キスのひとつで -Kiss Knows He Tore off His Dear-

葱羊歯維甫

Prologue

「こうして、お姫様は、王子様と末永く幸せに過ごしました」

 幼い頃、よく母は私を膝に載せ、絵本を読み聞かせてくれたものだった。日本昔話やアンデルセン童話など、洋の東西を問わず情感豊かに語られる物語に、私は心躍らせていたものだった。

「めでたし、めでたし」

 と、なっていたなら、まことにめでたかったのだが、残念ながらそうはならなかった。

 エンジニアの父親に似たのか、私は物心ついたときから妙に理屈っぽく、非常にロジカルな疑問を呈して、母を困らせていた。たとえば、木で作った家でもオオカミの侵入を防げる、とか、子ヤギの代わりにお腹に石を詰めても、質量は変わらないので井戸に落ちるわけがない、といった具合だ。

 その度に母はあきれ顔を浮かべながらも、一緒に理由を考えてくれたものだった。もちろん、合理的な説明が為されることは稀だったが、それでもその思考実験は私の成長を助けてくれたように思う。

 そんな無粋な私の疑問の中でも、一際納得がいかなかったものがある。

 人は、キスだけで目覚めるのだろうか?

 呪いを掛けられ、百年もの長きにわたり眠り続けていた王女。それを、キスのひとつで起こせるとはとても思えなかった。たった三十分前に酔って寝入ってしまった父親でさえ、起こすには全力で揺り動かさなければならないのだ。百年と言えば、三十分の百七十五万倍以上もの時間だ。

 ざっくりと計算してみよう。父の質量が百キログラムだったとして、目覚めるまで十センチメートル揺するのを十回繰り返すとすると、必要なエナジィは1キロジュール。そしてそれを百七十五万倍すると、手元の関数電卓によればマグニチュード1より少し小さいくらいになる。茨に守られた美しい王女を起こすためには、小さい地震一回分のエナジィが必要なのだ。目覚めるどころか、永遠の眠りにつくことは確実である。

 結論を言ってしまおう。

 本当に寝入っている人間はキスのひとつでは目覚めない。

 これが、私が観察し体験した、普遍的な現象である。

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