嚶鳴のシークレット
垂季時尾
第1話 嚶鳴のシークレット
「嚶鳴のシークレット」
プロローグ
京都府K市平成○○年度広報より
近畿最北端に位置する京都府K市は、町村合併、市誕生後、地域創生を目指し、観光、自然、産業を軸に、地域の経済発展のため、様々なプロジェクトを推進してまいりました。
白浜の続く美しいロングビーチは夏には大勢の海水浴客で賑わい。冬は、今やブランド名が付くほどの立派なズワイ蟹が水揚げされ、遠方から豊かな海の幸を求め人々が訪れます。
近年開通した縦貫道路により、都会からのアクセスも格段に利便性が向上しました。観光立国の名に相応しい発展を遂げています。
地場産業では、江戸時代から続く織物業が、一時期の低迷期をぬけ、近年新たなアイデアを柔軟に取り入れ、国内だけではなく、海外進出までを視野に入れ、新製品が多く誕生しています。
福祉面にも力を入れ、これまで空洞化が問題視されていた地域医療も近隣の総合病院と協力連携し、ドクターヘリの運行など、過疎地が抱えていた医師不足解消へとのりだしています。
環境に優しい、美しい故郷を目指し、エコ活動も積極的に進められています。家庭ゴミや廃材を使ったバイオ燃料工場。広大な土地に造られた太陽光パネル発電所による自家発電。作られた電力の好循環は、自立した社会産業の発展はもとより、災害に強いまちづくりにも貢献しています。自然エネルギーの導入は、環境面だけでなく、豊かな地方都市形成には不可欠な事業です。
このように、様々なチャレンジにより、美しいK市は新たな時代に入ろうとしています。
地域創生を掲げるK市市政はこれからも市民皆さまの健康、発展のため、努力し、邁進してゆく所存でございます。 市長
1
雨がポツポツとフロントガラスに浮かんできたので、金堂兼光はワイパーの作動ボタンを押した。
国道178号線は二車線とはいえ、普通乗用車がすれ違うのもギリギリの車幅しかない。濡れ出したアスファルトをシャーッと水をはじく音を立てながら対向車が一台すれ違った。黒塗りの大型セダン。最近よく見かける車種だ。金堂は「自衛隊か……」と、ぽつりと呟いた。
京都府は広く長い、ここは京都府の最北端、日本海沿岸に面した道だ。近くには航空自衛隊の分屯通信所があった。稲刈りも終わり、寒村と呼ぶにふさわしい寂しさの気配が漂う海沿いの棚田に、置き去りにされたようにその施設は建っていた。
道を歩く人もいない。時々、野生の猿や鹿が、当たり前のように道を横切るので、景観を横目にのんびりと見ながら運転などしていると思わぬ事故に遭遇してしまう、そんな道だった。
害獣による農作物の被害が年々増えているせいで、本来なら牧歌的に見える田舎の田園風景も一面が、端から端まで頑丈な電気柵で囲まれている。そのおかげなのか、鋼鉄のフェンスで封鎖された、崖の突端に建つその施設は、マスコミや建設反対派がネットなどで晒している写真などよりも実際に見ると、そこまで不自然でもなく威圧感もなかった。
米軍ミサイル防衛レーダー基地。基地と呼ぶにはいささか狭い印象を覚えるその施設は、それでも名前の通り、敵国の弾道ミサイルからこの国を護る子午線最北端の防衛拠点の一つであることは間違いなかった。
金堂がこの数年、ほぼ毎日と言っていいほど通った道だった。航空自衛隊通信所も米軍レーダー基地のすぐ近くにある。自衛隊施設の方は、もう建設されて半世紀ほど経つ。地元住民もそこに分屯地があることなど意識しないほどの年月が経過していた。
ここ最近になって、やたら自衛隊の車両が目立つようになったのは、単に住民の意識が変わったのか、それとも二年前に新たに建設された米軍のレーダー基地のせいなのか、それは金堂にも解らなかった。しかし、取材をするたびに、地元住民からはここ二年で急に物々しくなったと、寒村の空気の変化を聞かされていた。
所詮は他所者である自分は、そこにずっと住み続けている人間との意識は同じはずはないと頭では分かっていても、ジャーナリストの端くれである金堂もまた、灰色の雲が垂れこめた冬近い日本海から吹き付ける風に、不気味な閉塞感を覚えずにはいられなかった。
だが、今、金堂の胸に去来し、ずっと消えてくれない憂鬱な気持ちは、それとはまったく違う理由によるものだった。
「鷗盟会……」
金堂は再び呟き、自分でその名を口に出したことをすぐに後悔した。口に出すだけで目の前が霞んだ。
金堂は本社が京都市内にある地方新聞社、京治新聞の記者を生業にしていた。平成の大合併でそれまで小さかった村々が併合し、名ばかりのK市へとなった。K市一帯が金堂の持ち場だった。K市支局に派遣されてもうすぐ五年になる。
自宅兼支局は、一応はK市の中心部と言われている、車でここから三十分ほど離れたM町にあった。市役所もそのM町にある。
この二年間は、取材のため、市役所のあるM町と日本海沿岸の村々を日に何度も往復するのが日課になっていた。
小さな新聞社のため、支局には金堂とその部下である塩原大介の二人しかいない。金堂の役職は支局長であったが、仕事自体は一般記者となんら変わりはない。記事も写真も支局での電話対応でさえ、すべての業務は金堂も部下である塩原も同じようにこなしている。給料だって全国紙の記者に比べたら決して良いとは言えなかった。それでも本社勤務に比べ、支局記者は自分のペースで自由に動けるので、金堂はK市支局配属に不満はなかった。元々は人嫌いであまり社交的とはいえない性格の金堂であったが、地方版の記事を書くということは、人の結び付きなしでは不可能だ。
最初の一年は慣れない田舎暮らしで戸惑うこともあったが、仕事だと割り切って地元住民と接するうちに、じょじょに打ち解けあえるようになり、人の優しさも感じられるようになった。
出世の道を捨て、田舎に身を埋めても良いかもしれないと、金堂自身も本気で思うようになった。
だが、ここに勤務して二年が経ったころ、突然飛び出した米軍レーダー基地誘致問題が金堂の仕事にも重く圧し掛かった。
地元住民にとってもまさに寝耳に水なこの問題は、沖縄県の米軍基地移設問題の影に隠れ、全国紙ではあまり詳しく取り上げられなかったが、地元の住民にとっては大問題であり、もちろん反対運動も活発化した。そもそも、日本海の寒村にそのような物々しい施設を建設する土地はない。計画が持ち上がった当時は、誰もが実現するわけがないと半信半疑であったが、結果、住民のほとんどが実状すら理解できない間に、わずか一年足らずの間に基地建設は進み、絶壁から日本海を見下ろす断崖の突端に、物々しい鋼鉄のフェンスが張られ、米軍は予定通りやってきた。
実際には、米軍直属の純粋な兵士は司令官を含めた米軍ミサイル防衛第十中隊の二十名程度。残りは弾道ミサイルを探知するためのレーダーを管理、運用する民間軍事会社の技師、そして民間軍事セキュリティ会社の警護担当社員。総勢百五十名ほどの軍属が、それまで棚田以外にはなにも無かった寒村の僻地で防衛任務に就いた。
たった一年足らずで、地域を取り巻く空気は一変してしまったのだ。
主に、田舎での長閑な記事ばかり書いていた金堂も、否応なく基地関係の記事の取材に追われる毎日に変わった。
金堂は疲れきっていた。うらにしと呼ばれる、この地域独特の、急なにわか雨が、次第に雨脚を強めてきた。冬になるとまず一日中晴れていることはない。初めてここに勤務したころはよく「弁当忘れても傘忘れるな」という古くから地元住民が言い伝えている言葉をよく聞かされたものだ。うらにしの雨はただの雨ではない。冷たく、神経の奥の奥に響く驟雨であった。
車の中に居ても、その呪われた湿気は金堂の神経に侵入し、こめかみがキリリと痛んだ。金堂はサイドボードを開け、頭痛薬代わりに医者から処方された精神安定剤を処方箋の袋から直接1シート取り出して、銀色のシートを左手で押し出して2錠口に放り込んだ。
運転中の服用を医者からは禁止されていたが、安定剤でも飲まなければさっきから頭痛以上に激しさを増している胸の鼓動を抑えられなかった。三十八歳。それなりに場数はこなしてきた。本社勤務のころは暴力団への直接取材だって経験している。
それでも今朝突然に送信されてきた「鷗盟会」からの呼び出しメールが、金堂の記者としての経験など簡単に吹き飛ばすほど、金堂に心の動揺をもたらしていることは、金堂自身が一番分かっていた。そもそも、仕事用でなく個人の携帯電話のアドレスは、ごく一部の人間にしか知らせていないはずだった。どうして俺のアドレスを知っている? 金堂はライトも付けずに暗闇のトンネルに突入していくような、底の無い不安に自然とアクセルを強く踏み込めないでいた。
「鷗盟会……」
もう一度口に出して言おうとしたが、口の中がカラカラに乾き、声が出なかった。ドリンクホルダーの缶コーヒーで安定剤を流し込み、これ以上悪く考えるのは止めようと、自分に言い聞かせた。
薬が効いて、注意力が散漫になっていたせいか、金堂は完全に気をぬいていた。
田舎の道は突然鹿が横切ることがある。衝突事故も頻繁に起こっている。先日、「過疎地を悩ます問題」というテーマで、異常に繁殖する野生鹿の記事を書いたばかりだった。
記事を書いた本人がまさか記事と同じ目に遭遇するとは。
「ちっ、しまった!」
ハンドルを切るのがやっとだった。例え急ブレーキをかけていたとしても回避は無理だったろう。いくら注意力が落ちていたといっても、金堂にはそれがまったく視界には入らなかった。
唐突に、車体全体に強い衝撃だけが奔ったのだ。
時間はまだ午後二時を少し回ったところ、雨は降っていたが視界が悪いほどではなかった。対向車も無かった。人が横切ったならいくら前方に注意していなかったとしても、ギリギリでブレーキは掛けていた。そこまでもうろくはしちゃいない。
金堂は実際に鹿を跳ね、事故をおこした地元住人を取材していた。
鹿は突然、草むらや林から飛んでくるから充分注意していても避けようがない。取材通りだった。
轢いたものはしょうがない。国道で車に轢かれて死んでいる野生鹿の死体を金堂も何度となく見たことがあった。
鹿には気の毒だが、車がオシャカになってしまうこっちだって不運の何ものでもない。
その刹那、金堂は自分の死を意識したのか妙に冷静だった。衝撃を感じた次の瞬間にはハンドルを海側ではない反対の山側に切り、急ブレーキは掛けずにアクセルから足を離した。
下手にブレーキを掛けると、濡れた路面でタイヤがスリップし、断崖から海に真っ逆さまという最悪の結果になりかねない。そこまで冷静に考えて、わざとブレーキは掛けず、山肌に車体の側面をぶつけながら減速させた。
車は激しく揺れ、危うく横転しそうになった。
「駄目か」
金堂は思わず目を閉じた。こんなにもあっけなく人は人生を終えるのか、そう諦めかけた時、運良く追い越し用の拓けた路肩に車は吸い込まれるように突っ込んだ。
ガタガタと揺れは小刻みになって、ようやく停止した。エアバックは作動せず、金堂がゆっくりと上体を起こし、目を開けるとフロントガラスにヒビがはいって、ボンネットから白い煙が立ちあがっているのが見えた。
身体のあちこちが痛むが、幸い骨折などはしていないようだ。金堂は自分の身体を確認すると、山肌にぶつけたせいでひしゃげてしまったドアをなんとか蹴破り、車外へと這うように出た。
雨粒が半壊した車に当たり、熱で蒸発し、シューシューと音を立てた。ガソリン漏れは無かったようで、すぐに白煙は収まり延焼は免れた。
最初、それは鹿の角に見えた。
事故を起こした瞬間から、金堂は自分が衝突したのは野生の鹿だと完全に思い込んでいた。仮に鹿でなかったとしても、やはり野生のイノシシか、それともツキノワグマか。それ以外のものは思考の選択肢にはなかった。
見通しの良い道路で確かに人影は無かったのだ。
「まさか……。そんな」
薬のせいかもしれない。が、いつも飲んでいるごく有り触れた安定剤だ。そこまで自分は疲労、否、疲弊していたのだろうか?
