆっくりと吐き出した。

「コンテストのテーマは?」

「母国について」

「……ああ」

 満久は納得したように頷いた。例年を思い返すまでもなく、コンテストのテーマは毎年代わり映えしない。レベル毎にテーマは別れるが、母国について、は毎年のようにどこかのクラスで採用される。他には、学校生活について、とか、ボランティアについて、などがメジャなテーマである。

「だから、誰か日本人が一人くらい出て欲しいみたいなんだけど……」

 この学校に通う日本人の数はそれなりに多い。各学年に数人ずつはいる。大抵は親が駐在員で、それに家族がついてきた形だ。海外勤務が終われば日本に帰ることになるので、こちらにいるのは二年から五年程度のことが多い。由岐もそのパターンである。会社側も、子供の学年などにある程度は配慮してくれるので、由岐が高校を卒業するタイミングで、帰国となる可能性はかなり高い。由岐がそれについて帰るかどうかは判らないが……。

 満久は珍しく、親がこちらで事業を営んでいる。そのため、産まれも育ちもシンガポールで、あまり日本の経験が無い。比較的、レアなケースだった。

「なるほどね……」

 満久は腕を組んだ。

「じゃあ、一緒にやってみようか」

「え?」

「話すのは一人でも、考えるのは二人でも出来るでしょ?」

「う、うん……」

「それに」満久は唇を片方吊り上げた。「もし由岐が断ったら、結局俺のところに回ってきそうだし」

「かもね」

 由岐は曖昧に頷いた。

 一番上のクラスなので、当然学年が上の生徒が選ばれる。スピーチは、英語を話し慣れていれば出来る、というものではない。大人数を前に話すので、声や表情、姿勢などにも気を遣う必要がある。聴衆を虜にするには、それなりのテクニックが必要だ。

 それ以上に、内容が問題だ。母国について、きちんとアピールできないといけない。何が魅力的なのか、きちんと論理立てて説明する必要がある。話す以上に、ライティング能力が問われるのだ。

 しかし、十二年生、日本で言う高校三年生には、そんなコンテストに出ている余裕はそうそう無い。シンガポールや欧米の大学へ入学するには、日本の様な受験はないものの、高校の卒業試験の成績がかなり重視される。母語が英語でないならTOEFLなども受験しなくてはならない。部活や課外活動も評定に大きく影響するので、勉強にだけ集中するわけにもいかない。

 そうなると、必然的に由岐たち十一年生にお鉢が回ってくる。日本人は二人以外にも数名いるので絶対とは言い切れないが、担任から話が回ってきた以上、由岐と同じクラスである満久になる可能性はかなり高いように思われた。

「じゃあ、まず何をテーマにするのか決めないといけないけど……」

 満久はそう言いながら、教室の壁に掛かった時計を見上げた。

「ま、帰りながらだね」

「うん」

 由岐はにっこり微笑んで頷いた。

 二人並んで廊下を歩く。時刻は十六時過ぎ。陽は少し傾いているものの、まだかなり蒸し暑い。冷房の効いた校舎から外に出ると、むわっとした熱気が押し寄せてきた。

「あ、ユキ! ミッチー!」

 高い声で呼びかけられて、二人は振り向いた。手を振っていたのは、リサだった。隣ではクリスティーンも大輪の笑顔を浮かべている。

「今帰り?」

「うん」

「ね」クリスが両の手のひらを合わせて、首を傾げた。「どこか、寄っていかない?」




     *




 由岐はトレイを持って席に戻ってきた。皿に載っているのはチキンライス。シンガポールではメジャな料理で、日本人からも人気が高い。鶏の炊き込みご飯のようなもので、由岐も大好きだった。

 直径一メートルほどの円形のテーブルを囲むようなソファ席には、既に満久とリサが戻ってきていた。その二人の間に、由岐は身体を滑り込ませた。リサが小さなお尻を半分動かしてスペースを空けてくれた。

「お待たせ」

 最後にクリスティーンが戻ってきて、由岐の正面にいそいそと座った。

「えっと……何? それ?」

 由岐はテーブルに置かれた食器を見下ろしながら訊いた。

「んっとね、テリヤキ・チキン・ベントー!」

 ニコニコしながらクリスティーンは答えた。しかし、それを聞いて由岐は首を傾げた。

 チキンと言うのだから、このメインディッシュはチキンなのだろう。しかしどう見ても照っていない。それどころか焼いてすらいなかった。衣がついて揚がっている。その上に、どろりとした黒い液体がかかっているが、恐らくこれがテリヤキ・ソースなのだろう。チキンの他にはライスと、沢庵らしき黄色い物体。それとスイカが食器に載っていた。

 そもそも、弁当という言葉には、持ち歩くための食事、というニュアンスが含まれているのではないか、と由岐は訝しんだ。イートインで提供されている場合は、定食の方が近くないだろうか。それとも、この一見朱塗りに見えなくもない正方形のプレートが、弁当箱だという主張なのだろうか。しかし形状としては、お重の方がまだ近いような気もする。しかし、スイカが大きすぎて、蓋が閉まるようにはとても見えない。

「……なるほど」

 由岐はなんとか頷いた。クリスティーンは相変わらずニコニコしている。その邪気のない笑顔に、由岐はコメントを差し控えた。

 四人が来ているのは学校近くのショッピング・センタの五階にあるホーカーだった。ホーカーとは、シンガポールによくあるフードコートのことで、大抵どこのショッピング・センタにも併設されている。多民族・多宗教の国家だけあって、色々な国の料理の店が並んでいる。

 クリスティーンは、その中の、日本料理の店から買ってきたようだ。しかし、当然ながら、ホーカーにあるジャパニーズの店員がジャパニーズである可能性は0に限りなく近い。底の絶対値が1未満の指数関数の極限値と同じレベルである。この国でまともな日本食を食べようと思ったら、それなりの店にいく必要がある。つまり、平均的な高校生には無理な相談である。

 それにしても、と由岐は思った。この国でジャパニーズじゃない店員の店でベントーを頼むと、必ずと言って良いほどスイカがついてくる。平均的な日本に住む日本人は、せいぜい一年に二、三回くらいしかスイカを食さないと思うのだが……。

 満久はインド系のマトン・ミーゴレン。羊肉が入った焼きそばみたいなもので、かなりスパイシーだ。リサはパラタというこちらもインド系の、クレープのような料理。カレーなどをつけて食べる。

 ちなみに、カレーという料理はインドにはないらしい。前にインドから来たクラスメイトから教えて貰った。ナンなど、色々な物につけるソースのような扱いで、日本人にとっての味噌や醤油に近いようだ。ナンも、日本人でいう寿司くらいのレベルで、お祝い事でもないかぎり、中々食卓に並ばないそうだ。

「日本食って美味しいよねえ」

「……う、うん」

 クリスティーンの言葉に釈然としないものを感じながらも、由岐は頷いた。満久も苦笑している。

「それで、今日は何してたの?」

 リサがパラタを飲み込んでから、満久に訊いた。

「うん、私が先生に呼び出されて。ミッチーには待っててもらってたの」

 由岐がそう答えると、リサは形の良い眉を小さく顰めた。クリスティーンも心配そうに由岐のことを見つめている。

「呼び出された?」

「うん。今年のスピーチ・コンテストに出ろって」

 溜息混じりに由岐が言った。それから金髪のクラスメイトに向かって言った。

「各国一人ずつ出したいみたい。だから、話があるかもよ?」

「ああ、そうなんだ……」

 彼女は、唇を片方吊り上げて言った。イギリス人だし、英語にはまったく問題ない。人前で話すことも苦手では無さそうだ。そんな相手と同じ舞台に立つかと思うと、由岐はさらに気が重くなった。

