1. iを解きなさい -I ought to Kiss, not Sigh-

 蓮見由岐は教室の扉を開けた。首を伸ばして中を覗き込むと、お目当ての人物が椅子にもたれていた。放課後の教室に、他の生徒の姿は無い。窓から差し込む夕日で、教室はオレンジ色に染まっていた。校庭から、時折サッカー部の声とボールの音が響いてくる。

「ミッチー?」

 歩み寄りながら、由岐は問いかけた。しかし神内満久から返ってきたのは、規則正しい寝息だけだった。椅子の背もたれに深く寄りかかり、穏やかに眠っている。机の上には数学のノートが開きっぱなしだ。

 満久は大柄な身体を脱力させて椅子に座っていた。少しずんぐりした体型は、クマのぬいぐるみのようでどこか可愛らしい。外見の通り、ぼんやりしているところもあるが、穏やかな性格で声を荒げたりすることは稀だ。

 由岐は机に浅く腰を預け、その寝顔を覗き込んだ。鼻提灯が出ていないのが不思議なくらい暢気で無邪気な寝顔だったので、思わず由岐は微笑んだ。

「ミッチー!」

「……んー?」

 由岐が肩を掴んで揺り動かすと、くぐもった声を満久は上げた。

「ほら、起きて!」

 満久は緩慢に目を開いた。しきりに瞬きをしている。その暢気な顔に、由岐はなるべく可愛い笑顔を作った。

「おはよう」

「うん。おはよう」

 それから、満久は大きく伸びをした。インテグラルの記号のようだった。凝っているのか、どこかの関節が一度、こきりと鳴った。

「ごめんね、お待たせ」

「いや、別に」

 由岐が小さく謝ると、まだぼうっとした顔で、満久は二回、首を振った。

「ふっふっふ」

「何だよ」

「辛ラーメン食べたでしょ?」

 由岐がにんまりと笑いながら言うと、満久はきょとんとして首を二十度ほど傾げた。

「違うけど。どうして?」

「いやいや。だって、口に赤いのついてるよ?」

「……え?」

 由岐は唇の右端を指し示した。脂っこい物でも食べたのか、僅かに光沢があるように見える。満久は右手の親指でそこを擦った。赤い物質は唇から離れ、親指の腹に移った。

「ほらね」

「いや、食べてないよ」指を見つめながら、満久は訝しげに首を捻った。「だって昼はサブウェイだったし。その後は何も食べてない」

「サブウェイ? うーん、トマト? じゃないよね。赤い色のソースなんてあったっけ?」

「……無いと思うけど……。今日はBBQソースだったし」

 満久は指の匂いを嗅いだ。しかし眉をひそめただけだった。

「何か、ちょっと変な匂いする」

 満久が差しだした手を、緊張しながら由岐は握った。力は込められない。生卵を持つように、触れているだけだ。

「ん?」

 節の太い満久の指を間近に見て、由岐は少しどきりとした。動揺を押し隠しながら、匂いを嗅ぐ。満久の言うとおり、少し違和感を感じさせる香りだった。

「食べ物じゃないっぽくない?」

「う、うん」

 由岐はもう一度、下品にならないように気をつけながら、鼻から息を吸い込んだ。かなり緊張する。自分の臭いを嗅がれるよりもマシだけど。

 満久は食べ物でない、と言ったが、由岐には柑橘系の香りのように感じられた。しかし、どこか人工的というか、合成されたような印象がある。嗅いだことがあるような気がしたが思い出せない。慎重に、記憶の中を潜行していく。

「あ!」

 思わず、由岐は大きな声を上げた。

「何?」

「口紅だ……。化粧品の匂いだよ」

「……え?」

 満久は目を丸くした。

「ちょっと! どういうこと!」

 由岐は腰に手を当てて仁王立ちになった。寄りかかっていた机が、反動で揺れ、大きな音を立てる。驚いた満久が上体を引いた。

「ミッチー、彼女いないって言ってたじゃん!」

「いや、ちょっと待て」

 満久は手を広げて顔の前で振った。

「いないよ。彼女なんて」

「じゃあ、なんで唇に口紅ついてるのよ! だって……、誰かとキ、キスでもしないとつかないでしょ! こんなの!」

「してねーよ!」

 怒鳴り返すように、満久は言った。

「じゃあ何!? 彼女でもない人とキスしたわけ!?」

「だから、してないって言ってるだろ!」

 満久も椅子から立ち上がった。二人で睨み合う。満久の方が、頭ひとつ高いので、睨め上げるような形になった。

「じゃあ、どう説明するのよ、その口紅」

「俺にだって判らねえよ」

 困惑した様子で満久は言った。嘘を吐いているようには見えなかった。

「……本当に?」

「本当に」

「絶対?」

「絶対」

 彼はまっすぐに由岐の方を見つめている。その視線と正対していることに耐えきれず、由岐は目を十五度ほど逸らせた。

「じゃあ、なんで唇にそんなの……」

 教室の壁を眺めながら呟く。言いながら、由岐は可能性がひとつ思い当たった。

「まさかミッチー、女装が趣味だったとか……?」

「ちげーよ!」

 しかし満久は大きく首を振った。普段、あまり感情を露わにしない彼にしては、珍しい仕草だった。

 満久は、ポケットからティッシュを取りだして、指に残った口紅を拭い取った。そのまま丸めて教室のゴミ箱に投げ入れる。狙いは違わず、ビニール袋のかさついた音を残して、ティッシュはゴミ箱に吸い込まれた。

「自分でつけたんじゃないんだよね?」

「当たり前だろ」

「ふむ……」

 由岐は机に座り直した。満久も困った顔をしながら椅子に腰かける。

 教室の壁を見つめながら、由岐は考えを巡らせた。今までに何度も探りを入れたが、満久に彼女はいない。最近、服装や行動パターンが変わっていることもないので、出来たばかりという可能性も低いように思われた。

「じゃあ、誰かが寝込みを襲ったことになるね」

 平静さを装いながら由岐が言うと、満久は眉をひそめた。その不安げな顔に、由岐は問いかけた。

「心当たりは?」

「ないよ」満久は首を横に振った。「悪戯だろ、どうせ」

「ううん……」

 由岐は腕を組んだ。

「冗談でするかなあ、そんなこと」

「え?」

「だって口紅だよ? 普段、自分の唇に塗っている物を、冗談なんかで人の、それも異性の口元につけようなんて思うかな? 私だったら、絶対そんなこと、しない」

 満久は、由岐の意見に、少し不満そうに頷いた。由岐は一度大きく息を吸って、満久に宣告した。

「つまり、ミッチーは寝ている間に誰かにキスされたことになるね」




     *




「あ、由岐、ミッチー!」

 校舎を出たところで、由岐たちは背後から声をかけられた。聞き慣れた声に振り向くと、クラスメイトのリサとクリスティーンが並んで歩いていた。

「二人は今帰るところ?」

「うん」

 由岐は少し警戒しながら頷いた。もしかしたら、満久にキスをしたのはこの二人のどちらかかも知れない。

「二人とも、この後は暇?」

 クリスティーンはとことこと走ってきて、由岐の腕に抱きついた。彼女は日頃から、スキンシップが多い。特に由岐は気に入られているのか、頻度が特に高いように観察される。由岐からすると接触が多すぎるように感じるが、どうしても嫌というほどではない。

「ご飯食べに行かない? 私たち、今、日本食ブームが来てるの!」

 腕に抱きついたまま、クリスティーンは由岐の顔を見上げて訊いた。

「ごめん」由岐は首を振った。「今日は、塾があるから」

「あ、そうなんだ……」残念そうにクリスティーンは言った。「じゃあ、仕方ないね」

「ごめんね、また今度誘って」

「うん」

 クリスティーンはにっこりと笑った。リサは少し、唇を尖らせていた。

「日本食って、どこ行くんだ?」

 満久が問いかける。すると、クリスティーンとリサは顔を見合わせて笑い合った。それから声を合わせて元気良く言う。

「吉野家!」

「ええ……」

 思わず、由岐は満久と顔を見合わせた。彼も眉を下げていた。

「たしかに日本食だけどさ、もっとこう、なんか……」

「駄目?」

 クリスティーンが無垢な表情で首を傾げる。由岐は自分の釈然としない想いを、なんとか説明をしようと試みた。

「駄目じゃない。でも、それを日本食として認識されてしまうのは、日本人としてのプライドに関わる。日本食の中でも特にジャンクな部類だから。別に牛丼や吉野家を否定するつもりはないし、私だって好き。だけど、日本食の代表として扱うのは違うと思う」

 クリスティーンは二度、瞬きをした。不思議そうな顔で首を傾げた。

「じゃあ、どこならこれぞ日本食!、ってお店なの?」

「そう言われると……」

 由岐が眉を寄せて満久の方を見ると、彼は小さく微笑んで言った。

「大戸屋が良いんじゃない? ちょっと値段は張るけど」

「ああ! たしかにあそこなら和食ってイメージだね!」

 満久はそれから二人に駅の近くのビルに入っている大戸屋の場所をレクチャした。幸い、すぐに判ったようだった。

「じゃあ、また明日!」

 リサとクリスティーンはそう言って、手を振りながら駅の方に歩いて行った。バスで帰る由岐たちは、金髪と黒髪の後ろ姿を見送った。

「イギリス人なのに、よくやるなあ」

 彼女は親の仕事の都合で、三年前にこの国にやってきたらしい。最初は気候や文化の違いにかなり戸惑ったらしいが、今ではすっかりこの国に溶け込んでいる。由岐よりも馴染んでいるかもしれない。