金堂はボンネットにめり込んだそれを、現実の光景と認識するのにしばらく時間が必要だった。
白煙が消え、金堂の両眼に映ったのはまぎれもなく人間だった。角に見えたのは、あり得ない方向に曲がった人間の片腕だった。即死なのは、ぐにゃぐにゃに曲がった四肢と見開いたままの瞳を見れば、金堂にもすぐ理解できた。
「人身事故を起こしてしまった。人を殺してしまった……」
車が停止するまでは冷静であったのに、その壮絶な光景を目にした途端、冷静さはどこかに消し飛んだ。
「どうする? どうする? 電話、そう電話しなければ!」
ようやく金堂は痛む身体を引きずるように、車から一端離れ、ジャケットの胸ポケットに入れていた携帯を取り出した。プライベート用か仕事用かどっちで掛けるか一瞬迷ったが、仕事用の電話で119番を押した。110番を押す勇気はなかった。指が震えているのが自分でも分かった。
この時、鷗盟会のことなどすっかり金堂の頭の中には無かった。
「人を殺してしまった」
圧倒的な絶望感だけが、巨大な黒い鉄球になって金堂を襲った。
うらにしの雨はいつの間にか止んでいた。
「消防ですか?救急ですか?」
携帯の向こうから聴こえる救急センターの声すら金堂には現実に思えなかった。
2
薄い木製のパーテーションだけで区切られた、ごく簡易的に作られた小さな個室スペースに、事務用のテーブルが真ん中に置かれ、建物の壁側には大柄の男が、出口側には女が座っていた。パーテーション出口の外側には座らされている男よりはずいぶん若いが、やはり大柄のACU姿の男が二人、周囲から個室を護衛するように立っていた。薄い仕切りなので男と女の声は外まではっきりと聴こえていた。
「これからあなたの上官としてあなたを尋問します。これは軍の規約に法った適切なる尋問です。もちろん黙秘権も認められます」
UCP迷彩のジャケットを着こみ、同じ迷彩柄のキャップを目深に被った女が、感情を一切出さず、事務的な口調で目の前の男に言った。
男の方は、ぐっしょりと濡れたオリーブドラブ色のレインコート姿だった。フードは下ろしていて、髪もまだ乾ききっていない状態だった。男はタオルを要求したが、自殺または抵抗の可能性があるからと女に却下された。
歳は明らかに男の方が上だ。深く刻まれた額のシワはどこか凄みすら感じられた。決して一般市民には出せない濃いオーラが男には漂っていた。むしろ、尋問をすると言った女の方が、なにかに怯えているような気配があった。が、男にそれを悟らせたくない女は、感情を押し殺して、溜め息ひとつ漏らさずまっすぐに男の目を見て尋問を始めた。
「あなたは、上官の命令を無視しました。それは認めますか?」
逆に男の方が短い溜め息を吐いた。落胆の溜め息というよりは、女を完全に下に見ているようで、溜め息の中に微笑が交っていた。女が激昂するのを期待している様子だ。
女もその程度の揺さぶりには負けず、あくまで冷静に、同じ質問を繰り返した。
「あなたは上官の命令を無視しましたか?」
「イエス」
ゆっくりと一回まばたきをした後、男が今度は素直に、女の質問に答えた。
「命令違反は認めるのですね?」
その言葉に男は首を横に振った。
「違反? 確かに私は命令を無視して行動を起こした。それは認める。だが……行動そのものは違反ではない。適切な対処だった。私がおもちゃの兵隊ってのなら話は別だが、私は自分の職務を行っただけだ。決して違反ではない。命令そのものに大きな間違いがあったんじゃないのかね? ポスターガールさん」
女はポスターガールと言われ、ほんの少しだけ眉間にシワをよせた。
「はっきりさせておきます。この尋問は録音されていることを忘れないように。それに私は広報官ではありません。列記としたこの施設の責任者です。年齢や経歴は関係ありません。あなたの立場は、正確には私の部下ですらありません」
男ははっきりと侮蔑の笑みを浮かべた。
「そうだな。私はあんたの部下ではない。いわば雇われのマーセナリーにすぎない……。どうだい? こんな尋問になにか意味はあるのか? 私を拘束するならいくらでも拘束すればいい。私は抵抗もしない。『 頭の狂った年老いた傭兵が銃を乱射してその場で射殺された』なんて見出しで、明日のニュースペーパーに載りたくはないしな」
「私は真面目に質問……いや尋問しているのです!」
ついに耐えきれなくなったのか、女の語気が強まった。
男は寸分も動揺することなく、癇癪を起した幼い娘を諭すかのように女に言った。
「シイナ。いや、シイナ・リース少佐と呼ぶよ。少佐は私の尋問なんかより、今すぐにしなきゃいけないことがあるだろう? まだまだ軍人として足りない部分があるね。だから虚勢を張らなくちゃいけなくなるんだ。上官であるならもっと堂々としていれば良い。本国のデスク組のやつらのようにね」
シイナは男の言葉にすぐには返せなかった。しばらく無言で男を睨んだあと「すでに横須賀基地には報告してあります。日本の防衛省にも自衛隊分屯地を通じて報告は入っています。明日には正式な処分が下るでしょう。これはあくまで有事の際の、事務的な尋問でしかありません。あなたを本部に引き渡すまでの間、この施設内であなたを拘束します」そう返すのがやっとだった。
言ったあとシイナは「しまった」と思った。
男はその言葉がまさに欲しかったのだ。
「有事の際と今言ったね? このやり取りは録音されている。君は確かに今、有事という言葉を使った。私にはそれで充分だ。さぁ、とっとと手錠でも拘束具でも持ってきてくれ。なにせこんな山小屋のような要塞には牢屋もないだろう。あと……。もちろん私の会社、ベアーズ社にも連絡は入れてくれているだろうね?」
シイナは自分の動揺を隠せないまま、短く「イエス」と答えた。
「サンキュー。これで私も本国で英雄になれそうだ。そろそろ引退してもいいころだと考えていたんだ」
男の言葉を聞き終える前に、シイナは席を立った。すぐにパーテーション出口から、シイナと同じ迷彩の軍服を着た二人が入ってきて、男を後ろ手にして手錠を掛けた。
「ジェイソンさんすいません。これも任務です」
若い兵士の一人が、シイナに聴こえないように小さい声で言った。
ジェイソンと呼ばれた男は、優しい笑顔を浮かべ「なにも問題はない」と返した。
施設の外が少しだけ騒がしくなってきたようにジェイソンは感じたが、それが日本の自衛隊なのか、警察なのか、それとも風が強くなっただけなのか、建物の中のジェイソンには分からなかった。
静かに目を閉じて「腹が減ったな」と思った。
先月からランチがやっと変更された。半年前からランチの改善要求を出していた。たかが昼飯のためだけに半年も待たされた。その前は滞在しているホテルの壁が薄すぎると、部屋の改善要求を出して、これも専用宿泊施設が造られるまで半年待たされた。今週ようやくその施設に移れるはずだった。どうせ突貫工事で造られたプレハブと大して変わらない安いアパートメントだ。ジェイソンはまったく期待はしていなかった。昔居た中東の某国ではスプリングもない簡易ベッドに薄いタオルケットだけで二年も住んだのだ。それに比べたら日本は天国だった。ただ、天国は自分にとってはいささか退屈すぎたなと、ジェイソンは日本での数年を思い返した。
本国に還されるまでに、ここの鹿肉のハンバーガーをもう一度だけ食べておきたいな。その日、昼食を食べていなかったジェイソンは、先月から大幅に改善されたランチの中にあったメニューのひとつを思い出し、腹が鳴った。
空腹で腹が鳴ってしまうなんて俺もずいぶん日和ったもんだ。これが、軍事評論家がよく日本人を揶揄する時に言う平和ボケっていうやつか……。
ジェイソンは心の中で自分自身を罵りつつ、傍で監視している若い兵士に「ところで昼食がまだだったんだがね」と控えめな声で言った。
「申し訳ありません。夕食の時間までは水しか出せません」
若い兵士は表情を崩さず答えた。
「それも規約に入っているのかい? 本国に帰ったら本社から正式に軍に抗議させてもらうよ。まぁ君たちを直接訴えるわけじゃないから安心してくれ。私もかつては軍に居たんだ。君たちの立場もよく分かっている。だから君たちに代わって私が行動を起こしたんだ」
「それはここにいる全員が同じ気持ちだと思います」
拘束されている者への私語は厳禁だという事をつい忘れ、若い兵士は思わず口にした。
「そうだといいんだが……。君たちの上官は決してポスターガールなんかじゃないからな。少なくとも私は彼女の兵士としての優秀さはよく知っている。だが、彼女だけはどうも私と考え方が違うようだ。まぁ戦場に居ればいろいろあるが、この国ですっかり平和ボケして錆びてしまったんじゃないかと心配しているんだ」
拘束されているにも関わらず、ジェイソンはリラックスした態度で言葉を続けた。
これにはさすがに若い兵士も全面的に同調するわけにはいかず、「今の言葉は聴かなかったことにします」
としか言えなかった。
ジェイソンも若い兵士の困惑した表情を察して、独り言として「ああ、腹が減ったな」と呟き、再び目を閉じた。
施設の空調の音に混じって、今度ははっきりと、崖下の海の潮騒がジェイソンの耳に届いた。