 ただでさえ、英語で話すのは苦手なのだ。リサやクリス相手に話すときだって、長い文節ではあまり話せない。ネイティブからすれば、いかにも拙い文章だろう。

「それでね」由岐はチキンを咀嚼してから切り出した。「日本の良いところを伝えたいんだけど、何が良いと思う?」

「何がって……」クリスティーンは首を傾げた。「それは日本人の方が良く知ってるでしょ?」

「普通ならそうだけど。でも自分のことって判らないものでしょ? それに、自分たちでは良いと思っていても、外国の人から見たら、マイナスかもしれないし」

 由岐がそう説明すると、クリスティーンは納得したように頷いた。

「そうだねえ……。やっぱり漫画とかアニメとか!」

「クリスはそう言うと思った」

 由岐はちょっと微笑んでそう言った。クリスティーンは日本のアニメが好きなようだ。よくインターネットを通して見ているようで、由岐や満久よりもよっぽど詳しい。

 シンガポールではアニメはそれなりに市民権を得ていて、ショッピング・センタの中に、アニメショップやコスプレ衣装の店が平気で並んでいたりする。日本のものがやはり人気のようで、由岐がちらっと覗いただけでも、なんとなく判るものが多かった。本屋で、中国語に翻訳された漫画が並んでいることも多い。

「でもなあ」満久は首を捻った。「日本人の中でも好きな人と興味無い人がいるからさ。日本って国のアピールかと言われると、ちょっとニュアンスが違っちゃうかも」

「そっかあ」

 クリスティーンは残念そうに頷いた。

「じゃあ、可愛いのが良いんじゃない?」

「可愛い?」

 由岐が聞き返すと、リサは少し身を乗り出した。

「原宿系とかさ。後はアイドルとか」

「ああ」由岐は頷いた「なるほど」

 たしかに日本のティーン文化はこちらでも人気だ。あまり海外ではあの手のファッションは見られない。男性アイドルもかなり人気がある。やはり日系ショップでアイドルグッズが売っていたりする。学校の生徒でも熱を上げている女子を、由岐は何人か知っていた。

「ううん……」

 しかし満久にはぴんと来なかったようだ。難しい顔をして唸ってしまう。

「じゃあ、ミッチーはどんなのが良いと思うの?」

 リサが、首を傾げて満久の顔を覗き込んだ。

「そうだなあ……。お茶……緑茶とか」

「……緑茶?」

 リサは顔を覗き込んだまま首を傾げた。

「それって、中国茶と何が違うの?」

 クリスティーンが訊く。満久も首を傾げた。

「何だろう……? そもそも、中国茶って、よく知らない……」

「紅茶との違いは?」

 リサが訊く。代わりに由岐が答えた。

「たしか、葉っぱは同じなんだけど、紅茶は発酵させるんだよ」

「へえ……」

 満久が感心したように頷いた。それを見て、由岐は溜息を吐いた。

「緑茶は止めよう」

「うん」リサが半笑いで言った。「そうした方が良いみたいね」

 満久は少し憮然とした顔をしたが、何も言わなかった。

「そういえばさ、スピーチ・コンテストって、毎年やってるわけじゃない?」

 リサが首を傾げた。

「去年は何やったの? 日本人が誰か出ていたはずでしょ? 同じテーマは良くないんじゃないかな?」

「そっか。えっと……、何だっけ?」

 由岐は満久に訊いた。しかし彼も首を傾げた。

「いや、知らない。多分、見に行ってすらいない」

「あ、そ……」

 由岐は頷いた。

「多分、先生が去年の録画を持ってるよ」

「そっか。見せてくれるように、お願いしてみる。ありがと」

「どういたしまして」

 リサはそう言って、ウインクした。悔しくなるほどに可愛かった。

「いっそのことさ」クリスティーンが、スイカを手に持って言った。「日本食って括りにしちゃえば?」

「日本食?」

「うん。ほら、美味しいし。それにヘルシーでしょ?」

「うん。そうみたいだけど……」

 由岐は、テーブルの上に置かれた、テリヤキ・チキン・ベントーが載っていたプレートを見ながら言った。

「ちょっと考えてみるよ……」




     *




 由岐はちょっと緊張していた。

 満久と並んで、ソファに座っていた。告白してから、満久の家に来るのは初めてだった。わずか十センチほどの距離に満久がいることを、嫌でも意識してしまう。それでも、極力彼の方を向かないようにして、テレビの画面に視線を固定する。しかし、内容はほとんど頭に入っていなかった。

 画面に映っているのは、昨年のスピーチ・コンテストだった。担任から、ここ三年分の録画を借りてきたのだ。

 講演者は全員見覚えがあった。シンガポールは国土が広くなく、日本人コミュニティもかなり発達している。そのため、国内にいる日本人は、知り合いの知り合い、くらいまで辿っただけでほとんど網羅できる。便利で何かと頼れる反面、その人間関係が煩わしいと思う人もいるようだ。暇を持て余した主婦が多いためか、何かすると、すぐに噂が広まってしまう、と以前由岐の母親が零していた。

 テーブルの上には、いつものようにコーヒーと、スナック菓子が封を切られている。もう、半分以上、お腹の中に収まっていた。

「ん」

 去年のスピーチが終わると、満久はリモコンに手を伸ばし、再生を止めた。それからぐぐっと伸びをする。由岐は緊張して、五センチほど身体を離した。

「まあ、なんて言うか」

 由岐は首を傾げて言った。

「想定の範囲内だったね」

「ああ」

 ここ三年間のスピーチのテーマは、アニメ、武士、日本食、だった。誰しも考えることは似通っているようだった。

「何を見ていたの?」

 そう訊いてきたのは満久の母親だった。由岐は蓉子さん、と名前で呼んでいる。直接言われたわけではないが、おばさん、との呼称はあまりお気に召していないようだったからだ。

 由岐は普段から蓉子に世話を焼いて貰っている。もしかしたら、実の母親以上かも知れない。由岐の母親は英語があまり出来ないため、何か困りごとがあると蓉子を頼ることが多かった。