「ね。この間はラーメン食べに行ったよ、三人で」

「ふうん。まあ、ロンドンでも和食ブームって話だしな」

 由岐たちはバス停の方に歩き出した。強い日差しがじりじりと照りつけてくる。気温はまだ摂氏三十度を下回っていないように思えた。

「俺たちも帰りますか」

「今日、私、塾なんだけど」

 由岐がそう言うと、満久は曖昧に頷いた。

 二人は同じ塾に通っている。しかし今日は英語の授業の日なので、由岐しか授業はない。満久は英語が非常に得意なので受講していないのだ。逆に、数学や理科に関しては由岐の方が実力は上だ。

「塾の時間まで、ちょっと相談しよう?」

「相談? 何を?」

「……さっきのこと!」

 由岐の言葉に、満久はぴたりと足を止めた。

「相談するようなことか?」

「だって!」由岐は頬を膨らませた。「そのままにしておいちゃ駄目だよ! 絶対!」

「ううん……」

 満久は渋々頷いた。それを見て、由岐は頬の膨張率を増大させた。

 バス停まで歩くと、ちょうど目当ての路線が来たところだった。ICカードをリーダにかざしながら、車内に入る。冷房が効きすぎていて、半袖の制服ではかなり肌寒い。温度差が大きいために、窓ガラスの外側は結露して水滴がびっしりとついている。

 夕方のバスの中は酷く混み合っていた。二人は車の中央付近に、寄り添う様にして立った。車内はおしゃべりする人や携帯電話を使っている人が多く、かなりうるさかった。とても、先ほどの話を続ける雰囲気ではない。

 由岐は自分の体臭が気になった。今日は運動などはしていないものの、この気候ではどうしても汗をかかないわけにはいかない。制汗スプレーもしていない。混み合った車内でも、なるべく満久から距離を取ろうと試みたが、限度があった。

 すぐにターミナル駅の近くに着く。いつも二人で行く、フードコートへ向かうことにした。地下鉄の駅に直結しているショッピングセンタに入り、エスカレータで六階に向かう。夕食にはまだ早く、あまり客は多くなかった。話をするのには十分な環境だ。

「それで?」

 由岐はマンゴージュースを一口啜ってから、話を切り出した。

「そう言われてもな……」

 満久はぼやくように言って頭を掻いた。彼の前に置かれているのはサトウキビのジュースだった。好みなのか、彼はよくそれを飲んでいる。

「なんで、由岐がそんなに気にするの?」

「なんでって……」

 由岐はポロシャツの前で腕を組んだ。たしかに、自分が被害を受けたわけではない。関係無い、と言われてしまったら返す言葉がない立場だ。筋違いだと自覚しながらも、由岐はとりあえず押すことにした。

「だって、気にならない?」

「ならない訳じゃないけどさ」

「どうしてそんな淡泊かなあ」由岐はテーブルの端に手をつき、身を乗り出して言った。「だって、大事なことじゃない。今まで、彼女いたことないんでしょ?」

 満久は露骨に顔をしかめた。

「ないけどさ」

「じゃあ、ファーストキスじゃん。それを誰かに奪われたんだよ! もう、とんでもないことだよ!」

 由岐の勢い込んだ言葉に、満久は曖昧に頷いた。煮え切らない態度に、由岐は重ねて言った。自然と、声が低くなる。

「大体さ、気持ち悪くない?」

「え?」

「そんな、寝ている間にキスされるなんてさ」

「……そうかな?」

 満久は眼を瞬かせて由岐の方を見た。本当に意外そうだったことに、由岐は少し驚いた。

「え? 気持ち悪くないの? 相手のこと、全然分かんないし。そんなこと普通しないでしょ。ストーカみたいだし……。そんな人から好きだって言われてもさ」

「そうかな……」満久は首を捻った。「いや、これは客観的な立場だったら、って話なんだけどさ」

 満久は言い訳するように言った。

「うん」

 訝しみながら、由岐は頷いた。

「自分のすごく好きな人が目の前で無防備な姿を晒していたら、そういうことをしたくなる気持ちは解らなくもない気がして」

「えー!」

 由岐は思わず大きな声を上げた。凝然と満久のことを見つめてしまう。彼はばつの悪そうな顔をしていた。

「あり得ないよ! キモイキモイキモイ!」

「そうかなあ」

「キモイって! えー! まさか、ミッチーがそんなこと言うなんて思わなかった!」

 自分がそんなことをされたら、と思うと、それだけでぞっとしない。しかも相手が誰だか判らないのだ。次に何されるか、と思うと余計に恐ろしい。

「なんていうかさ、キスってもっと大事なものじゃない?」

 満久の目をじっと見て、由岐は言った。

「そんな一方的にしたりしちゃいけないと思うんだよ」

「そりゃそうだろうけどさ」

 満久は困ったように言った。どうにも態度がはっきりしないように由岐は感じた。正直に言って、もどかしい。

「いや、今回はキスだけだったかもしれないけどさ。もっと過激になるかもしれないじゃん?」

「過激にって言われてもな」満久は言いにくそうに返した。「その、男子と女子で、そのへんの危機感には差があるんじゃないかな」

 満久に言われて、由岐は少し考えた。たしかに、満久が女子に手籠めにされる光景はリアリティに欠けていた。まったく例がないというわけでは無いのだろうが。満久が大柄なだけに、押さえ込まれる姿が想像出来ない。少なくとも、自分が満久の寝込みを襲ったとしても、力業では無理だろう。寝ている間に手足を縛り上げでもすれば可能かも知れないが……。

「……それはたしかに」

 うん、と満久は小さく頷いた。少し、ほっとしているようだった。

「そりゃ、私がされたわけじゃないけどさあ」

 由岐はそう言って頬を膨らませた。

 キスされた本人である満久があまり気にしていないのに、自分が彼の態度に文句を言うのもおかしな話だ。それは解っているのだが、満久の態度が気に入らない。不合理なことを言っている自覚はあった。けれど、黙っていることが出来なかった。

「うん、なんか、ごめん」

 満久はそう小さな声で言った。

「……なんで、ミッチーが謝るのよ」

「まあ、そうなんだけどさ」

 満久はそう言って、ぽりぽりと頬を掻いた。




     *




「浅尾先生!」

 由岐は塾の講師室を覗き込んで声をかけた。パソコンの画面を見つめてキーボードを叩いていた浅尾透子は、黒縁の眼鏡の中から視線だけを上げた。

「何?」

「ちょっと質問があるんですけど、今、大丈夫ですか?」

 由岐がそう言うと、浅尾は椅子から立ち上がり、白衣の裾を揺らしながら、机を回り込んで由岐の方にやってきた。

「蓮見にしては珍しいね。数学? 物理?」

 浅尾は理系の講師で、由岐は数学を習っていた。理科の質問を訊くこともある。長身の彼女は常に白衣を着ていて、他の服装を見たことはない。長い黒髪は後ろでひとつに纏めているだけだ。あまり化粧っ気はなく、フェミニンな印象に乏しい。素材は美人であると由岐は密かに評価しているが、悪い意味で中性的なのだ。

「いえ……。生物、かな? バイオロジィ」

「バイオ?」浅尾は顔を顰めた。「それはお役に立てるか疑問だな。精々、一緒に考えてあげられるくらい」

「いえ、冗談です」

 二人は廊下の自習スペースに並んで腰かけた。由岐たち中高生の授業にはまだ早く、廊下には誰もいなかった。教室の中では小学生のクラスが授業中らしく、時折元気な声が響いてくる。

「それで?」

「その、ですね」

 教科書もノートも出さない由岐に、浅尾は訝しそうに首を傾げた。その顔に、由岐は唐突に切り込んだ。

「キスって何ですか?」

「……ええと」

 浅尾は額に手を当てた。

「魚類のことを言ってるわけじゃないよな?」

「はい。その、いわゆる、口付けとか、接吻とかの話です」

「解ってるじゃないか」

 浅尾は鼻から息を吐いた。由岐はどう表現したものか、と首を捻った。

「行為というか、物理的な現象についてはもちろん理解しているんですけど。その、心理的な影響というか、込められている意味とか……」

「そう言われてもね。国や人種によって文化の差もあるし、個人差もあるから、一般化するのは難しいと思うけど」

 浅尾は穏やかにそう言った。その冷静な口調に、由岐は少し安心した。すぐに結論を出しにいかない姿勢は、非常に誠実だと感じられた。

「その、友達の友達の話なんですけど……」

「神内と何かあったか?」

 間髪入れずに浅尾は言った。目が小さく笑っている。由岐は一瞬言葉に詰まった。

「……友達の友達の話なんですけど!」

 それでも、由岐は愚直に同じ言葉で押し通した。関係は数学的に真であり、嘘は吐いていない。浅尾は口元を緩めて、手で続きを促した。

「何て言うか、キスという行為が持つ意味に悩んでいて……」

「そう言われてもな」

 浅尾はふむ、と考え込んだ。

「少なくとも現象としては人体同士の接触に過ぎない」

「でも、例えば握手や軽い抱擁とは意味合いが違いますよね」

「どうかな」浅尾は小さく首を傾げた。「頬へのキスを挨拶にする文化もある。アジアでは珍しいけどね」

「あ、すいません。唇に限った話です」

 由岐は慌てて補足した。すると浅尾は首の角度を鉛直方向に戻した。

「たしかに唇へのキスとなるとあまり聞いたことがないな。その場合は、単なる親愛の表現以上のものが込められていると思って良いんじゃないか。はっきり言ってしまえば、深い愛情表現だろうね」