建物の中に居ても波音が聴こえるようになった。つまり、もうすぐこの海にも本格的な冬が訪れるのだな。ジェイソンは去年の冬の事を脳裏に浮かべた。まだつい先月のことのように思えるし、遠い昔のことのようにも思えた。
やはり故郷に帰ろう。故郷には海はなかったが、代わりに大きな河が流れていた。貯金は充分ある。河の畔に小さい家を建てて、シェパードかドーベルマンでも飼って、ハンティングでもしながら長い余生を過ごそうか……。
ジェイソンは微かな潮騒を聴いていると、急に強い望郷の念が湧いてきた。こんなことは今まで一度もなかった。自分はとっくに国を捨て、帰る場所のない流浪のストレンジャーになったのだと自負していた。
「歳のせいか……」
うんざりした気持ちになって、夕食までしばらく眠ろうと、ジェイソン・バークリーはいろいろと考えるのを止めた。
3
「事故です。場所は国道178号線。I町の、えっと、米軍基地の近くの……。そう、そうです!トンネルを抜けた付近。交通事故です。パトカーの手配もお願いします。けが人の具合?あっ、ちょっとよく分からないのでとにかく救急車を早く寄こしてください。はい、わかりました。十分ほどですね。お願いします」
自分でも情けないくらいしどろもどろだった。けが人の具合など、冷静に見ればどう考えたって手遅れだ。だが、金堂はセンターの相手にその状況を話せなかった。単にその時は怖かった。本当に自分が事故を起こしたのか?金堂は警察にすべてを委ねることにした。少なくとも通報の義務は果たしたのだ。過失を自ら認めるのを躊躇ったのは、やはりどうしても受け入れられない状況がそこにあったからだ。前方に人影は見えなかった。
考えられるのは、自殺目的でギリギリのところから急に飛び出したか。それにしても、本当に一切見えなかった。
なんとか正気を保ち、電話を終えた金堂は深く深呼吸をした。
雨は止んだが、強い海風が打ち寄せる波しぶきをここまで運んだのか、金堂の顔にしょっぱい霧粒が当たった。
急に寒気が金堂を襲った。最初は大丈夫だと思っていたが、どこかケガをしたのかもしれない。防寒用のゴアテックスを車の中に置いたままなのを金堂は後悔した。真冬なら車中でもジャンパーは着たままだったが、季節的にはまだ冬が訪れるまで少し時間があった。
車に取りに戻ろうかと悩んだ。しかし金堂はボンネットにめり込んだ人のその姿を一度目にしてしまっていた。
救急車が来るまで十分ほどだと電話の向こうで指令所の人間は言っていた。
「十分ならなんとか我慢しよう」
金堂は両腕で自分を抱え込むように、湿った土の上にうずくまった。やけに静かだなと金堂はふと思った。
事故を起こしてから長い時間が過ぎたように金堂は感じていたが、実際はまだ三分も経ってはいなかった。金堂は職業柄か、こういう非常事態時の対応は、他の一般市民に比べたらずっと迅速で的確だった。金堂自身が大きなケガを追ってないおかげもあったが、普通の人間よりも事故後の対応は早かった。
それにしても、この数分間、事故を起こしてからの数分、国道に一台の車も走っていないことを、ようやく落ち着いてきた金堂は不思議に思っていた。
夏の海水浴シーズンは渋滞することもある道だが、イカ釣りのシーズンも過ぎ、釣り客も減ってくるこの時期、確かに交通量は少ない。時間も午後を遠にすぎている。一番交通量の少ない時間帯であることは確かだった。にしても静かすぎる。
金堂の耳に海風の音だけが、体感できる痛い寒さを纏って吹きつけてくる。口の中を少し切ったらしい、錆び鉄の味が噛みしめた奥歯から舌先に拡がった。
「鷗盟会」
無意識だった。突然の事故で頭の中からすっかり消えていたその名を、金堂は無意識に口に出した。その途端、体感している寒さとは別の悪寒が背筋に走った。
「もしかしてこれもあいつらの……」
恐ろしい考えが、一瞬だけ金堂の脳裏に浮かんで消えた。
「いや、いくらなんでもそれは考えすぎだ。こんな、いち地方記者をそこまで追い込みはしない。あいつらだってバカではない」
金堂はすぐに自分が想像したバカげた謀略を打ち消した。同時に、ただの人身事故を謀略だと考えてしまった自分が怖くなった。
起きてしまったことはもうしょうがない。あとは警察に任せるしかない。会社は首になるだろう。自分にはもしかしたら休息が必要だったのか。疲労困憊していた。だからこの事故は必然だったのだろう。金堂の心に完全なる諦めが芽生えかけた時だった。
ゴォォォォォォォォ。
海風とは明らかに違う、機械的な轟音がすぐ近くの山の斜面から聞こえた。
金堂はこの音をよく知っていた。取材で何度も聞いた音と同じだった。
「ヘリ?」
金堂は音のする方を見上げた。上空百メートルもないほどの距離にはっきりと確認することができた。
「ドクターヘリ…」
金堂はその機体を何度か取材で見ていた。否、ここら一帯の住人なら知っていて当たり前だった。
過疎地の人々の命を繋ぐために数年前に、三都道府県が共同で、隣接する兵庫県T市にヘリポート完備の救命救急センターを誕生させた。その時、ドクターヘリも就航開始した。ドクターヘリはその名の通り、ドクターが直接搭乗して、救急を要する患者を迅速に救命センターやその他の総合病院へと搬送する、搬送中も救命治療が行えるまさしく命を繋ぐヘリだった。
金堂の過去の取材では、ヘリの搭乗員は民間委託のパイロット一名、整備士一名、フライトドクター一名、フライトナース一名。患者の状態によっては、さらに一~二名ほどのスタッフが搭乗する。
ヘリは決められたランデブーポイントまで飛行し、救急車が一度ランデブーポイントまで患者を運び、そこでヘリに搬送を引き継ぐ。緊急を要する際は、ヘリが離着陸できる学校の校庭や公園なども使われることもあるが、基本は決められたランデブーポイントにヘリは着陸する。この付近のランデブーポイントは、近くの航空自衛隊分屯基地のヘリポートが主に使用されていた。
なので、金堂もドクターヘリが要請されたのだと思った。しかしその思いはすぐに疑問に変わった。
ヘリ要請はまず救急隊が現場に来るか、事故の状況を判断してからセンターに連絡がいくのだ。その手順は金堂も取材で聞かされたし、実際に自分でドクターヘリの記事も書いたことがあった。電話では事故としか言っていない、ケガ人の状態も伝えていない。そもそもいくらヘリといえ、現場到着が異様に早すぎる。
まだ救急車も到着していないのにヘリが先に現場に来ることはありえない。考えられるのは、同時刻に別の場所で、別の救急要請が入って、金堂が電話したよりも先に救急車が出動した。それくらいしか、金堂には咄嗟に思いつかなかった。
ヘリには確かにドクターの文字が入っていた。金堂本人が自分の目で何度も見ているので間違いはなかった。
「他にも救急要請があったのか?」
ヘリは低空飛行で、山肌ギリギリのところをホバリングしているように見えた。そのホバリングもどこか変だった。
ヘリは右に左に蛇行しながら、旋回というよりはきりもみ状に飛んでいた。機体がまったく安定していなかった。エンジントラブルが金堂の脳裏に過った。あのままでは墜落するかもしれない。
もうひとつ、新聞記者である金堂にある疑問が浮かんだ。
「ここは完全に飛行制限空域……。レーダーの停波はしているのか?」
金堂の疑問とは、昨年本格的に可動しはじめた米軍レーダー基地から照射される電波の影響で、近くを航行する船や飛行機などの計器に異常が起こる可能性が否定できないと、米軍と防衛省の間で決められた、基地から半径六キロ圏内の制限区域のことであった。ランデブーポイントがその飛行空域に入っているため、ドクターヘリなどのごく限られた緊急を要する飛行のみが許可されていた。ドクターヘリが飛行制限区域を飛行する際は、消防署を通じて、レーダーの停波要請が米軍側に入り、搬送を終えるまで電波が停止されるのだ。
この一連のやり取りにはまださまざまな問題があって、実際に訓練も行われていた。停波されるまでどれだけの時間を要するのか、どのような連絡経路で電波が停止されるのか、大筋の流れは、一応は地元住民や報道機関にも説明はあったが、詳しい運用方法は機密にあたるとして、社会部にも地元の警察にさえ伝えられていなかった。この問題は、ヘリ一台が命を左右する過疎の村にとっては見過ごすことのできない大きな話題になっていた。
運用が始まってから、電波が何度停波されたのか、金堂も関係者に取材を申し込んだが、「防衛上の機密にあたる」として、市の担当から回答を拒否された。民間ヘリの運航状況が軍事機密にあたるのはおかしいと、金堂はすぐに防衛省に抗議した。すると今度は手の平をかえすように、ヘリの運航については機密ではないと防衛局から「市の担当に情報を開示するように」とお達しがあった。市の担当は、当初は防衛省から情報開示をしないで欲しいと言われていたのに、突然許可が下りたことに対し不信感を表した。正式に市から府を通じて国に抗議するという話にまで発展してしまった。
つまりはすべてが見切り発車だったため、しっかりとしたマニュアルも作られていなかったのだ。その中で、ダブルスタンダードな状況がまかり通っていた。なにが機密でなにが機密でないのか、責任者すら分かっていない。不安要素を抱えたまま過疎の地域医療は運営されていた。
