雷の王国

T長

雷の王国

 糸生 詩津子いとうしづこはその時も、いつもの少しだけ眉根を寄せた悲しそうな表情で、


「可哀想」


 と囁いた。僕は僕よりも頭一つ以上背の高い彼女のその顔を見上げたまま、動くことができなかった。もうこの世界にはそれしかなくなってしまったのだ。

「可哀想だね、すみくん」

 白く長く、細いけれどもしなやかで筋肉質な糸生詩津子の腕が僕の頭をそっと搔き抱く。

「とても可哀想」

 僕はただ硬直した身体を彼女に委ねる。雷鳴が轟いた。助けが来ないのはわかっていた。


 どうしてこんなことになった? 僕は彼女との最初の出会いを思い出そうと試みる。どこで間違ったのかといえば、そもそも彼女と出会ってしまったのが失敗だったのだろう。けれどそれは回避不可能だった。

 転校して来た糸生詩津子は担任に紹介され

「糸生です。よろしくお願いします」

 控えめな声でそれだけ告げて、僕の隣の席に腰をおろした。女子生徒と会話したことなど一度もなかった僕は、その時彼女をとても背の高い女の子だとしか思わなかった。羞恥心から彼女の顔に視線を向けることができなかったのだ。漫画みたいに一糸乱れぬストレートの真っ黒な髪、夏仕様の制服から伸びる白く長い手足。まるでモデルのようだと思った。担任は決して背が低いわけではない男性教諭だったが、彼女の頭は彼よりもずっと高い位置にあった。にもかかわらず無骨な印象はまったくない。真っ白な灯台にも似た、清楚な佇まいだった。糸生詩津子が僕のすぐ傍を通りすぎたとき、一瞬、微かに樹の皮のような、香木のような匂いがふわりと漂ったのをよく覚えている。彼女が僕に会釈をしてくれたのが気配でわかった。けれど、視線をノートの隅にじっと固定していた僕は挨拶を返すタイミングを完全に失ってしまった。気付いていないふりをするしかなかったのだ。

 当時の僕は、というよりも僕の人生はずっとそうだが、およそ生徒という生徒、教師という教師の誰からも相手にされていなかった。クラスでもほぼ完全に孤立していて同性の友達すらもろくにいない有様である。女子生徒に挨拶されるなどあってはならない非常事態だ。下手をすれば僕だけではなく、彼女にも迷惑がかかる。

「おまえ、彼女の知り合い?」

 一度も話した事の無い、前の席の同級生がそう尋ねてきた。

「い、あの、あのわかっ、たぶんあの、ちが、」

 わからない、たぶん違う。ただそう答えればいいだけだったのに耳の辺りがかっと熱を持ってしまい、うまく言葉が紡げなかった。さぞ薄気味の悪い奴だと思われたことだろう。前の席の同級生には既に嫌われているのを知っている。問題は彼女のほうだった。もしもここで糸生詩津子が軽蔑的な目で僕を見ていたとしたら、僕は二度と彼女を視界の中心に捉えてはいけないという事だ。僕は自分の立場をよく理解していた。この距離で顔を見るのはこれが最後かもしれないと半ば諦めながらほんの少しだけ、脇目でちらりと彼女の表情を確認する。そして、息を呑んだ。


 それは、軽蔑の表情ではなかった。ぴんと伸ばした美しいうなじの先の彼女の頭は真っ直ぐこちらに向けられていた。口角は僅かに引き締められ、しかし笑っているわけではなく、半分睫毛に隠れた黒目がちなふたつの瞳、その上にくっきりと引かれた眉は悲しそうな八の字で。そう、今思えば彼女はあの時から既に例の悲しみを堪えるような表情で僕を見ていたのだ。

「糸生 詩津子です。よろしく」

「あ、えっ、あの」

 また言葉が出て来ない自分を僕は心底呪った。しかし彼女は僕が声を絞り出すのを微動だにせず待ってくれていた。

「あ、あ、あの……す、澄 一人すみ かずひと

「澄くん」

「あ……う、うん……」

 僕はすぐに目を逸らした。糸生詩津子の顔立ちはマネキン人形のように整っていた。僕などが正視してはいけないもののように思えた。かと言って胸元など見る訳にはいかない。選択肢の限られた僕は彼女が机に置いた四角い鞄に付けられたブローチを見遣った。細やか作りの、黒みががった黄色い蛾のブローチだ。全体的にはさして派手な印象ではないが、上の2枚の翅のふちに稲妻のような印象的な模様が入っている。

「クロウスタビガ」

「え」

「クロウスタビガというの」

「そ、あっ、そうなんだ……き、あの、稲妻……あっ……うん、あの、いいね……」

 せっかく女の子が口をきいてくれたのにろくな言葉を返せない自分を僕は呪った。雷は嫌いじゃない。魅入ってしまう美しさがある。その雷の柄の入った蛾を僕は純粋に綺麗だと感じた。けれどそういう気持ちを、こんな会ったばかりの彼女に伝えても気味悪がられるだけだろう。こんな時、一体どういう反応をするのが正解なのか僕には想像もつかない。

 ふと、彼女の視線が下に落ちる気配を感じる。途端に僕の背を嫌な汗が伝った。僕の教科書は落書きだらけだ。それも僕の書いたものではない。クラスメイトに書かれたものだ。「死ね」「ゴミ」「ニート確定人生」慌てて隠そうとするがそれよりも早く彼女の長い指が僕の教科書の上の黒い文字列を覆う。僕よりもひと回り大きな手のひらだった。

「ひどいことをするね」

「え、」

 返事をする前に彼女は僕の前の席の同級生に向き直った。

「あなたがやったの?」

「へっ」

 同級生はぽかんと口を開けて固まった。

「あなたが、やったの?」

 糸生詩津子の表情は変わらない。悲しげに下げられた眉の下の目も決して人を責めるときのそれではなかった。

「い、いや、違うけど、」

「そう」

 答えを聞くと彼女は姿勢を正して黒板に視線を移した。得体の知れない何かに触れてしまったとでもいうような様子で唖然としている前の席の同級生には二度と、ちらりとも目を向けなかった。

 もしもあの時、糸生詩津子が〈糸生詩津子である事〉にもし気付いていたならば、何か変わっただろうか? 僕に何かできただろうか? 彼女を止める事が僕に果たしてできただろうか?


 しかし現実にはそれからおよそ三ヶ月の間、僕は糸生詩津子のことを正面から視界に捉える事すらまったくできなかった。なぜなら背の高い彼女はとても目立つからだ。いや、背が高いからだけではない。彼女は勉強も運動もとても良くできた。転校早々ファンが出来てしまうぐらいだ。それでいて性格は控えめでおとなしく、クラブにも所属せず友達とグループを作ったりする事のない彼女は、孤高のイメージを纏った、まさに美しい灯台そのものだった。もしもその、とても目立つ彼女に、とても目立つ彼女の隣の席のゴミのような僕が少しでも視線を送れば、必ずや誰かがそれを見ていて、そして言うだろう。「澄の奴が糸生詩津子を見ているぞ。あいつ、彼女に気があるんだ」と。僕はその最悪のシナリオを恐れた。休み時間は机に突っ伏して寝たふりをしてやり過ごすしかない僕のような人間が誰かに恋愛感情を抱くなど、許されない事だ。理解はしていても、それを他人から思い知らされるのがどうしても恐ろしくて、恥ずかしくて、嫌だった。初めて会った日の糸生詩津子の言動の真意は気になったものの、僕からそれを問う事は諦めるしかなかった。

 けれどある日の放課後、僕は駅に向かう道すがら、同級生のなかでもとりわけたちの悪い連中に捕まってしまった。

「澄く〜ん、ちょっちょっ」

 5人とも校則で禁止されているアクセサリーを身につけ、シャツの胸元をだいぶはだけさせている。どこに行ってもこういう連中の外見は、逆らうと面倒そうだという事が一目で分かるようにデザインされている。彼らを刺激するような事は何一つしないよう注意していたつもりだったが、それでも、こういう事はたまにある。走って逃げると余計に痛い目に遭わされるのはもう知っていたから、僕は立ち止まった。

「は、はい……」

「アレ、逃げないんだ。そうだよね足遅いからどうせ捕まっちゃうもんね」

 腕を強く掴まれ、少し離れた人気の無い路地に連れ込まれる。寒くなり始めた9月の夕日が、5人の同級生たちのシルエットの隙間から目に突き刺さる。

「澄くんってさあ、」

 一番背の高い、梶尾という同級生が僕の鞄を足で弄びながら言った。

「糸生とつき合ってるわけ?」

「え!?」

 喉に氷のナイフを突き込まれた気がして僕は震えた。糸生詩津子にはこの三ヶ月まったく視線を送っていない。まして会話などしているはずもない。僕が視線を絶対に合わせようとしていないのがわかっているのか、糸生詩津子もあれ以来僕に話かけることは一切なかった。接点は、ただ席が隣というだけ。もちろん、糸生詩津子の白く長い手足が、まったく気にならないかと言われれば嘘になる。だがそれは恋愛感情と名がつく前に叩き割って完全に心の底の底に沈ませた小さな小さな欠片同然のものであり、誰も見る事のできないまま埋もれて消えてゆくもののはずだった。

「ご、誤解、そ、そんなわけ、ない、ないよ、だって、有り得な、あっ」

 なんとか押し出した言葉は梶尾の拳によって途中で遮られる。喉を殴られ、僕は咳き込んだ。後ろの4人が無感動な短い笑い声を漏らした。

「糸生があれだけお前の事ばかり見てんのに無関係ってことないよね。なあ? そうでしょ?」

 梶尾は足で僕の鞄を蹴り上げてキャッチすると、それを僕の顔に何度も叩き付けた。顔を背けて逃げようとすると他の4人のに引き倒され、胸から腹の辺りをひどく踏まれた。理屈が理解できない。そもそもが誤解であるのに加え、仮に僕と糸生詩津子がつき合っていたとしてなぜこんな目に遭わなければならないのか。ひどい理不尽だ。けれど世界はいつだってこんな理不尽に溢れていた。そしてそのしわ寄せは、要領の悪い僕のところに最終的に回ってくる。もしかすると、僕はそういう事のために生まれているのかもしれない。絶望的な未来を見てしまったような気がして僕はもはや声をあげることもできずにただ、なるべく早くすべてが終わるように頭の中で祈り始めた。早く終わりますように、早く終わりますように、早く…………