「ですよね……」

 由岐は溜息混じりに頷いた。浅尾は目を細めた。

「で? そんな解りきったことを聞きたかったわけ?」

「あー、いえ」由岐は誤魔化すように笑った。「すいません。ちょっとまだ私、混乱している最中なので」

 ううむ、と由岐は考え込んだ。自分が何を納得出来ていないのか、まだはっきりしていない。何しろ、自分がキスされたわけではないのだ。さすがに満久の唇が自分の物だとまで主張する勇気も無い。仮に由岐の所有物だったとしても、行為としては触れただけなのだ。まあ、痴漢も犯罪なので、接触だけでも罪には問えるだろうが……。

「その、ファーストキスって、なんで大事にされてるんですかね?」

 ふと思いついて、由岐は訊いた。

「ん? また随分話が飛んだな」

 自分の髪をいじっていた浅尾は首を傾げた。

「言うほど、大事にされているか?」

「だって、その、レモンの味、とかって言いません?」

「ああ……。言うかもね」

 浅尾は曖昧に頷いた。あんまり興味が無さそうだった。この温度差は、経験の有無がもたらしているものだろうか、と由岐は考えた。とは言え、浅尾が誰かとキスしている姿など、とても想像出来ない。

「例えば、セカンドキスはパパイヤの味、とか、サードキスはドリアンの味、とかまで決まっているなら、最初だけ特別だとは思わないんですけど。味がついているのがファーストキスだけである、ということが特別に扱われている証ではないかと」

「そりゃ、初めての経験だからだろう」

「でもですよ。その、キスをすることで何かが失われるわけじゃないですよね」

 由岐は勢い込んで言った。少し恥ずかしい。浅尾は二回、瞬きをした。

「ああ、なるほど。つまり、その先に進んだときのケースと、対比しているわけだ」

「はい」由岐は少し俯いた。「少なくとも女性の場合、経験によって不可逆な変化が起こるじゃないですか。なので、大事にする理由は納得しやすい。でも、キスだったら身体的な変化がそこにはないから」

「初めてを大事にする理由に乏しい、か」

 由岐の言葉を引き継ぐように浅尾は言った。

 浅尾は机に肘をついた。由岐は白い壁を見つめた。日本各地の学校のポスターや、過去の生徒の進学実績が所狭しと貼ってある。

 由岐は今までにキスの経験は無い。いや、幼い頃に家族などからされていた可能性は無くもないが、少なくとも記憶には一度も無い。感触も、その時の気持ちだって解らないのだ。

「で?」

「……ええと」

 突然、浅尾に続きを促され、由岐は少し驚いた。浅尾は由岐が話すのを待ってくれていた。

「その、つまり、そういう物質的な要因ではなくて、経験としての面が重視されているのは解るんですよ。その点については不可逆ですし、その、はじめてのドキドキというか……。あるでしょう?」

「うん」

 浅尾はあっさりと頷いた。由岐は、緊張しながら話している自分が、少し馬鹿らしくなってきた。一気に肩の力が抜ける。

「ああ……。何となく解ってきました」

「いきなりそんな納得されてもね」

 浅尾は呆れたように口元を緩めた。

「何が解った?」

「私が、なぜこんなにもやもやしているのか、です」

 由岐は大きく息を吐いた。

「大きな前進だ」浅尾はにっこりと微笑んだ。「大抵の場合、物事の最大の問題は、何が問題なのか判らないことだ。それさえ判れば、後はただの作業だと言っても良い」

 普段の授業と同じ様に浅尾は言った。同じ主張を今までに何度か、由岐は聞いたことがあった。

「その、ファーストキス、が大事にされているのは、それまで経験していなかったことを知るから、という理由です。キスという行為が、愛情表現の中でも象徴的に扱われているのも、一役買っているかもしれません。でも……」

 由岐は目を瞑って言った。

「もし、眠っている間にファーストキスを奪われていた場合はどうなるんでしょう?」

「どうなる?」浅尾は首を左右に振った。「どうにもならないよ。ただ、眠っている間に、唇が触れあった。それだけのことだ」

「じゃあ、そのことを後から知ってしまったとしたら? 意識が無かったのだから、記憶に経験として刻まれているわけではない。この点ではファーストキスはしていない。でも、物理的な現象として、唇が触れあっている以上、ファーストキスは済ませてしまっているのです。後から知らされれば、キスした経験は無くても、キスした認識があることになる」

「ああ、なるほど」浅尾は興味深そうに頷いた。「確かにちょっと悩ましいな、それは」

「でしょう?」

 由岐は口元を緩めた。浅尾は一度、口に手を当てて目を閉じた。そのまま話し始めた。

「定義の問題ということになるね。ファーストキス、という言葉の定義がどの程度厳密なのか」

「定義?」

 思わぬ言葉が出てきたので、由岐は素直に問い返した。

「”ファーストキス”という一単語の言葉なのか、それとも”ファースト”な”キス”なのか」

 言っている意味が解らず、由岐は首を傾げた。浅尾は授業中に良くやるように、右手の人さし指を立てた。

「一つ目。一単語の場合。つまり、ファーストキスが、単純に一回目のキス、という扱いでなく、単独で重要な意味を持つ概念であると定義する。まあ、ファーストレディみたいなものだな。この場合は、蓮見が言うところの、はじめてのドキドキ、とやらが重視されている。なので、意識が無い間に為された唇の接触はカウントしないと考えられる。ドキドキを味わっていないからな」

 由岐は二秒ほど考えてから、じっくりと頷いた。それを待っていたかのように、浅尾は二本目の指を立てた。

「二単語の場合。つまり、人生で数多く経験するキスの、一回目に過ぎないと定義した場合。こちらは意識が無くとも含まれるように思われる」

「そうでしょうか。その……、唇の接触だけがキスの定義ではないでしょう?」

 由岐は思わず反論した。疑義を呈すだけの理屈は立っている。しかし結論ありきだったという自覚はあった。つまり、帰納的に論理を組み立てようとしている。

「うん。マウス・トゥ・マウスの人工呼吸なんかはキスに入れないと思うけどね」

 由岐は大きく頷いた。それを見て、浅尾はふっと鼻で笑った。

「でも、例えばカップルが寄り添って寝ているケースを考えよう。片方が先に目覚めて相手の寝顔を見ているときに、そっと唇を寄せたりもする。一般的なシチュエーションだと思うが、これはキスと呼ばないか?」

 由岐はシチュエーションを想像した。登場人物の顔は決して考えない。マンゴスチンのように甘酸っぱかった。今の自分の顔はパパイヤみたいになっているだろう。

「……呼びます」

 由岐は不承不承頷いた。

「うん。人工呼吸と、寝ている間のキスは、どちらも状況として同じだ。片側の意識が無い間に、唇が接触している。その差はどこにあるのか考えると、唇を寄せる側の認識だけだ。つまり、確かな愛情を持ち、それを表現する手段として行う限り、その行為はキスに他ならない。なので、寝ている間であっても、それはキスだ。そしてそれが一度目ならば、ファーストキスと呼ばれる」

「……そうなりますね」

 由岐は唇を尖らせて頷いた。

 浅尾の説明は十分に論理だっているように、由岐には感じられた。しかしどうにも納得がいかない。自分が、こんなに感情的な生き物であったと、由岐は初めて気が付いた。

「ええと、それでどちらが正しいんですか?」

「正しい?」

「ええ。その、一つ目と二つ目の定義。”ファーストキス”なのか、”ファースト”な”キス”なのか」

「定義に正しいも何も無いよ。決めておいた方が便利というだけだし、他人と統一させる必要もない。好きに決めるんだ」

 事も無げに浅尾は言った。

「ううん……」

 由岐は思わず唸った。

「でも、こう、どちらが一般的とか、理に適っているとか……」

「関係無い。定義とはそういうものだ。大体、理屈というのは人に説明するために付加されるためのものに過ぎない。最初に抽象的な結論があるんだ。理由とはそれを補足しているだけ」

 冷徹に浅尾は言った。

 由岐は腕を組んだ。考えなければ、結論は出ている。しかし、それを認めるのには抵抗があった。しかし抵抗している根拠はない。ただ、自分にとって都合が良い選択を恣意的にしている自覚があるので、後ろめたいだけだ。

「大体、なんでそんなにファーストキスに拘るんだ? 別に一回目でも二回目でも二百回目でも変わらないだろ」

「えええ……」

 思わず、由岐は品の無い声を出した。さすがに自分でもどうかと思ったので、すぐに背筋を伸ばす。

「違いますよぅ。全然……!」

「そうかなあ」

 浅尾はくすりと笑った。その横顔が妙に色っぽかったので、由岐は少しどきりとした。

「ま、悩みたまえ、若者」

 そう言って、浅尾は椅子から立ち上がった。講師室に戻っていく。その白衣を着こんだ背中に、由岐は声をかけた。

「その言い方、年寄りっぽいですよ!」




     *




 浅尾と話をした翌日。由岐は椅子に浅く腰かけて、机の上のMacに向かっていた。

 神内家のリビングだった。向かいの席には、同じようにキーボードを叩く満久の姿がある。満久の家に来ているが、由岐は別段緊張していなかった。彼の部屋は七階だが、由岐の家は同じ建物の八階にある。部屋の間取りもすべて同じだ。

 蓮見家がここに引っ越してきたのは四年前のことだが、住み始めの頃は環境に慣れておらず、家族ぐるみでよく神内家にお世話になった。それ以来、この部屋には二週と空けずに来ている。

「どう?」

「うん。順調」

 短く言葉を交わす。二人が取り組んでいるのは学校の宿題だった。歴史の授業の課題で、二人でプレゼンを行わなければならない。アウトラインについては既に相談を終え、由岐は投影するスライドを作り、満久は原稿を書いているところだ。

 二人が通っている高校のカリキュラムは課題が多く、こうして満久の家で一緒に取り組むことが多い。部活の後などには疲れてうたた寝してしまい、夜になって満久のお母さんに起こされたりもするほどに、この部屋には馴染んでいた。親同士も仲も良いため、問題が起きることもない。

