纐纈・ソフィア・雪音はあなたがキライ? 16
お世辞にも、エベレスト級とは表現出来なかったが。
程よい感触が、そっと僕の顔を包み込む。
そして続けざまにやってくる、カーディガンから香る優しい柔軟剤の匂い。
オージーザス! これが楽園か。
じゃなくて。
「は、はの……ほれはいったいほういう……」
「どう? これで少しは落ち着いた?」
いやまあ……どちらかといえば動揺に対して全く違う動揺をぶつけられたせいで思考が停止してしまったという方が正しい気がするが。
不思議と落ち着いてしまったので交換覿面だったいう他にない。
「お母さんがね、私が落ち込んで帰ってきたらよくこうしてくれたの――まあ私が直接して貰った訳じゃないからこういう言い方はおかしいんだけど」
「お前……やっぱり纐纈じゃ――むぐっ」
そう言いかけると彼女は僕の唇に人差し指当て、『シー』と言わんばかりの顔で僕の言葉を静止する。
こんなの現実でする奴なんざ初めて見たが、思いの外悪い気はしない。
「本当は出てくるつもりはなかったんだけどね、雅継君って勝手に自分で抱え込んで悩んじゃうタイプみたいだから、何だか放っておけなくて」
「随分とお姉ちゃん気質な性格だな、嫌いじゃあないが」
「そう? まあでもそうかもね、雪音もちゃんと見ておかないと、どんどん陽の当たらない場所に行っちゃうから、私がいないと、って部分はあるかも」
「……いつからお前は産まれたんだ?」
「いつから……だろう、具体的には覚えていないけど、多分雪音が中学生の時からじゃないかな、この子の声が聞こえて気づいたら、って感じ」
解離性同一性障害。
まさかとは思っていたが本当にそうだとはな――
まさか國崎会長はこのことで僕に依頼を? だとしたらあまりに荷が重すぎるだろう、ただの一般人がどうこう出来る話じゃないぞ……。
それに、別人格が暴走しているのならまだしも、彼女は纐纈をフォローしようとしている、それが彼女にとって問題のようには思えないが……。
「彼女は――纐纈はお前の存在を認知しているのか?」
「しているよ。会話することも出来るしね、本当は君にも私の存在は知って欲しくなかったみたいだけど、雪音じゃ君の抱える問題を解決出来そうになかったみたいだから、それで私が呼ばれたってワケ」
「そりゃまた随分と……僕も甘やかされたものだな」
自分でも嫌になるくらい、自分の弱さに腹立たしくなる。
ナヨナヨした男が主人公の作品を読む度に下らないと唾棄していた僕が、同じような状況にいるんじゃ世話ないというのに。
とっくの昔にそんな状況にいられる時間なんて過ぎているのに。
「それにしても雅継君はあの二人を見て随分と狼狽えていたけどあの娘が好きなの?」
「火の玉ストレートだなおい」
「ラブでもライクでも、それだけ心が揺らぐんだから、そういう対象なのかと思って」
「どうだろうな……ただ――」
「ただ?」
「いつかちゃんと、応えてあげないといけないと思ってる、そうじゃないと、彼女を苦しめ続けるだけだから」
たとえ彼女の一挙一動に、心が揺らいでいたとしても。
僕自身が曇りのない気持ちで、前条朱雀と向き合えた時に応えたい。
君が、好きだと。
「ほほー、何だかそう言われると私までニヤニヤしちゃうね、ならば世話焼きお姉さんの私から吉報を授けようとしましょうか」
「吉報も何もするべきことははっきりしているんだが……」
「いやいや違う違う、ほらあの二人、見てご覧なさいよ」
そう彼女に促され再度物陰から櫻井と前条朱雀の姿を除いてみると――
どうやらあまり和気藹々としたような様子には見えないではないか。
険悪――とまではいかないが、良い雰囲気でないのに違いはない。
「……少なくともラブワゴンから降りたカップルではなさそうだな」
「今の時代そのネタは通用しないと思うけど、でも愛が成就したとは到底言い難い状況だよねえ」
前条朱雀から櫻井に近づいたとは考え難い、だが嫌悪感とはまた違うあの前条朱雀の表情は一体……。
どうやら話を聞いてみる必要はありそうである、前条瑞玄が関係しているなら尚更だ。
「おっと、こっちに歩いてきたね、そろそろ私達も集合場所に戻るとしようか」
「……そうだな、その……ありがとう、正直かなり助かった」
「私の意思もあるけど、雪音に言われたら助けない訳にはいかないからね、お礼なら彼女に言ってあげて頂戴な」
「ああ分かった――その――」
「?」
「最後に……名前だけ教えてくれないか」
「……名前? 私の?」