 糸生があれだけお前の事ばかり見てんのに無関係ってことないだろよ


 梶尾の先ほどの言葉が僕の脳裏に割り込んでリプレイされる。僕は祈りを中断せざるを得なかった。待て、視線を送ってきていたのは糸生詩津子のほうだったというのか? まさか。そんなはずはない。

 だいいち糸生詩津子が、なぜ僕を見ているのか。彼女が一体どうして、なぜ――


「可哀想」


 か細い声が響いた。僕も、同級生たちも一斉に振り返る。沈みかけた赤紫色の太陽を背に、黒いシルエットの塔が立っていた。糸生詩津子、しかし何かおかしい、シルエットが、着ていないのだ、服を、

「澄くんが可哀想」

 夕日がまぶしすぎる。逆光だ、表情がよく見えない。けれど、泣いているとも取れる声色だった。

「い、糸生……」

 一糸纏わぬ姿で突然現れた彼女本人に、梶尾も何が何だかわからないといった顔で、とっさに言葉が繋げられないようだった。その梶尾に、糸生詩津子はもう一度同じ台詞を吐いた。

「可哀想」

 次の瞬間、梶尾の身体は頭部を中心に舞い上がって回転した。

「あ」

 僕は目を疑った。梶尾の身体が回転したのは、糸生詩津子が彼の頭部を掴んで捻ったからであった。頭を掴んで回したから、身体がその動きにくっついて大きく回転したのだった。彼女はそのまま梶尾を地面に投げ捨てた。

「あ、」

 大きな音はしなかった。しかし梶尾は動かない。あらぬ方向に首がねじれていた。逆光にそびえ立つつるりとした糸生詩津子のかたちが僕を振り返る。きっと、あの悲しそうな、眉根を寄せた表情をしているに違いなかった。

「澄くん」

「あ、あ、」

 残り4人の同級生たちが一斉に逃げ出そうとした。しかし糸生詩津子はその白くて細い、しなやかな筋肉に覆われた腕を触手のように広げると、搔き抱くように彼らの頭を打ち合わせて砕いた。夥しい量の血しぶき。逆光の闇の中でも彼女が白い肢体にそれを浴びているのがよくわかった。そう大きくはないが作り物のように形の整った乳房も血にまみれている。ああ、と僕は痺れた脳でなぜかその部分だけ納得した。制服が汚れてしまうのがわかっていたから、最初から脱いできたんだ。

「澄くん」

 腰が抜けていた。へたり込んだ僕の前に、長い身体をくっと折り曲げるようにして彼女は跪く。

「可哀想に。澄くんは少しも悪くないのに、どうして世界は澄くんを攻撃するのかな……」

 僕の足元には5人の死体が転がっている。5人を殺して僅かも乱れぬ彼女の美しい黒髪が恐ろしかった。

「澄くんごめんね、死体が怖い?」

「あ、あああ、ああ……」

 糸生詩津子は屈んで僕の顔を正面から見つめると、震える僕の目を両手でそっと覆った。

「可哀想。目を閉じるの。目を閉じれば死体はもう見えないからね、ほら、もう怖くない。手を離すね……そう、そのまま閉じているの。まだそのままだよ……」

 暗闇の視界の中に彼女の声だけが響く。糸生詩津子は声までも美しい。細くてやさしい、やさしい声だ。人が人を殺す様を目の前で目撃してしまったこの状況でそんな事を考えている自分は、もしかしてショックで半ば狂ってしまったのだろうか。人が人を? 自ら思考した言葉に僕は疑問を抱いた。糸生詩津子は、本当に人なのか?

「まだだからね……まだ……」


 その後、自分がどうやって家に帰ったのか、或いは糸生詩津子に送ってもらったのか覚えていない。ひんやりとした彼女の手の触感や、捩じ曲がってオモチャのように見えた梶尾の死体は克明に思い出せるのに、おかしな事だと思う。印象の強い出来事があると、そこに近い他の部分がぼやけて薄れてしまうのだろうか。ともかく、僕は翌日もいつも通り登校していた。昨日の事を夢か幻覚だと思いたかったのかもしれない。いつものように学校に行けば、何事もなかったかのような日常が再び続くだけ。そうであって欲しかったのだろう。だが現実は違った。学校には警察官が集まっており、臨時朝礼というものが開かれ、事件の内容が校長から説明された。

「昨晩より我が校の生徒が5人、行方不明となっています。何か手がかりになるような事があればすぐに報告を……」

 飛び抜けて背の高い糸生詩津子は、こういう時、名簿の順番と関係なく常に一番後ろに並んでいる。5人、という部分を聞いて僕は反射的に振り返る。姿勢の良い灯台のように、彼女は立っていた。黄色い朝の光のもと、今度はその顔ははっきり見て取れる。眉根を少しよせた、八の字の悲しげな眉。あの表情の彼女と完璧に目が合った。梶尾の言っていた事は本当だった。この恐ろしくて美しく背の高い生き物はこうして常に僕を見ていたのだ。梶尾の首がねじれた瞬間が脳裏をよぎり、全身の毛がゾッと逆立つ。授業中、僕は今までとは別の理由で糸生詩津子を直視することができなかった。恐怖で吐きそうになる。校長は「何か情報を」と言っていた。僕は犯人を知っている。けれど言えるわけがない。彼女は常にこちらを見ているのだから。

「澄くん」

 放課後、突然声をかけられて心臓が飛び出そうになった。

「な、な、なに……」

「お腹がすいているでしょう」

「え、」

「澄くん今日、学食のパン買えなかったね。可哀想。これ、あげるね」

「えっ、あ、あ、あの、」

「さよなら。また明日、あおうね」

「さ、…………さよなら」

 糸生詩津子に手渡されたクリームパンを抱えて僕はしばらくその場に立ち尽くした。複雑な気持ちだった。昨日のことも、ある意味で彼女は僕を守ってくれたとも言えた。それ以上の大惨事にはなってしまったが。彼女はもしかして僕を好いてくれているのだろうか。考えたくなかった。僕は糸生詩津子が怖かった。ただ一つわかるのは、彼女が、梶尾たちを殺したよりもずっと簡単に、僕のことも殺せるという事だ。学校や警察に通報をしようと決めたその次の瞬間に、僕の頭はバラバラの破片になっているのかもしれない。最悪の事態をやけにリアルに想像し、身体が震えた。芋づる式に、同級生4人を捕まえて頭同士をぶつけ合わせてバラバラに割った時の、腕を大きく広げた糸生詩津子の姿を思い出し、僕は更に青ざめる。翅を広げた巨大な蛾のようでもあった。布を纏わないつるりとしたあの日の糸生詩津子の肉体は、蛾や触手を持った何か、そういう人と遠くかけ離れた生き物に形容すべきエロチシズムを備えていて、僕自身がその魔力にどこか魅了されているような気がすることそれが何より、怖かった。人殺しなのに。糸生詩津子は、人殺しなのに。


 翌日、変化があった。糸生詩津子が積極的に僕に話しかけてくるようになったのだ。

「おはよう、澄くん」

「おはよう……」

「あげるね」

「え、」

 糸生詩津子は僕に数冊のノートの束を手渡した。

「え、こ、これ……」

「澄くん、ノートもたくさん落書きされちゃっていたでしょう。可哀想だから」

 確かにノートを破られたり落書きされたりしていて困っていたのは事実だった。けれど、なぜそれで糸生詩津子が僕にノートをくれるのか。何かがおかしい気がした。しかし断れば彼女の白い指が今にも僕の頭をねじって破壊するのではないかという恐怖が先に立つ。

「あの……あ、ありがと……」

 糸生詩津子は返事の代わりに微笑んで、ゆっくりと、ひとつ大きな瞬きをした。

「ねえ」

 女子生徒が一人、糸生詩津子に声をかけてきた。僕はすぐに視線を足元に落とす。紫藤しとうミカというこの女子生徒は、普段からかなり物言いがきつく、僕も彼女が他の生徒と揉めている様を何度も目にしている。例の<行方不明>になった連中ともよくつるんでいた。目を合わせただけで何を言われるかわかったものではない。

「おはよう紫藤さん」

 糸生詩津子は穏やかな挨拶を返した。

「糸生さんさあ、聞きたいことあるんだけど」

 紫藤ミカの刺々しい語調に、僕の心臓の鼓動が早まる。

「糸生さんって綾子に携帯教えるの断ったの?」

 椅子に座ったままの糸生詩津子と、目の前の女子生徒の目線の高さはさほど変わらない。

「ええ」

「は? なんで? 有り得なくない?」

 ダメだ、紫藤さんダメだ、糸生詩津子にそんな口をきいちゃダメだ。

 ころされる

 僕にはしかし、それを口に出す勇気はなかった。なぜならその前に糸生詩津子が僕にほんの一瞬、視線を預けて来たからだ。言えばどうなるかわかっているでしょう、という意味なのか? そういう事なのか? 僕は生唾を飲み込んだ。

「だって、可哀想」

 糸生詩津子はそう答えて、

「そういう事をステータスにしてしまったら、携帯番号を誰とも交換できない人が可哀想だもの」

 悲しそうな顔で僕を見た。つられて紫藤ミカも僕を振り返る。携帯番号を誰とも交換できない人、というのは僕のことなのだろう。僕はどう返していいのかわからず、ただポカンとしたマヌケ面を晒すのみだった。

「澄みたいな奴がってこと? 関係なくない? 意味わかんないんだけど」

「ううん大丈夫、わからなくていいの……」

 会話になっていない。糸生詩津子の意図が理解できない。紫藤ミカも戸惑っているようだ。

「と、とにかくあとで話あるから来て、放課後」

 一方的な要求を突きつけて去った紫藤ミカの気持ちのほうが、まだ理解できた。僕の脳裏に再び惨劇の記憶が蘇る。またああいう事が起きるなんて堪えられない。恐ろしすぎる。いつ頭を破壊されるかわからないにしても、現時点では、彼女は僕に好意的な態度をとってくれているように思えた。自信はないが、僕の言う事なら少しは聞いてもらえないだろうか。

「い、い、糸生さん、あの、あの、」

 すると彼女は例の八の字眉のまま、僕に微笑んでみせた。

「何も心配しなくていいからね」 

「えっ?心配、何を、いや、あの、そうじゃなくて、あの、い、いくの、放課後、」

「紫藤さんのところに?」

「あっ、うん、あの、でも、出来れば、行かないほうが、あの僕もあの、話が、あるっ、あるから、」

「えっ、」

「……えっ?」

 僕は思わずオウム返しのように間抜けな声を出してしまった。彼女はなんとそこで突然、赤面したのだ。

「わかった……紫藤さんのところには行かないね……待ってるね……」

 微かに目を潤ませてそう答えた彼女を前に、喉の奥を生温いものが通り過ぎた。もしかするとこの時既に僕の中の恐怖と、糸生詩津子のことを可愛く思う気持ちはマーブル状に混ざり合い、分離することができなくなり始めていたのかもしれない。


