纐纈・ソフィア・雪音はあなたがキライ? 23

「よう、気分はどうだ?」


 前条朱雀と入れ違いで戻ってきた杦本に対し、そう声をかける。


「罪悪感……は減ったかもな、気分は悪くねえよ」

「そいつはよかった」

「その……何だ、感謝はしてる、こんな機会を得ることすら二度とないと思っていたし、一生後悔を抱えたまま死ぬと思っていたからな」


 杦本はそう照れくさそうに言う。

 正直男の頬染めほど無価値なものはないが、これで杦本は僕に対しての信用のハードルを大きく下げたに違いない。

 上っ面な友人関係など遥かに凌ぐ信頼を得たと言ってもいい。

 事実好感度指数も急上昇しており、当初は10%だったものが今となっては70%という大躍進っぷり。

 功刀の対応次第という所はあったが、これで一つ関門は突破したか。


「俺に責任があるのに変わりはないが、功刀の今後の人生に傷をつけるような結果にならなくて、本当に良かった……」

「あいつは外野の声に踊らされるほど弱くはないだろ、その程度で泳ぎに支障が出るなら功刀は学生社会の一員だった、それだけの話だ」

「それでも余計なことは言いたくなかったんだよ、功刀の負担やプレッシャーになるような発言だけは、したくなかったからな」

「だから告白もしなかったと?」


「…………お前から見たら俺は馬鹿な学生に映ってるかもしれねえが、身の程って言葉ぐらいは知っているつもりだ」


「……そりゃ失敬」

 恋に身の程も糞もないとは思うが、それだけ杦本は功刀に迷惑をかけたくないという確固たる意思があるのだろう。

 だから距離を置いた、集団意識に取り込まれた自分はいつまた彼女を傷つけてしまうのか分からないから。

 他を圧倒し水面を走るように泳ぐ彼女を、見続けるために。


 ……尊敬するよ、お前は学生社会に抗う立派な人間だ。


「まあ俺からすればお前の方がよっぽど異常なんだがな……」

「? どういう意味だ?」

「あれ、前条朱雀だろ、前からおかしいとは思っていたが――まさか恋仲とかそういう関係だったりしねえだろうな」


「……もしそうだったらどうするよ」


「妄想も大概にしろよ――十分前の俺ならそう言ってたな」

「意外だな、信じるっていうのか?」

「誰とも交わろうとしない功刀を引きずり出しただけで普通じゃないからな、なら前条朱雀って女はそんなキワモノ好きだとしても不思議じゃないってだけだ」

「なるほど、そういうパターンがあっても面白いな」

「いずれにせよ……どうやら本題はこれからみたいだな」

「お前の意思を尊重出来そうにないのは申し訳ない。ただ前条朱雀にとっても功刀にとっても、ひいてはお前にとっても必要なことなんだ」

「……それは俺も同感だ、功刀の先をいつも走っていたのは前条朱雀なんだからな――見届けさせて貰っても、いいか?」

「勿論」


 そうこうしている内に前条朱雀が功刀の下へと辿り着く。

 前条朱雀は悲劇なんて言っちゃいたが、正直僕も何をするのかは聞いていない。

 計画をぶち壊すような真似はしないと信じたいが……。


「久しぶりね、まともに話をするのは二年、いえ三年ぶりくらいかしら」

「まさか……本当に来るなんて……」

「来ないという選択肢もあったのだけれど、誘っておいて放置は流石に失礼だし」

「人を赤の他人扱いしておいてよく言ったもんだね」

「あら、傷ついちゃった? でもごめんなさい、あの時の私はそれどころじゃなかったから、無用な争いなんてしても仕方がないでしょう?」

「たとえ朱雀が水泳から離れてしまっても、私にとっては絶好の機会だったんだ、それなのにどうしてあんな……」

「それはあなたの勝手な押し付けじゃない、絶対的なライバル関係だなんてよく囃し立てられたものだったけれど、迷惑極まりなかったわ」

「それはそうかもしれない……でも私には聞きたいことが山のようにある、追いつき追い抜こうとした存在が、どうしてそんな、呆気なくいなくなったの」

「……ただ泳いでいただけなのに、随分と目を付けられてしまったものね」

「朱雀……どうして水泳を辞めたんだよ、あれだけの才能があればきっと今頃私なんて手も届かない所にだって――」


「勘違いしないで、私は好きで水泳をやっていた訳じゃないの」


「え……?」

 前条朱雀が言い放ったその言葉に、功刀は固まってしまう。

 無理もない、彼女はてっきり家庭の事情で水泳を辞めざるを得なかったと、思っていたに違いないのだから。

 無論、僕もそう思っていた節はあるのだが。


「私はね、水泳が嫌いだったのよ、本当にこれ以上ないぐらいに嫌い、私にとって水の中は苦しめるだけのそんな世界でしかないの」