そういう経緯で、金堂はつい最近、ドクターヘリと米軍基地問題を記事に取り上げたばかりだった。
金堂は今目にしているドクターヘリの異常が、ただのエンジントラブルではないと直感した。なにかもっと大きな緊急事態が起こったのではないのかと、不吉な予感を覚えた。
悪い予感はあれこれと考える間もなく直後に現実になった。
山肌でフラフラと飛行していたヘリのローダー部分に火花が見えた。その直後、ヘリは「ギュリリリリィィ」と、異音を発しながら山の方に消えてしまった。
数秒後、バリバリと木々をなぎ倒す大きな音が辺りに響いた。
金堂の居る場所からヘリの姿は見えなかったが、その音からヘリが墜落したのだと金堂は察した。
自分が起こした事故。突然現れて墜落したドクターヘリ。
金堂はこの数分間で、この世の終わりを見たような気持ちに包まれた。
ドクターヘリの墜落は運行開始してから初めてのことだった。墜落どころか、これまで大きな事故も起こしていなかった。
このタイミングでこの場所で、そして自分の目の前で……。
まだいったいなにが起きているのか、金堂は理解できていない。でも、この道を運転していた時からずっと、金堂の胸に去来していた不確かな闇がついに実態を現したような、さっきとは次元の違う絶望感に見舞われた。身体のあちこちから悲鳴があがり、金堂はついに気を失ってしまった。
「鷗盟会」
金堂の薄れゆく意識の中で、呪詛のようにその名が木霊した。
救急車のサイレンの音がようやく耳に届いたが、その先の記憶がそこでブラックアウトした。
4
「都倉さんK市のM警察署から応援要請がきてます。すぐに現着しろとのことです」
若い刑事が、上着を羽織り本部室から出て行こうとしていた男性刑事を呼びとめた。刑事の名は都倉英二といった。今年で五十二歳になる京都府警本部のベテラン刑事だ。
出世に興味がなく、高い検挙率を誇りながらも、警部補止まりで、本人もそれ以上の出世は望んでいない。現場がすべての昔堅気な刑事だ。若い刑事に負けないよう身体も鍛えている。そのおかげで年齢より見た目もずいぶん若い。
「応援要請? 鑑識じゃなく捜査員がか? 俺はこれから先日の詐欺事件の件でガサ入れの令状を取りに行かなあかんのや。偉いさんの運転手ならおまえかもっと若いやつを寄こせばいいやろ?」
「それが、なにか難しい事態らしくて……。本部長はちょうど出張中ですし、次にベテランなんは都倉さんくらいしかいはらへんので」
「なに? 本部長が行かなあかんような大事件なのか? いったいなにがあったんや?」
「それもはっきり解らないんです。とにかく現場に着いてから詳しい話をするらしくて…」
「解らないってなんや。K市って言ったな。あそこの応援要請はだいたいいつも秘密が多すぎる。今からすぐに出ても着くのは夕方過ぎるぞ」
「それは安心してください。すでにホテルの手配はしてあるそうです」
「やっぱり泊りか……。鑑識の方は?」
「鑑識の要請はありません。それに捜査員は都倉さん一人で大丈夫だそうです。こっちもいろいろ出払っていて二人しか送れないって先方に言ったら、応援は一人で良いらしくて」
「鑑識はいらんってことは殺人ではないのか。だいたい俺みたいなオッサンが一人行ったところで応援になるんか? まぁええ。今夜は早よ帰るって言ったのにまた嫁はんに嘘つき呼ばわりされるわ。平のデカは辛いな」
「都倉さんはぜんぜん平やないじゃないですか。試験さえ受けたらとっくに本部長どころか署長になれるほど優秀やないですか」
「おおきに。その言葉だけ大事に貰っとくわ。じゃあ詐欺の件だけ頼むわ」
「了解です」
「あっ、あと、何日拘束されるか分からんから、そっちでなんかあったらすぐに連絡くれよ。今回の詐欺事件はちょっとめんどくさいからのぅ」
「分かりました。安心して、日本海のカニでも堪能して来てください。もちろんカニのお土産期待してます」
「おお、憶えとったらな」
都倉は出張中の本部長に一度確認を入れたが、やはり現場で話は訊けという。悪い予感しかしなかったが、長年刑事をやっていると最悪の状態にも耐性が出来てくる。
簡単な事件でないことは都倉も察知していた。
K市が合併して市になる前はよくイカ釣りに行ったことがあった。昔は四時間近くかかったが、最近縦貫道が開通したおかげで、高速道路を飛ばせば二時間半かからずに到着できる。
都倉は府警を出てから腕時計を見た。午後四時を少しまわったところだった。二時間半で着くとしてもやはり日没までに到着は無理だろう。秋も深まり日もずいぶん短くなった。
今夜の晩飯でカニを食べるのは無理だろうな。そんなことを考えながら、都倉はまっすぐ高速入り口に覆面パトを走らせた。
冬の観光シーズン前ということもあり、K市のM警察署までは予想していたよりもかなり早く着くことができた。到着と同時にちょうど日没を向かえた。
K市に来る途中、テレビの報道車と思われる車を何台か見かけた。デカの感でしかなかったが、そうとうややこしい事が起きたのだろうと都倉は考えていた。M署の関係者専用入口で一度足を止め、気合いを入れてから署内に入った。
すでに事件記者と思われる人間が何人か、広報窓口に詰めていた。制服の警官も署内を慌ただしく走りまわっていた。
都倉は、M警察の署長自らに案内され、二階の会議室にまっすぐ向かった。
「こりゃ今夜はカニで一杯って雰囲気ではないですね」と、冗談のひとつも言おうとしたが、どうも事態は都倉が想像しているよりも深刻らしい。上着を脱ぐ間もなく、会議室に入ると、地元の刑事たちが険しい表情で都倉の方を一斉に見た。
都倉も刑事たちの顔を見てスイッチを入れ替えた。
「さて、どういう事件か説明してもらえますか?」
重苦しい空気の中、都倉はこれまでの事件経過を詳しく聞かされた。事件の概要は都倉の想像をはるかに超えていた。
夕食どころか、今夜は徹夜になるだろう。都倉は長い出張になりそうだと覚悟した。
「あと二人、刑事を寄こしてくれ。本部長には伝えなくていい。責任は俺がもつ」都倉は府警本部に電話を入れた。
5
夢の中で金堂は追われていた。何百回と見た夢だ。現実ではないと金堂も分かっていたが、何度繰り返しても悪夢は去ってくれない。そこに辿り着くまではぜったいに夢は終わらない。
大きなごつごつした大人の手が幼い金堂の肩を揺さぶる。
「痛いよ。やめて、やめて」
いくら懇願しても、肩を掴む指はどんどん強く肉に食い込んでいく。酷く揺さぶられて頭が朦朧としてくる。吐き気がこみあげる。
腹のどこだかが焼けるように熱くなり激痛が襲う。
「やめて。ごめんなさい。ごめんなさい」
掴まれた手をなんとか振り切って、金堂は逃げる。
だが、子どもの足ではすぐに追いつかれてしまう。
頬を叩かれ、背中を蹴られ、その場に蹲っても暴力は止まらない。
「殺してやる!」
「殺してやるからな!」
明確な殺意が少年の全身の筋肉を固まらせる。叩かれすぎてもう痛みも感じなくなる。涙があふれる。
と、急にどこかの公園に場面は飛ぶ。
その公園では少年は笑っている。他の子たちと同じように、楽しそうに駆けっこをしている。
「おーい、アメちゃんあるからおいでー」
優しい声で少年は呼ばれる。大人の男性の声だ。
「わぁーすごい。外国のアメみたい」
少年は目を輝かせて、綺麗な花の絵がプリントされているブリキ缶に入った色とりどりのアメ玉を両手いっぱいに缶からすくいあげる。子どもの手では持ち切れなくて、何粒かはクローバーの葉に覆われた地面に落ちて、そのまま転がってどこかに行ってしまう。
「食べてもいいの?」
「ああ、いいよ」
「ありがとう。お父さん」
お父さん……。
逆光で顔がまったく見えない男性を、少年はお父さんと呼ぶ。
お父さんではないのに。
少年がお父さんと呼んだ途端、何故か少年の心に憎悪が生まれる。少年はすでに金堂ではない。金堂の意識は俯瞰で少年を見ている。
「殺してやる!」
少年に向けられていた殺意が、少年の物になる。
殺意は無数のアメ玉となって、ブリキの缶から溢れだしてくる。男の表情は見えないのに、男が怯えている気配だけが伝わってくる。
「お父さん」
「お父さんと呼ぶな!」
「お父さん」
「やめろ!」
男は地面に転がったアメ玉を子どもに投げつける。
俯瞰で見ていた金堂が再び子どもと結合する。
「そっちの世界はどうだい?」
知らない声が空全体に響き渡る。
紫色の空。
公園だった場所が、真っ白な、なにも無い空間に変わる。真っ白の空間はどこまでも膨らんでいって、世界が終わる。
「そっちに行くのかい?」
知らない声。
少年と同化した金堂の体をなにかが貫く。
「父さん……」
金堂兼光は、自分の声で目を覚ました。なぜ自分は今、「父さん」と口にしたのか?まだ覚醒していないせいでぼんやりとした思考の焦点が合わない。なにか怖い夢をみていたという嫌な感触だけが、背中に残っていて全身汗びっしょりだった。
またあの夢か……。
ようやく、金堂は夢の世界から開放されたのだと気づいた。事故のことは……。あれは夢じゃなかった。夢であってくれれば良かったのに。ここは病院だろうか?俺は重傷を負ったのか?