 その日は一日中上の空だった。もともと勉強はできないほうで授業に集中できることなんて稀だったけれども、隣の席の、白く美しい灯台の存在が僕の心を普段よりもぐちゃぐちゃにかき回していた。昼休みも逃げるようにして校舎裏に隠れてパンを食べたが、半分も食べないうちに気持ちが悪くなってしまい、残した。6限目の数学を終える頃には僕はもうすっかり疲れきっていて、このあと糸生詩津子に殺戮を自重するように言える力など残っていないような気がしていた。あわよくば、今日はこのまま帰ってしまいたい。なるべく隣を見ないように僕は急いで教科書を鞄にしまい込み、早足にロッカーへと向かった。だが、この間と同じ夕方のオレンジ色の光に晒された昇降口の、四角く切り取ったような景色の隅で、糸生詩津子は控えめにうつむいて待っていたのだった。

「……澄くん」

 物理的におかしい気がした。僕は確かに彼女よりも先に教室を出たはずだ。なぜ彼女が既にそこに居るのか。

「い、糸生さん、どうして、」

 僕は出かけた言葉を飲み込んだ。それよりも、こうなってしまった以上もう回避はできない。話をしなければ。

「と、……こ、公園でも、あの、嫌じゃなければ、行かない? ここだとあの、」

「うん」

 糸生詩津子の眉はいつもと同じ少し下がったような角度であったが、彼女の頬はうす桃色に染まっていた。恐ろしくて考えたくないことだったが、彼女はやはり僕に対して好意的な気持ちを持っているのかもしれない。だが、もしそうだとして、どうしたらいい? 人の頭部を打ち合わせて殺す生き物に好かれても、僕にはどうすることもできないではないか。校門を抜け、学校からそう遠くないが駅へ向かう道からは少し逸れた位置にある公園のベンチまで僕はほとんど走るようなスピードで足を動かしたが、僕より遥かに歩幅の広い糸生詩津子は息ひとつ切らさずに隣にぴったりと付いてきた。

「い、糸生さん」

 意を決し、僕は切り出した。並んでベンチに腰を降ろすのは躊躇われたので立ったままだ。それならなぜベンチの所まで来てしまったのかは自分でもよくわからない。

「はい」

 糸生詩津子の声が上から降って来る。彼女の顔を正面から見られない僕は、彼女の手にする四角い鞄につけられた例の稲妻柄の蛾のブローチに視線を固定する。

「……あの、あの……糸生さん、ぼくは、糸生さんが、梶尾たちを、あの、こ、こここ、」

「はい」

 糸生詩津子の返事はとても柔らかかった。僕がどんなに喋るのに詰まっても、視線を合わせないままであっても、少しも急かす事なく責めることなくただ待っていてくれた。僕はなんだか涙が出そうになる。人殺しなのに。彼女は人殺しなのに。

「僕は……あなたがひとを殺したことを、け、けけ警察とか、もっとあの、誰かに言うつもりは絶対になくて……」

 言おうと思っていたのとまったく違う言葉が口からこぼれ出て、僕は驚いた。違うんだ。梶尾のように僕や紫藤さんや他の人を殺したりしないでと言うつもりだったんだ。僕は一体何を喋っているんだ。

「でもあの、どうして、……どうして、糸生さんはあの時、あんな、ぼく、わからなくてすごく、こ、怖くて……。でも、だけど糸生さんは、やさしいし、僕はあの、初めて、こんな、こんなふうにされて、ど、どうしていいのか、」

「澄くん」

 呼ばれて反射的に顔を上げてしまった。勝手に流れた涙が頬を伝って顎から地面へと落ちて行く感触。これまで楽しいことなどほとんどなかった。経済的に貧しかったせいもあって、親もほとんど家にいない。僕の苦しみを理解してくれる人間は誰もいなかった。僕は僕のごみのような人生を振り返ってあまりに何も無い荒れ地が広がっていることが急に悲しくてたまらなくなった。どうして今、そんな気持ちになるのか僕自身よく理解できていなかったが、今思えば僕はこのとき、糸生詩津子だけが僕の人生に唯一咲いた花だと感じていたのかもしれない。それは人を殺す猛毒の花だ。けれどその時の僕は花を見つけてしまった瞬間の、それまでの荒野のつらさがどっと押し寄せてくる感覚に呑まれており、冷静ではなかったのだろう。そんな僕を、糸生詩津子はあの悲しそうな顔で真っ直ぐに見据えると、そっと半歩だけこちらに歩み寄った。

「わたし、澄くんが、可哀想なの。澄くんが可哀想なのが苦しいの……」

 糸生詩津子の長い睫毛の下の黒めがちな目の中で、夕方の光がゆらゆらと滲んでいる。

「こんなの不公平で理不尽だと思うの」

 細く長い長い親指が僕の涙をなぞって拭う。

「泣かないで、澄くん、可哀想に……わたしが全部、つらいことを消してあげるからね」

 5人を殺した同じ手で、糸生詩津子は僕の目をやさしく撫ぜる。どうしたらいいのかわからない。彼女を抱きしめたい衝動と、いますぐここから逃げ出したい気持ちとがないまぜになって、動く事ができなかった。いつの間にか随分と薄暗くなっている。遠くで雷がなっているような気がした。そのまま暫くの間、僕と糸生詩津子は抱きしめ合うでもなく語り合うでもなく、ただそこに立ち尽くしていた。僕はまだ何もわかっていなかった。〈糸生詩津子が何であるか〉を、何もわかっていなかったのだ。24時間も経たないうちに、僕はそれを思い知らされることになる。


 次の日、登校するや否や僕はクラスメイト達の好奇のまなざしに晒された。これは今思えば当然、想定しておくべき事だったのだろう。けれどこれまで本当に、女の子と喋ったことなんか片手で数えられるぐらいしか無かった僕には、糸生詩津子と二人で公園に歩いて行く姿を見られた事がこのように作用するなどとは思いも寄らなかった。

 席につくと視線が方々から突き刺さり、ひそひそと会話が交わされる。どことなく嘲るような雰囲気は、いわゆる「空気が読めない」と言われる僕にもさすがにわかった。左後ろから微かに聞こえて来た、「糸生さんも何で澄なんかとつきあう事にしたんだろうね」という決定的な一言を拾って僕は総毛立った。

 恐らくは2人で歩いていたところを誰かに見られのだ。噂が広がって、彼らの中で糸生詩津子と僕は付き合っているという事になった。そしてそれは当然、あってはならないことだ。ゴミ同然の僕と、成績もよく何もかも完璧にこなす孤高の花である糸生詩津子が、彼氏彼女の仲であるなど信じ難い冒涜。誰も手の届かなかった花を、ゴミに等しい僕が手に入れるなど、許されるはずがなかった。となると、次に起きる事は決まっている。

「要するに誰でもいいんだよ。糸生さんがそんな人だとは思わなかったから驚いたけど」

「澄がアリなら、俺もヤらせてもらおうかな」

「おとなしそうな顔して、びっくりするよね」

 彼らは糸生詩津子のほうを、僕と同じゴミレベルに引き下げることによって自尊心を保つのだ。あれは大した女ではなかった、「澄と付き合う程度の」女だったのだ、と。僕の存在によって、糸生詩津子は泥を投げつけられられる。たとえ人殺しであったとしても、彼女が僕のせいで貶められるのは堪えられなかった。僕の中に僅かに僅かに残ったプライドが悲鳴をあげて壊れていく。これではまるで、僕は病原菌だ。僕とかかわったものすべてが、こうして、汚染されて――


「おはよう、澄くん」


 弾かれたように僕は顔を上げた。クラスメイトたちが一気に静まり返った。糸生詩津子はほんの少しも気にする様子もなく、いつもの上品な流れるような仕草で椅子を引いて腰掛ける。彼女は机の中から1枚の紙切れを取り出した。僕の位置からは何と書かれていたのかまでは見えない。彼女が意図的に見えないようにしていた可能性もある。いずれにせよ、クシャクシャに丸まったその紙と裏にまで染みる攻撃的な油性ペンの跡が、それが他人の手によって書かれた攻撃的な文言であることを物語っていた。糸生詩津子は静かに俯いてそれを眺めると、そっとそれを折り畳んだ。背後で小さく笑い声が響く。どくん、と僕の全身を嫌な予感が走り抜けた。そうだ、僕のゴミみたいなプライドなどどうでも良い。気にするべきなのはそこではなかった。それよりもっと恐ろしい事だったはずだ。

「あ、あの、糸生さん、そそ、それ、」

「気にしてくれて、ありがとう、澄くん。わたしは全然大丈夫。いいの」

 予想外だった。彼女は微笑んでみせたのだ。

「あ……」

 糸生詩津子は怒ってはいないようだった。少しホッとして、僕はまた机に視線を戻す。

「でも、澄くんは、可哀想」

「え、」

 完全に気を抜いていた。僕は何一つできなかった。振り向くよりも先に、何か巨大なものが空気を斬り裂き、とても素早く動く気配を首筋に感じた。音はしなかった。ただ、僕の机の上に、ボン、と丸いものが落ちて来て、そのまま床に転がった。

「あ、」

 僕は、その丸いものが何なのか確かめたくなかった。机の上に真っ赤なストライプがくっきりと残っていただけで、充分だった。

「うそ、そんな、」

 一瞬遅れで悲鳴の塊が教室に爆発した。1クラス分の恐怖が渾然一体となって空間に満ちあふれる。けれどそれも、束の間。一度目の悲鳴が終わらないうちに、悲鳴がごっそり削り取られて掻き消えた。僕は反射的に机の下に逃げ込む。ひゅう、ひゅう、と長い腕が振り回されるあの音。同じだ。梶尾の取り巻き4人を掻き集めるようにして殺したムチのようにしなやかなあの腕。

「きゃ」

「たす、」

「あぐっ」

「やめ、」

「ひ」

 盤上に並べて立てたドミノを薙ぎ払うかのように、慎重に積み上げた小麦粉の山を息で吹き飛ばすかのように、細かに細かに書き上げた砂の上の経文をトンボでざっと均すように、およそ30人のクラスメイトをいとも簡単に、糸生詩津子が破壊している。机の下からでも充分にわかった。限られた低い視界の中、人間が、糸生詩津子の長い腕に、脚に、すくい取られて投げつけられ、すくい取られて打ち合わされ、すくい取られてひきちぎられる。すくい取る事すらせずにそのまま長い腕を打ち付けられて砕けて飛び散る者もいた。

