青い雨

七式

第1話

 身に纏う衣服が薄くなり、蝉の鳴き声が聞こえ出した頃。私は汽車に揺られていた。人溢れる帝都で物書きなぞを続けていると、田舎の緑生い茂る風景がいやに恋しく思えたのである。そのような愚痴を懇意にしている医師にこぼすと、とある農村を勧めてくれた。医師はその農村を定期的に訪れているようであった。「医師のいない田舎の農村なので地主に頼まれ通っている」と建前では話していたが、いざその農村を訪れてみるとこの時分には珍しく貧困の影が見られずのどかな場所なのだそうだ。久しぶりの休養と次の書き物の題材になるやもしれぬと私はその懇意を快く受け入れた。

 汽車に揺られながら緑溢れる景色を眺めた。人が溢れ華やかだが無機質な色の並ぶ帝都には無い自然の色を感じた。真っ白な原稿用紙に囲まれた生活を続けていた私はこの光景に心を躍らせた。小さな駅を降り、私は医師から貰った地図を頼りに開けた田舎道を歩く。開放的な風景を味わいながらのんびり歩いた。日が傾く頃に農村が見え、山の麓に広がる村からは煙が上がり夕暮れの空にとても馴染んでいた。村に入ると薪を抱えた女性がいた。地主の家を尋ねると快く案内してくれた。地方の農村というものはどこか閉鎖的であるという印象を持っていたが、女性の対応はその印象を覆した。女性に案内され地主の家に辿り着く。私は女性に深く礼をし門を叩いた。地方の農村は貧困に喘いでいると聞いていたが、この立派な門構えからはそういったものは感じられない。門を叩いて一呼吸おいて若い青年が門を開ける。柔らかな物腰で「話は聞いております」と大変愛想がよかった。医師から話が通っていたので私が泊まる準備がしてあった。青年は客間を自由に使える事と地主が待っている事を伝え愛想よく部屋を出た。私は部屋に荷物を置き伝えられた通り地主の元へ赴く。

 長い廊下を歩く。外から見るよりもこの家は広いようであった。奥の襖を開けると八畳ほどの部屋に地主が座っていた。膳が二つ並び地主が座るよう促した。その威厳ある振る舞いは人の上に立つ者であると十分に理解できる。席に座ると軽い歓迎の後、用意された食事を肴に帝都の現状を尋ねられた。どうやら地方には中央の情報は伝わりにくく今回の様に客を招いては話を聞いている様である。田舎の農村に中央の情報がどれ程の意味があるかは分からなかったが、彼ほど地位になると僅かな情報でも握っていたいものなのだろう。私は今の帝都を知る限り話した。宿代だと思えば安いものであった。互いに酒も深まり宴会はお開きになった。最後に部屋を都合してもらった事に感謝をし私は床に就いた。

 明くる日、日が昇りきる前に起床した私は村を回る事にした。随分天気が良い。広い村ではないが人の営みは帝都と違い、そのどれもが懐かしく思える。少年時代に見た光景がそこには多数あり、そのどれもが私の創作意欲を刺激した。そうした光景を眺めていると子供達が地面に絵を描いて遊んでいる。遠目から見ていると鳥や花などの絵が並ぶ。子供達は歌っている。童謡だろうか、興味がでた私は小石を拾い子供達の隣で絵を描いた。獅子や麒麟の絵を描くと子供達が興味深そうに覗きこんできた。子供は好奇心に貪欲である。獅子や麒麟を教えた見返りとして歌の事について聞いてみた。子供達の話はちぐはぐであったが歌詞の内容と繋げてみるとこんな話であった。

 村には古い言い伝えとして魚神様なる神様がいたそうだ。作物が年々減りだした時それは現れ雨を降らせた。その雨は作物に力を与え、これより不作に嘆く事は無くなったそうだ。聞くとありきたりな民間信仰に思えたが地方ではまだその名残が残るという。この農村に残っていても不思議ではなかった。さらには山の中腹に魚神を祀っているという。少し登った所にあるらしく地主宅で場所を聞き赴くのがいいだろう。子供達と戯れた後、村を散策しながら地主宅に戻った。戻った頃に昨日の青年を見付ける。なにやら忙しそうに運び物をしているようで、私が手伝いを申し出ると申し訳なさそうな表情を浮かべながら快諾してくれた。私はさりげなく魚神について青年に尋ねたみると今度は困ったような表情を濃くしながら「よくある民間信仰ですよ」と答える。やはり若者というものは田舎でも都会でもそういったものには無関心なり嫌悪感なる物を感じるのであろうか。これは地主に聞くとまた違った答えが聞けそうだと向こう見ずな好奇心が芽生える。夕食時になると私は昨日と同じ部屋に呼ばれる。昨日と同じく膳が二つ並び私達は雑談を交え箸を進める。地主との雑談が興に乗ってきた頃、私はそれとなしに聞いてみる。「魚神なるものがこの地には祀られているようだが」その問いに地主はふと考え、間を置いて答える。

 「魚神様はこの地の古い言い伝えでございます。何代も前から伝えられ今では子供達の御伽話になっておりますが、この地が豊かな事も事実なのです。時代の波か信仰心が薄れる傾向にありますが、村を一つにまとめる要素の一つでもあるのです」語る地主に妄信的な素振りは感じられず、政(まつりごと)として村を思っての事なのであろう。私は魚神を祀る神社の場所を書き留めてもらい少しの雑談の後自室に戻った。自室に戻る廊下の途中、神社のあるであろう場所に僅かな火を見る。月のある夜であったがその火は月より魅惑的に感じ、私は歩みを止めそれをただ眺めていた。我に返り床に就いた私であったが、瞼を落としてもその火がちらつき夢か現実かわからぬまま朝を迎えていた。