「スピーチ・コンテストです」

「ふうん」

 由岐たちはカップを持って、ダイニングのテーブルの方に移動した。勝手知ったるキッチンから、コーヒーメーカのビーカを持ってきて、二人のカップに注ぎ足した。

「その、今年のコンテストも、日本人が誰か出ないといけないみたいで、私かミッチーにお鉢が回ってきそうなんです」

「そうなの」

 蓉子は優しく微笑んだ。目を細めると、少し満久に似ている。

「それで、テーマを考えているんですけど、なかなか良いのが浮かばなくて。幾つか案は出てるんですけど、あんまり最近のと被るのも良くないでしょうし……」

 由岐は少し上目遣いになって訊いた。蓉子はシンガポール歴がかなり長く、こちらの事情にかなり詳しいため、何か良いアイデアが出るかもしれない。

「そうねえ……」

 話を聞いた蓉子は顎に指を当てて、少し考え込んだ。

「やっぱり可愛いのが良いんじゃないかしら。聞いていて楽しいし」

「ううん……」由岐は腕を組んで考え込んだ。「その、可愛いって難しくないですか? 物じゃなくて、概念ですし……」

「そう?」

 蓉子は首を傾げた。その角度と表情が満久とそっくりだったので、由岐は少し可笑しくなった。

「普通に、可愛いものを紹介すれば良いんじゃないの?」

「例えば、何がありますかね? 可愛いものって」

 由岐が問い返すと、蓉子はドーナツのように微笑んだ。

「由岐ちゃんは可愛いわよ」

「……ええと、ありがとうございます?」

 どうリアクションしたものか判らず、由岐は語尾を上げてそう答えた。横目で満久を窺うが、彼の表情は特に変わっていなかった。

「そうねえ。まあ、ひらひらファッションとかでも良いけど……」

「ひらひら?」

「そう。ゴスロリとか。こっちでメイド喫茶も一時期流行ってたけど、最近は下火かしら」

 蓉子は表情を変えずにそう言った。しかし、由岐にはどうにも受け入れがたかった。存在していることは知っていたが、まったく興味が持てない。

「ううん……。もっと、和風っぽい物の方が良くないかな。こう、エスニックでエキゾチックな感じで……」

 満久が口を挟んだ。少し眉が下がっている。すると、蓉子は首を傾げた。

「まあ、そっちの方が受け入れられやすいとは思うけどね。でも、現実の日本でそんな物はあまり根付いていないような気もするけど」

「でも、外国人から見て、日本っぽいイメージがあるものの方が楽なんじゃないかな」

「ううん……」しかし、満久の言い様に、由岐は首を捻った。「楽なのはそうなんだけど……。でも、それって本末転倒じゃないかな?」

「え?」

 満久がぱちくりと目を瞬かせた。蓉子が興味深そうな目を向けてくる。

「だって、実際の日本の良いところを知って貰うためのスピーチなんでしょ? なのに、イメージしやすいからって、歴史上の遺物を選んじゃったらさ、本当に日本に来たときにがっかりしちゃったりしないかな」

 由岐がそう言うと、満久は目を丸くした。一方、蓉子は目を細めた。

「由岐ちゃんは偉いわねえ」

「いえ、そんなつもりは……」

 由岐は慌てて右手を振った。カップを手に、口にコーヒーを含む。

「たしかにそうね。客席を受けさせるのが目的じゃない。何を伝えるのかの方が、よっぽど大事」

 ニコニコしながら蓉子はそう言った。

「じゃあ、日本に昔からある、綺麗な物にしたら良いんじゃないかしら」

「そうだね」

 蓉子と満久は頷きあった。由岐も大きく頷く。なんとなく、場の空気が明るくなる。方向性が決まるだけで、だいぶ安心できるものだ。

「綺麗な物かあ」満久が首を捻る。「何だろうな」

「昔からってなると、自然の物かな?」

 由岐が疑問を呈すと、満久は小さく首を振った。

「建築物とか芸術品って可能性もあるけど」

「そっか……、そうだね」

「でも、それだとさっき由岐が言った、遺物になっちゃうかもしれないけど……」

「ううん……」由岐は首を傾げた。「まあ、芸術だったら、そういう物だってみんな判ってると思うんだよね。でも、みんな着物着てちょんまげ姿で歩いている、とか、忍者が活躍してるっていう誤解は与えたくない、ってだけ」

 由岐は苦笑いをしながらそう言った。時折、本当に忍者がいると誤解している人がいる。大抵は、漫画や映画で仕入れた知識だ。

「あのね、私に一つ案があるんだけど」

 蓉子がそう唇をほころばせながら切り出した。

「金魚ってどう?」

「金魚?」

 満久が訝しげに問い返すと、蓉子はにこにこと続けた。

「ええ、金魚。可愛いし、歴史のあるものじゃない?」

「そうだけど……」

 由岐はリビングの隅に目を遣った。大きめの水槽の中では、カラフルな熱帯魚が数匹、優雅に泳いでいる。水槽の掃除を手伝ったことも何度かあるし、神内家が旅行に行くときに預かったこともある。

「確かに、良いかもしれないですね」

 蓉子の言う通り、金魚は可愛いし、どことなく和風なイメージを感じさせる。お祭りの金魚すくいの影響が大きいのかも知れない。

「でもさ、金魚って、日本古来のものなのか?」

「多分そうよ」蓉子の目に力がこもった。「前に、時代劇に金魚売りが出てきたのを見たもの」

「へえ……」

 由岐は感心して頷いた。蓉子の話が本当なら、少なくとも江戸時代には庶民の間に広まっていたことになる。

「じゃあ、ちょっとそれで調べてみます!」

「ええ」

 蓉子はにっこりと頷いた。




      *




「先生、日本って言われて思い浮かべるのは何ですか?」

 由岐の突然の問いに、浅尾は眼を瞬かせた。隣の満久も似たようなリアクションだった。

「国だ」

「それは日本とは何か、であって、イメージとは違くないですか?」

 由岐がそう言うと、浅尾はふむ、と頷いた。

「言われてみればそうかも知れないが……。でも、特にないな。だからそのものしか答えようが無かった」

 授業前の、塾の廊下だった。二週間前と同じように、由岐と浅尾は並んで座っている。違う点と言えば、由岐の隣、浅尾の反対側に満久が腰掛けている。彼も浅尾の方を見つめていた。

「それで? 今度は何だ?」

「その、スピーチ・コンテストに出ることになりそうでして……」

 由岐は簡単に、事情を浅尾に説明した。白衣姿の講師は一言も口を挟まなかったが、説明が終わると、大きく溜息を吐いた。

「どうして、蓮見は先に事情を説明しないんだ?」

「そうですね……」由岐は唇の右側を四パーセントほど持ち上げた。「先生の素の反応を見たいんだと思います」

「悪趣味だな」

「ああ、いえ。そんな下世話な理由じゃなくて」由岐は腕を組んだ。「どう言ったら良いですかね。こう、思考のトレースがしたいと言うか……。断片的な情報しか無い状況下で、どう反応するかを調べることで、先生のよりプリミティブな部分に迫れそうな気がして」