「ちょっと休憩するか?」

「うん」

 由岐は頷いて大きく伸びをした。首と背中が凝り固まっている気がする。満久は立ち上がってキッチンに向かった。

「コーヒー?」

「うん。手伝おうよ?」

 由岐は大きい背中に答えると、軽い足取りで追いかけた。

「別に良いのに」

「いやいや。こう、なんていうか、女子として?」

 冗談めかして由岐が言うと、満久はくしゃりと笑った。由岐も大きく笑顔を返した。

 コーヒーメーカに豆をセットしてスイッチを入れる。すぐに良い香りが漂ってきた。ビーカに黒い悪魔的な液体が注がれるのを、なんとなく見つめる。

 二人してカップを手にテーブルに戻った。満久はいつもの茶色のマグカップ。由岐は、これまたいつものお客様用の白いカップだ。茶色い仔猫が描かれていて、お気に入りだった。恐らく、由岐専用となっていると言っても過言ではないだろう。

「でね」

 カップの取っ手を掴んだまま、無理矢理由岐は切り出した。

「ん?」

「犯人を探そうと思うんだ」

「犯人?」満久は一瞬、きょとんとした。「ああ、昨日の……」

「うん」

 力を込めて由岐は頷いた。

「その、なんで私が、って言われると返す言葉も無いけど。でも、絶対、そのまま放っておいていいことじゃないと思うから」

 由岐は真っ直ぐに満久の目を見て言った。

「ミッチーが、私には関係無い。関わるな、って言うなら引き下がるしかないんだけどさ。でも、一緒に探すのを許してくれないかな?」

 両手でカップを包み込み由岐はそうお願いした。思わず、上目遣いになってしまう。これで断られたらもう諦めるつもりだった。

 冷静になって考えてみれば、満久にキスをした相手が誰か探し出したところで、由岐が得るものはひとつもない。犯人に何らかの罰を与えられるわけでもない。権利としては、満久は訴えることが出来るかもしれないが、そんなことはしないだろう。そもそも、キスを無かったことに出来るわけでもないのだ。

 それでも、どうしても知りたかった。一種のリスク管理なのかもしれない。やはり、判らないということが一番恐ろしい。この感覚は普遍のものだろうか。自分にとっての脅威が何であるか。まずはそれを知らないことには対策の打ちようがない。

「うん」満久はゆっくりと頷いた。「じゃあ、一緒に探そう」

「良いの!?」

「うん」

 満久はもう一度頷いた。頬を掻きながら続ける。

「まあ、俺だって気にならないわけじゃないし。こちらからお願いしたいくらい。女子がいた方が、調べるのも楽そうだし……」

「ありがとう!」

 由岐はそう礼を言った。どうにも、顔がにやけてしまう。誤魔化すように、カップに口を付ける。苦みのある液体が咽を流れていく。甘い苦みだった。

 なんだか、無性に嬉しかった。調べることに許可を貰えたこともある。しかしそれ以上に、満久が頼りにしてくれたことが、心に響いた。

「それでね」

 カップをテーブルに戻しながら由岐は切り出した。ことり、と陶器のカップが、大理石の天板で軽い音を立てた。

「ただ闇雲に探しても、中々難しいと思うんだ。その……、ミッチーがキスされたって吹聴して回るわけにもいかないし」

 由岐は昨日から考え続けていたことを切り出した。

「うん」

 満久は少し考えてから頷いた。自分がキスされたことについては、相変わらずあまり気にしていないようだった。少し気分を害しながら、由岐は続けた。

「それにもし聞き回って、偶然犯人に当たっても、認めてくれないと思うのね。たぶん、恥ずかしいことをしたって自覚が本人にもあると思うし」

「だろうね」

 満久はそう言ってから、首を傾げた。

「でも、どうやって特定したらいいのか」

「うん」由岐は頷いた。「とりあえずのところは、状況から可能性が高い人を絞り込もうと思うんだ。候補を絞ってから、外堀を埋めていくしか無いと思う」

 顔色を窺うが、表情に変化はなかった。満久に異論は無いと判断して、由岐はひとつ息を吐いた。

「まず、ミッチーに訊きたいんだけど、いつからあそこで寝ていたの?」

「え? そうだな。授業が終わって……。由岐が先生のところ行ってからすぐかな」

 満久は天井を見つめながらそう言った。

 昨日は、先生の所に進路相談に行った由岐を、満久が待ってくれていたのだ。となると、犯行が為された可能性のある時間は、三十分ほどだ。

「多分なんだけどね。うちのクラスの誰かじゃないかと思うんだよ」

「え?」

 満久は意外そうに目を瞬かせた。

「どうして?」

「だって、場所が教室だったから」

 由岐は意識して、落ちついた口調で説明を始めた。

「ホームルームなんて、自分のクラス以外には、立ち入る用事なんてまずないでしょ? それにうちの教室は、三階の一番端っこだからさ。たまたま中を覗き込むなんてケースも考えにくい」

「ううん」満久は腕を組んだ。「自分のことだとコメントしづらいんだけどさ。たまたまじゃなくて、狙っていた可能性だってあるんじゃないか?」

「そうかな」

 由岐は首を横に振った。一秒間に一往復半の周期だった。

「だってさ、ミッチーが残っていたのも、寝ていたのも偶然でしょ? 毎日、それを期待して教室を覗くほど、暇な人がいるとは思えないんだけど」

「あくまで、客観的に見てって話なんだけど」満久は困った顔で言った。「行動からすると、そのくらい真剣だったって可能性は? チャンスを窺っていた、というか」

「そんなことを毎日こまめにするくらいの根性があるなら、直接デートに誘うくらいするんじゃない? いや、私の知らないところでミッチーがそんな猛烈なアタックを受けているっていうのなら、話は別だけど」

「そんなことは無い」

 満久は苦笑いを浮かべながら首を振った。

「まあ、確かにうちのクラスの人っぽいな」

「うん。きっと、何か忘れ物でもしたか、用事でもあって教室に戻って来たんだよ。それで寝ているミッチーを見つけて、思わずキスをした、と」

 満久は眉をひそめて由岐の言葉を聞いていた。しかし、特に異論は無いようだった。

「だから、明日、クラスのみんなに、昨日の放課後何をしてたのか訊いて回ろうと思うんだ」

「まあ、良いけどさ。全員に?」

「うん」由岐は小声で言った。「もちろん、男子も含めて……」

「ええ……」

 満久は露骨に顔を顰めた。少し、眉がひくついている。

「さすがに男子はないだろ……」

「ゲイかも知れない」

 由岐も顔を顰めながら言った。

 二人が通う学校には、同性愛者の噂がある生徒が、男女ともに数人いる。真偽の程を直接確かめたわけではないが、端から見ている限りはたしかにそういう印象を受ける。先入観が影響していることは否定出来ないが……。どちらにせよ、可能性を安易に排除するのには抵抗があった。

「いや、ないよ」

 満久はきっぱりと言った。

「なんで言い切れるの?」由岐は首を傾げた。「嫌な気持ちは解らないでもないけどさ」

「だって、ゲイだったとしたら、口紅はつけていないだろ?」

「あ、そっか……」

 ゲイの噂のある生徒にしても、女装して学校に通っているわけではない。たしかに口紅がついていたことを考えると、男性が犯人である可能性は低い。もしかしたら、化粧品を隠し持っているかもしれないが、由岐の推論からすると犯人は偶然寝ている満久を見つけて犯行に及んだのだ。わざわざメイクをしてからキスをすると考えるのは無理がある。

 由岐は白い天井を見上げた。クラスの女子を思い浮かべてみる。しかし特に可能性が高そうなクラスメイトはいなかった。色々なタイプの娘がいるが、全員が怪しいような気もするし、誰一人そんなことしそうにない気もする。

「それで、絞り込むのは良いけど。その後はどうする?」

「ううん……」由岐は唸った。「何か物証でもあれば良いんだけどさ。そういうわけにも……」

 満久が腕を組む。陽に灼けて、浅黒くなっている。由岐は日焼け止めをきちんと塗っているので、そこまで黒くはない。それを見て、由岐はひとつ思い付いた。

「色とか匂いで口紅の種類が判らないかな? そうしたら持ち主が犯人になる!」

 由岐は名案だと思った。しかし、満久は首を横に振った。

「とっくに洗ったよ。ティッシュも捨てちゃったし」

「……そうだったね」

 由岐は、満久がティッシュを丸めてゴミ箱に投げたのを思い出した。

 どうして男はゴミを投げ捨てるのだろう、と由岐はふと疑問に思った。ティッシュでもペットボトルでも、男性はバスケのシュートのようにゴミを投げ捨てようとする。道端でもそんなシーンを頻繁に目にする。大抵、狙いを外して拾い直す羽目になっているのだが、少しは学習しないのだろうか。

