前条瑞玄はあなたがキライ 10
「え…………?」
場内が騒然とする。
いや騒然というよりは困惑と言うべきなのか。
「さ、三位って……」
「嘘……」
「おい誰だよ、前条朱雀は水泳が強いって言った奴」
「でも水泳やってる友達が全国大会に出場してたって……」
「確かに遅い訳ではなかったけど……」
「つってもインハイ経験のある泳ぎじゃ……」
「噂によると高校入ってから水泳やってないんだろ?」
「ブランクを考えたらこれが妥当なのかもな」
生徒達が口々に憶測でモノを言い出す、まあ何一つ真実を知らない者共からすればある意味当然とも言える反応だろう。
これでいい、全く……こいつらは何処まで思い通りに動いてくれるんだ。
キラが正体をバラす前に笑いそうになった気持ちが今なら分かる気がするぜ。
「てめえ! ふざけんのも大概にしろよ!!」
そんな、柄にもなく愉悦に浸っていると、突如として怒鳴り声が聞こえたのでその声のする方に顔向けると、一人の女が前条朱雀に食って掛かっていた。
「誰だ……? あいつ……」
浅黒く焼けた素肌に、スク水とは明らかに違う日焼け跡を有したその気の強そうな女は、どう足掻いても水泳をやっているとしか思えない姿をしていた。
「お前……あたしがこの日をどんな思いで……それなのにこんな舐めた真似しやがって……こんな……こんな……」
一触即発しそうな状況に一瞬ヒヤりとしそうになるが、前条朱雀は顔色を一つ変えずに自分の肩を掴んでいた彼女の手を振りほどくと――
「あなた、誰?」
と、これ以上ないぐらい白けた眼つきで、そう言ったのだった。
僕には決して見せること無いその眼つきに、不覚ながらも興奮してしまいそうになったが、しかしそれ以上に戦慄にも似た不穏な感覚に襲われてしまう。
「……え?」
「何処のどなたか存じ上げないけれど、気安く触らないでくれないかしら」
「あ……え……」
「一体何を敵視しているのか知らないし、興味もないけれど、子供のお遊戯如きでムキになる必要性があるとは私には到底思えないのだけれど」
「こ、子供の……」
「そもそも一位はあなたじゃない、何の不満があるのか理解に苦しむわ」
「あ……あぁ……」
「おい! 功刀(くぬぎ)! お前何やってるんだ!」
「功刀ちゃん喧嘩は駄目だよ!」
審判役の教師に注意されると同時に背後にいた生徒に宥められるようにして、功刀とかいう女は前条朱雀から引き離されていく。
だが前条朱雀の冷徹とも言うべき言葉に完全に心を折られてしまったのか、放心状態で今にも泣きそうなその顔は目も当てられない姿となっていた。
「…………」
恐らく前条朱雀の水泳部時代の仲間か、あるいは他校のライバルと言った所だろうか、いくら何でも前条朱雀が知らないなんてことはないと思うが……。
「雅継くん、終わったわよ」
そんな様子に気を取られてしまっているといつの間にか前条朱雀が僕の傍に立っており、淡々とした口調で僕に責務を果たしたことを告げてくる。
「……? 雅継くん、どうかした?」
「え? ああいや……お前は……これでよかったのかと思ってな」
「? いいも何も、雅継くんの役に立ててこれ以上の幸せはないのだけれど」
「そうか……それならいいんだが」
「雅継くんならきっと成功出来るわ、私はそう確信してる」
そう、前条朱雀にもここまでやらせてしまったのだ、今更何が起こった所で躊躇する理由など何処にあるというのか。
舞台は今ここに完成したのだ、僕はその壇上で華麗に舞うのみ。
前条瑞玄に一泡吹かせてやらねば、何の意味もないのだ。
「あれ……そうなると三組ってどうやったら優勝になるんだ?」
「三組と一組の点数差が無くなった筈だから……」
「つまりこのレースで勝った方が優勝ってこと?」
「でも一組は確実に三位以内は固い奴を入れてきてるけど……」
「三組は逃げ切りを想定していたとしか思えない感じの――」
「終わった……」
「最悪じゃねえか……」
……明らかに周囲の冷たい目線が僕へと降りかかる、想定していたことではあるがいざこうやって見られると中々辛いものだな。