 由岐がそう言うと、浅尾は鼻から息を吐いた。

「十分に趣味が悪いよ、それは」

「すいません。でも、興味本位じゃないんですよ。ただ、参考にしたいだけで」

 由岐が慌ててそう弁解すると、浅尾は疎ましげに手を振った。

「それで? テーマに悩んでるって?」

「はい」由岐は頷いた。「金魚はどうかって、案も出たんですけど。調べてみたら中国原産だったんですよね」

「あ、そ」

 浅尾は興味なさそうに頷いた。

「別に原産国である必要は無いんじゃないか?」

「え? そうですか?」

「産地かどうかと、文化として根付いているかは別の問題だろう」

「そうかなあ……」首を傾げたのは満久だった。「なんか、本流って感じがしないと思うんですけど」

 浅尾は首を十五度ほど傾けた。

「例えば、ブラジルと聞いてサッカーを思い浮かべる人は多いと思うが、発祥の地はイギリスだ。でも、ブラジルの文化として捉えても問題は無いだろう?」

 浅尾が満久の顔を覗き込む。彼は曖昧に頷いた。

「逆に、イギリスの文化として紅茶があるが、茶葉の生産国は東アジアか東南アジアだし、イギリスの王宮に持ち込んだのはイベリアの王女だ」

 浅尾が悪戯っぽくそう言うと、満久は観念したように頷いた。

「ま、これだけ反例があるんだ。金魚を日本の文化にしても良いとは思うけどね」

「なるほど」

 浅尾の言葉に、由岐も頷いた。

「ただ、まあ、こちらも文化と呼べるほど広まっているかについては、疑義があるけどな」

「まあ、そうでしょうね」

 由岐は小さく微笑んだ。日本に住んでいたころに金魚を飼っていたわけではない。友達の家でも見た記憶はあまり多くない。

 熱帯魚についてはシンガポールの方が盛んではないだろうか。街中で専門店をちらほら見かける。由岐と満久がよく行く、塾の近くのショッピング・センタの中にも、大きな水槽の中を優雅に泳いでいる色とりどりの魚の姿を目にすることが出来る。

「じゃあ、何か思いつくことはありますか?」

「さて、ね。特にこれと言って案はないけど」浅尾は机に頬杖をついた。「独自のものの方が面白いかも知れないね」

「独自? 固有文化なら自然とそうなるのでは?」

「ちょっと言葉が足りなかったな」浅尾は両目を二秒ほど閉じた。「その物自体が、高い独自性を持っている、と言いたかった。そうだな、例えば……。緑茶、というのは日本固有なのではないかと思うが、お茶自体は中国にもイギリスにもある。和服は日本固有だが、民族衣装はどこの国にもある。神道は日本の宗教だが、他の国にもそれぞれ宗教がある。そういう、概念自体の共通項がないものが良いのではないか、と思っただけさ」

「ああ、なるほど」由岐は、ようやく浅尾の言いたいことを理解した。「つまり、日本人しか、使わないものが良いんじゃないかと」

 由岐は首を捻った。横目で窺うと、満久も同じように首を傾けていた。

 考えてみるが、すぐには思いつかなかった。どの国の人だって、同じ人間なのだ。身体の作りが同じである以上、行動だって似たような物になる。日常生活に必要な物というのは、どうしたって共通だ。

「別に形ある物ではなくても良いけどな」

「え?」

「紅茶、だったら物だが、ティータイム、だって文化として考えられる」

「……ああ、そうですね。そっかそっか」

「まあ、そうなると、満久に期待するのは望み薄になるけどな」

 浅尾は口元を緩めて、目を細めた。憮然とした顔で満久は言った。

「たしかに日本人としてのメンタリティは無いですけど」

「まあ、バナナみたいなもんだな」

「バナナ?」

「肌は黄色くても、中身は白いんだ。アメリカで育った奴に多い」

「……ああ」

 四秒ほど考えてから、由岐は頷いた。あまり趣味の良い喩えだとは思えなかった。

「うーん、何かありますかねえ。日本人っぽい、独自のこと」

「ま、頑張って考えるんだね」

 浅尾はそう言って立ち上がった。白衣を揺らして講師室に戻っていく。彼女はいつも忙しそうだ。

 由岐は椅子に座り直した。反対側に向いていた身体を、満久の方に傾ける。思ったより近くに彼の顔があって、思わず五センチほど身体を引いた。しかし彼はまだ考えていたのか、何の反応も示さなかった。

「どう思う?」

 気を取り直して、由岐は訊いた。

「昔からあるものの方が、独自っぽいけど」

 満久は眉間に皺を寄せてそう言った。

「……そうかなあ」

 由岐は首を傾げた。

「昔からあるのって、生活に必要だったからあるものでしょ? でも、人間が必要とするものって、共通だと思うんだ。衣食住みたいな……。生活に密接に関われば関わるほど、同じ機能を有する物が、存在するんじゃないかと。歴史が深くなるほど、生活必需品の割合が増すだろうからさ。生活に余裕が出来た後のものの方が、趣味性が高くて独自である可能性は高いと思う」

 由岐がそう言うと、満久はふむ、と頷いた。

「じゃあ、昔からある、娯楽とか嗜好品、みたいな感じかな」

「そうだね。その線が良さそう」

 由岐は安心して頷いた。具体的な案はまだ出ていないが、方向性が固まったことは大きな前進だ。何を考えるか、が決まれば、後はただの作業に等しい。

 由岐は中学時代の社会の授業を思い返した。しかし純粋に娯楽となると、あまり習った記憶はない。

「ううん……、将棋、とか」

 自信無さそうに満久が言った。由岐は一度目を閉じて考えてから、首を振った。

「チェスとの差別化が難しいね。むしろ、花札とか、百人一首の方がどうかな? 絵柄も綺麗だし……」

「良いかも」満久は曖昧に頷いた。「トランプとかウノと同類ではあるけど……。ビジュアル的な面白さはあると思う」

「……ううん……」

 由岐は考え込んだ。昔の娯楽に着目したのは良いアイデアだと思ったが、それも結局似通っている。娯楽でさえも発想は世界でどこも共通なのか、それともなにかアーキタイプがあってそれぞれに進化したのかは知らないが……。

「後はお祭り? 御神輿とか山車とか……」

「だし?」

 由岐の言葉に、満久は首を傾げた。どうやら知らないらしい。

「えっと、たしかお祭りのときに引っ張る車、みたいの? 神様の乗り物、なのかな、多分」

 由岐はたどたどしく説明した。正直に言って、由岐自身も実際に見たことはない。由来などもよく知らない。神輿なら小学生のときに子供用の小さい物を担いだことがある。

「えっと、インドにもあるよ、そういうの」

「……そうなの?」

 由岐は上目遣いになって訊いた。満久は重々しく頷いた。

「うん。神様が宿るとか、なんとか」

「……そっか」

 由岐は深く溜息を吐いた。

「まあ、パレードで宗教的な物を担ぐのは珍しい気もするし、良いんじゃない?」

 柔らかめの声で言った満久に、由岐は小さく微笑んだ。

「うん、とりあえず候補にしよう」

 由岐はそう言って、机の上に肘をついた。壁に掛かった時計を見上げると、授業まではまだ時間があった。

「お祭りって線は悪くないと思う」

 満久が真面目な顔で言った。

「そうだね」由岐は首だけ傾けて、返事をした。「そう言われると、いろんなお祭りがあるよね、日本には」

 由岐は左手の指を折りながら候補を挙げた。

「お正月は万国共通だとしても……、ひな祭りとか七夕とか?」

「七夕は中国起源じゃないかな。ひな祭りは知らないけど……」

「春のパン祭り?」

「独自だろうけど……。それは企業が打ったキャンペーンじゃない?」

「バレンタインだってクリスマスだって、日本ではそうじゃん……」

 由岐は唇を尖らせた。敬虔なクリスチャンもいるとは思うが、世間的にはほぼそう認知されていると考えて支障はないだろう。などと言いつつ、由岐自身も、毎年満久にチョコレートを贈っている。こちらでは男女構わずに贈るので、ただのプレゼント交換になってしまうのが難点だ。好意が伝わっていたのか疑わしい。