「お前は纐纈じゃないんだろ、それなら名前があると思ったんだが」
僕の言葉に彼女は何故か意外そうな顔を見せたが、少しして何かを我慢するように笑みを浮かべると、こう言った。
「…………嬉しいなあ、嬉しい、私に名前があるって、そう思ってくれるんだ」
「いや……え? なんか変なことでも言ったか?」
「ううん、ぜーんぜん、そんなことないよ。いいよ、教えてあげる――」
秋風が舞い、彼女の目を覆い隠していた前髪がふわりと浮かびあがると。
眼鏡と、同じ人間とは思えないほど明るい表情を見せた少女は、こう続けた。
「纐纈・ソフィア・明音(あかね)。雪音がくれた、大切な名前」
◯
「雅継氏! 見て下されこの無残な状況を……」
「ああ……酷いなこれは……」
ほぼ時間通りに全員が集まった僕達の班であったが。
どうやら最初に集まった時とはあまりにも雰囲気が変わっているようであった。
そのうちの一人が、彼である。
「伊藤くん……ぼ、僕は…………」
「何も言うな鯰江氏! 貴殿は最善を尽くしたのだ……どう足掻いても無駄だったというのに……その心意気だけ尊敬に値するっ……!」
「そこまでストレートに言われると流石に凹むよ……」
「ま、まあ高嶺の花というだけで告白しない奴もいる中で鯰江はよく頑張ったよ、僕なら恐怖が勝って絶対出来なかったと思うぜ」
そう言いながら若干の安堵感と、鯰江をこの手で奈落の底へ突き落とす真似をしなくて済んだことに安心する自分がいるのだが。
いずれにせよ鯰江の恋物語はたった三時間弱で終わりを告げた、ならば僕に出来ることは彼の勇気を賞賛するだけの話。
「因みにですが鯰江氏は何処で愛の告白を?」
「神社は他の生徒もいるから京都駅の大空広場が絶好の場所だと思って……まあ呆気なく丁重にお断りされたんだけどね……」
……なる程な。
要するに櫻井と前条朱雀は示し合わせてあの場所にいたのではなく、たまたま偶然出会ってしまったというオチか。
そう思いながら僕は前谷モブ子の方へと視線を向ける。
「はあ……終わった、私の人生ホントクソ、もう死んだ方がマシ……」
「まえっち……元気出しなよ、まだ終わった訳じゃないって」
受験の季節が近づき、いやもっと直近を言えばクリスマスか、焦りが出るのも仕方がないと思わないこともない。
だが相手は天下の櫻井俊輔、他校からの評判も高いこの男を堕とすなど少女漫画並の超高難度クエストだというのに、随分と無茶をしやがって。
ただ、それにしても。
功刀と杦本は言わずもがな、煙草は新たな扉を開くことへ葛藤しているように見えるし、伊藤に至ってはよく見たら首輪が付いてるし……。
何なら纐纈も、明音の存在を明かしてからは一気に口数が少なくなった。
気づけば僅か数時間でこの班は崩壊の危機に瀕しているようである。
そんな雰囲気に得も言えない感情を抱いていると前条朱雀が手を叩き口を開く。
「皆そろそろいいかしら、一旦調べてきた内容は各自持ち帰って纏めた後に提出するようにしましょう、期限はそうね……次回のホームルームまででいいかしら」
前条朱雀の指示に各々が心ここにあらずと言った気のない返事をする。
まあ……この班の殆どが本来の趣旨など気にも留めていなのだから今更ではあるのだが、事実僕もそうなのだし。
「さて……お昼を過ぎてしまったようだし、ここからは自由時間としましょうか、羽目を外し過ぎて先生に目をつけられないようにだけお願いするわね、では解散」
さて……課題は山積みだがこれで一息つけるな……。
まずはゆっくり昼飯でも食べて、それからどうするか考えよう。
折角京都に来たのだからやはり食べるならラーメンだな……新服菜館、第一旭、久保田は抑えたい所だが、王道の無鉄砲、天下一品総本店も捨てがたい所だ……贅沢にハシゴをするという手もあるが……。
待てよ、そういえば構内を散策している時に京都拉麺小路ってのがあったな……まずはあそこから見てみるのも悪くない……。
そうやってラーメンのことだけに期待を膨らましながら班から背を向けた。
瞬間。
「まーくん」
「雅継さん」
「雅継くん」
「おい」
「雅文」
「雅継氏」
「雅継くん……」
「……え?」
まるで示し合わせたかのように、この僕が呼び止められてしまったではないか。
おやおや、どうやらこの僕にもついにモテ期とやらが到来したみたいですね。
まぁそんな幻想は僅か数分にして打ち砕かられることになるのだが。
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