「ううん、どんな色だったっけ……?」

 由岐は頭を抱えて、何とか思い出そうとした。

「たしか、最初に辛ラーメンと間違えて……。トマト案も出たくらいだから赤だよねえ」

「鮮やかな感じだったよ、たしか」

 満久も同意して続けた。

「んで、匂いが変な感じだった」

「そうかなあ……」由岐は首を傾げた。「化粧品って大体あんな感じだよ? そんなに悪い香りだとも思わなかったけど」

「そうなのか」満久は目尻を下げた。「普段、化粧品の匂いって嗅ぐ機会がないから」

「まあ、男子ならそうだよね」

 由岐は少し安心しながら同意した。

「多分、柑橘系の香りだったんだよね。割と上品な感じで……。結構良いヤツだと思うよ、あれ」

 由岐はそう言った。しかし満久は首を振った。

「ごめん、俺には全然判らん」

「……うん」

 由岐は小さく笑って頷いた。どちらにせよ、現物が手元にない今となっては、考えても仕方がないだろう。

「あ、そうだ!」

 満久が少し高い声を上げた。それから、急に鞄を漁り始めた。

「これこれ」

 机の上に置かれたのは、満久の数学のノートだった。ページをめくり、由岐の方に差し出してくる。

「これは?」

 ノートには赤いペンで短い文章が書かれていた。その色が唇についていた口紅を連想させる。流れるような文字で、ひどく読みにくい。由岐は一文字ずつ、念入りに解読した。

「えっと、『この唇たちを持ち帰りで』………かな?」

「……うん? うん、まあ、そう」

 由岐が声に出して言うと、満久は曖昧に同意した。

「これは? ミッチーのポエム?」

「ちげーよ」満久は酷く呆れた顔をした。「これ、昨日書いてあったんだ。多分、犯人が書いたんだと思う。タイミング的に」

「えっ!」由岐は目を丸くした。「どうして、昨日教えてくれなかったの!?」

「俺も今日になって気がついたんだよ」

 満久はそう、ふて腐れたように言った。珍しい表情を見て、由岐は慌ててフォローした。

「そっか、まあ、そうだよね。ごめんごめん……。でも、これ……、どういう意味? 唇たちをお持ち帰り? なんで複数形?」

「上唇と下唇」

「……ああ、そっか。そうだったね。でも……」

 内容的に、偶然とは思えない。しかし、持ち帰りとはどういうことか、由岐には今ひとつ想像がつかなかった。まるで昼食でも買いに来たかのような言い方だ。当然だが、満久の唇は売り物ではないし、持ち去られたわけでもない。まあ、キスを盗まれたと言えなくもないが……。

「何か盗まれたりした? リップクリームとか……」

「そんなの持ち歩いてないよ」

 満久は首を横に振った。

「ううん……。意味が解らないなあ」

 由岐は首を捻った。すると、満久は両の手のひらを天井に向けた。

「まあ、続きは明日、候補が絞られてからにしようか」

「うん」

 由岐は満久の言葉に頷いて、Macの画面に目を落とした。

「先に、これを仕上げないといけないしね」




     *




「ね、一昨日の放課後って何してた?」

 由岐はクラスメイトに問いかけた。二人はサンドウィッチを食べる手を止めて首を傾げた。顔は全然似ていないが、分裂したプラナリアのようにそっくりな仕草だった。

「一昨日?」

 ケイとマリナは顔を見合わせた。

「水曜だよね。私たち、部活行ってたよ」

「部活? 二人ともサッカー部だよね?」

「うん!」マリナは元気よく頷いた。「今週末試合なんだ!」

「そうなんだ。頑張ってね!」

 由岐はそう言って、マリナににっこり微笑んだ。その笑顔を維持したまま、問いかける。

「ところで、その部活って、学校終わってすぐ?」

「そうだよ? 練習時間決まってるからね」

「そっか。うん、ありがと」

 礼を言って由岐は自分の席に戻った。二人は不思議そうな顔をしていた。そのことに気が付いてはいたが、特にフォローはしなかった。

 由岐たちの通う学校は少人数制を採用していて、生徒は一クラスに十五人。女子は由岐を含めて六人しかいない。

 由岐は、クラスメイトと談笑している満久を横目で見る。満久も気にしてはいるようで、由岐と目が合うと小さく頷いた。

 由岐は次のターゲットに話しかけた。

「ね」

「うん?」

 愛はお弁当を食べる手を止めて、由岐の顔を見上げた。

「突然でごめんね。一昨日って何してた?」

「さっきケイたちにも訊いていなかった? それ」

 問い返したのは愛の正面に座った、ケンだった。訝しげな顔をしている。

「うん。気になっていることがあって」

「……ふうん」

 まったく納得していない顔でケンは頷いた。一方、愛はまったく頓着した様子もなく、にこやかに言った。

「一昨日は課外活動だったよ。ボランティア」

「それって何時からだった?」

「えっと、何時だったかな……」

 愛は首を捻りながらスマホを取りだした。しかし、その前にケンが口を挟んだ。

「三時半に駅前に集合だった。街頭募金だったからな」

「三時半ね……」

 由岐は簡単に計算した。学校から駅までは二十分くらいはかかる。三時に授業が終わってからだと、余裕は全くない。

 とは言え、街頭募金のボランティアは管理がぬるい。別段集まったからといって点呼を取るわけでもない。こう言っていても、本当に参加していた保証はない。

「ケンも一緒だったんだよね?」

「ああ」

 はっきり確認したわけではないが、愛とケンは付き合っているのだと、由岐は認識している。お昼だってこうやって二人で食べているし、放課後によく二人で遊んでいるのも見かける。そのため愛が満久にキスしたとは考えにくいように思われた。しかし、可能性としては、ケンと付き合っているからこそ、こういう形でキスしたとも考えられる。

 やはり自分は理系なのだろう、と由岐は再確認した。常識的に考えれば、彼氏がいる愛が満久にキスするはずは無い。しかし、その仮定は絶対ではない。合理的な疑いではなくても、可能性がゼロではない、というだけで除外することに抵抗があるのだ。

「何か、盗まれでもしたのか?」

 ケンが訊いてくる。由岐は一瞬言葉に詰まった。

「う、ううん。違うよ」

「何が無くなったんだ?」

「気にしないで。そんな大したものじゃないから!」

 由岐はそう言って話を打ち切った。幸いなことに、ケンはそれ以上踏み込んでこなかった。

 頭で状況を纏め直しながら由岐は自分の席に戻った。母親が作ってくれたお弁当のフタを開く。

 クラスの女子は由岐を除くと五人。ケイとマリナは部活、愛はボランティアですぐに学校から出ていた。残る可能性はリサとクリスティーンの二人だけだった。さっき二人は連れ立って教室を出て行った。恐らく、昼食を買いに行ったのだろう。

 考えてみれば、あの二人は非常に怪しい。一昨日の放課後、進路相談に行った所為で由岐たちの下校は遅かった。用もなく学校に残っている時間では無かったのにも関わらず、リサとクリスティーンは由岐たちの後から校舎を出てきた。

「どうだった?」

 満久がクラスメイトとの話を打ち切って近づいて来ていた。他の人に聞こえたところで問題は無いが、由岐は一応声を落として答えた。

「三人とも外れ。だから……」

「リサかクリス?」

「うん。多分」

 それから、由岐はさっき考えたことを伝えた。満久は腕を組んで頷いた。

「言われてみればそうだな」

 そのとき、教室に二人が戻ってきた。サンドウィッチの入った袋を手に二人で楽しげにお喋りしている。

「どうやって確かめたら良いと思う?」

「そう言われてもな……」満久は腕を組んだ。「直接訊くのもちょっとな。外堀から埋めていくしかないんじゃないか」

「だよねえ」

 真似したわけではないが、由岐も腕を組む。満久の眉が少し落ちていることに由岐は気がついた。彼の困っている顔は嫌いではないのだが、状況を考えると喜んでばかりはいられない。

「ミッチー、どうかした?」

 視線に気が付いたのか、リサが満久に声をかけた。

「いや……」

「私に見惚れてた?」

 冗談めかしてリサはそう言って、左目だけを器用に閉じた。長い睫毛が上下に往復する。彫りが深い顔立ちの彼女がすると、悔しくなるほどにキュートだった。

「どうかな」

 満久はそう無表情に言った。その反応にリサは頬を膨らませた。その可愛らしい顔に、由岐は問いかけた。

「ね。ちょっと訊きたいんだけど」

「何?」

 少し棘のある声でリサは応じた。由岐は一瞬怯んだが、気を取り直して笑顔を作った。

「一昨日、大戸屋には行ったの?」

「行ったよ」

 答えたのはクリスティーンだった。由岐の腕に、自分の腕を絡めてくる。クリスの香水の匂いが、由岐の鼻腔を僅かにくすぐった。

「テンプラ? だったかな、食べたよ。美味しかった!」

 にこにこと笑いながら彼女は言った。

「そう。気に入ったなら良かった」

「うん! 油で揚げてるって聞いたけど、フライとは少し違うよね」

「あ、うん」思った方向に話が進まず、由岐は少し戸惑った。「多分、衣が違うんだと思うけど……」

 由岐は料理があまり得意ではない。家では母親が専業主婦として腕を振るっているので、日常的には料理をする必要がない。お手伝いをすることも稀だ。特にここ数年は学校の課題が忙しく、ほとんどキッチンに立っていない。揚げ物をしたこともない。

「どうして学校を出るの遅かったの?」

 由岐は話の流れを無視して、いきなり訊いた。

「うん?」

 クリスとリサは顔を見合わせた。

「そうだったっけ?」

「うん。授業終わってから三十分以上経ってた」

 由岐がそう追求すると、リサは曖昧に笑った。

「ちょっと野暮用があって……」

「野暮用?」

「うん。野暮用というか、相談?」

 リサはそう押し通した。口を割る気は無さそうだった。由岐はクリスティーンに視線を向けた。しかし彼女も笑顔を作って、首を傾げただけだった。

「……そう」

 由岐は溜息混じりに頷いた。

 どうにも煮え切らない答えだった。しかも、二人ともというのが気になる。口裏を合わせて、というのも状況的に考えづらい。

 どちらかが犯人だとして、そのことをもう一人が知っているなどということが有り得るのだろうか。寝ている異性にキスをする場面に、もう一人がいるとは思えない。口裏を合わせようにも、そんな行為をしたことを明かすだろうか。恥ずかしくて死にたくなってしまうのではないだろうか。