「後は……、お花見?」由岐は首を捻りながらそう言った。「ん……、なんか良さそうじゃない?」

 満久の顔を覗き込んで、由岐は続けた。

「あんまり、外で宴会をするってこと無いし。満開の桜の下で、こう、わいわいとって言うのは、他に例がないんじゃないかな?」

「……うん。そうかも知れない」

 満久が三分の二くらい頷いた。あまりぴんと来ていないようだった。そのぼんやりした顔を見て、由岐は何故か思いついた。

「あ! それより、むしろ、桜、の方が、って今思った」

「桜?」

「うん。日本人にとって、特別な花でしょ、桜って」

「そう?」

 満久はきょとんとした。由岐は精神的に頭を抱えた。満久が日本で暮らした経験が無いことの意味を、低く見積もっていた。

「そうだよ! なんか、こう、花っていったら、桜でしょ。綺麗だし……。なんか気高さの象徴って感じがするでしょ?」

「……う、うん」

 まったく理解していない顔で満久は頷いた。由岐は、一つ溜息を誤魔化した。




     *




「えっと、それは?」

 由岐は隣に座ったクリスティーンの、赤い食器を覗き込みながら訊いた。

「カツ・ドン!」

 嬉しそうに彼女は答えた。

 たしかに、白米に揚げ物が載っていたし、器の形状もどんぶりにかなり近かった。その点において、紛う事なきカツ丼である。セットなのだろう、わかめが浮かんだスープがついているが、味噌は溶けていない。

 しかし、どんぶりの上にはカツと白いご飯だけである。卵で閉じてあるわけでもなければ、ソースがかかっているわけでもない。ジャスト・カツ・オン・ライスである。某かの丼を名乗るためには、白米と具材の間に、ある程度の親和性が必要なのではないか、と由岐は訝しんだ。

 放課後、由岐とクリスティーン、リサの三人でサマセット駅近くのホーカに来ていた。女子三人で出かけるのは、ラーメン・チャンピオンに行って以来で、かなり久しぶりだった。主に由岐のつきあいが悪かったのが原因だ。

 由岐が頼んだのは田鶏のスープである。田鶏とは、読んで字の如く、田んぼで取れる鶏のような食感の動物の肉だ。一応脊椎動物に分類されるが、皮膚呼吸が得意な生き物だ。最初は、満久に美味しいからと騙されて食べたのだった。後から何の肉か知らされて激怒し、二週間ほど口をきかなかった。

 リサはクレイポット・ライスを頼んでいた。名前のまんま、土鍋で炊き込んだご飯である。醤油ベースではないし、日本の炊き込みご飯より味がかなり濃い。しかし、似非ジャパニーズ・フードの店よりはよっぽど日本食に近いように由岐は感じている。

「そうだ、こないだユキが言っていたスピーチ・コンテストなんだけど」

 金髪のクラスメイトが面倒そうに言った。

「私も出ることになった」

「ああ、やっぱりかぁ……」

 由岐はうなだれた。覚悟はしていたが、自分より遙かに英語が得意な彼女と一緒だと確認して、やる気が空気中の放射線のように減衰した。

「これはなんとしてもミッチーに押しつけないと……!」

 力を込めてユキが言うと、クリスティーンは首を傾げた。

「そう? 私はユキのスピーチが聴けたら嬉しいけど」

 クリスティーンは無邪気に笑いながらそう言い、由岐の肩を軽く押した。

「ええぇ……。私には無理だよ。なんで先生が私のところに持ってきたのか、今でも分からない」

「そんなことないって」

 クリスティーンが苦笑しながら言う。

「まあ、それだけユキの努力の結果が評価されてきたということでしょ」

 リサがレンゲを咥えたままそう言った。

「ううん……」

 由岐は首を捻った。たしかに、英語についてはかなり努力しているつもりだ。だが、どう考えても実を結んでいるとは言い難い。ろくに勉強もしていない数学や物理の方がよっぽど出来が良い。

「私はユキが話しているの聴きたいなあ」

 クリスティーンはそう言ってにっこり微笑む。邪気のない、キラキラした瞳だった。

「うん、ありがと」

 今ひとつ、どう反応したらいいのか判らず、由岐は曖昧に頷いた。

「そういえば、ユキが一緒なのは久しぶりだね」

 クリスティーンが首を傾げて言う。さっきから彼女は由岐にぴったりと身体を寄せてきている。香水が鼻をくすぐる。

「あ、うん。最近忙しくて……」

 由岐の返事に、リサが六パーセントほど唇を吊り上げた。

「ミッチーと一緒だからでしょ?」

「……そんなことはないと思うけど……。塾とかコンドは一緒だけど、それは前から変わらないし」

 少し迷ったが、由岐はそう答えた。実際、おつきあいを始めたものの、由岐と満久の行動自体はほとんど変わっていない。いつものように一緒に出かけ、一緒に帰ってくる。そんな幸せで、つまんない日常が続いている。

 しかし、リサは小さく笑った。由岐はその顔に言い返した。

「リサはボーイ・フレンドできたの?」

「出来ていない」

 由岐の問いに、リサは大げさに肩を竦めた。

「出かけるときは、ほとんどクリスと一緒。男子と行く事なんか、まったくない」

 深刻な口調でリサが言うので、由岐はちょっと笑ってしまった。目が合うと、リサも脱力した笑みを浮かべた。

「もう、クリスとつきあっちゃえば?」

「それはない」

 真顔でリサが言う。クリスティーンも笑ったが、その笑顔は少し寂しそうだったので、由岐は少し後悔した。

「うちの学校の男子って素敵な人、あんまりいないよね!」

 クリスティーンは何故か楽しそうにそう言った。リサも大きく頷く。しかし由岐は首を傾げた。

「他の学校も似たようなものじゃないかな」

 由岐の通う塾には他校の生徒も多く在籍している。他のインター校や一つだけある日本の私立の高校の生徒と、同じ授業を取ることも多い。しかし、彼らに比べ、由岐たちの学校の男子の魅力が特別劣るとは思えなかった。

「そういう希望のないことを言わないで!」

 リサがぷくっと膨れて言った。

「日本には、素敵な男の子も女の子もいっぱいいるんでしょ?」

 クリスティーンが首を傾げて訊いた。目をキラキラと輝かせている。十五度ほど目を逸らしながら、由岐は答えた。

「多分、クリスが思っているような子はいない」

「ええー?」

 クリスティーンが不満げな声を上げる。

「いないいない。もう、まったくいない。テレビの中の、フィクション」

 しかし由岐は冷徹な表情で首を横に振った。クリスティーンが、日本のアイドルを基に妄想しているのは確実だった。

「そういえばさ」

 クリスティーンが箸を咥えながら切り出した。

「日本人って、つきあいはじめるときに、わざわざ宣言するんでしょ? アニメで見たんだけど」

「宣言?」由岐は二秒ほど考えた。「ああ、告白のこと? そうだよ」

「それって、プロポーズとは違うの? 同じように聞こえるけど」

「うん」

 金髪のクラスメートの問いに、由岐は頷いた。

「交際を始める時点で、告白して、受け入れられたら彼氏彼女の関係になるの」

「……ふうん」クリスティーンは首を傾げた。「それって、最初のデートの前ってことでしょ? それで、本当につきあうかどうか決断できるの? 後の方が合理的じゃない?」

「え? うーん」由岐はまた少し首を傾げた。「多分、ケース・バイ・ケース。告白の前に、二人で出かけることもあるし……。あれ? でも。だけど、ううん、どうだろう」

 由岐は説明しながら、自分でもよく解らなくなってきた。つきあい出す前から、満久と二人で出かけたことはよくあった。あれはデートと呼べるのかと聞かれると、判断に困る。男女が二人で出かけただけではデートの定義を満たしてはいないのでは無かろうか。参加者の感じる甘酸っぱさやどきどき指数が、閾値を超えないと定義を満たさないような気がする。