やっと目を開けると、部屋の電気はつけられていた。やけに眩しく感じて、顔が強張った。腕には点滴針がテープで固定されていて、チューブの先には点滴のパックが吊るされていた。投薬されているのはただの栄養剤のようだ。
「金堂。やっと起きたか。大したケガがなくて良かったな」
憶えのある低い声が、金堂のすぐ頭上から聞こえた。
体を起こそうとしたが、目が覚めたばかりでうまく力が入らなかった。
「あっ、ええよ。そのまま寝ててくれ」
知っている声の主は、特に緊迫感もなく飄々としていた。
「医者の診断は軽い打ち身程度で脳にも以上はないんやって。おまえ仕事でよっぽど疲れてたんやな。一応一泊だけ入院ってことらしいわ。あとのことは会社の人がやってくれてるみたいや」
金堂は上半身だけなんとか起こして、声の方へ顔を向けた。
「都倉さん。どうしてここに?」
金堂は刑事の都倉英一をよく知っていた。京都市内の本社に勤務していたころよりも、ずっと前から都倉は心を許せる数少ない知人の一人だった。
「何年ぶりだ? 君がまだ本社勤務のころ一回飲みに行って、それ以来か。もう五年以上まえになるな。歳をとると年々時間が早くなってまいるよ」
五年経っても金堂の中での、都倉の印象はなにも変わっていなかった。あえて本題を先に訊こうとしないやり方も、昔から変わっていない。都倉は府警本部の刑事だ。応援要請がないかぎりここに来ることはない。心を許せる知り合いではあったが、プライベートで頻繁に遊ぶ間柄ではなかった。どちらかと言えば、頼りになる人生の先輩といったところか。
金堂が病院にいて、そこに都倉が現れたということは事件がらみに決まっている。しかもかなり大きな事件だ。
都倉が自分に気を使ってくれているのか、それとも言い難い用件なのか、とにかく話を前に進めたくて、金堂から都倉にきり出した。
「僕のことで呼ばれたんですか? あの、僕は……」
「大変な目にあったな。まさか金堂が巻き込まれているとは思わなかったからこっちの刑事に聞いて急いで病院に来た。応援要請で呼ばれたんだが、正直俺の出番は今夜はなさそうや」
都倉は金堂が巻き込まれたと言った。金堂にしてみたら自分が起こした事故だ。巻き込まれるという表現はおかしい。
「都倉さん、今、巻き込まれたと言いましたね? 僕は人を車ではねた。そのあと突然ドクターヘリが現れて……。ちょっといろいろあったからまだ頭の中の整理がついてないんですが……」
金堂は都倉になにがあったのか訊きたかったが、どこから訊いていいのか考えが纏まらなかった。
「普段いろいろな事件に接している君でも混乱するのは無理もない。起こってはならんことが起きてしまった。ちょっと訊くが、君は確実に人を轢いたのか?その自覚はあったのか?」
人を轢いた自覚はあったのかと訊かれ、金堂は少し考えてから口を開いた。
「実は、突然だったのでなにも分からんのです。車で走っていたら急に衝撃が来て、咄嗟にハンドルを切って停車させました。前方になにも見えなかったんです。道路の見通しはよかった。けど、なにも見えなかったからブレーキを踏む間もなかった。最初、僕は野生の鹿でも轢いたのかと思ったんです。あいつらは突然草影から飛び出してくるから」
「死体は見たのか?」
死体という言葉に、金堂は背筋が凍った。やはり死んでいたのか。金堂は唾を飲み込んだ。都倉は続けた。
「金堂君、君は死体の顔を見たのかい?」
そう訊かれて初めて金堂は気づいた。
そう言えば、あの時、気が動転しすぎてボンネットに食い込んだ人間の顔をはっきりと認識していなかった。見開いた目は憶えている。しかし、ぐにゃぐにゃに変形してしまった人間の最期が壮絶すぎて、詳しい記憶は定かではなかった。
「男……。男だったことは分かりましたが、怖くて一瞬しか見れませんでした。断じて轢き逃げはしてません! 事故のあとすぐに電話はしました」
「死んでいるとは思わなかったんやな」
「そ、それは……」
正直なところ、あの時、もう駄目だろうなと思っていた。救急車を呼んだのは保身のためではなく、僅かな希望に託したかったのだ。金堂はそのことを伝えたかったが、言葉に詰まってしまった。
心のどこかに自分自身を庇いたい気持ちがまったく無いと言ったら嘘だった。もし、保身と言われてしまっても金堂は言い返せなかった。都倉は押し黙ってしまった金堂に、上着のポケットから一枚の写真を出して見せた。
「君は、あれは自分が起こした交通事故だと思っているようやな。安心しろ。あれは君が起こした事故やない。君は巻き込まれたんや。これを見てくれるか?」
金堂は言われるままに都倉が差し出した写真を手にとった。
写真には端整な髭をたくわえた作務衣姿の男性が写っていた。
「この顔は知っています。取材で何度か」
「中村雲海。歳はちょうど五十歳。米軍レーダー基地反対派のリーダーをしていた男や。本職は陶芸家ってことになっているが、これは自称でしかない」
「ええ、僕も取材で直接話をしました。元々地元の人間ではないようですが、基地建設反対運動の発起人で、陶芸家というわりに軍事関係にもずいぶん詳しかった。反対運動も最初は国の言いなりだった地元の老人たちを熱心に説得し、二年前は賛成派と反対派で真っ二つに割れていた地元の住民も、最後はほとんどが反対派についたんじゃないでしょうか。結局、建設阻止はできませんでしたが、レーダー搬入の際は反対派の住人たちが人間バリケードを作って、普段は静かな漁村が一色即発の事態になりました。あの時ばかりは全国からマスコミ関係者も大勢つめかけてましたね。もちろん僕も行きましたが、この男が警官に取り押さえられて、流石に騒ぎに慣れていない住民たちはそこで意気消沈して騒ぎは収束しました」
「相当な活動家だったみたいやな」
「ええ、地区の公民館で毎週反対集会を開いていたようです」
「基地建設が強行……いや、まぁ国からすれば計画通りではあったんだろうが、住民にとってはほとんど強行に近い形で完成してしまった。その後、中村雲海がどうなったか知っているか?」
「そういや、その後は一度も取材してませんし、話も聞かなくなりましたね。あれだけ大きな反対運動になったのに、地元住民もリーダーが手を引いたのでそれからは特に大きな事は起きてないようです。米軍側も誤解をとくために地元のお祭りやイベントに積極的に参加して地域での交流を深めてますし、ボランティアで海の清掃活動をしたり、レーダー基地建設後は表立った対立はじょじょに収まりつつあるようです。基地の司令官が女性ってところもどこか安心できるんじゃないでしょうか?」
「なかなか詳しいな」
「そりゃ、この地域担当の新聞記者ですから」
「俺は同じ府民だというのに騒動があったことすら詳しくはしらなかったんや」
「それはちょっと問題ですよ。一般市民ならともかく府警本部の刑事なのに」
「俺も歳のせいか面倒な仕事ばかり回されてな、ろくに新聞を読む時間もないんやわ。公僕としては失格かも知れん」
「いや公僕とは言わないですけど。すいません」
「謝らんでええよ。実際に最近は時事にすらとんと疎くて、目の前の仕事を片付けるのにやっとな毎日やったしな。定年までに本部が俺を潰そう思ってるんやないかって考えることもあるわ」
「それはないですよ。都倉さんほど優秀な刑事に僕は逢ったことがないです」
「天才作家さんにそう言われると心が楽になるよ」
「作家は完全に廃業したんです。前にも言いましたよね?」
金堂は都倉が急に作家の話を持ち出したので、うんざりした気持ちになった。
「ああそうやったな。でももったいないなぁ。もう本当に書かないのか?」
「はい、ぜったいにそれは無いです。ところでこの写真の、中村雲海がどうしたんですか? この男のことを訊きに来たんでしょう?」
「ああ、そうやった。久しぶりに会ったからついいらんおしゃべりをしてしまった。すまん。この男なんだが……」
都倉は金堂にM署で伝えられた事件の概要を教えた。病室の外には地元の警官も立っていたが、都倉が金堂と知り合いということもあって、都倉自ら金堂に話をさせてくれと直接面会に来たのだった。
一連の流れを聞かされた金堂は、驚愕のあまり再び気絶しそうになった。口の中がカラカラに渇き、都倉に水を要求した。ミネラルウォーターのペットボトルをもらい一気に飲みほした。口の渇きは治まったが、激しい動悸はなかなか止まってくれなかった。
都倉もこうなるのが分かっていたから、あえて世間話から始めたのだ。それでも金堂の驚愕が小さくなることはなかった。ともすれば、これから日本だけでなく、世界中が騒ぎ出す大事件に発展するかも知れない事態が起きていたのだ。
否、都倉の話を聞くかぎりではすでに事態は最悪のシナリオを描いていた。
「都倉さん、僕はすぐに行かなければならない所がある」
金堂がとつぜん起き上がって、ベッドから下りようとしたので、都倉は驚いて金堂の両肩を押さえた。
「行かなきゃならない所ってなんのことや? 君は容疑者じゃないから拘束はされないが、今夜は大事をとって入院した方がええ。仕事は他の記者がやってくれるやろう?」
「いえ、仕事じゃないんです。雲海はおそらく殺されたんです。それを証明するには僕がそこに行くしかない」
「は?ぜんぜん話が見えないんやが、なにか今回の事件について君は知っているんか?」
「なにが起きたのかは解りません。だから僕がそこに行かなくては」
「そこってどこや?」
「鷗盟会です」
「鷗盟会?」
「僕は今日、鷗盟会から呼びだされていました」
「そこに行けばなにか分かる言うんやな?」
「はい。確かなことはまだ言えませんが、中村雲海とも密接に関わっていることは事実です」
「俺が一緒に付いて行くのなら許可してもええ。駄目と言うんやったら病室からは出さん」
「都倉さんが一緒に居てくれるとむしろ助かります」
「そうか。一刻を争うのはこっちも同じ状況や。医者は大丈夫って言っとった。自分で退院するって言えば帰れるやろう。本当に大丈夫なんか?」
「問題ありません。いや、骨折していたとしても僕は行かなきゃならない」
「そうか、分かった。すぐに車を手配するから服に着替えろ」
都倉は金堂がなにを言っているのか理解できなかった。だが、金堂の形相は尋常ではなかった。ただの地方記者の顔ではなかった。よほど重要な話なのだろう。ベテラン刑事の都倉が一般人に気圧されることなど滅多になかった。さっきまで死んでいるのではないかと思えるほど深く眠っていた人間とは別人だった。
都倉の勘は当たっていたようだ。
都倉は事件に巻き込まれたのが金堂兼光だとM署で聞かされた時から、すぐにこの事件には裏があるなと直感していた。
都倉がM署から応援要請を受けたのは金堂と知り合いだったからではなく、おそらく本丸である警視庁からも刑事が来るであろう大事件に対処するための、橋渡し役を任されたのだ。地元の刑事だけでは役不足だった。
警察だけでなく、自衛隊や国の運輸安全委員会も動くだろう。都倉の優秀さは所轄にも伝わっていた。少々スタンドプレーも目立つが、都倉に任せればなんとかしてくれる。府警の幹部たちは都倉の知らない所で、よくそんな冗談話を交わしていた。
M署はすでにプレス対応でパンク寸前だった。捜査ができるような状況ではなかった。
通常の捜査が無可能な、難しい問題も抱えていた。
この国が過去何度も経験していたインシデントが、以前から危惧されていたにも関わらず、ついに小さな過疎の町で起きてしまった。場合によっては、沖縄で起きていた数々の基地関連の事件などよりも大きな、国際問題になりかねない大事件だった。
TVでは夜になって速報が流れた。
都倉がM署に来る途中に見かけた報道の車は、やはりこの事件を伝えるためだった。