 ぼやけた頭を払うべく冷やかな水で顔を拭っていると青年がやってきた。彼も身支度を整えにきたのだろう。酷く疲れた様子であったがその愛想の良さで周りには悟られないようにしているようであった。神社に赴く事を伝えるとやはり彼は快く思ってはいないらしく「山道は気を付けてください」と神社にできるだけ触れぬような言葉回しであった。身支度を整え地主宅を出る。村の隅に神社への道が続いているらしく、そこから山道を歩く。歩けるよう切り崩された崖や人の歩いた跡を辿り二時間ばかり登った所で神社が見えてきた。山の中だからであろうか田舎だからであろうか。その神社には立派な鳥居と石造りの参道、そして本殿があるだけであった。参道がやけに幅広く作られており、手水舎も幣殿も見当たらなかった。あらかた観察し終わり神社の造りというのは地方によって変わるものなのだろうかと考えていると、本殿から人が現れた。頭からつま先まで覆うような装いであったが、その線の細さから女性ではないかと思われた。巫女であろうか、巫女は私に気が付いたらしくゆっくりと近づいてくる。覆う衣服で表情が見えない。私は少し身構えたが「この村の人ではないのですね」と僅かに擦れた声で話しかけてきた。どこか絞り出すような声に違和感を覚えたが怪しい者と思われたのか。私は平静を装い静養ついでにこの村に来たことを告げると巫女はまた絞り出すような声で私に告げる。

 「いい村でしょう。のどかないい所。けれどもう、ここへ訪れてはいけない。ここの水も空気も駄目なの。嗚呼、明日も雨が降る。海が降る。貴方も村に縛られたくないでしょう。早く、早く村を出るの。雨が降る前に」次第に半狂乱になる巫女を落ち着かせようと肩を掴むと硬い感触が手に伝わる。驚き手を放すと巫女が笑っている。「どうしたのです」と狂乱に笑う巫女にたじろくとそのまま来た山道を駆け下りていた。足がもつれ転んだところで我に返る。手に残る感触が頭を蝕む。その鱗のような感触は私が山を下りるまで明確に残っていた。村に戻ると昨日の子供達が私を見付ける。また色々な動物を教えて欲しいと私の手を引く。その柔らかな手に先ほどの恐怖心が和らいだ。されど感じた恐怖はべっとりと私の頭に張り付いていた。

 地主宅に戻った私は入れ違いに出会った青年に明日帝都に戻る旨を伝えた。青年は何かを察した表情で「旦那様には私からお伝いしておきます」と答えてくれた。彼は巫女の事を知っていたのだろう。だが認めたくなかったのであろう。言葉にすることは頭で認める以上にそれを認めた事になるものである。夕食も遠慮すると、然もありなんといった表情で無言で承諾した。

 明日の準備も早々に私は床に就いた。帝都に戻ればこの恐怖心は消えるのだろうか、あの巫女が魚神なのかと考えながら眠りにつく。どれ程の時間が過ぎたのだろう。寝苦しさを覚え目が覚める。窓を開け外気を体に当てようと窓に寄ると神社があるであろう場所に火が見える。昨日とは違い随分大きな火である。私の向こう見ずな好奇心が私を山へ向かわせた。道中、巫女の言葉を思い出す。「明日雨が降る」その言葉に促され夜空を見る。月も星もよく見えとても雨が来るようには思えない。考え過ぎであろう。明日にはこの地を発つのだと自分に言い聞かせる。もし怪しまれても明日の朝だけならば地主に知らぬ存ぜぬで通るだろう。今日通った道を急ぐ。私は途中で脇道に逸れ、神社にいるであろう村民に見つからぬように回り込んだ。神社に近づくと多数の人間が無言で火を囲んでいた。中には村で見た顔が数人いる。煙を轟々と上げるそれは木材が塔の様に積み上げられ、その火の中には人影があった。背格好からして巫女であろう。火の中の巫女は暴れもせず悲鳴を上げる事も無い。異様な光景の中、火の音だけ聞こえる。しばらく火の中の巫女に魅入られていると巫女がこちらを向き目が合った。火で見えないが確かにこちらを向いている。背中を冷たい感覚が弄り、昼間の笑い声が頭に響く。逃げ出したい衝動を抑え、慎重に神社を後にする。絶対に走ってはいけない、自分に気付かれてはいけないと必死に脳に命令しながら山を下りる。村に出てからは一目散に地主宅から荷物を持ち出し村を逃げ出した。途中、青年らしき人影を見付けたが彼は何もせず私を眺めていたと思う。村が見えなくなる所で振り返ると、火は燃え続け煙を上げ続けていた。走り続け駅に辿り着いた私は安堵と疲労によりその場に倒れこむ。

 雨の冷たさが私を目覚めさせる。巫女の言った雨だろう。駅で汽車を待つ。昨日の出来事は夢だったのだろうかと思ったが、違うのだろう。思考を巡らせていると汽車が到着し乗り込む。巫女の言う通り私はこの村に訪れはしないだろう。潮の香りのする雨が降る、この村に。

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青い雨 七式 @nanasiki

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