「た、たすけて、澄、」

 僕と同じように机の下に隠れた同級生と目が合う。いつか僕の筆箱を蹴って遊んだことのある生徒だ。

「あ、」

 手を伸ばそうとした瞬間に、彼の隠れていた机は彼ごとバラバラに壊れた。ぴしゃりと僕の頬に何かがはねる。反射的にこすると、よくわからないスジのようなものが手のひらに付着していた。頭の中が真っ白になっていく。もはや思考することができない。机の足を握り締めすぎて指が硬直してきた。息が詰まる。指が痛い。床が濡れている。血だ、これは絶対に血だ。夥しい量の血が床に


「澄くん」


 突然、糸生詩津子の顔が目の前にあった。

「わああああああああ!!」

 跳ね上がって机ごと後ろに倒れそうになった僕を血まみれの腕でふわりと軽く支え、糸生詩津子は小さく微笑んだ。

「洗い物が大変」

 制服はべっとりと、余すところなく深紅に染まっている。

「澄くん、まだ悲しい?」

 何を言っているのかわからなかった。僕はその時もう言葉を理解する能力を失っていた。

「あ、あああっあああああ」

 僕はとにかく首をただ横に激しく振って、何かを否定した。糸生詩津子を否定していたのか、死を否定していたのか。

「良かった……じゃあ、またね」

そう言って糸生詩津子はとても繊細な仕草で僕の背から腕を離した。僕は床にへたり込む。気が遠くなった。揺らぎながらだんだん白んでゆく視界の中、彼女は小さく鼻歌を歌っていた。

 

「澄」

 低い声で名を呼ばれて僕は目を開ける。一瞬、死んだのかと思った。糸生詩津子の殺戮に巻き込まれて僕は死んだのかと。けれど白い視界はよく見渡せば病院で、そして僕の身体は傷一つ負ってはいなかった。

「目が覚めたか」

 泣きはらした目の担任の姿があった。僕は何があったか伝えようとしたけれども、声がうまく出ない。せんせい、たいへんです、いとうさんが、みんなを、

「ここは学校から離れた病院だ。大丈夫だ。もう、大丈夫だからな」

 何が大丈夫だというのか。どこにいたって、何をしたって、糸生詩津子が殺そうと思ったら誰もそれから逃れられない。

「せ、先生、みんな、」

 やっとの事絞り出した言葉に、教師は無念そうに首を振った。

「……本当に、すまない、何もできなかった、着いたときには、もう、」

 彼は嗚咽を漏らした。僕はこの教師に笑い者にされた事もあったけれども、本質的にはそう悪い人間ではないような気がした。

「お前と、それから、今日、たまたま風邪で欠席していた糸生と、……二人だけになってしまった、俺の生徒は、二人だけに、」

 風邪で欠席していた、だって? 糸生詩津子が? 可笑しささえ覚えた。どういう行き違いでそんな事になったのか知らないが、先生、それをやったのは、糸生さんなんだ、先生、

「どうした、大丈夫か、震えている」

「せ、……い、いとうさんが………いとうさんが、やっ、」

 僕の身体はガタガタと揺れていた。止める事ができない。歯の根があわない。言葉が続けられない。

「澄!」

 横に待機していた看護師が、昏倒した僕を支えた。がつん、と背中に衝撃を感じた。


 僕は精神的後遺症の治療のため毎日放課後にカウンセリングを受けることとなり、糸生詩津子とは別々のクラスに振り分けられた。どういうわけか、あの事件は別の人間、近所に住む30代の男が犯人だという事になっていた。クラスメイト達を殺して回ったのち、その場で割腹自殺していた、らしい。覚せい剤を所持していたとも言われる。けれど、そんなはずはない。あれをやったのは糸生詩津子なのだ。30代のその男がいかに覚せい剤で興奮していたとしても、あの人数をあんな短時間で、あんなふうに殺せるわけがない。男の写真を見せられた。見覚えがあるような気がしたけれど、それはおそらく別の記憶だ。近所に住んでいたのなら、顔ぐらい見た事があったのかもしれない。

 その人じゃありません

 幾度となく喉までそう出かけた。けれどそれを告げようとする度に彼女の顔がちらついて、体が震え、吐き気をもよおす。カウンセラーは僕の症状を、事件による通常のPTSDだと捉えたようで、

「無理に思い出す必要はないんだからね」

 と、訝しむことなくカウンセリングの時間の大半を他愛ない雑談に費やした。けれどそれをかえって良かったと思う自分も居た。告発すれば命は無いだろう。いや、告発したところで、無駄なのかもしれない。そう思うことすらあった。糸生詩津子が逮捕されている場面はどうしても想像できないのだ。逆に、頭部をもがれた警官隊の凄惨な死体が脳裏をよぎる。黒髪のひとすじも乱さず、糸生詩津子は淡淡と、警官をも殺してしまうだろう。

 そして本当の、本当のところを言えば、僕の恐怖を形成する約半分の要素はそれとは少しズレたところにあった。僕が糸生詩津子を告発できないのは、糸生詩津子に直接報復され命を奪われるかもしれないという懸念によるものだけではない。むしろそれと真逆の気持ちが僕の中に存在する事そのものへの恐ろしさが、確かに、存在した。糸生詩津子は人殺しだ。血まみれの灯台だ。それでも、僕の苦しみに、あの悲しそうな顔で理解を示してくれた初めての、女の子、なのだった。それは僕自身が人殺しであることと、限りなく近いことのように思えた。


 告発こそできなかったものの、しばらくの間、僕の生活自体は比較的穏やかになった。振り分けられた新しいクラスメイトたちは腫れ物を触るかのような態度だったが、これまでの、人間以下のぞんざいな扱われ方よりはましなのかもしれない。教師が僕の精神的後遺症を気にして目をかけてくれるので、結果的にいじめの標的にされづらくなったのも大きい。カウンセラーとはいえ毎日、誰かがまともな会話をしてくれるというのもありがたい話だった。相手が仕事だとわかってはいても、誰とも話さないで一日が終わるよりずっといい。加えて、糸生詩津子とクラスを分たれたことによって、僕の精神はかなり安定した。時折廊下ですれ違うことはあったが、驚いた事に彼女のほうも軽く会釈をしてくるぐらいで、クラスの垣根を越えてまで僕に積極的に話しかけて来ることはなかった。いつ口止めの圧力をかけてくるだろうかと怯えていた僕は薄ら寒い気持ちになったが、そもそも糸生詩津子のことを考えたくなかった、彼女から逃げていたかった僕にとってこれは都合が良かった。何か取り返しのつかない澱のようなものが体内に蓄積され、その蓄積できる限界が徐々に近づいているような嫌な予感は抱いていたが、それが「今でない」というだけで当時の僕は妙な安心を覚えていた。思えば、異常なことだ。

 やがて冬が来て、年が明け、僕は高校三年生になった。ホームルームで配られた進路希望の用紙はこれまでも何度か見覚えのあるものだったけれど、それが一気に現実味を増して来る。僕は将来を悲観していた。大学に行かなければならないという焦りはあったが、実際には行っても行かなくても僕の人生はどのみち頓挫するように思えた。カウンセラーにもその事を話したが、「深刻になりすぎている」「私のようなちゃらんぽらんでもどこかしらの大学には滑り込めて、こうして生活できている」など、どうも的を得ない応えがかえって来るだけだった。彼は危害を加えてくる人間ではなく安心はできたが、カウンセラーとして正しかったのかどうか、有能だったのかどうかは、正直なところ僕には判断できない。

 もともと勉強が苦手だった。小学生の頃に笑い者にされて以来、わからないところを尋ねる、という事がひどく躊躇われた。補習を受けても「なぜそれがわからないんだ」と苛つかれるのが恐ろしかった。高校はなんとか受かったものの、成績はいつも酷いものだった。国語だけはほかの科目より少しだけましだったけれど、それとてたかが知れている。計算をする能力が著しく低いので、理系は全滅だった。本を読むのが好きなだけでは成績が上がらないのを僕は知っている。それでも、僕はどこかで「健全で、相談できる人間も居て、勉強に集中できる精神状態であれば自分はもっと成績が良いはずだ」という幻想を抱いていたのだろう。いじめの標的からも外れ、糸生詩津子の事を除けば比較的心が落ち着いていたはずのその年、秋の中間考査でことごとく底辺中の底辺に近い点数を取ってしまったことに僕は衝撃を受けた。担任にも「このままでは希望の大学はおろか、短大も厳しい」と告げられる。勉強したい事などなかった。両親から見せられていた預金通帳の残金で支払いが可能な学校が既にもう限られていたというだけの話だ。僕の頭で入学が可能で、なおかつ学費もこれだけ安い学校などそう無かった。

「ダメそうだね。まあ、私たちの子だものね、仕方がない。働くしかないね……」

 三者面談の帰りに、駅のホームで母親に言われ、僕は返す言葉も無く、俯いたままずっと、とっくになくなったスポーツドリンクのペットボトルに口をつけていた。

 一日中茫然としていた。自分はどうしようもないクズだと感じた。なぜもっと狂ったように勉強をしなかったのかと悔やんだ。けれど時間が戻って来るわけでもない。いや、もし時間が戻って来たとしても、どのみち僕は同じ道を歩いていただろう。何一つ誇れることもない、得意なことなど一つもない、僕には何も無いのだから。

 夕飯も喉を通らず、参考書だけを開いて机に突っ伏していた。隣の部屋で母と父が何かを話している声が聞こえていたたまれなくなり、僕はコートを着込んで外へ飛び出した。きっと僕の事を言っているに違いない。

 マンションの玄関を抜けると雨が降っていた。僕はスウェットのフードを被る。小降りだけれども、ひどく冷たい雨だった。傘を持たずに出て来た事を後悔したが、頭のどこかで冷ややかな僕が囁いた。おまえにはこれで風邪でもひいて死んでしまう人生が似合いだ、と。走る元気も失せてしまい、濡れそぼりながらあてもなく歩く。遠くで雷が鳴っていた。山のきわに浮かんだ墨色の雲が数秒ごとに柔らかく紫色に照らされ、怖いぐらいに美しかった。あの下に行きたいと思う。けれど、こうして眺めているよりもあの雲は実際にはとてもとても遠く、決してこのまま簡単に歩いて行ける距離ではないのも知っている。僕の望むものはいつだって、近いようでいて、簡単に手に入れられそうでいて、とてもとても遠かった。