TVの速報で流れた第一報はこうだった。
「京都府北部K市、日本海側に位置するアメリカ軍レーダー基地に民間ヘリと思われる機体が突入し、撃墜された模様」
速報では、墜落でなく「撃墜」の二文字が使われていた。
6
青森の冬も厳しかったが、ここの雨は神経に触る。
ジェイソンは雨脚が本格的になるまえにレインコートを着こんだ。真冬の雪に耐えうる軍用のゴアテックスジャンパーを一応は自分の車に積んでいたが、今日のウェザーニュースに雨の予報がなかったので積んだままにしていた。日本海の天候は変わりやすく、天気予報はまったく信用できない。またこの季節が来たのかとジェイソンは憂鬱になった。レインコートは自分の持ち場に常備してある簡易的な物だ。一応撥水加工はしてあるが、一時間も雨にさらされていると、じんわりと水が浸み込んでくる。
去年も珍しく風邪をひいて三日間ホテルで寝込んだ。軍から指定された病院にしか行ってはいけない契約になっていた。たかが風邪で、滞在しているホテルから一時間もかかる病院まで行くのは面倒だった。その時は同僚に近くのドラックストアで風邪薬を買ってきてもらい、なんとかしのいだ。
ここに来る前は、青森の基地で働いていた。なにもない町に造られた人間味のまったくない、コンクリートと金網だけに護られた簡素な基地は、北の厳しい冬に対してあまりにも脆弱すぎた。
平和が決して心の安定を生むとは限らない。
寒さに耐えながら、なにも起きない毎日を過ごす。
時々、自分はもうとっくに痴呆に侵されていて、トイガンをあてがわれ、どこかの老人施設で隠遁生活を強制させられているのではないかと、ジェイソンは妄想した。
簡素な基地は、防衛面だけの脆弱さならさほど問題はなかった。それをカバーするのがジェイソンや他の兵士の仕事であったし、第一、平和な日本で神経をすり減らすこともない。
たまに開かれる地元住民との交流会という、バカげたレクリエイションの方がよっぽど億劫だった。
一度、酔っぱらった地元の漁師に「ここから出て行け!」と石を投げられたことがあった。勤務中ではなかったので、取り押さえるわけにもいかず、幸い石もジェイソンには当たらなかったため、ある夜の小さな出来事として、ジェイソンは心にしまい込んだ。
上官や会社に報告もしなかった。
普段はニコニコしている住民たちの本音を垣間見た瞬間ではあったが、ジェイソンにとってはショックを受けるほど大きな問題ではなかった。昔、ジェイソンがまだ米軍に所属していたころ、中東の某国に派兵させられた。そこでの経験から、どんなにこちらが打ち解けようとしても、そこの人間にとって異邦人は異邦人でしかないと、嫌というほど味わっていた。
命を狙われないだけマシだった。
脆弱な基地と脆弱な町、その途方も無い退屈な時間をどう過ごすのかだけが、ジェイソンの日常での課題であった。
気軽に寄れるダイナーすらない。仕事が終わる時間には、町はすでに漆黒の闇で、まっすぐ宿泊施設に帰るしかなかった。
今は民間セキュリティ会社所属のため、兵士であったころより規律は厳しくなかったが、いくら自由な時間があっても、寄れる店もないとなると、日々は退屈なルーティンワークにしかならない。
死と隣り合わせだったあのころが懐かしくさえ思えた。
頭上を旋回するウミネコに向かって銃を構えたことが何度あったことか。もちろん一発でも発砲すれば国に強制送還だ。
敵国が攻めてきたら、こんなおもちゃの要塞はひとたまりもないだろう。支給されているアサルトライフルは、民間用の物でセミオートでしか撃てない。仮に軍用のフルオートだろうがセミオートだろうが、どっちにせよこれだけの人員での基地警護は不可能だと、歴戦を生き抜いて来たジェイソンはよく分かっていた。
私たちの役目は、ただ立っているだけ。おもちゃの要塞におもちゃの兵隊。ちっとも笑えやしない。
ジェイソンは深酒が醒めないまま出勤することが多くなった。
あと何カ月か青森での勤務が続いていたら、ジェイソンは本当に精神を病んでいたかもしれない。
もう会社を辞めて祖国に帰ろうかと考えだしたころ、京都に新たに基地が造られるという一報が舞い込んだ。
京都ならジェイソンもよく知っていた。
ジェイソンのイメージする京都も、他の外国人がイメージするのと同じように、古き良きジャパンであり、風光明媚な観光地であった。
話では、京都と言っても青森の基地と同じく、海岸沿いに建造される予定で、市内へは少し距離もあるという。しかし本国のように、ニューヨークに行くのに三日車を飛ばさなければならないってわけじゃない。地図を見た限りでは日帰りも充分可能な距離だった。
日本に派遣されてからは、二十四時間交代の勤務で、休日はただ体を休めるだけの毎日だった。
祖国に帰るまえにあと数年は、日本を満喫してもいいだろうと、ジェイソンはK市への移動願いをだした。
本来は下請けセキュリティ会社の一般社員でしかないジェイソンの移動願いが簡単に通りはしない。ジェイソンの輝かしい経歴があったからこそ、移動願いは受理された。
そして、K市に着任して二年が経った。
理想と現実の違いを、そろそろ自分でも見極められるようになりたいものだと、ジェイソンは強く感じていた。
いったい何度繰り返せば気が済むのだろう。
元々、軍人に向いている性格だとは思ってはいない。だからこそ、自分は軍から去った。退屈が厭で、結局軍事関係の仕事に再就職した。体力の衰えも感じていた。だから、赴任先を平和な日本にした。いくら平和と言っても、酒をあおりながらできるほど甘い仕事ではないだろうと考えていた。まさかデスワークよりは退屈はしないだろうと。でも日本での現実は、酒に酔ったまま、ウミネコに銃口を向けても、同僚に呆れた顔をされるだけで一日が終わってしまうルーティンワークだった。
あの時、やっぱり辞めていれば良かった。自分にこの国を護る義理がまったく無いわけじゃなかった。祖父は、ワールドウォーの後、この国に進駐軍として滞在していた。奇しくも、新しい勤務先であった京都の北端に、自分の祖父も六十年以上前に駐留していたのだ。
だから、同じ場所に米軍のレーダー基地が出来ると聞いた時、どこか運命めいたものを感じた。
実際に来て、イメージしていた京都とはかけ離れてはいたけれど、半世紀以上前に、祖父が見た景色と同じ場所に立って、ジェイソンの気持ちがいくぶんかざわついたのは確かだった。
数年間悩まされていた心の渇きが、これで和らぐとジェイソンは思っていた。
果たして、ジェイソンの渇きはまったく潤されることはなかった。以前となにも変わらない単調で退屈な毎日。
それでいて、住民にはやはり感謝も歓迎もされない。インフラもまったく整ってなく、専用宿舎すらない。地元の潰れかけていたビジネスホテルを宿舎の代わりにあてがわれ、洗濯すら近くのコインランドリーまで自分で行かなくてはならない。
コインランドリーにいるだけで、一般市民たちから明らかに白い目で見られてしまう。
思えばおかしな計画だった。基地建設の情報を聞いてから移動願いを出し、着任するまでわずか一年しか経っていなかった。
本当は基地などではなく、祖父が駐留していたころの「根拠地」のような、とりあえずの施設じゃないのか?と心配だった。
その考えは遠からず、半分は当たっていた。
地元の受け入れ態勢はまったく万全ではなかった。国防どころか、そこに務めるジェイソン自身が自分の身を守れるのか不安になった。アメリカなら銃も携帯できる。しかしここはたかが拳銃一丁が核兵器のように扱われる日本だ。反対デモの一団も自分の目ではっきりと見た。
小さな町には未だにヘイト的な米軍基地反対の看板が掲げられていた。
自分は所詮、傭兵のような存在だ。昔のような愛国心もほとんど無い。今やっていることはビジネスでしかない。そう自分に言い聞かせて、日々の勤務を過ごす。これでは同じことの繰り返しだった。
K市の基地に勤務しだして半年が過ぎ、最初の冬を迎えた。ジェイソンはすっかりやる気は失せ、次の契約更新の時にもう辞めようと考えていた。
京都最北端の冬は、青森とはまた違う厳しさがあった。
雪よりも雨に悩まされた。神経に滲み込んでくる雨。最初は歳のせいにしていたが、どうもそれとは違うようだった。
この地方特有の、湿った気候が神経に障るのだ。
晴れ間が見えたと思えばすぐに霧のような細かい雨粒が海風に乗って顔を打つ。冷たい雨は毒のように神経を侵した。
勤務地が屋外ということもあり、一年目の冬は体調を大幅に崩してしまった。反対派がいるからと、不要な外出も禁じられた。
若いやつらは、休みの度に高速バスに乗って京都市内へと観光に出かけてしまうが、ジェイソンはそんな気分にもなれなかった。中東の砂漠の方が自分には合っていたのかもしれない。あの戦場の砂漠で死んだ仲間たちのように、私も生き残るべきではなかった。ジェイソンは無意識のうちに卑屈になっていた。
PTSDを告白したら、なんの問題もなくすぐに本国に帰れるだろうと、本気で医者の診断書を貰おうとしていた矢先、レーダー基地に司令官退任のニュースが伝えられた。
レーダー基地初代司令官も、PTSDで退官したのだ。
数週間は、下士官が臨時司令官として業務をこなしていたが、すぐに新しい司令官がやってきた。普天間からの移動だった。
シイナ・リース少佐。かつて、ジェイソンがアメリカ軍に所属していたころの部下だ。そのころはまだ彼女は新兵の一人だった。
専門は通信技師。ジェイソンが現役時代、彼女はまだ幼さを感じさせる女性兵士だった。十数年ぶりにレーダー基地で再開した彼女は、見違えるほど軍人の顔になっていた。
ジェイソンは嘘の診断書作成を止めて、もう少しこのおもちゃの要塞で働いてみようと心が変わった。
元部下の成長を見届けようという父性愛ではない、まったく違う邪悪な想いがジェイソンに芽生えた瞬間だった。
今度こそ渇きが潤せるかもしれないとジェイソンは背筋が震えた。
二年目の冬の訪れ。シイナが着任してすでに一年近く経った。試運転や訓練期間を終え、小さな基地は夏から本格的に可動しだした。以前よりも積極的に、シイナは地域住民との交流会を開くようになった。先日のハロウィンパーティーでは、司令官自ら日本のアニメーションキャラクターの仮装をしてパーティーに参加した。
反対運動も沈静化され、表向きは平和な日々が戻っていた。
「俺たちの仕事はサーカスのピエロではない」と、シイナをポスターガールだと揶揄する若い兵士もいたが、そのおかげか、昼夜問わず町を歩いても、ここに来たころよりは、他所者扱いされなくなった。
仕事終わりに地元のバーに一人で入っても、気軽に話しかけてくる日本人も増えた。その点だけは、退屈な僻地勤務の兵士たちにとってささやかな福音であった。
日本政府の思惑はジェイソンにとってなんの興味もなかったが、すぐ近くでは古くなった自衛隊分屯地の拡張工事が始まっていた。
やっとこの国も自国防衛に本気で取り組む気になったか、そのくらいの気持ちで、ジェイソンは工事の様子を見ていた。
安保法案くらいは知っていたが、この国においてそれがどれほど重要な法案なのか、ジェイソンはあまり理解していなかった。
敵国が攻めてきたら即座に叩き潰す。これ以上にシンプルで合理的な方法が他にあるだろうか?そもそも日本はもうアメリカ無しでは平和は保てないというのに。それは七十年も前から解っていたことだ。日本の政治はジェイソンにとっては理解しがたいものだった。政治だけではない、その国民性自体も。
いつもまで経っても英語の一言も話そうとしない、近くの漁村の漁師たちに不信感すら抱いていた。
