5ビンめ いざこれへと指をつけよ

「待ってる間にこちらも気化きか止めをしないとな……立て」

「………………ひっ……」

 女のどろどろ尻尾の包囲がまたたく間に近づいてたことを感知すると、少年はすぐ立ち上がった。フト見ると、銅製のお碗を持ってたほうの女の腕が、黒い衣裳の下に隠れてた。

「これへと指をつけよ」

 女が語りつつ差し出されたお碗の中には何か液体が波打ってた。

「…………うわぁぁぁぁぁぁぁぁっ……?!」

 何だか黄色っポイ色、いかにもあやしげな液体。少年はちからいっぱい足を踏み切って駈け出し、どろどろ尻尾にまわりこまれないよう壁を背中につけながらひたすら逃げおおせようとする努力に走った。

(変な本から何が見えたか言わされるだけならまだガマンできるけど、これは無理があるよ――!!!!)

「むだなこと」

 狭いようで広いゆかの上を走るが、どこまで行っても逃げ込めそうな場所が出て来てくれない。先ほどのかんのついた鎧戸よろいども、今さら考えればまるで逆方向だったことに少年は気がつく。

 長い髪の女の声が、少年の背中に突き刺さる。

 壁から少し飛び出た横木に左の肩を当てて少年のひざの動きがくずれると共に、どろどろな尻尾はもうその行く手に回り込んでいた。

「いざこれへと指をつけよ」

「そ、そ……そんなのに指つけたくない……ぅ」

 黒い衣裳の手にのった、あやしい液体入りのお碗は少年の間近に迫る。

 あぶらのかたまりのようなどろどろの尻尾に首と腰と膝の自由は奪われており、サイヴァイが意思を伝えて動かすことの出来る動作器官は、両手と尻尾ぐらいだった。

「これにラバルツの指をつければ、ラバルツの魔術書は気化の危機を脱し、八千年来の魔術の流れを本源もとから変える……いざ指をつけよ」

「…………んぅぅぅ」

 抵抗の色を尻尾のこわばりにも見せる少年だったが、次第にそのこわばりも抵抗からではなく、苦しみからの緊張へと変わってゆく。女の異相の尻尾は少年の腰まわりの骨と肉とをちからを込めて締め上げ、腹や胸にも不快なあぶらじみを拡げた。

「指をつけよ」

「……………………」

「こたえに頭はらないな」

 首にまわされた女の尻尾は徐々ににじりあがって鼻筋と口にも巻き付いて来る。サイヴァイの目の前に銅製のお碗をさしだしたまま、女はただ待ち続けている。

「…………ぁぁ、ぷっ、ぁぁぅぅぶっ……」

 ねっとりした女の複数の尻尾が口元であくどく動く。

 やがて、顔をしかめたまま少年の左腕が黄色い液体に向かってゆっくり動きはじめると、指先が水面に近づくにつれて圧迫のちからは強くなっていった。



 『ラバルツの魔術書』に記されているのは、ある魔術に関する秘儀だった。八千年以上――何千年も前の魔術書の秘儀なのだから、秘儀の中の秘儀といってもいい。


 しかし、秘儀であるためたった一部の者の閲覧のみを前提として書かれてて、ほんの少し不用意に息を吹きかけたりしただけでも書かれた内容は気化きかしていたし、そもそも先の時代に残ることすらをこばんでた。

 何千年もの昔、黄色いくじらが99頭、同時にあくびをした夜、霊山〈ラバルツ〉からたったひとつぶ流れ出る、ラバルツのしびれに冒された者が書き記したこの書物は、同様にラバルツのしびれに冒された者のみが、読むことが叶い、そして、保管をすることが出来るのだった。



「黄色い鯨を探しているうちに、ラバルツのしびれは誰かさんのものに……だがもうそれも安心だ」

 女は長い髪を揺らしながら、指を黄色い液体につけたままの姿勢で坐ってる少年をただ眺めてる。

 指をつけろ、という女の命令についにイヤイヤ従ったときには、それがまる二日にも及ぶとは少年の予想範囲外だった。少しでも気がゆるんで液体につけてる指が浮かびあがりそうになると、そのたびに女の尻尾が、少年の小さな尻尾や耳たぶなどに警戒を加えた。

「気化止めが済めば、まず三百年は魔術書は保たれる。をせずにな」

 自分の黒い衣裳を引き上げて口に当てるしぐさを少年の顔のすぐ手前で示すと、女はラバルツの魔術書を片手で持ち上げ、真横に腰をおろした。

 立てた両膝の上に銅製のお碗を置いて左の指をつけてるサイヴァイの体には、腰と腹のまわりに依然として女のどろどろ尻尾がからみついてる。

「これさ……」

「息を」

「………………」

 女が魔術書を少し離したところに置く。その間、少年の口元には黒い衣裳が押し当てられつづけた。

「……この、これさ……、一体なんなの……?」

「魔術書の気化止きかどめの効力を持つ

「シャラ……って、ごはんの……?」

 サイヴァイの住んでる〈けらむしの里〉にも、穀物の女神としてまつられてるので、名称の意味は理解が出来た。

を受けることなく魔物にはぐくまれた太古の甘酢、それが、誰かさんが指をつけてるソレだ」

 そう言い終わると、女はサッと指先を黄色い液体にひたし、二三滴を自分の尻尾のうちの一本に垂らす。

 あぶらのごちょごちょしたような尻尾の表面に、そのを受けぬの粒がのると、黄色だった色がまたたくうちに藍色に変わり、そのうちに朱色、そしてまた黄色へと色を転じる。

「………………」

 その変化を見つつ、少年はひたすら息を止めてた。女の尻尾の上に落ちた甘酢の水滴が藍色朱色と変わる際に、信じられないほどの臭気がバッと沸き起こって来たからだ。いっぽう、女は甘酢を垂らした尻尾を顔の近くにもたげて、まぶたを閉じ、ゆっくりそれを嗅ぎ取ってる。

「最高の甘酢だ……!! これでラバルツの秘則ひそくの魔術を実現に導ける!!」

「じゃあ……やっと……」

 少年が、黄色い液体のなかに長時間にわたって指をつける作業からの解放を期待する顔で、女のほうを見た。


「そうだ……!! やっとだ。これで高度魔法なんてものは一切存在の必要が無くなるほどの変革が進む。秘則ひそくの魔術が全てを凌駕する魔法として再び支配をする……、手仕事と詠誦えいしようを何重にも必要とする今の世なんて、かき消える」

「えぇッ?!」

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