「可哀想」


 すぐ耳元で声がして、僕は凍り付いた。一年近く聞いていなかった声。恐ろしくて、聞きたくなかった声。けれど待ちわびていた声だ。振り向くことができない。あいたくなかったのか、あいたかったのか、わからない。見てしまってはおしまいな気がした。雷鳴。

「あげるね」

 左後ろから傘が差し出される。細く長い腕だけが視界に入って来た。こんな天気の夜なのに長袖ではないのが異様だ。硬直して手を出す事ができない僕を咎める事もなく、白い腕はじっと待っている。

「い、……あ、ありが、」

「雷が好きなんだね、澄くん……」

「あの、」

「わたしの蛾のブローチの模様、稲妻みたいって言ってたものね」

「あ、の、」

 再び、雷鳴。さっきより近いのか。足元に目を落とす。真っ暗な道路に、だいぶ離れた自動販売機の光が辛うじて反射している。傘はまだ差し出されたままだ。

「……澄くんはどこの大学に行くの」

「ぼ、僕は……」

 僕は揺らいだ。糸生詩津子はわかってくれる。僕の苦しみを、わかってくれる。でも糸生詩津子は人殺しだ。梶尾、梶尾の取り巻き4人、クラスメイト30人、無関係の30代の男、合計36人殺した、限りなく人ではない何かに近い女の子だ。振り返ってはだめだ、応えてはいけない、吐き出してはいけない、甘えては、

「××大を、志望してた、けど……む、むり、無理みたい……頭、悪いから、」

 どうしてなんだろう、ダメだとわかっているのに、僕は糸生詩津子を振り返ってしまう。闇に溶け込んだ彼女のかたちが差し出す傘を受け取った。言葉が口からこぼれ落ちる。

「どこにも、いけない、きっともう、僕の人生は、」

 いびつな僕の吃音を、糸生詩津子は決して責めない。そして言うのだ。

「可哀想」

 稲妻。ずっと近い。一瞬だけ白い光に照らされた足元。彼女は靴を履いていない。数秒後の雷鳴。

「……糸生さんは、勉強、できる、から、どこでも、行け、行けるよね、羨ましいな、きっと、か、家族も、」

「わたしは、」

 糸生詩津子は傘から手を離し、僅かに下がる。20メートル先の自動販売機の灯りが彼女の輪郭を縁取る。長袖どころか、靴どころか、おそらく何も身に付けていない。あのときと同じだ。

「どこにもいかないよ。ひとりだから。家族もいないの。だから何もいらないの」

 ひどく場違いな切って貼ったような、しかし恐ろしく美しい、滑らかな柱のシルエットがそう続けた。瞳の部分に微かにどこかの家の明かりが丸く反射して光っている。自分の心の一部を晒した相手が何であるかを見せつけられ、たじろいだ僕はちぐはぐな返答をしてしまう。

「さ、……さむくないの、」

 糸生詩津子の瞳に映る灯りの丸さが、僅かに歪む。笑ったのか。

「澄くん、しってる? 服を着せられたせいで、絶滅してしまった民族もいるの」

「え、」

「澄くん、世界は理不尽なの。あわせることはないのよ、つらくなるだけなの」

「え……」

 言葉の意味が理解できずに傘を手にして突っ立っているだけの僕の間抜けな顔の前に、彼女は体を屈めて会釈をすると、

「さよなら。またね」

 長い黒髪の先端を一瞬だけ僕の視界に残し、弧を描く軌道そのものとなって消えた。


 それからしばらく、僕は妙な胸騒ぎに襲われていた。今にも何かとてつもなくひどいことが起こるような、落ち着かない気分だった。僕が以前に糸生詩津子と長い会話を交わしたあと、あの殺戮が起きた。今回も何かがあるのでは? 僕は怯えた。しかし同時に、彼女に悩みを吐き出したことでどこか救われているのもまた事実だった。期末考査ではほんの僅かだが成績が上がった。それでも未だ第一志望の合格圏内には届かなかったが、入試まで死ぬ気で頑張れば、もしかしたら、もしかする事もあるだろうか。小さな希望が芽吹くのを感じた。僕はそれを頼りに足掻いてみることにした。

 

 入試当日は大雪だった。かなり早く家を出たが、駅に着くとすべての電車が止まっていた。これはダメだと踏んだ僕は試験会場までバスで向かうことにする。あらかじめ乗り場は調べてあった。満員のバスに揺られ、大雪の中何度か乗り換えてようやくキャンパスに到着する。だが、どうも様子がおかしい。大声で何かを叫びながら雪靴で慌ただしく駆けてゆく人。車の中で必死に携帯電話に耳を当てる人。涙を拭う生徒。受付に辿り着くと眼鏡の女性に早口で告げられた。

「とりあえず、教室に入って。ただ、試験に関しては予定通り行われるかどうかわかりません。待機していてください」

「……あ、あの、何か、」

「私たちも把握していないんです。とにかく待機していてください」

 女性は両の腕を抱くようにして不安げにこする仕草を繰り返している。苛々しているようで怖くなり、僕は大人しく指定された教室へ向かった。

 部屋は薄暗く、窓の外に雪が舞い落ちている様が無音の映像のようだった。僕の他にも数人の生徒がぽつぽつと椅子に座って携帯端末を弄っている。鞄を降ろして参考書を取り出そうとすると、一続きの同じ長机に間隔をあけて座っていた男子生徒がこちらにすべり寄ってきた。

「大変なことになったね。どうなるんだろう」

「えっ?」

 僕は聞き返す。

「た、大変なことって、なに」

「知らないの? ひどいよ、ほら、これ……」

 彼は大きな携帯端末を僕に差し出し、画面を指差した。


 電車、バスの事故多発

 死傷者多数

 都市部を中心に各地で大量の変死体

 テロの可能性


 右から左に次々に画面を流れて行く地域や判明した被害者の名前。名前の後ろに書いてある数字は何だろうか?

18、18、18、18、17、18、たまに別のものも混じるが圧倒的に18が多い。何かの整理番号か?

「写真、下の。やばいよ」

 言われて画面を下にスクロールする。雪の中に電車が横転している画像が次々に現れる。異常だ。なんだこれは、一体、何が起きている?

「やっぱテロなのかな」

 男子生徒が呟いた。

「戦争に、なんのかな……」

「戦争……」

 僕は窓の外に目を遣った。音もなく雪が降っている。現実味がない。と、そこで黒板の横の扉が開いた。先ほどの眼鏡の女性と、もう一人初老の男性が入って来る。

「とりあえず、試験そのものは、行います」

「え、」

 僕は教室を見渡した。まばらだった。数えられる程度の人数しか、いない。

「皆さんの試験は通常通り行うことになりました。今日来る事ができなかった受験生については、後日、個別に措置があります」

 来る事のできなかった受験生。僕はこの学校を受験する人間の数がどれだけか知らない。ただ、いまここにいる人数はあまりに少ない気がした。

「後日ったって……来る事ができなかった奴って、もう来れない奴がほとんどなんじゃないの……」

 先ほど携帯端末を見せてくれた男子生徒が小さな声で囁く。僕は電車の写真を思い出す。死んでいるという意味なのだろうか。恐ろしいことが起きているのはわかる。ただ、感覚としての理解が追いつかなかった。大きな携帯画面の中、右から左に延々と流れていた被害者の名前が脳裏に蘇る。名前の後ろに付いた数字も。

 (18)、(18)、(18)、(18)、(18)、(17)、(18)、(18)、(18)、(18)、(17)、(17)、(18)、(18)、(18)、(18)、(18)、(18)、(18)、(18)、(18)、(18)、(18)、(18)、

 ぞわり、と体の毛が逆立つ。なぜその時窓の外を振り返ったのかわからない。けれど、一瞬目を遣ったその長方形の視界に僕は絶対にあってはならないものを、見てしまった。

「えっ」

 白い景色の真ん中に、白い灯台、長い長い腕を巨大な蛾の翅のように広げ、悲しげな八の字の眉、吹雪になびく黒髪、こっちを見て、

「え…………っ?」

 どくん、と強い力で心臓の縮み上がる音。まばたきをするともう〈それ〉は消えていた。でも、確かに――

「うそだ、……うそでしょう?」

 僕は頭に浮かんだ、思い当たってはいけないことを必死に振り払った。そんなわけがない。有り得ない。あってはならない。呼吸が早くなる。いやな汗が背にじわりと滲む。有り得ない、有り得ない、絶対に有り得ない、あってはならない。


 この大量殺戮が糸生詩津子の仕業だなんて そんなこと


 何を書いたかあまり覚えていない。それでも僕は試験に受かった。受験した人数があまりにも少なかったからだ。大半は、死んだ。大量の受験生が、意味不明に道ばたで頭をねじ切られていた。大量の受験生が、電車ごと、バスごと破壊されていた。無関係のサラリーマンやOLも巻き込んで。都市部からごっそり、18歳と17歳が、いなくなった。事件の推理を始めたメディアが、死んだ受験生の多くは幾つかの特定の大学を受ける予定だったと報じていた。ことごとく、僕が受けた学校だった。テロ行為である説が有力だったが、インターネットには不可解な噂も広がっている。電車を破壊したのは人型のなにかだった、と。

『吹雪でよく見えなかった。人間の形をしたものが横切った気がした。長い髪の毛もあった。つるりとした、白い動物のようでもあった』

 卒業式まで僕はほとんど学校に行けなくなった。糸生詩津子の姿を正面から目にすれば僕はきっと確信を持ってしまうに違いなかった。彼女がやったということ。〈なんのために〉やったのかということ。そのすべてに、手触りのある確信を持ってしまうのが怖くてたまらなかった。


 高校最後の日、僕は終始下を向いていた。

「澄 一人」

「はい……」

 卒業証書を受け取って壇上で向きを変えたそのとき、生徒達の黒い海にひときわ抜きん出て背の高い白い灯台と目が合いかけ、ピントが合う前に急いで目を逸らす。膝が震えた。目を合わせようが合わせまいが、僕はもう本当は知っている。足元に設けられた黄色い照明の光が眼球の中で拡散した。大声を上げて泣き叫びたかった。階段で躓いて崩れ落ちそうになる。糸生詩津子が何をしたのか、知っているくせに目を合わせない僕は、自分がとてもずるくて醜い生き物だと思った。心のどこかで僕は大学に受かったことに安堵している。こんなに血が流されたのに。こんなに人が死んでいるのに。