「ユキ?」

 リサが覗き込んでくる。由岐は笑って誤魔化した。

「普通は告白してからデート。キスはその後。プロポーズとかはまた全然別の話だよ」

「そうなの?」

「うん。プロポーズは結婚の申し込みだからね。もっと仲が深まってからの話」

「交際で申し込んで、結婚でも申し込んで。日本人は面倒くさいなあ」

 青い目を瞬かせながら、彼女はそう小さく嘆息した。

「まあ、そういう文化だからねえ。何でもデジタル」

 投げ遣りに言って、由岐はスープに口をつけた。化学調味料の味がする。他にニンニクや香辛料などが感じられる。ホーカーの料理は基本的に味付けが濃い。

「じゃあ、日本人とつきあうには、告白しないといけないってことだね」

 クリスティーンがそう言ったので、由岐は少し驚いた。

「そうなるねえ」

 リサがしみじみと頷く。

「え? 誰か気になる人でもいるの?」

 由岐が上目遣いに訊くと、リサは首を縦に振った。そう答えると想像していなかったので、由岐はひどく驚いた。

「え? ホント?」

「……うん」

 リサは大きい目を少し細め、由岐を見つめた。

「実は、好きな人がいるの」

「え! ホントに!?」

 クリスティーンが華やいだ声を上げた。

「うん」

 リサは重々しく頷いた。

「だからね、二人にも協力して欲しいの」

「もちろん!」クリスが高い声で応じる。「ユキも良いよね!」

「う、うん」

 由岐は空になったスープ皿を見つめ、小さく頷いた。

「で、誰なの? 学校の人だよね。同じ国の人?」

「ううん」リサはクリスティーンに向かって首を横に振った。「こっちで会った人」

 それからリサは、ほう、と息を吐いた。なんだか、やりきったような雰囲気が出ていた。

「あのね」

 由岐の顔を覗き込むように、クリスティーンは言った。

「私も、好きな人がいるの」

 普段の彼女からは、想像もつかないほど、真剣な表情だった。彼女はまっすぐに由岐の方を見上げている。

「……ふ、ふうん」

 一瞬言い淀んで、由岐は一度唇を噛んだ。

「そうなんだ。クラスの男子?」

 由岐は、笑顔で問い返した。クリスティーンは視線を由岐の顔に固定したまま、首を横に振った。

「私は、本当に愛してるの」

 答えになっていなかった。しかし、由岐はそれを指摘できなかった。




     *




「えっと、こっちかな」

 由岐は放課後、学校の裏庭に来ていた。もちろん、満久も一緒だ。とはいえ、交際を始めるまえから二人でどこかにいくことは多かったので、生活への変化は小さい。物理的にも、心情的にも、だ。

 あまり裏庭の方に来たことはなかったが、雰囲気はなかなか悪くなかった。草花も手入れされているようだし、どこか秘密の庭園じみている。しかも、他に誰もいないのがまた良い。ベンチでもあれば、のんびり過ごすのには良さそうだった。

 木漏れ日の中を二人で進んでいく。日差しは相変わらず厳しいが、木々のおかげか、どこか心地よかった。

「これ、かな?」

 一本の木の前で、由岐は足を止めた。頭上に茂った葉の中で、淡いピンクの花びらがいくつも揺れていた。

「うーん?」

 由岐はしげしげと頭上の花弁を観察した。桜と同じ離弁花だ。やや雄しべが大ぶりで目立つが、花弁の色や形はとてもよく似ている。しかし趣が大きく異なるのは、やはり、葉が同じ時期に繁っているからだろう。ピンクと緑が六対四くらいの割合だろうか。完璧に、葉桜状態だった。

「似ている、ような」

 由岐は満久に目で問いかけた。しかし彼も首を傾げただけだった。視線から逃れるように樹上に目を向けている。

 二人が見上げているのはピンク・メンパットの木だ。シンガポールでは時々見かける植物で、毎年四月頃に花を咲かせる。その姿が桜に似ているという話を聞いて、どんなものかと確かめに来たのだ。

 由岐はスマホを取り出して構えた。全体や花の接写など、構図を変えて何枚も写真を撮る。スピーチで使うとは思わないが、何か参考になるかもしれないと思ったのだ。

「んん、と」

 満久が背伸びして、花を一つ摘みとった。その動作に、何の良心の呵責も見られなかったので、由岐は少し驚いた。

「どう?」

 満久が差し出した花びらを、由岐は両手で受け取った。上下左右から眺めてみる。やはり、花弁の形や色はそっくりだ。

「花びらの感じとかは凄くよく似ていると思うんだけど……、何か違うんだよねえ」

「……そう」

 満久が目を逸らしたまま頷いた。彼にはまったく期待が持てなかった。

 葉や幹などに違いがあるのかと考え、由岐は樹に視線を戻した。全体をしげしげと眺めてみる。しかし、そもそも桜の樹についてそこまで明確なイメージが無く、比較が難しかった。

「……あ!」

 上から順に下ろした視線が、根に達したところで由岐は違いに気がついた。

「分かった、分かった!」

「何?」

 満久がほっとしたように問いかけてくる。由岐は目を細めて答えた。

「メンパットは、散らないんだ」

「散らない?」

「うん。ほら」

 由岐は地面を示した。満久が視線を向ける。土の上には、花弁がくっついたまま、花が落ちていた。

「桜だったらさ、花びらだけが散るでしょ。ほら、桜吹雪、みたいに。でも、メンパットは、花全体がぽとりと落ちるんだよ」

 形状や色ではなく、運動性とは盲点だった。見た目が日本の物と同じでも、動作が違う。なんだか、隣に立つ男子みたいだった。バナナと称するより、断然可愛い。

「……ああ、なるほど」

 満久はじっくりと頷いた。ちゃんと解って貰えたようだったので、由岐はにっこりと笑った。

「それにしても……」

「うん?」

 満久は、とびきり悪戯っぽい顔で言った。

「さっきの由岐、アルキメデスみたいだった」

「アルキメデス?」

「分かった、分かった、って」

「えっと……」由岐はどこかで聞いた記憶を引っ張り出した。「それって、お風呂でアルキメデスの原理を発見したときの話?」

「うん」

 満久は笑いながら頷いた。どうして彼がそんなに笑っているのか解らず、由岐は首を傾げた。

「あのね」

 由岐の表情に気がついたのだろう、満久は教えてくれた。

「アルキメデスは発見に興奮して、街中を全裸で走り回ったらしいよ」

「なっ……!」

 由岐は絶句した。それから大きく嘆息する。

「もう、どうしてそういうこと言うかなあ……」

「浅尾先生が教えてくれたんだけど」

「……へえ」

 由岐は少し納得した。彼女からは珍妙な理系小話をいくつか教えて貰った。どれも興味深いものばかりだった。話してくれるタイミングはいつも夏期講習中などで、昼下がりの眠気が猛威を振るっている時間帯ばかりだ。そういうテクニックなのだろう。そう判っていても、まんまと踊らされているわけだが。