「ねえねえ」

「うん?」

 クリスティーンは由岐に問い返した。いやに真剣な表情だった。

「どうして由岐が、一昨日のことを気にしているの?」

「……え?」

 一瞬呆けたが、由岐は素早く考えを巡らせた。

「まるで」由岐は唇を片方持ち上げた。「私じゃないなら、気にしても不思議じゃないみたい」

「……そう?」

「うん」

 クリスティーンの目を見ながら、由岐は頷いた。しかし彼女はまた口元を緩めただけだった。由岐は続ける言葉に迷った。どうにも踏み込みにくい。

「ミッチー、あのさ」

 すると、リサが満久の顔を覗き込むように満久に話しかけた。

「土曜日は暇?」

「えっと、午前だけなら。午後は塾があるから」

「そっか。暇だったら一緒に遊びに行こうと思ったんだけどな」

 リサは肩を竦めて言った。満久は少し申し訳なさそうに言った。

「悪い。日曜なら大丈夫なんだけど」

「日曜は私が都合が悪いの」

 唇を尖らせてリサはそう言った。大げさに肩を竦めている。

 由岐はリサの唇に注目した。口紅は赤い。さすがに辛ラーメンのスープほどではないが、鮮やかな赤だった。彼女の白い肌によく似合っている。

 一方、クリスティーンはどちらかというとピンク色の口紅だ。リサに比べると、全体的にメイクは濃い。国民性による違いだろうか。

 しかし、二人共に言えることだが、毎日同じ口紅を使っているとは限らない。あまりお洒落な方ではない由岐だって、リップは二本持っている。一昨日と今日で、違う色をつけている可能性は無視できない程度には高い。

「はあ。もっと楽な学校だったら良かったのに」

 リサは溜息混じりにそう言った。しかし悲愴な感じではなく、ただちょっと愚痴を吐いてみただけ、という感じだった。

「だよねえ」

 由岐は小さく笑って同意した。クリスティーンも頷いている。しかし、リサは疎ましげに目を細めた。

「ユキはさ」

 リサは真面目な顔で声を発した。少し違和感を感じて、由岐は精神的に居住まいを正した。

「うん?」

「ずるいと思う」

「……何が?」

 少し考えてから、由岐は問い返した。しかしリサは首を横に振っただけで何も言わなかった。




     *




 由岐と満久は並んで腰掛けていた。塾の自習室だった。数学の授業を受けた後、少し勉強していくことになったのだ。

 土曜の昼過ぎの教室には、由岐たちのような高校生よりも、小中学生の姿の方が多い。熱心に勉強している子も多いが、不本意にも呼び出されているのか、身が入っていない生徒の姿も目に付く。

 由岐が広げているのは英語のテキストだった。再来週の試験に向けてリーディングの問題演習に取りかかっている。自慢ではないが、英語はものすごく苦手だ。しかし、大学の入学条件にダイレクトに関わってくるため、かなり切羽詰まっている。一方、満久は苦手の数学をやっているようで、先ほどから首を捻りながら関数電卓を叩いている。

「今、大丈夫?」

「うん」

 小声で訊いてきた満久に、由岐は小さく頷いた。満久がノートを差し出してくる。複素数平面の問題だった。数学が得意な由岐は鼻歌交じりに、ノートにペンを走らせながら説明した。

 由岐は虚数について少し考えた。自乗してマイナスになる、実数上には存在できない数字。虚数まで範囲を拡張することで、様々な問題を解くことが出来る。しかし、それはそもそも実数の定義が不完全だったからではないだろうか。iを内包していないのが、おかしかったのだ。そう考える方が自然なのではなかろうか。

 満久は由岐のメモを睨むように見ながらしばらく頭を捻っていたが、やがて理解出来たようだった。ときどき考え込みながらもボールペンを走らせ、解答に辿り着く。

「ありがと」

「いえいえ」

「ほうほう」

 予期しない声を後ろからかけられて、由岐はばっと振り向いた。にやにや笑いながら立っていたのは、白衣姿の数学講師だった。

 土曜の学習塾は授業も多いし、由岐たちのように自習している生徒もかなりいるため、講師は毎週忙しそうだ。浅尾も先ほどまでは、いろんな生徒の質問対応に追われていたようだったが、今は少し余裕があるようだった。

「どうだ、調子は?」

「ぼちぼちです」

 満久は、ふっと笑って浅尾に答えた。一つ頷いて、浅尾は由岐の方に目を向けた。

「こないだのあれは解決したのか?」

「えっと、まあ、今ひとつです。進んではいますけど」

「そうなのか? 随分順調そうに見えるが」

 浅尾は意外そうに言った。由岐の隣の椅子を引き出して腰掛ける。黒いストッキングに包まれた長い足を組み、由岐と満久は、面白そうに見比べている。

「何です?」

 その視線に、満久は首を傾げた。

「あれ?」

「先生!」

 口を開きかけた浅尾を、由岐は慌てて止めた。

「その、ですね。えっと……」

「ああ、内緒なのか?」

 浅尾が小声で訊いてくる。しかし満久はすぐ隣にいるので、小声にしても完全に聞こえているはずだ。

「別に、秘密なわけではないんですけど……」

 口を挟んだのは満久だった。

「浅尾先生に相談した?」

「してない。してないけど……」由岐は渋々答えた。「ただ、何て言うか、抽象的な価値観についての問答をしただけ」

「……何が何だか」

 満久は首を捻った。浅尾が楽しそうに、笑いながら言った。

「神内は文系だが、蓮見は理系だな」

「……まあ、そうですけど」満久は首を傾げながら同意した。「由岐と違って数学苦手ですし。それが何か?」

「いや」浅尾は唇の片方を吊り上げた。「文系と理系を隔てるのは、大学の専攻や、数学の得意不得意じゃないよ」

 由岐は首を捻った。

「え? でも、大体そんなので語られてませんか?」

「それはただ、解りやすいからに過ぎない。大体、人の性格なんて0か1かで判断出来るものじゃない。通常は、その間に位置していて、どちらに近いかっていうだけだよ。時折、自在に移動できる天才もいるけどね」

 浅尾はそう言って、右手の人差し指を振った。一次元の座標を図示していると由岐は理解した。

「まあ、そうなんでしょうけど」満久は首を傾げた。「でも、間にいるにしたってその判断基準は、やはり存在するわけでしょう?」

「うん」

 浅尾は大きく頷いた。

「物事を考えるときに、まず具体例から始める人を文系、抽象化から始める人を理系という」

 まったく予期していなかった単語が出てきたため、由岐は小さく首を傾げた。

「よく意味が解らないんですけど……」

「うん。その、この短時間で、解らない、というところまでたどり着くから、蓮見は理系だ」

「……はい?」

 ますます解らず、由岐は首を捻った。

「つまりだね、私の話を聞いて、そこから必要な要素を抜き出そうとした。それが抽象化という行為だ。でも、真意が掴めなかったので頓挫して、解らない、という結論に達したわけだろう?」

「……まあ、大まかに言えばそんな感じですけど」

「文系の人はそんなプロセスを辿らない。基本的に、文系の人間は、解らない、という結論にたどり着かないか、少なくともかなりの時間がかかる。もちろん、回転が速いとか遅いとかいう問題ではなく、だ」

 浅尾はそう言って、満久に目を向けた。彼は曖昧に頷いて言った。

「まあ、たしかにまだ考え中ではありますが」

「うん。今、頭の中で色々な文系や理系の人間を考えて、当てはまるかどうか確かめているだろう」

「……はい」

「それが文系のプロセスだよ。私が言った条件設定に対して、具体的に当てはまるかどうかを考えている。理系はそんなことをしない。命題が真であるかどうか、いくつ具体例を挙げたところで証明できないと考えているからだ。たとえ七十億人の人間が当てはまっても、七十億一人目が違ったら、それは命題として真ではない。それが理系の考え方だ」

「はい」

 由岐はにっこり頷いた。浅尾は表情を変えずに説明を続けた。

「文系はそんなことを考えない。身の回りの、観察される事象に対して適用できればそれで十分だからだ。それも、すべてである必要すら無い。大まかに傾向があれば納得する」

「でも、それって数学的に、というか、科学的に証明されていませんよね?」

 由岐は遠慮しながら指摘した。文系だと断じられた満久を否定するような言い方をしたくなかったのだ。

「うん。しかし、それはどうでも良いことだ」

「どうでも良い?」

 由岐は浅尾のことを勝手に、ロジカル・モンスタだと勝手に思っている。しかしその浅尾らしからぬ発言を聞いて、由岐は首を斜めに傾けた。

「純粋な理系の人間には、理論の有用性は意識されない。もちろん役に立つことも多々あるが、本質的には理論は理論のためだけにあるもので、単体で完結する概念だ。具体例は証明を補強する材料にはなっても、クリティカルな要素にはなり得ない。反証ならその限りではないがね」

 浅尾は満久のことを、優しい目で見つめた。

「しかし文系の人は違う。理論は最初から、何か他の用途に使われる概念だ。つまり、目の前の何かを解決するために構築されている。逆に言えば、今、問題になっている事柄に適用できさえすれば、理論として十分なんだ。そこに科学的な証明は必要無い。文系にとっては、具体例をいかに多く集められるかが、その理論の価値に等しい」

「……へえ」

 由岐は三分の一くらいは頷いた。浅尾の言う、文系のプロセスは、由岐の価値観からすると、到底受け入れられないものだった。同意しかねるが、かといって文系全般を否定するのには抵抗があった。