 僕は糸生詩津子の築いた死体の山の上に座っている。


 狂ってしまえれば、それが一番幸せだったのかもしれない。でも僕は正気だった。人が狂う物語を幾つも読んでいたことがかえってあだになったのか。正気である事が、そして普通に人生を続けていることが恐ろしい。心の中がどれだけ荒れていようとも、一度レールに乗ってしまえば人生は表向き通常のスピードで平坦に流れてゆく。

 僕は大学に入学した。相変わらずコミュニケーションは不得手なままで、友人が爆発的に増えるということもなかったが、大学というのは小中高の頃よりは一人で居ることが苦痛にならない空間だ。それにまったく会話する相手がいなかったわけではない。入試の日に僕に携帯端末を見せてくれた彼と再会したのだ。彼は名前を阿見川あみかわといった。

「また会えてよかった。例の事件のせいで今年は人数が少ないからね。他の学校にも受かりやすかっただろうし、よそに行っちゃったかなと思ってた」

「あ、……そ、そうだね……」

「どこも警官だらけで何だか怖いな。これからどうなるんだろう」

「……もっとひどいことに……ならなければいいけど……」

 阿見川の不安と僕の不安は、似ているようで別のものだ。ろくに意義のある会話のできない僕にそれからも度々話しかけてくれるようになった彼には感謝していたが、糸生詩津子の事を相談できるほど親密だったわけではない。というよりも、相手が親しければ親しいほど、彼女について語る事は躊躇われた。糸生詩津子の不興を買って二人とも殺される最悪のパターンを恐れたからというのも勿論ある。けれどそれ以上に、僕自身が、糸生詩津子のした事を人に話す権利はないと感じていた。同罪なのだ。告発は許されない。僕は人殺しの糸生詩津子を心からは憎めない。そのようにできている。僕はもう、彼女を止める権利を失っていた。僕の心臓から生え伸びた糸のようなものが、彼女の脊椎と繋がっている。繋がってしまっている。人殺しで、残虐で、巨大で、恐ろしくて、美しい、あの生き物と。


 適応しなければならないと思った。この世界のルールの中でも生きて行けるようにならなければ、ダメだ。僕がこの世界で生きて行くことができれば、糸生詩津子は何もしないはずだ。誰も殺さずに済むはずだ。大学にも慣れてだいぶ経った頃、僕はアルバイトを始めた。この世界は金がなければ何も出来ない。それは両親から充分すぎるほど学んでいる。適応するにあたって最も大切な要素だ。とりあえず、広告で見つけた宅配便の荷物を仕分けする工場の仕事に応募することにした。

 ガチガチに緊張して臨んだ面接だったが、質問の内容は簡単なもので、週にどれぐらい出られそうか、残業は可能かなど聞かれたのち、そのまますぐに仕事の説明を受けた。縦横にベルトコンベアの伸びる薄暗い施設を案内され、一通り解説が終わるとマニュアル冊子と作業着を手渡されて少しだけ仕事を体験する時間を貰った。採用が決定したという言葉はなかったが「明日は17時からだから」という言葉から、僕はどうやら面接に受かったのだと知れた。

 夕方5時から深夜0時まで、2時間ごとに10分の休憩を挟んで仕分け作業をする。僕が担当させられたのは、トラックから背丈を超える大きな枠の付いた台車を運んできてはそこから荷物を降ろし、ベルトコンベアに流す係だった。米やペットボトルの水が何本も入ったものなど、荷物はかなり重いものも多く、思っていたよりもずっと肉体労働らしい仕事だった。体力がないのですぐに腕や腰がひどい痛みに見舞われる。そもそも荷物をなかなか持ち上げることができない。先輩にあたる従業員が何度も手を貸してくれたが、迷惑をかけているのは明らかだ。仕事を始めて2週間ほどが経ってもまだモタついている僕に、次第に彼のイライラがつのってきたのがわかった。幾度目かの休憩時間に僕は彼に頭を下げに行くことにした。先輩従業員は自動販売機の横で同僚と何かを話している。僕ごときの個人的な謝罪で話に割り込むのも申し訳ない気がしてしばらく待っていると、

「なに。何か話でもあるの? そうやって声かけてもらうの待たれても、わかんないよ?」

 と、逆に叱られてしまった。

「ご、ごめんなさい、すみませんあの、お、お話が終わるの待ってただけで、あの、こ、声をかけてもらおうとは、あ、あの……」

 恥ずかしさと申し訳なさで耳が熱くなる。

「どっちでもいいよそんなの。で、なに?」

「すすすみません、ご、ご迷惑をあのかっ、かけて、しまっているので、あ、あやま……っ、あやまりたいと、思って」

 言ってしまってから、こんな事言わない方がよかったと後悔した。先輩従業員は余計にイラついた様子でがりがりと頭を掻く。

「謝ったからって仕事ができるようになるわけじゃねえし、いらないからそういうの」

「ご……ごめんなさい……」

 僕は頭を下げ、逃げるようにその場から立ち去った。それからしばらく、僕は先輩従業員の顔をまともに見る事ができなかった。


「あんた全然力つかないね、キーヤのがいいんじゃないの、どう?」

 ひと月が過ぎようとしたころ、おそらく社員だと思われる上司にそう尋ねられた。一部、言葉がわからない。工場内の雑音加え、知らない単語だったためうまく聞き取る事ができなかった。

「あ、えっ、あの、すみません、よくきこえなくて、えと、あの、何でしょう」

「だァから、キーヤのがよければやってみる、って聞いてるの」

「……は、キー、あの、……すみませんわかりません、なんでしょう……」

「あっちがいいなら、あっちやってみる?って事!」

 上司は中二階のようになったベルトコンベアの角で流れて来る荷物を見ながらパソコンのようなものを操作している女性を顎で指し示した。今までやっていたパートよりは迷惑をかけずに済むだろうか。

「あの人もうすぐやめちゃうんだよ。番号打つだけならできるでしょ? 女の人がやる事の多い担当だけど、あんた重い物持てないんだからそっちやってもらうしかない」

 こうして僕は別の作業担当に回されることになった。情けない話だが、当初僕は力仕事から解放されて少しホッとしていた。しかしその安堵は間違いだったとすぐに悟ることになる。新しい仕事は、荷物の伝票に書いてある住所を見てベルトコンベアの制御機械に地域別の整理番号をキーで打ち込む作業だ。僕が番号を打ち込むと、荷物がコンベアの分岐点で番号に対応する仕分け先に流れていく。打ち間違えたり、どういうわけか機械に荷物が1つずつズレて認識されてしまったりすると、階下の作業担当が荷物を抱えて駆け上がってくる。

「おい違ってるんだけど」

「す、すみません! すみません」

 金属の階段を上がるカンカンカン、という足音を聞くたびに胃がギュッと縮むような錯覚を覚える。またやってしまった、という不甲斐なさで胸がいっぱいになった。かといって、打ち間違いのないように慎重になりすぎるとスピードがガタッと落ちてしまう。スピードが落ちるとコンベアに荷物が溜まってしまい、荷物同士が押し合ってベルトからこぼれ落ちてしまう。そうなる前に更に上の階の制御室に頼んでコンベアを止めてもらわなくてはならないのだが、これが間に合わない。しょっちゅう上を呼びすぎると

「またですか?」

 と言われてしまい、全体の効率が下がることによってすべての部署に迷惑をかけることになるため、呼び出しボタンを押すのを躊躇してしまう。するとガシャッと嫌な音をたてて箱が倒れ、上司が飛んで来る。結局は上に機械の停止を頼む事になるのである。

「誰かさんが何度も止めるから全然終わらないな」

「こっちは行ったり来たりで大変なのにキー打つだけで同じ給料ってありえなくない? しかもこんなに何度も止めてんのにあいつなんで給料もらえんの」

 休憩の度にそういった会話が耳に飛び込んで来る。僕は自動販売機で買ったパックの珈琲牛乳をいつまでも飲んでいるふりをして、ずっと下を向いて過ごした。仕事が終わったあとは早足で作業所をあとにする。辛かった。僕が居る事でかえって迷惑をかけているのではないかと感じた。いなくなったほうが、仕事の効率が上がるのではないか。

 あともう少しすればもっとうまくできるようになるかもしれない。僕はそれから三ヶ月、仕事を続けた。だが何も変わらなかった。僕は敗北した。「同じ給料であることがありえない」と言われる程らくな作業であったにもかかわらず、脱落したのだった。電話の前で3時間逡巡したが、結局、辞めることを伝えた。当然、引き止められたりはしなかった。もっと早くにこうしていれば、会社に損害を与えずに、同僚たちに迷惑をかけずに済んだのだろう。


 何の役にもたっていないくせに泥棒のようにして手に入れた給料を、僕はなかなか使う気になれなかった。働くという事が恐ろしくなり、なかなか次のバイトを決めることができない。諦めてしばらく勉強に専念する事にしたが、ミスの事を何度も何度も思い返して辛くなってしまう。受講中や、昼休みに阿見川と話しているとき、電車の中、まったく関係のないタイミングで倒れる箱や上司の怒鳴る声、同僚の舌打ちがフラッシュバックする。こんなことで、たとえ大学を卒業できたところで果たして僕はその後の人生を歩んでゆけるのだろうか? バイトのミスを思い返す度に僕の頭をそのようなネガティブな考えが浸食してくる。僕は本当にクズだ。あまりに心が弱すぎる。

 鬱々とした気分で落ち葉を踏みしめながら歩いていると、突然に突風が吹きつけてきた。僕は一瞬頭を上げる。横断歩道の向こうに、頭一つ高い人影が見えた。

 かわいそう

 彼女の声が脳裏に蘇る。背筋が凍った。バイト先のあの配送センターが血にまみれズタズタに破壊される様子を想像する。

「糸生さん、」

 信号が青になる。アーケード街の人混みに消えて行ったその姿を僕は追いかける。

「糸生さん、待って、お願いだ、僕は、」

 僕はそんなことして欲しいわけじゃないんだ。バイト先を憎んでなんか、いない。悪いのはすべて僕だ。僕が世界に順応できないことが、なによりも、悪いことなんだ。死んだ方がいいのは、むしろ、

 そこまで考えたところで足が止まった。それは最も考えてはいけない事のように思えた。僕は深い沼の一歩手前に立っているのかもしれない。何かの宣伝なのか、ハロウィンの仮装をした一団が僕の目の前を横切る。糸生詩津子の姿はもはや見えない。或いは最初から見間違いだったのかもしれなかった。風が冷たい。なんとかしなければ。選んではいけない道は、思っていたよりもずっと近いところを通っている。落ちてしまっては、もう這い上がれない。もやもやとした焦りのような塊が僕の心臓の隣で脈打っていた。


