6ビンめ 甘酢づけ秘則の魔術

「高度魔法が消えるって、……ど、ど、ど、毒尻尾がどうかなっちゃうってこと??」

「まるごと必要なくなる」

 女はそう言うとの入った銅製のお碗を少年のひざの上から取り上げ、息がかからないように脇へ移動させてた『ラバルツの魔術書』を自分の前に引き寄せる。

 そして、堅牢に造られた革の書物を水平に立てると、お碗からサーっと液体をまぶしかけた。


 藍色に書物の天の辺が光り、朱色に表紙がうるみ、そして全体が黄色に濡れてゆく。書物の色が全て黄色になるとジュワーーーーッという音が立つと共に、ものすごい臭気が立ちのぼった。

 とび茶色の髪の少年は、顔をゆかに伏せたが、それでも鼻に信じられないほどの臭気が飛び込んで来る。それは三、四分ぐらい、音といっしょに止まらず続く。

「…………うぅぅぅッ」

「念願の気化止きかどめだ……、これでもう、この『ラバルツの魔術書』は〈荒れ果てた魔殿の壁の鏡のうしろから見つかった大事な魔術書〉じゃない、〈今の世の魔法の根幹を変えることになる無双の魔術書〉に、なった!!」

 いままでよりも、ますます語気の調子がたかまってる。

 女の長い髪の毛は何本かずつゆっくりと逆立ってゆき、何本も生えているそのどろどろ尻尾もうねりを上げて揺れ動き出す。

 右脇のカウンター状の板に置いてあった濃い茶色の紙を女は取りに行き、少年に読み取らせた魔術書の見開きの内容を改めて読み起こしていく。

「蟹の歩みは廻りが7回……うさぎの跳とぶのは交互に3度……そして南溟なんめいの果実の落ちるのは5個……! 5個か」

 数が一体何を示してるのか、その理解は女の頭の中で解決してるのだろう。おそらくそれをこなすことで、何かとんでもない、想像も及ばないものが生まれ出てしまうのだろう。少年の理解はもう何も追いつかないが、ただひとつ、自分の命にも関わって来る部分が、少ないどころか、大規模に出来上がってしまうのではないかという不安は、とてつもなく生じていた。

「毒尻尾がまるごと無くなる……って、……それ」

「言っただろ、誰かさん。このラバルツの魔術書の魔法は、薬のびんも呪文も必要は無い境地に達してる秘則ひそくの魔術。誰かさんの、その、指のしびれのおかげで、もうあんな物たちは必要無くなる時代だ」


「ゴガジャジャジャ」


 ドラゴンサソリの声が音の大きさを拡げながら聴こえてくると同時に、鎧戸よろいどが開いて、風の流れが何本も乱れ込んで来た。


「ゴガジャジャジャ」

「ゴガジャジャジャ」


 一匹では無く、何匹ものドラゴンサソリが次々と部屋の中に入って来る。そのうちの何匹かの揺れる尻尾が、当たりそうな勢いでぶらぶらと揺れてるので、少年は壁際に背中をつけるように後ずさりをして下がった。

 カラカラカラカラと何かが触り合って音が鳴る。

 鎧戸から入って来たドラゴンサソリたちの背中には、毒尻尾のものとは違うものと判るが何か魔法のための薬が入ってるであろうびんがいくつも積み込まれてるのが見え、中の液体がゆっさゆさと水面を上下させている様子はうかがえた。

 しかし何が入ってるかは、さっぱり見当がつかない。

「ごくろうだった」

 女はいくつもある尻尾をあやつって、壜をドラゴンサソリの上から取り、個数を確認しながら自分の手元に運んでゆく。

「あとは誰かさんが読んだ順番どおりに、こいつらを甘酢に漬ければ、秘則のモトが生まれる……、完璧だ」

 女が壜の蓋をひらき、液体からまるい果物をつまみあげて微笑んだときだった。ドラゴンサソリのうちの一匹の鋭いあごが女のどろどろ尻尾を三、四本ひきちぎって真っすぐに跳んだ。

 女の長い髪と黒い衣裳に、どろどろ尻尾から飛び散ったあぶらのようなかたまりがいくつもゆかにしぶきかかる。



 少年は小さな爬虫はちゅう類のような尻尾を内股に寄せるようにして身をかがませ、突発の事態から命をまもることを第一に、ひたすらジッとしてた。

 何度も空気を切り裂いて一匹のドラゴンサソリが部屋をとんでもない速度で真っすぐに跳んでた。部屋の奥から鎧戸の方へ、そしてまた鎧戸の方から奥へ。

 他のドラゴンサソリは事態が起こったはじめの段階で、部屋からは逃げ出してたので、跳びまわってるのはその一匹だけだった。


「ゴガジャジャジャ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」


 ブッともズブッともつかない音が部屋の空気の中に響いて来る。

 少年は頭を膝にこすりつけ、尻尾も小さくしまい込みジッとしてたが、やがてドラゴンサソリの跳びまわる音が響いて来なくなったのを察知すると、ゆっくりと顔の角度を少し上げ、壁とは反対の向きを見渡してみた。

 ほんの数十秒前とはガラっと変わった、音も風も停まったみたいな空間だった。

 そこにはたんたんと裂かれた女のどろどろ尻尾がいくつもいくつも何十本も散らばり、肉を煮たまま数日放置した鍋をひっくり返したように汚く凝りかたまったあぶらのかたまりのようなものが、高い壁や横板にまで散らかってた。


 あの黒い衣裳の女は、口元から薄い色の赤い液体を垂らしたまま仰向けに倒れており、そのまま動かなくなってる。


「…………うぁぁ、あ、あ」

 少年が目を伏せてると、カシャ、カシャ、ギッ、ギッ、と音が前方から近寄って来た。鼻に水か何かをかけられたかのようなびっくり顔をして少年が一瞬だけ大きく顔

を上げると、そこにはドラゴンサソリが足先をこちらに向けて立っており、尻尾もピンと天に立てたまま徐々に距離を詰めて来る。


 いつ、このまま跳びかかれても不思議は無い。

 そのような考えしかサイヴァイの頭の中には、もう浮かんで来なかった。


 ギッギッ、ギッ……ギッ。


 少年の足のすぐそばにまで近づいたドラゴンサソリの左の一番手前の脚、そこには他の脚には無い……いや、ドラゴンサソリには本来無いような、いくつもの小さい点のようなれがいくつも見えたのだった。

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甘酢とラバルツの魔術書 @oobun

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