「考えのプロセスが違う。同じ物を観察したとしても、その捉え方は全然違うし、判断基準はかけ離れている。当然導き出される結論だって異なるんだ」

「……はい」

 妙な確信を持った浅尾の言葉に、由岐はじっくりと頷いた。普遍的な人生の教訓として言っているのか、それとも局所的な由岐と満久の関係のことだけを言っているかは判然としなかった。

 由岐は少し考えた。反応を見る限り、由岐と満久では事件に対する捉え方には差がある。それは男女の差なのか、過ごしてきた環境の差なのか、それとも思考のプロセスの差なのかは判らない。

 それ以上に、キスをした方の考えもよく解らない。今までは、どちらかというとキスをされた側の立場で考えていた。寝ている間にキスをされたらと考えると、どうしても嫌悪感が先に立つ。普通だったら、そんな相手と恋人になろうだなんて、絶対に考えないのではないか。

 そのことは、キスをした犯人だって判っているはずだ。なのに、敢えてそんなことをする理由はない。冷静な思考能力を持った人ならそんなことはするまい。愛して止まない相手の無防備な寝顔を見て、思わずというのも考えられないわけではないが……。

「その、ミッチー……」

「ん」

「先生に話しちゃっても構わない?」

 由岐がそう訊くと、満久は一瞬目を丸くした。しかしすぐに頷いた。

「良いよ、別に」

 由岐は浅尾に大体の状況を話した。聞き終わると、浅尾は白衣の前で、腕を組んだ。

「それはそれは。神内はもてるんだな」

「いえ……」満久ははにかむように俯いた。「由岐の方がよっぽど人気ありますよ」

「いやいや」由岐は右手を振った。「私など、全然ですよ」

 由岐の言葉に満久は首を傾げた。鏡に映したように、由岐も首を十五度ほど傾けた。お互いを見つめ合って固まってしまう。

 少なくともここに引っ越してきて以来、由岐が男子から誘われたことはない。デートに行こう、とか言われたこともないし、告白などされたこともない。もちろん、おつきあいした経験は皆無だ。それだけに、満久のリアクションは納得できなかった。お世辞や冗談で言っている風には見えないのが、余計理解に苦しむ。

「まあ、そんな話はともかく」浅尾は咳払いをした。「その、リサとクリス、だったか。二人のうち、どちらかが犯人だと考えているわけだ」

「はい。もちろん、絶対とは言い切れませんけど。可能性として極めて高いのではないかと」

 由岐は控えめにそう言った。浅尾に、学校の宿題などを見て貰うと、たまに鋭い指摘を受けることがある。自分の推論に穴がないか、少し不安だった。

「まあ、可能性で言ったらそうだろう。数学的な証明は出来ないが、絞り込みとしては十分かな」

 しかし浅尾はあっさり頷いたので、由岐は拍子抜けした。ほっとした反面、何か有効なアドバイスがあるのではないかという期待は裏切られた。

「それで? どちらか絞り込めたのか?」

「いえ……」満久は小さく首を振った。「決め手が無くて。リサもクリスも、質問の答えが曖昧ですし」

「ふむ」

 浅尾は足を組み直した。つま先が弧を描く。

「二人の差は?」

「そうですね。両方とも女性で歳も同じ。違いは国籍や人種とか髪の色とか……。性格も、クリスの方がちょっと大人しいというか、天然っぽい感じですかね。リサがぐいぐい引っ張っていってる感じで、それにクリスがついていってるような」

 満久が少し考えながら答えた。由岐としても異論は無かった。

「ああ、イギリス人だったっけ。髪の色は金髪?」

「ええ。後、身長も高いです。先生とあまり変わらないと思います」

 浅尾は恐らく百七十センチくらいはあるだろう。由岐より十五センチ以上は高い。平均より低い自分からすると、少し羨ましかった。

「ふうん」

 浅尾は目を閉じた。

「化粧は?」

「普段から、二人ともしています」

 今度は由岐が答えた。満久は微妙な顔をしている。たぶん、女子がメイクをしているかどうか、ほとんど気にしていないのだろう。

「クリスの方が少し派手ですけど。でも、極端ではないです」

「グロスは?」

「つけてないです。二人とも」

 目を閉じたまま、浅尾は少しの間黙っていた。しばらく、何の行動も見せない。由岐は満久と顔を見合わせた。

「ただキスをしただけで、べったりとはつかないだろう」

 浅尾が口だけを開いた。

「……え?」

「常識的な化粧の濃さなら、キスした程度では、辛ラーメンやトマトと間違えるようなつき方はしないと思う」

「……そうですか?」

 満久がきょとんとして訊いた。普段、あまり化粧などには慣れていないせいだろう。言われてみれば、普通に口紅をつけている程度では、あれほどまでには付着しないように由岐にも思われた。キスをした経験はないが、少なくともマグカップなどにべっとりと色が移ることはまず無い。

「もちろん多少は移るけど、一目で判るほどにはならない。ものすごく情熱的な接吻なら話は違うかも知れないがね」浅尾は唇を片方吊り上げた。「そんなことされたら、さすがに目を覚ますだろう」

 浅尾の挑発的な物言いに、由岐は少し俯いた。

「それに、キスした後に痕跡が残ったことに気がついたはずだ」

「え?」

「だって、唇を離した後に、顔を一瞥すらせずに走って逃げたのか? 眠っている相手に口づけしてしまうようなロマンチシストな女子だぞ。しばらくの間、うっとりと相手の顔を見つめている方が、よっぽど自然だ」

 状況を由岐は考えた。確かに、自分がファーストキスをした後なら、そんな気分に浸ってしまう気がする。

 そこまで考えて、キスした犯人にとって、今回がファーストキスとは限らないということに由岐は気がついた。もしかしたら、とんでもないキス魔かもしれない。

「ただ衝動的に軽くキスをしただけなら、ラーメンのスープと勘違いするほどはっきりと痕は残らない。残ったとしても、それに気づいたはずだし、拭き取るチャンスもあったはずだ」

 浅尾はそう言いながら、右手の指を二本立てた。

「つまり、確かな意図を持って痕を残したと言いたいんですね?」

「ああ」浅尾は大きく頷いた。「この犯人はね、ただ想いが溢れてキスをしただけではない。明らかに、故意に痕跡を残そうとしている」

「何のためにですか?」

 少し頬を引きつらせて、満久が訊いた。

「さあ?」浅尾は首を傾げた。「正確なところは、ね。ただ、抽象的には良くあることではある。私には理解出来ない行動だがね」

「良くある?」

 にやにや笑いながら、浅尾は言った。

「つまり、意中の男性がいて、その彼には深い仲の女性がいるようだ。だから、なんとか状況を覆したい。そんなタイミングで行われる行為。例えば、助手席にピアスを落としていくとか、そういうことだ」

 一瞬、浅尾が何を言っているのか由岐には理解出来なかった。しかし、考える暇を浅尾は与えてくれなかった。

「つまりね。このキスは神内への恋慕の情だけではない。蓮見に対する宣戦布告なんだよ」




      *




「ううむ」

 由岐はベンチに座っていた。隣には満久が同じように腰掛けている。

 海辺の広場だった。時間はもう夕方。学習塾で浅尾と話した後、由岐が誘ってここまで来たのだ。観光地にほど近いが、駅からのコースから外れている所為か、ほとんど人通りはない。

「どうした?」

 満久が穏やかに問いかけてくる。由岐は下を向いたまま答えた。

「ミッチーはさ、気がついてるよね?」

「え?」

 満久が驚いた声を上げた。顔を見なくても、目を丸くしていると想像がついた。

「私が、こうやって犯人を探している理由」

 満久はすぐには答えなかった。

 陽は既に傾いて、ほとんど沈もうとしている。しかし気温も湿度も高止まりしていて、かなり不快だった。頭が、熱い。

「……まあ」

 満久は頷いたようだった。由岐は地面に落としていた目線を上げた。

「その、ね。私、恋って微分だと思うんだ」

 由岐は夕焼けに染まる海を見ながら言った。

「微分?」

「うん。x軸に時間を、y軸にどきどき具合を取るとするでしょ? そのどきどき曲線を微分した値が、恋って呼ばれるものなんじゃないかと思うんだよ」

 由岐は少し照れながら言った。顔が熱い。夕焼けが誤魔化してくれることを祈りながら続けた。

「微分して出てきた接線の変化の割合。つまり、その瞬間の、どきどき曲線の傾きが大きいことが恋なんだよ、きっと。この後、きっとこの人は私のことをもっと時めかせてくれる、そんな期待。それこそが恋と呼ばれる概念の正体……」

 由岐は満久のことを、横目で窺った。隣に腰かけた数学が苦手な同級生は、少し考えていたようだったが、やがて小さく頷いた。

「でね、愛は積分だと思うの」

 顔を引き締めなおして、由岐は言った。

「それまで一緒に過ごしてきたどきどき曲線を、縦に切って積み上げた総計。もちろん、曲線の取る値が負のこともあるわけで、そうしたらマイナスになっちゃうけど。でも、その良いどきどきも、悪い幻滅も、全部ひっくるめて大きくなったらそれが愛」

「うん」

 満久は、今度はすぐ頷いた。微分よりは概念が理解しやすかったようだ。

 由岐は意識して、大きく息を吐いた。足が震えそうになるほどに、緊張していた。呼吸を整え、声が上擦らないように気をつけながら、ゆっくりと言葉を発す。

「でね。ミッチーといるときの私のどきどき曲線は、ずっと右肩上がりなんだ。一次導関数はずっと正の値を取っていて、しかも二次導関数も、いつもプラスなの。下に凸の、右上がりの曲線……」