中東の砂漠の民でさえ、半年も駐留していたら、流暢な英語を誰に教わったのか平気で話すようになって、ドラックや女を紹介するかわりに金を要求してきた。もちろんそんな危ない交渉には一切乗らなかったが、あいつらの方がなにを考えているのかよく理解できた。
アメリカ人のジェイソンには日本人の思考はまったく解らない。
もっともジェイソンは同属であるシイナ・リース少佐や、他の兵士、会社の同僚とも粗利が合っているとは言えなかった。いつも独りの時間を一番愛していた。
独りでいれば誰にも裏切られることもない。
数々の仲間が目の前で死ぬのを見てきた。その度に、ジェイソンの心の大切な部分が擦り減っていた。
退屈さえ紛らわせれば、世界がどうなろうと知ったことではない。ジェイソンはこの一年、着任したシイナにしか興味はなかった。
彼女はおもしろい。軍属としての最期をシイナと過ごせる。ジェイソンは無神論者であったが、少しだけ神の巡り合わせを信じたくなった。戦場で死んでいった亡霊が引き合わせてくれたとも思った。
Xデーは晩秋のある日、突然やってきた。
相変わらず、霧雨は降ったり止んだりを繰り返していた。オリーブドラブ色のレインコートはすでに役にはたっておらず、下のジャケットに水が浸み込んできた。
この基地に移ってから、少しだけ装備が見直されていた。もちろん無闇に発砲ができないことに変わりはないが、民間用でなく、米軍と同じ軍用のM16アサルトライフルとM9ピストルが支給された。個人的には、扱いやすいホロサイトを装着したM4改修型のHK416か海兵隊と一緒に仕事をした時に使っていたスカー、もしくは不審者を掃討するにはMP‐7くらいを支給してくれたら、有事の際は老いた自分でもいくらかは役に立てるだろうと、警護のスペシャリストであるジェイソンは思っていたが、この場所に実用性など必要はない。別に手にしているのがウォーターガンでも構わないのだ。
M16だってAKと爆弾ベルトを体じゅうに巻きつけて突撃してくるテロリストなどいないここでは充分な装備だった。
本国での警護なら銃も自分専用のカスタマイズされた武器が持てたが、この国ではそうはいかない。発射型スタンガン、ティーザーすら携帯を許されていなかった。
某国からミサイルが打ち込まれたら、どのみち兵士一人ではどうにもならない。日米地域協定やらで、不審者は基本的にはすぐに地元の警察と近くの自衛隊に連絡し、エネミーが発砲でもしてこないかぎりは、身柄を拘束し、即座に日本側に引き渡すように命令されていた。日本では、日米地域協定のせいで在日米軍がやりたい放題だとマスコミは伝えているし、これまでもごく一部の不良米兵のせいで、自分たちのイメージは決して良いものではないと、ジェイソンもよく分かっていたが、実際はこの規約のせいで不自由しているのは日本人だけではないと言いたかった。ここでそんな不満を口にしたらそれこそ自分がテロリスト扱いされてしまうことも理解しているが、不測の事態は不測ではない、戦場の情報は自分の目で見た物しか信じてはいけないし、行動もその場で起こさなければ手遅れになってしまう。
これがジェイソンの軍属としての理念だった。やはり自分は軍人には向いていないとこの国に来てから何度痛感したことか。
「ランチの時間はまだか?」
顔を舐める雨のせいか少しイライラしていたジェイソンは、フードの首筋部分に溜まった水滴を手ではらいながら、同僚に訊いた。
「ジェイソンさんがメシの話なんて珍しいですね」
「ここの雨は神経に触る。PMC(民間軍事会社)の安月給じゃ腹でも満たさないとやってられないからな。先月から新しくなったメニューは私も気に入ってるんだ」
「ああ、あのハンバーガーは美味いですね。ボクも好きですよ」
「日本の魚はあまり好きになれなくてね。あの肉、ビーフじゃなくてここらで獲れた野生の鹿らしいな。子どものころを思い出すよ」
「子どものころ?」
「故郷にも鹿がたくさんいて、よくダディとハンティングに行ったものさ」
「ジェイソンさんの昔話を聞くなんて、明日は雪になりそうですね」
「みんなはどうも私をサイボークとでも思っているみたいだな。まぁ確かに最近めっぽう感傷的になった。私も歳だ」
「あなたは祖国の英雄ですよ。あなたの強さは誰でも知っています。歳だなんて言わないでくださいよ」
「歳をとるのは神にだって止められないさ。だいたい本当に自分で強いと思っていたら軍を辞めたりなんかしない」
「ボクはジェイソンさんが出世してデスク組になるのが嫌だったから、年齢が問われないPMCに再就職したって聞いてますけど」
「誰が言っているんだい? それはデマだよ。たまたま会社に元同僚がいたから口ききしてもらっただけだ。人が殺したいだけならむしろテロリストになっているだろうな」
「冗談でもそれはまずいですよ!」
「ハハ。ジョークだ。ジョークだよ。今の言葉は忘れてくれ」
「もちろん分かってます。あなたは勇者だ」
「勇者か……。こんな極東の僻地で雨に震えて腹を空かしている勇者を君はどう思う?」
「それでもジェイソンさんの経歴を疑う人なんていないです。本来なら本国では教官クラスの役職につけるはずなのに現場復帰を選ぶなんて、ジェイソンさんだって本当は若いやつらにはまだ負けないって思っているからですよね?」
「それはかいかぶりすぎだ。若いやつに勝てるとは思っちゃいない。ただ私の居場所にデスクは似合わないだけさ。それに私は人に物事を教えられるほど器用な人間じゃない……」
ジェイソンはなにかを思い、灰色の虚空を見上げた。
見慣れた日常の光景だった。
ジェイソンのすぐ横で警備している年下の同僚も異変を感じてはいなかった。基地周辺は航空禁止空域になっていたが緊急を要する際は特別に飛行を許されていた。
ドクターヘリもその一つだった。これまでも何度か、近くのランデブーポイントに着陸していた。
外で警備する者には司令部からの無線連絡はない。建物内の通信司令部に、地元の救急センターを通じてレーダー停波の要請が来る。
ドクターヘリ出動は時間との勝負なので、連絡系統もなるべくシンプルに構成されていた。
ドクターヘリの運航状況は近くの航空自衛隊通信所も把握している。
ジェイソンが空を旋回する一匹の海鳥を視界にとらえた時、山の向こうからヘリのローター音が聞こえてきた。
「老人が心臓発作でも起こしたんですかね?」
ヘリのローター音を聞いてすぐにドクターヘリだと確信した若い同僚はジェイソンと同じく空を見上げた。
「寒くなると突然死が増えるらしいからな」
「去年もこの季節はよく飛んでましたね。こんな基地の近くにランデブーポイントを造られてボクらにしたらいい迷惑ですけどね」
「オイオイ。それは逆なんじゃないか? 住民にとってはこっちのほうが邪魔者だろう」
「それはそうでしょうけど、やっぱり納得できませんね」
「ここにはここのルールがあるのさ。私たちがどんなに真面目に働いても他所者であることは変わらない」
「そうでしょうか?」
若い社員は不服そうに奥歯を噛みしめた。
「ところでちょっとおかしくないか?」
ジェイソンが言った。
「そうですね。いつもならヘリより先に救急車のサイレンの音が聞こえるはずなのに救急車がいっこうに来ないですね。それにヘリの姿が見えない。風の影響で着陸できなくてホバリングしているんでしょうか?」
「いや、いつもの音じゃない」
「音とは?」
「ローター音がこんな近くで聞こえるのはおかしくないか?」
「そういえば、飛行許可はとってあるんでしょうが、いつもなら基地上空はむこうも近寄らないようにしてますよね?やっぱり風の影響で高度を下げているのでは?」
「ちょっと通信部に確認だけしてくれるか?私は様子を見ておくから」
「分かりました。すぐ戻ります」
若い社員はアサルトライフルを肩に下げたまま、敷地内の奥に位置する通信司令部の建物に走った。距離にして二百メートルほどだ。数十秒で着ける距離だった。
若いPMC社員の男が建物に入るとほぼ同時に、迷彩服の男が出口に向かって走ってきた。二人は危うくぶつかりそうになった。
「あっ、あのちょっと……」
「話は後にしてくれ。緊急事態だ!」
PMC社員を押しのけるように兵士は建物の外に出て行った。緊急事態と聞いて、PMC社員も再び踵を返して外に出た。
外では、さっきよりも明らかにローター音が大きくなっていた。はっきりと目に見える距離にヘリがホバリングしていた。
若い社員は混乱した。
「いったいなにが?」
ヘリは確実にレーダー基地に迫って来ていた。
ローター音とプロペラが起こす風の音で、若いPMC社員の声は掻き消された。
兵士が両手を振って、上空一〇〇メートルほどまで迫ったヘリを制止させようとしている。
その先に、銃を構えたジェイソンの姿があった。
手を振っている兵士とは別の兵士が数人建物から走ってきた。皆、手には銃を構えていた。
「ジャベリンはないのかぁ!SAMでもいいから持ってこい!」
ヘリの轟音に混じって微かにジェイソンの声がPMC社員の耳に届いた。
「ジャベリン? ドクターヘリを撃墜する気なのか?」
PMC社員の視界に入ったヘリの胴体にははっきりとDOCTORの文字があった。実際に基地周辺での飛行訓練で、以前目にしていたので間違いはない。コウノトリの絵がシンボルマークとしてプリントされたヘリは、間違いなくドクターヘリだった。
「民間機を乗っ取って施設に突入させる……」
PMC社員だけでなく、そこにいた兵士たちや、ジェイソンにもあの悪夢の9・11同時多発テロの映像がフラッシュバックした。
ジェイソンがなにかを叫んで銃を空へと向けた。M16のフラッシュハイダーから火花が散った。
ヘリに着弾したのか、PMC社員のいる場所からは見えなかった。
そのあとすぐに、ドクターヘリは再浮上し、山影に消えてしまった。
数秒か数十秒か、気が動転していたので、経験の浅い若いPMC社員はそのあとの確かな記憶がなかった。
はっきりと目にしたのは、ヘリが消えたあと、何故かこの基地を護ったはずのジェイソンが取り押さえられていた光景だった。
そして直後、山の方からバリバリと木々を削る音が聞こえ、白煙が上がった。
さっきまで呑気にメシの話をしていたのに。
戦闘はたった数十秒で終わったが、数十秒前と数十秒後の世界は、もう別の世界へと変貌してしまった。
若いPMC社員はそのまま警護に当たれと命令され、どうしていいのか分からないまま、ようやく雨の止んだ外で、案山子のようにただ突っ立ているしかなかった。尊敬するジェイソン・バークリーは、施設へと連れていかれてしまった。
日本の警察や自衛隊の車両がすぐに現着し、まわりは急に慌ただしくなった。
「次の指令があるまでは警官であっても基地には入れるな」その命令だけを若いPMC社員は頭の中で反芻した。
もし強行的に基地内に入ってきたら、相手が警官であっても発砲してもいいのだろうか?そんなことをぼんやり考えていると、次第に足の震えが止まらなくなった。近くで警備に加わった米軍の兵士が彼の異変に気づき、「ここはいいから食堂で休んでこい」と言ってくれた。
若いPMC社員はよろよろと建物の方へと歩き出した。彼の背中越しに何台ものサイレンの音が響いていた。
そういや、と若いPMC社員は食堂建屋に入る瞬間、ふと思い出した。ジェイソンが最後に叫んでいた言葉の中で唯一聴き取れた言葉だった。
「デコイ」
鳥などを狩猟する際の囮を意味する言葉だ。戦場で使われる場合は敵を欺瞞し、本当の目標と誤認させるための電磁兵器であったり、単に模擬敵のマネキンであったり。
ジェイソンの言葉の真意は解らなかったが、確かにジェイソンは「デコイ」と言った。あれはなにを意味していたのだろうか?