「もう」

 由岐は満久を睨み付けた。彼は笑顔のまま視線を逸らして誤魔化した。




     *




「浅尾先生!」

 由岐は講師室を覗き込んでから、声をかけた。

「ん?」浅尾が書類に落としていた視線を上げる。「ああ、蓮見」

 彼女は億劫そうに椅子から立ち上がった。白衣の裾が重そうに揺れる。

「今日は授業じゃないだろう?」

「はい。そうなんですけど……」

 由岐は溜息混じりに言った。

「何か質問?」

「……はい」

 首を横に振りながら由岐は言った。

「……それはイエスなのか? ノーなのか?」

「ううん、と」由岐は首を傾げた。「よく判りません」

「なんだそれは……」

 浅尾が手で椅子を指し示すのに従って、由岐は廊下の椅子に腰掛けた。

「何かあったか?」

「いえ、そんなに大したことは」

 由岐はだらんと椅子に腰掛けながら言った。

「先生って、何が嫌いですか?」

「嫌い?」浅尾は首を傾げた。「そうだな。πの定義は大嫌いだ。あと、統計学とかも好きじゃないな。なんであんなのが数学に入ってるんだろうな」

 ぼやくように浅尾は言う。それを聞いて由岐は思わず笑みを零した。しかしすぐに無表情に戻ってしまう。

「ふむ」

 浅尾は由岐の隣に腰掛けた。それを感じながら、由岐は机の天板に向かって言った。

「その、自分が嫌いになることってありません? どうして、こんなことも出来ないんだって、こんなになっちゃうなんて、って嫌になっちゃうこと」

「別にないな」

 浅尾は素っ気なく答えた。それがあまりに平常通りの口調だったので、由岐は思わず顔を上げた。

「大体、そんなのは主観だろう。実際の自分はそんなに変動しない。移動しているのは評価基準の方だ」

 面倒くさそうに浅尾は言った。

「いや、でも……。ありません? こう、何かの拍子に、絶対に駄目だって判ってるのに、してしまうこと」

「何が言いたいのかよく解らないんだけど」

「ううん……」

 由岐は少し考えた。

「こう、例えばですけど。お財布を拾ったときに、警察に届けなくちゃいけないって解ってるのに、ついついネコババしちゃう、みたいな」

「ああ……」

 浅尾は八分の五くらい頷いた。

「つまり、ダブル・スタンダードな自分を自覚しているわけだ」

「そうです」

 由岐は机に肘を突いた。

「それもダブル・スタンダードにすれば良いじゃない」

「え?」

 浅尾は鼻から息を吐いた。

「自分に対する評価基準と、他人に対する評価基準を変えればいい。行動指針だけじゃなくてね」

 浅尾の言葉の意味を、由岐は二秒ほど考えた。

「……ああ。なるほど」

 由岐は背筋を伸ばした。

「でもそれって、どの面下げてっていう話になりませんか?」

「なるね」

「駄目じゃないですかぁ」

 由岐はぶーたれた。浅尾は少し表情を崩した。

「まあ、それが駄目だと解るくらいには、蓮見はちゃんとしてるってことだろ」

「でも、駄目なことが解ったって、駄目じゃなくなるわけじゃないわけでして」

「そこまで解ってるなら、駄目じゃない方向に持っていくしかないだろう」

 駄目、という言葉が飛び交っていて、由岐は少し面白くなった。

「それが出来ていないから、悩んでるんじゃないですかぁ」

 由岐はそう言って、机の上にだらっと身体を垂らした。

「ふむ」

 浅尾は鼻を鳴らし、肩を竦めた。

「そんな愚痴だけ言われていてもね。私にはどうすることも出来ない」

「うーん」

 由岐は先日の、クリスティーンたちとの話を思い返した。日本人の恋愛観について訊かれ、それに答えた。現象としてはただそれだけのことだ。何か問題があるわけではない。一言ですら、嘘を吐いてはいない。それでも、やはりフェアではなかったように思う。

 なぜ、自分と満久がすでに交際していると言えなかったのだろう。たった一言、告げるだけでよかったのだ。もちろん、根掘り葉掘り聞かれたり、からかわれたりもするだろう。けれど、由岐が本当に嫌がるようなことまで、二人がするとは思えない。多少恥ずかしいくらいで、実害はないに等しい。

 やはり、単に後ろめたいのだ。クリスティーンが誰を好きなのか、由岐は気がついている。その彼女に、自分たちがつきあっていることを言うのが気まずいのだ。

 どうにも、自分のことを、人ごとのように分析する癖があるな、と由岐は心の中で嘆息した。

「浅尾先生って、恋人いますか?」

「……また、随分唐突だな」

 浅尾は苦笑した。

「訊かれて答えると思うか?」

「思いません」

 浅尾や他の講師が、そういったことを生徒から質問されているシーンに、由岐は何度も出くわしている。しかし一度として、まともな返事をしているのを見たことがない。

「その……、なんで、恋人がいることを人に伝えるのって、恥ずかしいんでしょうね」

「ほう」

 浅尾はにやりと笑った。

「その発言は、現在恋人がいると認めているに等しいな」

「いえ」由岐は涼しげな顔を作った。「友達の友達の話ですけど?」

「全然恥ずかしがってないじゃないか」

 浅尾はつまらなさそうに言った。由岐は精神的に胸をなで下ろした。

「うーん、その、秘密にしないといけない恋、みたいなのは解るんですよ。ロミオとジュリエットみたいな感じで、背徳感で、余計に盛り上がったりして。でも、普通に健全におつきあいしていても、なかなか明かさないじゃないですか、一般的に」

「まあ、そうかな」

 浅尾は腕を組んだ。

「無防備さじゃないかな」

「え?」

「その恋人の前では、無防備な姿を晒しているわけだろう? それをほのめかすことになるから、恥ずかしいんじゃないか」

「……ふむ」

 由岐も腕を組んだ。解らないでも無い気がする。たしかに自分も、満久の前ではかなり無防備だ。そのことを、クリスたちに知られるのは、たしかに少し気恥ずかしい。

 しかし、考えようによっては、これもダブル・スタンダードである。恋人には見せられても、友人には見せられない姿というものがある。

 しかし、誰でも等しく受け入れるというのも考えにくい。恋人となら唇にキスだって出来るが、友人とはしないだろう。

 そもそも、相手によって対応を変えるということに、問題があるのか疑わしい。例えば、目上の人にだけ敬語を使うというのは、ダブル・スタンダードではないのか。

「ううん……」

 由岐は首を捻った。どうにも基準となる点が判然としない。

「また、変な悩み方をしているな?」

 浅尾が半笑いで言う。揶揄されたように感じて、由岐は頬を膨らませた。

「先生は悩むことは無いんですか?」

「あるよ」

「……へえ」

 由岐は二秒ほど遅れて返事をした。

「良いことだよ」

「悩むことが?」

 由岐が首を傾げると、浅尾はこくりと頷いた。

「人は、本能的になのかどうか知らないけど、選択肢を狭めようとする。最終的に行動しないといけないからね。結論を出したいんだ。でも、そこに至るまでのプロセスは非常に面倒だし、苦痛を伴う。だから、無意識のうちに、先入観なんかで選択肢を排除することで、決断に至るまでの工数を減らそうとする。けれど、その行為は往々にして、大事な物を見落とす原因となる」