 由岐はまた海に視線を戻して続けた。陽は沈む寸前で、海上建造物の影は長く伸びている。

「えっと」満久は自信無さそうに言った。「指数関数みたいな感じってこと?」

「まあ、そうだけど……」

 由岐は五分の二くらい頷いた。たしかに指数関数は、由岐の言った条件に当てはまる。しかし、どきどき曲線が指数関数であるわけではない。間違ってはいないが、的外れな回答だと由岐は感じた。

「ああ、そうか。そういうことか……」

 由岐は思わず小さく噴き出した。

「……ん?」

「納得しちゃった。浅尾先生が言っていたこと」由岐は笑いを堪えながら言った。「そっかそっか。これが理系と文系の差か。いきなり実例にいくんだったよね」

 突然笑い出した由岐に、満久はきょとんとしていたが、やがてふっと小さく笑った。由岐のお気に入りの、無愛想な笑顔だった。

「ね。こうなっちゃうのは、ある意味当然なんだよ」

「当然?」

「うん」

 由岐は小さく頷いた。夕陽は海に、完全に沈み込もうとしている。

 視線の先。由岐の正面には、シンガポールのがっかり観光名所、マーライオンが口から水を吐き出していた。




     *




「四年前、私がこの国にやってきて、言葉も文化も全然解っていなくて。スタバどころかマクドナルドで注文すら出来なかった。バスだって地下鉄だって一人じゃ乗れなかった」

 由岐は海を見たまま語り始めた。

「学校に行っても、先生もクラスメイトも何言ってるんだかさっぱり。喋るのは日本人とだけで、他の国の人が来たらすぐにだんまり。日本人学校だってあるのに、なんでインタナショナル・スクールなんて入っちゃったんだろう、ってずっと後悔してた。日本で成績がちょっと良かったからって、甘く見てた。もう、毎日泣きそうだった。ううん、本当に泣いてた。学校行きたくなさ過ぎて。早く日本に帰りたくて」

 満久が小さく身じろぎした。しかし何も言わなかった。

「でも、ミッチーが面倒見てくれた。学校で、先生とか友達とコミュニケーションを取るのを助けてくれた。宿題だって一緒にやってくれて、外に行くときにもついてきてくれた。食事も買い物も、何でも付き合ってくれた」

 由岐は自然と笑顔になった。

 満久はいつも、ちょっとぶっきらぼうに、でもしっかり世話を焼いてくれた。漸近線のように、とても優しかった。

「まあ、その」満久は頭を掻いた。「正直、目を離せなかったし。凄く不安そうな顔で、いつも後をついてきてたから。何だかほっとけなかった。捨てられた子犬というか、カルガモの雛みたいで……」

「うん」

 由岐は苦笑しながら頷いた。

 本当に、当時はそんな感じだったはずだ。編入の際に、ペーパテストでなまじ高得点を取ってしまい、高いレベルのクラスに入れられてしまったのも、由岐にとっては不幸だった。しかも、この国の人間が喋るのは、綺麗な英語ではなく、訛りがきつい上に、中国語やマレー語の単語が混じっているシングリッシュなのだ。

 どこに行くにも満久がいないと不安だった。スクールバスが迎えに来てくれるので登校はどうにかなったが、校内ではずっと満久をつけ回していた。一人で帰るのは不安なので、満久に用事があるときは教室でじっと待っていたものだ。

「だからね。私の中でミッチーと過ごした時間は、とても大事なの。すごく感謝しているし、でもそれだけじゃなくって。一緒にいた一つ一つの瞬間のどきどき指数が高いし、しかもそれを積分したら、とんでもない値になっちゃうの。もう、指数関数なんて目じゃないくらい」

 かなり照れながら、由岐は続けた。

「だからね。うん。つまり……。私は、ミッチーが好きなの。愛してる」

 由岐は一気にそう言った。つい、下を見てしまう。コンクリートの地面に、目新しい物は何も無かった。

「うん」

 満久が、少し上擦った声で言った。

「その、何て言ったら良いのか判らないけど。すごく嬉しい。ありがと」

 その言葉を聞いて、由岐は即座に顔を上げた。隣の満久を見上げると、恥ずかしそうに、それでも優しく由岐のことを見つめてくれていた。

「ミッチー……」

 由岐は、ベンチに置かれた満久の右手に、自分の左手を重ねた。一瞬、びくっとしたが、そのまま動かない。彼の大きな手を、優しく包むように力を入れる。温かい手だった。

「その、私とつきあってくれる?」

 由岐は勢い込んで言った。

「……え?」

 満久が、虚を突かれたような声を出した。

「え?」

 由岐は一瞬、頭が真っ白になった。理解が追いつかない。いや、言葉と状況の理解は出来ている。しかし想定の外にあったため、リアクションが用意されていなかった。

「え! うそ! この流れで断るの!?」

 凄く良い雰囲気だと由岐は認識していた。どきどき指数は濃度の高い無限大にあると観測されていた。しかし、満久にとっては違ったのだろうか。それとも、もう他に彼女がいるのだろうか。

「あ、いや、そうじゃなくて……」

 満久は右手をひっくり返して、由岐の手を握った。

「なんていうか、もうつきあってるつもりだった」

「……へ?」

 由岐は惚けた声を出した。

「なんで? だって、告白とか、したことないよね?」

「うん、その、何て言うか……」

 満久は空いている左手で頭を掻いた。

「その、二人で定期的に出かけていれば、もう交際しているものだと……」

「……ああ」

 由岐は思わず脱力した。ベンチに深くもたれかかり、右手で顔を覆った。左手は意地でも離さない。

 満久はシンガポールの生まれだ。それからずっとこの国で過ごしていて、文化的にも、日本人よりはシンガポール人に近い。

 たとえば、夏休みなどに実家に帰省するとき由岐は、日本に帰る、と言う。しかし満久は、日本に行く、と表現する。そのくらい、この国での生活が当たり前なのだ。

 たしかに、交際を始める際に、わざわざ宣言するのは日本人特有の習慣らしい。この国では、デートの回数を重ねていくうちに段々と彼氏彼女という関係になっていく。今日からおつきあい、というようなデジタルな分け方はしない。

「そっか、そうだよね……」

「ごめん」

 満久は頬を引きつらせて謝った。

「いや、大丈夫……」

 由岐はなんとかそう返事をした。順番が少し逆になっただけだ。大した問題ではない。とにかくそう思い込むことにする。

「ああ、びっくりした……」

 由岐はそう言って。満久の手を握りなおした。




     *




「それでね」

 由岐は何とか顔を引き締めて切り出した。

 二人が交際の開始を宣言してから、既に二十分が経過していた。その間に交わされた会話は、まだ二桁にすらなっていない。手を握ったまま海を見つめ、じっと黙りこくっていた。夕陽はもう完全に海に沈み、辺りは宵闇に包まれている。

「結局、ミッチーにキスしたのって、誰だと思う?」

「あ、うん」

 満久が手を持ち上げたので、由岐は重ねていた手を外した。赤道直下の南国であるにも関わらず、温かさが名残惜しかった。

「これ、さ」

 満久がノートを取り出し、問題のページを開いた。

「こんなこと、書くのはイギリス人だけだよ」

 ノートには『唇たちをお持ち帰りTake, O, Take those lips away』と赤いボールペンで書かれていた。

「なんで? 別に、うちの学校の人だったら英語で書くのは当たり前でしょ?」

 由岐たちが通っているのはインタナショナル・スクールで、採用されているのはインタナショナル・バカロレアという世界共通のカリキュラムだ。授業はすべて英語で行われているし、校内の公用語ももちろん英語だ。英語が話せないのは、かつての由岐のような、非英語圏から引っ越ししてきたばかりの、ほんの一握りの生徒だけだ。

「うん。でも……」

 満久は優しく微笑んだ。

「調べてみたらさ、これはシェイクスピアの戯曲の一節なんだって。『尺には尺を』って劇」

「シェイクスピア?」

 由岐は鸚鵡返しに問い返した。

「イギリスの劇作家。知らない?」

「知ってるよ、そのくらい……」

 子供相手のような物言いに、由岐は頬を膨らませて答えた。

「でも、そんなのぱっと出てくるもの?」

「うん。イギリス人にとっては、シェイクスピアって、すごく偉大な人で、戯曲の名台詞を諳んじられるってことが、もはや教養の一部ってことは知ってた?」

「……いや、そこまでとは初耳だけど」

 由岐は少し驚きながら首を捻った。しかし大抵の日本人だって、徒然草や枕草子の一節くらいは知っている。そのくらい、イギリス人に取ってはなじみ深いということだろう。

「うん。だからさ、中学くらいまでイギリスで教育を受けていると、意外とそういうこと知ってたりするんだよね」

 満久は穏やかにそう言った。

「この台詞は、ずっと好きだった相手から手酷く扱われた女性が、去り際に歌う場面なんだって。で、その後色々あって、結局彼女はその相手と結ばれることになる。そんな歌なんだそうな」

「……ええと」

「つまり、浅尾先生の言う、宣戦布告ってことなんだろうけど」

 満久はそう笑いながら言ったが、由岐はそんな気分にはなれなかった。満久が心揺れている感じではないのが、救いといえば救いだが……。

「でも……、それだけ?」

「ただ、偶然に書いたものを見つけたなら、根拠として弱いかもしれないけど。でも宣戦布告ってことは、自分だって判るように書くんじゃないか。その意図を汲み取れば、もう確定でいいと思うんだけど」

「あ、そっか。そうだね」

 由岐は小さく頷いた。理系的思考では証明出来ないが、文系的思考では確証が持てる。

「それにね」

 満久は悪戯っぽく微笑んだ。

「この国の人は、"Take away"なんて使わないよ」

「へ?」

「シングリッシュで、お持ち帰りは?」

 満久が悪戯っぽい笑顔で訊いてくる。四年前、彼に習った通りに由岐は答えた。

打包ダーパオ

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