「そっかバイトやめたのか」

 阿見川は片手で携帯ゲームをしながら僕の隣に座った。

「でもわかる気がするよ。俺もいま工場でさ、化粧品だかなんだかの瓶のフタしめるだけの仕事なんだけど、モタモタしてると溜まるんだよな。溜まっても自動で流れて来るからさ、かち合ってひっくり返って割れちゃうんだ。そうなったらもう機械を止めなきゃいけないんだけど、止めるとすごいブザーの音がしてさ、ほんとにすごい音なんだ、それで他の部署の人もみんな俺の方を見るんだよ。阿見川また止めやがったなって。死にたくなっちゃうよなほんと」

 さらっと言ってのけた彼を見つめて、僕はしばらく言葉が出なかった。

「……え、」

 僕が悩んでいたのと同じような事を、彼もまた悩んでいたというのか。驚いた。

「お、同じ、同じだよ。僕も荷物をあの、溜まっちゃって、それがガシャって、それで余計慌てて」

「そう、そう」

 阿見川に相槌を打ってもらったことがやけに嬉しかった。心が少し軽くなったような気がした。なんだ、このぐらいの失敗はみんなするんじゃないか、と。最初から、彼に相談すればよかった。もしかするとバイトを辞めてしまう前に、悩みを打ち明けるという選択肢もあったのかもしれない。

「俺もさ、もうちょっとしたら辞めようかなって思ってて。向いてないみたい。給料も安いし」

「あ、そ、そうなんだ……」

「でさ、俺次ここ受けようかなって思うんだけど。一緒に受けない?」

 そう言って阿見川は携帯の画面をかざしてみせる。テレビでもよく見かけるマスコットキャラクターの画像と共に、バイト求人サイトの1ページが表示されていた。

「えっ、い、一緒に?」

「イベント設営のバイトなんだけどさ。一人だと心細いじゃん。澄が一緒ならなんか、安心する」

 一緒に何かをしよう、と誘われた経験などほとんどなかった僕は狼狽えた。

「えっ、でも、僕でいいの、大丈夫なの」

「もちろんだよ、な、な、頼むよ」

 携帯端末をポケットにしまい、阿見川は両手を合わせる。

「わ、わかった。一緒に行こう」

 嬉しかった。彼は僕の友達だ。一緒に何かをするということが許されるのなら断るはずがない。仕事に対する恐怖心はまだあったが、同じ悩みを持つ阿見川となら乗り越えられそうだと思った。


 結局僕らが面接を受けに行くことになったのは、翌年の春だった。阿見川がタイミングを見計らって今のバイトを辞するまでに時間がかかったためだ。彼の言っていた募集は一度冊子に出なくなってしまったが、年明けしばらくして再募集をかけていた。人手が足りないようだ。仕事は金土日がメインで、休みも取りやすく、大学生歓迎との事だった。面接はだいぶ緊張したが阿見川と一緒だったため、配送センターの時よりは吃らずに受け答えができたように思う。その甲斐あってか、僕らは二人とも「じゃあ来週の金曜からよろしく」と肩を叩かれた。

 仕事内容は、デパートや大きなイベント用施設などで開かれる地方物産展などの各種イベントの会場準備の手伝いである。テーブルを立てたりロープを張ったり、仮設テントを立てたりする。メインの仕事は社員や手慣れた人が行っているが、案内版を設置したりシートを固定したりするような簡単な作業や資材運びなどの雑務は僕らの仕事だ。どこに何があるかも、道具の名前もわからないままに次々に用事を言いつけられるので、僕と阿見川は半ばパニックになった。○○とはなんですか? どこにありますか? と尋ねるたび、忙しそうにしている社員たちは「ああもう、じゃあいいよ」と自分で取りに行ってしまう。使えないのがわかると次からはもう、何も指示されずに彼らは僕らを介さずに自ら資材置き場に出向いて品物を取って来るようになる。申し訳なく思い、作業を手伝おうとするのだが「それはやらなくていい」「危ないからどいてて」と制止され、どうしていいかわからなくなった僕は、半ば棒立ちに近いような状態になる。阿見川はどうしているだろう、と辺りを見回すと、彼はちょうど社員にひどく怒鳴られているところだった。何だか彼に悪いような気がして僕は目を逸らす。

 週に4日ほど、僕たちは仕事に駆り出された。僕はその度に棒立ちになり、阿見川もその度に怒鳴られていた。同時期に雇われたと思しき僕ら以外のアルバイトの連中は、叱られつつもどんどん仕事に慣れて行っているように思えた。僕らはやはり敗北者なのだろうか。暗い気持ちになる。阿見川が一緒でなければ僕はすぐに脱落していたに違いない。

「あ、阿見川がいてくれて助かったよ、僕、そうでなければ今頃とっくに辞めてたと思う」

 ある日の仕事帰りに僕は缶コーヒーを飲みながら彼にそう告げた。阿見川は微糖と書かれた黒い缶のコーヒーを飲みながら、足元を見つめていた。

「うん……」

 どことなく上の空な返事をする阿見川の表情は、自動販売機の明かりと逆を向いていてよく見えない。

「ど、どうかした?」

 僅かに腰を屈めて覗き込もうとした僕から、彼は顔を逸らした。

「いや、なんでもないよ……疲れただけだよ」

 阿見川は心底、疲れているように見えた。目の下に、深い皺のような影ができていた。


 二ヶ月経っても、僕はまだ仕事をうまくこなすことが出来なかった。ものの名前は少しずつ覚えてきたが、それを生かすタイミングがわからない。何かを覚えたとしても、知っている事だけを頼まれる機会は少なく、ほとんどの場合、知らない事との組み合わせとなる。そして知らない部分でヘマをやらかし、最も単純で、わざわざ人員を割いてやる必要のないような仕事に回される。その繰り返しだった。現場はいつだって急がなくてはならない雰囲気で、ひとつひとつの物事、意味について説明を受けられるチャンスはない。自らそれを作らなくてはならないのだろうが、僕にはそれがどうしてもうまくできなかった。ただただ上司をイラつかせるのみで、自分にも、全体の作業そのもにも何の利益ももたらせず終わる。これで給料をもらっている事が毎日とても恥ずかしく、情けなく、辞めてしまおうかと幾度も考えた。けれど、ここでもまた同じ敗北を繰り返すのを僕は恐れた。ここでも駄目となったら、僕はいよいよ人間失格だ。その絶望が恐ろしくて仕方がなかった。絶対に落ちてはいけない深い深い沼が、もう目前に迫っていた。

「おいこれ片してこい、横幕の棚わかるな。わからなければ同じのある場所探せ」

 足元に、布の詰め込まれた大袋が数個ぽい、ぽい。と投げられる。

「あ、は、はい!」

 大袋を抱えて僕は倉庫を彷徨った。薄暗い棚がどこまでも続く。蛍光灯のスイッチの場所がわからないので、僕は目を凝らして棚に記してある番号を見た。大袋にマジックインキで殴り書いてある「2k」や「3k 1800」などの数字と英文字を照らし合わせ、一致する場所に仕舞わなくてはならない。この数字の意味も以前早口で説明をもらった気がするのだが、何を言っているのかさっぱりわからず、もう一度尋ねるチャンスは未だ掴めない。僕はただ、書いてある字と同じ棚を必死に探す。

 棚の列を辿っていくと、布袋の隙間から黄色い光が洩れていた。倉庫の大棚の裏側がちょうど休憩所になっているのだ。社員とアルバイト数名が何やら談笑しているのが、薄暗い倉庫のこちらからはよく見える。盗み見ているわけではないが、何か後ろめたさを感じて、僕はなるべくそちらを見ないようにするが、声だけは聞こえてきてしまう。

「まったくどうしようねーなあいつはよ」

「オメーもな、オメーも別に全っ然、仕事できるわけじゃねえかんな? そこ勘違いすンなよ」

「や、まあそりゃそうなんすけどね、もちろん」

 3人居る。最後の1人は阿見川の声だ。驚いた事に、笑っている。阿見川は僕が見る限りでは僕と一緒で常に怒鳴られていたはずだ。と、そこまで考えて僕は、阿見川が自分と同じ敗北者であって欲しい、という浅ましい気持ちを抱いていた事に今更気付き、俯いた。彼が社員と談笑できるほど彼らと打ち解けた事は素直に祝ってやるべきだ、それが当然だ。僕らは一緒に脱落するために同じ仕事に飛び込んだわけではないというのに。これではまるで、血の池から手を伸ばし他人を巻き込もうとする亡者の心だ。自責の念に駆られて気分が悪くなってきた僕は急いで袋を棚に押し込み、その場を離れようとした。だが、

「それでも澄と比べれば全然マシだろうがよ、なあ、阿見川、あいつ何なんだホントひでえよ口きかねえし。学校でもあんななのかよずっと」

 唐突に自分の名前が出て来て、僕の足は凍り付いた。聞きたくない、聞くべきでない、知りたくない、やめろ、心はそう警告していたが、耳は冷酷に彼らの会話を拾っていく。

「まあ〜、あんな感じっすね、俺もドン引きする事あります」

「だろ? フツーじゃねえって。G寺の花まつりの時にブロワーぶっ壊したのも結局何も言って来ねーんだろあいつ」

「待ってれば謝ると思ったけどな。さすがに壊れたやつずっと倉庫に丸見えにしてあるんだし。無視してんだよアレは。どうでもいいと思ってンだよ」

「逆に言いづらいんじゃないっすかね……俺だったらすぐマツさんに殴られに行きますけど」

 ウソだ。嘘だ。うそだ。そんなはずはない、花まつりの時にブロワーを使う仕事をしていたのは阿見川だ。違う、壊したのは僕じゃない。どうしてそういう事になっているのかわからない、

「コーヒー買ってやったら普通、あとで礼言いに来るだろ? あいつそれもないからな……」

「渡したんだろ、阿見川。何て言ってた」

「う〜んまあ、特に何も、ははは、」

「だろ〜? そういう奴なんだよ澄は。駄目だよあいつ」

 コーヒーを渡された事はある、でも阿見川は何も言わなかった。あれが社員からもらったものだと、彼は告げなかった。そうだ、つまり、阿見川は僕を、

 腕が震えた。考えたくなかった。思わず棚に手をついてしまう。留め具の下がったフックが傾き、ボードを壁に掛けるための金属の部品がジャラジャラと音を立て床に落ちる。3人がこちらを振り返る気配が、棚越しでもわかった。僕は走った。阿見川は味方ではなかったのだ。トラックに乗せっぱなしだった荷物を引っ掴み、逃げた。敗北者は僕だけだったのだ。

 僕はこの世界の敗北者だ

 僕はこの世界に生きる事を失敗したんだ

 そもそも生まれて来たことが間違いだった?