米軍ではないただの雇われ警護でしかない彼は、司令官の居る本部建屋にたち入る事すらできなかった。
兵士に言われた通り、彼は食堂でレインコートを脱ぎ、じっと待つしかなかった。おそらく今夜は宿舎のホテルには帰れないだろう。以前、ジェイソンに「戦場で怖くなったらメシのことを考えろ」と言われた。でもいくら考えても、ちっとも食欲など湧いてこなかった。
7
金堂が身支度を済ませてM町の総合病院の入り口に出ると、すでに都倉が車を玄関口までつけてくれていた。
地元の刑事に止められるかと心配だったが、都倉の信用はこっちでも絶大なのだろう。金堂はすんなりと病院から出られた。
ただし、行き先が鷗盟会だとは地元の刑事には伝えていない。
金堂はまだ体のあちこちが痛むので、助手席ではなく後部座席で横になった。
都倉はとくになにも言わず、発車してくれた。金堂から聞いた住所をナビに登録し、パトランプは点けずに車は走りだした。
目的の場所は、金堂がヘリを最後に目撃した場所からそんなに離れてはいなかった。M町の病院からは車で三十分ほどの距離だ。
土地勘のあまりない都倉でも、ナビの液晶画面に映った地図を一度見たらだいたいの道筋は分かった。
「鷗盟会についてなにも訊かないんですか?」
金堂の方から切り出した。
「君を信用していないわけではないが、実際に自分の目で見て判断するのが昔からの俺の流儀でな。今話しを聞くと偏見を持ってしまうかもしれんやろ?」
「そうですね。でもそっちの方が助かります。新聞記者の立場上、憶測で物は言えないですし、まだそうと決まったわけでもないので」
「とりあえず、確認ってことでそこに向かう……そう理解しとけばええんやな」
「はい。話が早くて助かります」
金堂は横になったままバックミラー越しの都倉に軽く頭を下げた。
金堂は病室で都倉から聞かされた事件の顛末をもう一度頭の中で整理した。
金堂の車にめり込んで死んでいたのは、基地反対派リーダーをしていた中村雲海だった。やはり金堂が見た通り、雲海は即死だったらしい。遺体はすでにM署に運ばれて、今ごろ検視が行われているはずだ。金堂が車道に雲海の姿を確認できなかったのは、当たり前だった。
雲海は道に倒れていたわけではなく、空から降ってきたのだ。
上空数百メートルのヘリから直接車のボンネットへ。
少しでも位置がずれていたら、金堂も鞭打ち程度じゃ済まなかっただろう。
雲海はあのドクターヘリに搭乗していた。
理由はまだはっきりしていない。
自衛隊を通じて地元の警察に入った情報は、ヘリは米軍レーダー基地に迫っていた。それをテロ行為だと判断した米軍レーダー基地の護衛兵士がヘリを撃墜させた。
ヘリはコントロールを失い、金堂がちょうど車で走っていた上空を旋回したのち、すぐ近くの山に墜落した。
幸い、ヘリは低空飛行していたこともあり、半壊はしたが炎上は免れた。乗務員たちも、雲海以外は生存しているらしい。
怪我の程度はまだ聞かされていないが、命に別条はないという話だった。
乗っていたのは、フライトドクターの女医が一名。整備士が一名。パイロット一名。そして雲海。全員で四名だった。
通常の出動ならフライトナースも同乗するはずであるが、ナースは乗っていなかった。
マスコミ内では、基地建設反対派であった雲海が、ドクターヘリをヘリポートのあるT市の病院からハイジャックし、基地に突入させたのではないかという憶測が、すでに事実のように伝わっているらしい。同乗員は人質にされたのだ。
米軍側は墜落したヘリ機体の受け渡しを日本側に要求した。ほどなくして政府官邸にも対策室が立ちあげられた。
だが、不審な点も多く、まだテロ事件だと断定はできないと、日本政府は運輸安全委員会の航空事故調査官をすでに現地に派遣させた。
その調査を待ってから結論を出すと、米軍側には伝えた。マスコミにはそれ以上の情報はまだ入っていなかった。
金堂が巻き込まれた事も、地元警察はまだ発表していなかった。ただし、金堂の務める京冶新聞はもちろんそれを把握していたので、他のマスコミに漏れるのは時間の問題だった。
夜のテレビニュースではすでに中村雲海という人物のこれまでの過激な反対活動の経緯を流す局も出てきた。
金堂が病院で眠っている間に寒村で起きた事件が、国際問題に発展するほどの大事件になろうとしていた。
金堂だけは、今回の事件が、単純なテロ事件ではないと考えていた。やはりそこには「鷗盟会」の影がちらついているように思えてしょうがなかった。
本当に偶然自分があの時、事件に巻き込まれただけかもしれない。ただ、結論を出すには「鷗盟会」の理事である吉田重造に会ってからでも遅くはない。もし、これがテロではなく、裏があったとしたら。真実を暴かなくてはそれこそ日本の未来を揺るがしかねない事態になってしまうだろう。
金堂は焦っていた。時間はわずかしか残されていなかった。今日の昼までは、そこに行くことさえ躊躇っていたのに、今は一分一秒でも早く辿り着かなければならない。体じゅうの痛みなど気にしている余裕はなかった。
都倉は教えられた道をまっすぐ向かった。一車線しかない農道のわきは、昼なら田園風景が広がっているが今は街灯さえない漆黒の闇だ。車のライトだけが細い道を心細く照らしていた。時々点滅して見える赤いライトは、そこに害獣除けの鉄柵が張ってある目印だった。対向車はおろか、人影ももちろん無い。
何軒かが立ち並ぶ小さな集落を抜けるともうそこは異界のようにさえ思えた。こんな場所に地元の有力者が住んでいるとは都倉も疑いの気持ちが浮かんできた。
「金堂。本当にこの道であっとるのか?」
「はい。もう前方に見えてきます」
金堂が言った通り、一分も経たないうちに山林の中に大きなライトで照らしだされた近代的なビルが突如姿を現した。
「なんじゃこれは?」
「ここが吉田のビルです」
都倉が驚くのも無理はなかった。集落を抜け、他に建物もない林の先に、鉄筋コンクリートで造られた四階建ての巨大なビルがなんの違和感もなく聳え立っているのだ。
違和感がないのは、そこがちゃんと整地されていたからだった。
「リゾートマンションみたいやな」
鉄筋建てのビルはオフィスビルのような無愛想さはなく、照らしているライトに映しだされた外壁には一部屋ずつベランダ柵が造られていた。都倉の第一印象も的外れではなかった。
「ええ、ここはかつて観光客の貸し別荘用に建てられたビルです」
「じゃあほんまにリゾートマンションやったんか?」
「バブルのころ、ここら一帯もリゾート計画がもち上がりまして、土地が高騰する前に、インフラもまったく整っていない状態でこのビルだけが建てられました。本来なら、ここを拠点に一大リゾート施設が山裾に誕生するはずだったようです」
「バブルがはじけて、このビルだけが負の遺産として残ったと」
「はい。でも、吉田重造の会社がその後、自社ビルとして買い取りました」
「こんな山奥に自社ビルか……」
「詳しくは僕も知りませんが、元々この土地の地権者は吉田本人だったこともあり、建物自体は当時のリゾート開発会社からタダ同然で譲り受けたそうです」
「で、吉田はこんな時間にまだ会社に居てるんか?」
「ここは吉田の自宅でもありますから」
「えらい豪華な隠居暮らしってことか。少しだけ『鷗盟会』に興味が湧いてきたわ。しかし詳しいことは金堂くんの用が済んでから聞かせてもらおうか。なるべく早く頼む」
「分かってます」
数十台は停車できるほどの広い駐車場の一番端に車を停め、二人はもう一段小高い丘の上に建っているビルに向かった。
正面玄関の自動ドアはすでに灯りが落とされ閉まっていた。
そこから横に数十メートルほど行ったところに緑の非常灯が見え、そこに関係者用の入り口と、詰所の小窓があった。セキュリティの必要はないのか、ガードマンらしき人物は見当たらない。
小窓の横にインターフォンがあったので、金堂は迷わずボタンを押した。二、三度と呼びだしのボタンを押したが反応はなかった。一瞬間をおいてから、四度目の呼び出しでようやく応答口のガチャっという音が聞こえた。
「あ、あの、夜ぶん大変申し訳ありません。京治新聞の金堂と申します。吉田、吉田重造さんは御在宅でしょうか?」
金堂は吉田本人が応答口に出ると思っていた。吉田に家族がいないことを知っていたからだ。
「すいません。社長でしたら少し体調を崩しておりまして、今夜はもう就寝されました。御用でしたらまた妙日に来訪していただけますでしょうか?」
相手は女だった。
「会社の方でしょうか?少し急用がありまして、吉田さんに私の名前を出してもらえれば分かると思うのですが」
数秒、間が空いた。
「私は秘書の鞍馬と申します。申し訳ありませんが、取り次ぎはできません。明日でしたら時間を作らせますので。血圧の方が高くて、今しがたやっと眠られたばかりなのです。私は医師免許を持っています。秘書であり、吉田の主治医でもあります。ドクターの観点からも本日の面会は許可できません。大変申し訳ありません」
「いや、ほんの少しの時間で構いませんので……」
「ですから、本日は無理です。吉田が目を覚ましたら京治新聞の方がいらしたと伝えますのでお引き取りください。失礼します」
女の声は最後早口になり、ガチャリと受話器が落ちる音がして、通話不能になった。
金堂はもう一度インターフォンのボタンを押そうとしたが、都倉に止められてしまった。
「やめておけ。ほんまに寝てしまったんかは分からんが、向こうが駄目だと言っているんや、これ以上無理に行かんほうがええ」
「でも、事態は深刻なんですよ!」
「だから尚更や。もしなにか事情があってむこうが面会を拒んでいるんやったら出かた次第ではこっちが不利になってしまう。少なくとも今は事件との関連になんの確証もないんやろ?」
「それはそうですが……」
「明日になったらちゃんと話は通すって秘書も言っとるんやし、ここはまた出直そう。まだ地元の警察もテロと断定したわけやない。明日になれば国の事故調査員も来る。それからでも遅くはない。君も今夜は休んだほうがええ」
都倉の言葉にはベテラン刑事の重みがあった。二十代のころであったら、都倉の制止も聞かずに無理にでも吉田のビルに乗りこんでいただろう。だが、金堂もそれなりの歳になり、経験も積んでいた。都倉の言う通り、退き際の見極めは大切だ。本社勤務のころ何度退き際を誤って失敗したことか。金堂は素直に都倉の意見を聞き、車に戻った。
いつの間にか、ビルを照らしていたライトも消されていて、駐車場の外灯一本だけがぼんやりと闇の中に浮かんでいた。駐車場まで下りると、もう吉田のビルはどこからが夜空なのか分からなくなっていた。
再び車に乗り込み、都倉は自分の携帯を確かめた。
「こりゃお叱りを受けるかなぁ。地元警察から着信の嵐や。俺は一度署に戻るわ。金堂くんはどうする?」
「僕も支局に戻ります。もし僕も事情聴取があれば署に迎いますが」
「さすがに今夜は無いやろ。支局は署のすぐ近くか?」
「ええ、同じ町にありますから車で五分ほどの距離です」
「ほんなら金堂くんを支局に送ってから署に戻るわ」
「すいません。助かります」
結局なんの収獲も得られないまま、闇の中を引き返すことになった。
嚶鳴のシークレット 垂季時尾 @yagitaruki
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