 由岐は、語る浅尾の鼻の辺りを見ていた。

「悩むと言うことは、それだけ多くの選択肢を内包しているということだからね。安易な道に逃げずに、正面から向き合っている証拠とも言える」

「ああ……、なるほど」

「まあ、大変だけどね」

 浅尾はそう言って、立ち上がった。

「まあ、神内と仲良くな」

「……誰も、そんなことで悩んでいるって言ってないんですけど」

 歩き出した浅尾の背中に向けて由岐は言った

「外れているか?」

 首だけ振り向いて浅尾は訊いた。由岐はその顔に笑い返した。

「ええ。ただの、友達の友達の話です」




     *




「ね、ミッチーは?」

 教室に戻ってきた由岐は何気ない風を装ってケイに訊いた。放課後、お手洗いに行っていたら、満久の姿が見えなくなっていたのだ。

「ミッチー?」

 ケイが首を傾げる。その隣でマリナがにやにや笑いながら教えてくれた。

「さっき、クリスたちが連れて行ったよ」

「え?」

「なんか、真剣な顔してたけど」

 由岐は嫌な予感がした。

「ど、どこに行ったの?」

「そこまでは知らないけど、外に行ったよ。でも、荷物は持って行ってないから、戻ってくると思うけど」

「ありがと!」

 由岐はそう叫んで、教室を飛び出した。玄関から外に出ると、むわっとした熱気が襲ってきた。一歩外に出て、周辺を見渡す。

 校舎の端。

 裏庭へと続く小道の前に、クリスティーンが立っているのが見えた。

「ユキ……」

 由岐が早足で近づくと、クリスは緊張した面持ちで呟いた。

「ミッチーは?」

「この奥。ピンク・メンパットの木のところ」

「ありがと!」

「待って!」

 脇を通り抜けようとした由岐を、クリスティーンは両手を大きく広げて、遮った。

「待って……」

「クリス?」

 クリスティーンが真っ直ぐ由岐の方を見つめた。その視線にただならぬ物を感じて、由岐は足を止めた。

「ねえ、ユキはさ。気づいてるよね?」

「え?」

「私の、気持ちに」

 クリスティーンは両手を広げたまま、そう確認した。

「私が、誰が好きかってこと。まさか、そこまで鈍くないよね?」

 必死な目でクリスティーンはそう続けた。由岐は観念して、彼女と正面から向き合った。

「うん。……気づいてた」

「でも、由岐は、ミッチーのことが好きなんだよね?」

「うん」

 由岐ははっきりと頷いた。

「今まで言えなくてごめん。もう、つきあってる。先月から」

「うん」

 そう言ってクリスティーンは小さく笑った。

「私も知ってた。隠してるつもりだったんだろうけど、バレバレ」

「そっか」由岐は嘆息した。「ごめんね、でも……」

「良いの」クリスティーンは首を横に振った。「元々、無理だってことは薄々判ってたの」

 何と答えて良いのか判らず、由岐は俯いた。クリスティーンは気丈に言葉を続けた。

「ありがとう。今まで、拒絶しないでいてくれて。好きでいさせてくれて」

「ううん。そんな……」

「だって、普通だったら気持ち悪いでしょ」

 クリスティーンは自嘲するように笑った。

「私がユキのことを好きだなんて。女同士なのに……」

 黒髪のシンガポール人の少女は、そう言って一粒、涙をこぼした。

「もう行って。さよなら、ユキ……」




     *




「ミッチー!」

 校舎の角を曲がった瞬間、怒ったような声が聞こえてきた。

 ピンク・メンパットの木の下、真っ直ぐに立っているのは満久だった。

「リサ?」

 そして、向かい合うように立っている金髪の少女は、イギリスからの留学生、リサ-Mellisa-だった。

「ミッチー。私、貴方に謝らないといけないことがある」

 リサは上目遣いでそう言った。青い瞳が不安そうに揺れる。

「多分気がついているとは思うけど……」リサは目を伏せて言った。「この間、私、貴方が寝ている間にキスしたの」

「……うん」

 満久は時間をかけて頷いた。リサは少しウェーブがかかった金髪を揺らして、満久の方を見上げた。

「ごめんなさい、ミッチー。でも、私、貴方が好き。この気持ちが抑えきれなかった」

 リサは真っ直ぐにそう言った。

「あ……」

 その言葉の意味を理解して、由岐は思わず立ちすくんだ。満久がこちらを向く。リサも由岐を一瞥して、すぐに満久の方に向き直った。

「私、ユキから聞いた。日本人は、恋人になる前に告白をしないといけないって。だからこうして伝えてる。ミッチー、私は貴方が好き。私の彼氏になって欲しい」

 リサは、ユークリッド平面のように真っ直ぐに言い切った。

「リサ……」

 満久は一瞬、言葉に詰まった。その瞳が小さく揺れたのが、由岐のところからでも見えた。

「リサ、ありがとう」

 由岐は息を呑んだ。自分なんかより、リサの方が可愛いことは判っている。ブロンドの髪も青い眼も綺麗だし、顔立ちもスタイルもほぼ完璧に整っている。性格も明るく、仕草や表情の一つ一つがとてもチャーミングで、同性の自分でも時折見惚れてしまうほどだ。彼女に想われて嬉しくない男がいるはずがない。それに、由岐と違って綺麗なブリティッシュ・イングリッシュも話せるのだ。

「でも、ごめん」

 満久はそう、真剣な顔で続けた。

「気持ちはとても嬉しい。でも、俺は……」

「言わないで!」

 満久の言葉の途中で、リサは高い声を出した。

「お願い。その先は言わないで。誰の名前も出さないで……」

 リサは懇願するようにそう言った。

「ただ、イエスかノーだけで答えて。ミッチー、私の彼氏になって」

 由岐は声をかけようとしたが、何と言って良いのか判らなかった。リサはじっと満久のことを見つめている。その姿がとても美しく見えた。まるで、日本の桜のように。

「ごめん。リサとは、つきあえない」

 満久が一単語ずつ、ゆっくり言った。

「判った」

 リサは満久のことを睨むように見上げながら言った。

「ありがとう」

 そしてリサは踵を返した。由岐の脇を抜けて、玄関の方に戻っていく。

「リサ……」

 通り過ぎる瞬間、由岐はリサに声をかけた。

「ごめんね、ユキ」

 リサは一度も足を止めなかったが、すれ違う時にそう小声で言った。由岐は思わず振り返ったが、リサはすぐに角を曲がってしまい、姿が見えなくなった。彼女は、一度も由岐と目を合わせなかった。

 由岐は一つ息を吐いてから、満久の方を振り返った。彼は木の下で、変わらず立ち尽くしていた。

「ミッチー」

「うん」

 由岐は満久の方に近づいた。二歩離れた位置で足を止める。

「良かったの?」

「うん」

 満久は神妙な顔で二回頷いた。

「当たり前だろ」

「……そっか」

 由岐は満久の顔を覗き込んだ。つい、顔がにやけてしまう。

「なんだよ」

「ううん」

 由岐はにやけた顔のまま、満久の腕に抱きついた。

「大好き」


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