まあ良い、長きに渡った闘いも終止符を打つのだ、これぐらいの逆境むしろ心地よいと思うぐらいが丁度いいだろう。
そんなことを思いながら教師に促されプールへと身体を浸す。
まだ本格的に夏にはなっていない為やはり水の冷たさが身に染みるが、逆にそれが僕を奮い立たせる。
そして溜息や勝利への確信を得た様々な声が行き交う中、教師がスターターピストルを上空へと、天高く振り上げる。
「位置について――よーい……」
「さて、前条朱雀と虎尾が歓喜する程のフリーを、見せてやるとするか」
空砲の射出音がした瞬間、僕は渾身の力で壁を蹴り飛ばし、二十五メートルプールを一気に飛び出していく。
そこからはもう、水中を人が蠢く音しか聞こえない、一々声に出さないと気が済まない馬鹿共の声が一切届かない世界へとワープし、ただひたすらに腕と足を動かしながら、呼吸の数を最小限に押さえ、ただただ前へと推進していく。
前条瑞玄に唯一感謝することがあるとしたら、帰宅部のエースとして仕上がったこの身体を台無しにしてくれたことぐらいだろうか。
何せ中学校に入って間もない内に水泳は辞めてしまったからな、体重こそあまり変化は無いものの、筋肉量が落ちるのは致し方無い。
だがそれでも、スポーツがお世辞にも強いとは言えない藤ヶ丘高校水泳部でエースすら張れていないような奴においそれと負ける気はしない。
何故なら惰性で続けてきた人生の中で唯一結果を残してきた水中戦は、僕の自我を保つには十分過ぎるものだったと言っても、過言ではないのだから。
過去の栄光だの、醜い麒麟児だの、何とでも言うがいい。
球技も陸上も勉学も美術センスも無い僕に唯一あったものを、誰が渡すものか。
そうこうしている間に、無心で泳いでいた僕は気づけばターンを三回繰り返し、あっという間にラスト二十五メートルを一気に駆け抜ける。
もう誰も僕には追いつけまい、今頃場内はどよめきで溢れ返っているだろう。
くくく……前条瑞玄の唖然とした表情が目に浮かぶ――
だが。
その瞬間、背後から尋常ではない気迫が、僕へと襲いかかる。
経験しているからこそ分かる、これは誰かが猛追しているのだ。
殺気とも言えるその勢いに僕は慌ててピッチを上げるが、悲しいかな、その差は離れるどころかどんどん近づいてきている気しかしない。
畜生……これが水泳を辞めた人間の限界なのか。
後十メートルもないというのに……ふざけやがって、何もしてなかったんだから体力なんざ有り余ってるだろ……動け! もっと前に進めよ!
これで二位じゃ意味がないんだ……ここまでして、負けるわけには――
『お前はそんなんじゃ、一生上の舞台のお飾りだよ』
うるさい黙れ、才能の無かったお前が、何を偉そうに。
『無能なお前がそれを捨てたら何が残るんだ』
だからどうした、僕は別に、やりたくてやっていた訳じゃない。
『好きにしたらいいさ、それでお前が満足するならな』
黙れ…………お前に僕の何が分かる。
『分かりたくもないな、口先だけで生きている人間の心なんて』
「五月蝿い黙れえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
そんならしくもない叫び声と共に僕は水面から顔を上げると、壁をタッチする。
「あっ……いや、それはこの――」
完全に自分を見失ってしまっていた僕はハッと我に帰り、己の叫んだ痛々しい言葉を慌てて誤魔化そうとしたが――――
そんな僕の声などまるで届かないと言わんばかりの歓声が、気づくとプールの周囲を渦巻いているのであった。
「そんな場合じゃなかった……僕の順位は――」
あまりに久々の水泳に冷静さが欠けてしまっていたようだが、僕はこの最終種目で奇跡の優勝を果たし前条瑞玄との評価を大逆転させること。
ここで負けたら僕の学園生活は完全に終わってしまう、それだけは――
しかし。
目の前に掲げられたフラッグの数字は、あまりに残酷なものであった。
「――――は……二位……?」
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