「そんな……なら今まで――――」


「見つけて欲しかったから、私がここにいるってことを」


「見つけて……? そんな理由だけで、トップに立ったっていうの!?」

「理由なんて人様々でしょ、水泳選手としてオリンピックで金メダルが取りたいだけが全競技選手の共通の目標だと思ったら大間違いよ」

「でも……あれだけの才能と、努力を重ねてまで自分の存在を示すなんて普通じゃない……それが無意味かもしれないのに」

「実際無意味だったわ、あれだけ積み重ねて、並み居る相手を全てなぎ倒して、優勝までしたのに、全く関係のない些細なきっかけで見つけたのだから」


「それが……あの男だっていうの……」


 功刀は今にも殺してきそうな鋭い目つきで僕を睨む。

 途切れ途切れで聞こえる会話ゆえに正確に何を言っているのか分からないが、恐らく水泳を辞めてまで僕に拘ることに対しての憤りだろう。

 そりゃ仕方がないといえば仕方がない、はたから見ればどう考えても悪い男に引っ掛かったようにしか見えないからな……。


「おい……功刀が凄い形相でこっちを睨んでるけど、大丈夫なのか?」

「美しい百合の花が咲き誇っているじゃないか、何の問題があるというのかね」

「は?」


「どうしてあんな男に拘るのか理解出来ない……自己中心主義で、人を利用して自分は安全圏に引き篭もって……ただのクズ――」


「雅継くんを悪く言うのは止めて、清水の舞台から叩き落とすわよ」


 大真面目な顔でなにジョークに等しいこと言ってんだよ。

 とは言ってもあいつなら本当にやりかねないからな……、ミステリー小説もドン引きする殺人事件が起こってしまうが。


「分からない……本当に分からない……自分の人生を投げ売っていると言ってもいいのに、どうしてそこまで……」

「それをわざわざ説明する気はしないけれど。功刀、あなたという人間でありながらその台詞を言ってしまうのは少し残念ね」

「…………? 何を言って――」

「あなたは天才というよりは努力で水泳を続けた秀才よね、つまり悪い言い方をすれば功刀に水泳選手としての才能はなかった」

「それが……どうしたっていうの」

「でもあなたは水泳が好きよね? 誰よりも水泳が好きだから、その気持ちだけで誰よりも速くなることが出来た、違うかしら」

「だからそれがどうしたって言うのよ!」


「その人に適した才能と、その人が本当にしたいことは別って意味よ」


 前条朱雀は、そう冷たく、言い放った。

 その最後通牒に功刀は行き場のない感情と共にぐったりと項垂れる。

 ……こればっかりはどうしようもない。

 功刀自身がそうしてきたことを、前条朱雀が自分もそうだと言って、それでも尚水泳に戻ってきて欲しいなどと、誰が言えるだろうか。

 残酷だが、あの頃の競い合った日々は二度と戻っては来ないのだ。


「おい……功刀の奴大丈夫かよ……」

「大丈夫……だと思いたいが、どうだろうな……」


「――でもね功刀、あなたの想いを尊重しない訳じゃないのよ」

「え…………?」


 前条朱雀はそれまで厳しかった表情を少し緩めると、功刀の視線に合わせるように身体をかがめて、こう言った。


「勝負を、しましょう」


「勝負……?」

「そう、決勝になればいつも私か功刀となっていたあの時のように。勝てば官軍負ければ賊軍、負けた方が勝った方の言う事を何でも聞く」

「まさか……水泳で……?」

「勿論、だからこんなあなたらしくない神頼みなんてしないで」

「それは……私が書いた……」


 前条朱雀の手に握られた二つの絵馬。

 それは功刀が安井金比羅宮で神に祈った二つの願い事。


『前条朱雀とまた水泳が出来ますように』

『前条朱雀から災いが消えますように』


 前条朱雀への感情が強過ぎて恐怖すら感じてしまうが。

 人を災い呼ばわりとは、随分と酷い言い草ではある。


 だが。


 その願いは神に祈らずとも、叶えてしんぜようではないか。


「功刀ともあろう人が、神に頼ろうだなんて情けない真似をしないで」


 そう言うと前条朱雀はその二つの絵馬を地面に落とすると。

 容赦なく足で叩き割る。


「おおう……」

 こんな罰当たりな真似よく出来るなと、関係のない僕の背筋がゾッとするが。


 欲しいものなら神をも引きずり下ろす、これが前条朱雀である。



「さあ功刀、女の子なら力づくで奪い取ってみせなさい」

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