 何かの手違いだった? きっとそうだ

 友達なんか最初からいなかった 最初から、

 いるはずがなかったんだ、

 携帯端末がポケットの中で震えている。阿見川だ。だが出る事は出来ない。何かを言ったところで、彼にとって僕は友人ではなかった。それが彼の口から明らかになるのを冷静に聞く事ができるほど僕の心は強くない。僕は携帯を再びポケットに戻し、カーブした通りを駅に向かって駆ける。いつかの、阿見川の疲れきった顔が思い出された。僕は、自分が阿見川を恨んでいるわけでない事に気付く。阿見川は僕よりも少しだけ生きる方法を知っていただけだ。彼は僕を使って、生き延びた。そうしなければ、深い深い沼に落ちて二度と這い上がれなくなってしまうからだ。怖かったからだ。

 紫色の闇の中、車のライトだけがやたらに視界に突き刺さって来る。尖った光が目の中で激しく拡散する。泣いているのか、僕は。

 誰を憎む事もできなかった。ただただ、この世界すべてと、自分の不甲斐なさが憎かった。何もかもが消えてしまえばいいと思った。ガードレールの切れ目で自転車に轢かれそうになり、転倒した僕はそのまま地面に座り込んだ。その時だ、


「かわいそう」


 すぐ耳元で懐かしい声が囁いた。行き交う車の群れのたてる轟音が突然に僕の聴覚からカットされたかのように、糸生詩津子の静かで控えめで、しかしはっきりとした言葉だけが僕の脳みそ全体に一瞬にして沁み渡る。おそろしい事だ。糸生詩津子をいとおしく思うこの気持ちがおそろしい。

「糸生さん……」

 背後から、彼女の長い髪の毛がハラリと、僕の首筋に触れた。同時に真っ白い腕がするりと伸びて来て、僕の身体を抱きしめた。胸が詰まりそうになる。とてもつらくてくるしい、いきていくのが、あまりにもつらい、そういう言葉を僕が口に出す前に彼女は言う。

「澄くんは、かわいそう」

 糸生さん、僕はこの世界で生きてゆくことができなかった

「かわいそう」

 糸生さんどうか、

「僕を殺してください」


 その言葉に糸生詩津子が息を呑んだのが振動でわかった。車のノイズが耳に戻ってくる。クラクションも聞こえる、糸生詩津子の白い美しい肢体に気を取られて事故でも起こしたか。

「糸生さん、僕は、ここでやっていくのはムリなんだ。あなたは僕の気持ちがわかるでしょう、お願いだから、できるだけ、ひどい殺し方で、おねがい、ぼくを、殺してください、糸生さん」

 僕の胸に巻き付いた糸生詩津子の腕が先刻より微かに締まった。糸生詩津子ならば、僕のこの願いを叶えてくれる。きっと叶えてくれる。僕はこの血まみれの灯台に縋っていた。それが僕の末路としては最も妥当に思えたからだ。

「澄くん、わたし、」

 足が宙に浮く。糸生詩津子は僕を抱き上げたのだ。そのまま視界が黒と光の線になる。僕を抱えた糸生詩津子は、飛んだ。ひゅうう、と空気を切る音に混じってすすり泣くような振動がある。まさか、彼女は泣いているのか。僕のために?

「糸生さん、どうして、」

 彼女は答えない。身体が急降下する。落とされるのか。光の粒は地上の人家の明かりか。粒が大きく大きくなってくる。やはり地面だ。ああ僕は死ぬのだ。当然だ、敗北したんだ、この世界に……


 だが僕の身体がコンクリートに叩き付けられて粉々の肉片となり果て、辺り一面に飛び散ることはなかった。ふわり、ととても柔らかく、ガラス細工でも扱うように、糸生詩津子は僕の身体を地上に降ろした。周囲に明かりは数えるほどしかない。灯台のような糸生詩津子の背後に、闇より更に黒い山のシルエットが広がっていた。いや、それよりも、

「糸生さん、なんで、」

 糸生詩津子がぽろぽろと涙をこぼしていた。拭いもしないその粒は、頬を伝い、長い髪を伝い、何も纏わないその白磁のような身体を伝い、真っ暗な地面に吸い込まれていく。

「澄くん、殺してなんて、そんなの、」

 絹糸のような髪が風にばらけて、糸生詩津子の顔に数本はりつく。僕は後悔した。彼女のことを何も考えてはいなかった。彼女が僕のためにどれほどのことをしてくれたのか、考えもしないで殺してくれなどと、なんて勝手なことを言ったのだろう。死ぬべきだ。僕は自ら死ぬべきだ。

「糸生さんごめん、僕は、」

「わたしは、澄くんが好きなのに」

「どう考えても僕にそんな資格はないよ、僕は死ぬべきだ、あなたにこんなにやさしくしてもらったのに、こんなことになってしまって、僕は、僕は、」

 最低の、と言いかけた唇が氷のようにつめたいもので塞がれた。一瞬それが何だか理解できなかった。だが白い視界と近すぎる糸生詩津子の目、閉じたそれから流れ落ちる涙が僕の頬に伝って来た感触をもって、僕は彼女に口づけをされたのだと知る。ほんの数秒が永遠に思えた。液体のように柔らかくて恐ろしく冷たい唇、しかし頬は暖かい。糸生詩津子が何なのか僕にはわからない。だけどこの世界で唯一、僕を理解してくれ、僕を受け入れてくれる女の子であるのは確かなのだ。

「かわいそう。だいじょうぶだからね……怖がらないでね、」

 そっと顔を離した糸生詩津子の切れ長の瞼の奥の瞳が黄緑色に発光している。吸い込まれそうなその目に魅入っているうちに、彼女は僕を再び抱き上げた。そしてすぐ横にいつの間にか存在していた井戸のような穴の中へと僕を放り込んだ。僕の記憶はそこで一旦、途切れる。



 空は遠く、円かった。井戸の壁にはとっかかりが無く、体力のない僕が這い上がれるような代物ではない。何よりも僕にそんな気力がなかった。何日か経ったような気がする。空腹ではあったが、糸生詩津子の手を直接的には汚させないで済む、この死に方は結局は僕に一番適切だったのかもしれないという思いが強く、気分は悪くなかった。遠くで飛行機の音がする。穏やかだった。ここは僕が生きられなかった世界ではない。隔離された最後の安住の地であり、死ぬまではここに居ていい。ここは僕の世界だ。そんな気がした。

 遠くでドロロ、と雷が鳴っている。僕の頭上の円い空は美しい青だ。青がにわかにかき曇り、稲妻の走る瞬間が来るだろうかと僕は期待して、まどろみながら待つ。ゆっくりと、雲がまるい空を覆い始める。

 雷を待ちながら、今度こそ、死んで行くのだと思った。

「澄くん」

 僕はその声に弾かれたように頭を起こす。円い空から糸生詩津子が舞い降りて来た。なぜ彼女が再び僕の前に姿をあらわしたのか、僕は理解できないでいる。

「い、糸生さん、」

 理解できないでいる。僕は糸生詩津子が理解できないでいる。彼女の全身は真っ赤な血潮のチョコレートフォンデュにつけ込まれたかのようだ。僕は糸生詩津子が理解できないでいる。

「思ったより時間がかかってしまったの。ごめんね、澄くん。おなかがすいたでしょう。今だけ、これで我慢してね」

 彼女は小さなチョコレートを僕に手渡した。銀色の包み紙が血にまみれている。

「え、」

 糸生詩津子は僕の身体に長い両腕をぐるぐると巻き付け、まるで体重がないもののように抱きかかえる。そして猫が棚に飛び乗るのにも似た気軽さで、すとん、と井戸の外へと飛び出した。空はいつの間にか重い灰色に染まっている。稲妻だ。近い。光った方を振り返る。記憶の途切れる前に見たこの場所は、確か夜だった。既に雲に覆われてはいたが今はまだ陽は落ちていない。けれども辺りには誰も見当たらない。見渡す限り、荒れ地、山、山、人家のようなものが見えなくもない、だが遠かった。

「糸生さん、ここは、」

 彼女は小さく微笑んで再び僕を抱えると高く高く、跳ねた。降り始めた雨の冷たさに少しだけ目を閉じてまた開くと、見慣れたはずの街がジオラマのように小さく見えた。それがだんだん近づいて来るにつれて、僕は気付く。色とりどりの何かが道に、建物の上に、そこかしこに散らばっている。一番多いのはピンク色、いや、赤だ。赤い色、


 僕は気付く。それは様々な色の服を血に染められた、人間の屍だった。あちらこちらにあるそれは、すべてが、ほんの少しも動いていなかった。何もかもがちぎれて散らばっていた。近づいてようやく気付いた。建物も、ほとんどすべてが破壊されている。破壊され尽くされている。なにもない。全部が、惨たらしくひきちぎられ、すりつぶされていた。糸生詩津子が再び地面を軽く蹴る。雨の中、僕らは空から世界を見渡す。


 世界は、グチャグチャに壊れてなくなっていた。


 透明な液体を吐き出してよろめく僕の身体を、糸生詩津子が長い髪で支える。彼女はいつか見た、少しだけ眉根を寄せた悲しそうな表情で、

「可哀想」

 と囁いた。僕は僕よりも頭一つ以上背の高い彼女のその顔を見上げたまま、動くことができなかった。もうこの世界にはそれしかなくなってしまったのだ。

「可哀想だね、澄くん」

 白く長く、細いけれどもしなやかで筋肉質な糸生詩津子の腕が僕の頭をそっと搔き抱く。

「とても可哀想」

 僕はただ硬直した身体を彼女に委ねる。雷鳴が轟いた。助けが来ないのはわかっていた。世界のすべては死んでいた。殺されていた。僕の住めなかった世界は、殺されていた。<糸生詩津子が何なのか>僕はようやく理解した。

「でもだいじょうぶ、澄くんの世界は、可哀想にならない世界になるよ。わたしには、わかるの」

 雷鳴とともに雨が、糸生詩津子の美しい身体を洗っている。僕は、胃に何も残っていないのに吐き続けた。

「澄くんは、とてもやさしいから、澄くんの世界もきっととてもやさしいの。わたしはそこに、住みたかったの。そこなら、わたしも、きっと住めるの」

 透明な液体を吐き出しながら僕は、真っ白い人殺しの灯台を抱きしめた。



—END—

 

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雷の王国 T長 @taichow

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