第5話 <Loop>

 後悔したくはないだろう、とその男はおどけた様子で言う。今まで考えたこともない提案をしてきたこの男は、暗い路地を背景にしてどこかこの世界から浮いているように見えた。

 いや、考えたことがないわけじゃない。考えていない、そんなことは、……と、言い聞かせていただけだ。ずっとずっと意見を言わない子だと言われてきた私は、その生き方を自分に強いてしまっていたのかもしれないな。

「ボクのことはカコガワとでもよんでよ。……君ののぞむ世界は案外簡単におとずれるかもしれないよ?ボクと一緒に、後悔しない夏をすごそう!」白い手袋が妙に似合っている。どんどん日が陰っていく時間、


 その手はとても冷たかった。






「とりあえずケガしないで始業式来るように。以上」大宮先生のお見送りを眺めながら最後だ、と誓う。このループは、終業式の日付で始まっている。そして、彼女の誕生日である9月1日を迎えないうちに、彼女に一番におめでとうを言おうと待ち構える俺は、メールを送るか送らないかくらいの瞬間で眠りに落ちて、この7月の21日に戻ってくる。つまり、それがタイムリミットだ。

「ゆうまー、遊びに行こうぜ。」

「すまん。やらなきゃいけないことがあるんだ」

「あ?」

「これからは俺も暇になるから、よろしくな。」

「なんだよそれ……じゃあまた連絡くれ。」

「ああ」こいつは自分一人の世界があって、一人がさみしいとは別に思わないんだろう。俺は違う。一緒にいた人がいなくなるのも。やっぱりちょっとさみしい。

 深呼吸して駆け出す。早く声をかけないと。珠美の背中は俺を待たずに一人でどこかへ行ってしまう。そして俺はこれからその背中を押すんだ。

「珠美、」声をかけるとようやく俺の方を見てくれる。

「後ろから走る音がしたらこれからは振り向いた方がいい。危ないよ。」忘れないでほしいなって思った。でも多分無理だろうな。

「ちょっとだけ話したいことがあってさ、どうかな。」

 彼女の困ったような笑みと首肯が、焼きついた。



 そこは教室だった、彼女の友人はこのクラスだ。1-B。こそっと入りこむことは簡単で、この話はすぐに終わる。

 知り合いの席を見つけて座りこむ。背もたれに腹を向けて。背もたれの毛羽立ちを感じる。正面に見える机には俺の座っている向きから読めるラクガキがされていて、そこには人と人とのやりとりがあった。なぜかニヤニヤ笑いが止まらない。彼女の不審げな目が俺を見据えるのも、これがきっと最後だろう。いやもうやりきった。これで最後で、構わない。

「なんでここなの?」俺らのクラスは1-E。わざわざ渡り廊下を通ってこんな端まで来た。見たことのないクラス目標。掲示物の配置が少し違う。置いてある学級文庫も数学や物理の本が多い。まあそんなことは関係なくて、俺の目線の向いているこの隣の教室に答えはあった。親指立てて、指し示してあげる。

「ここのほうがよく聞こえるから」そこには吹奏楽部の人がいて、トランペットか何かの音出しをしている。空が青い。

「座りなよ」彼女が何も知らない瞳で、俺の差した席に座る。机一つ挟んだ距離の彼女は、うつむいたり、俺を不思議そうに眺めている。それを一つ、見つめ返して、俺は、言うしかなかった。

「別れよう」






 椅子を左手で引く。右足を伸ばして椅子を跨いで、右手を、左手を背もたれの頭に組んだ。見えない何かを、もう二度と来ない明日を、まだ見ぬ彼女の明日を、見つめた。





 ……九月一日が、来た。何の変哲もなく、当然のように来た。

『かわいそうに』―――すでに聞きなれた感じすら受ける声が聞こえる。戦いは終わった。

 俺はどこへ行くんだろう。






 ―――――それは残念ながら、私にとってむずかしいことではない。彼の苦痛は私にもとりのぞくことができる。誰かが―――私とよくにた誰かが―――時間をくりかえすことができたなら、私にもそれと同じ、またはちかいことはできる。何度ももどす必要はない。一度だけでいい。そして記憶をとりさることだって―――

“いつもの世界に戻りたい”と、彼はいった。彼ののぞんだ“いつも”とは、明日のくる、それだけの世界だったのだろうか。


 パラメータに多少の細工を。データの確認。時間指定は、もっともっと昔へ。ループをのぞんだ人間ののぞむ世界へ。さかのぼり、イベントの消去をおこなう。そしてその少し前から時間の再現を開始。


 君は、幸せになるんだ。






 そこは教室だった―――彼女の席は俺の席と近くもないから俺が彼女の前の席に座る。彼女はすでに座っている。そしてどこかを見つめている。その横顔には強さがあった。あまり密度の高くない睫毛がその先を指している。頬にはいつもはない赤さがあって、白桃みたいだな、なんて思う。肩まで伸びた黒髪と、赤い頬、白いシャツに、白雪姫を連想する。少し年を取ればすぐに美人になってしまいそうな、変わっていってしまいそうなまだ子供っぽい輪郭。半開きでぼーっとしている口は、今にも何かを口にしそうだ。きっと彼女はその小さな耳で一生懸命に、音楽を聴いている。ほとんどは耳にかけている髪が少し残って顔にはりついているのを払いのけようともしないその真剣そうな顔に、「夏休み、楽しみだね」と告げる。

 空が青い。

 彼女は目を伏せながら俺のほうに振り向き、俺の目を見て「うん、」と頷く。その口角の上がり方が、眉のかたちが、目元の変化が泡に消える。








 一緒に帰ろうと思っていた船津に置いて行かれたので、学校の中を少し見て回ろうと思った。カバンの中の財布と携帯だけ携えて旅に出る。盗難があるからだ。渡り廊下の途中でサッカー部の奴が女の子と仲良くしてるのを横目で眺めてみたり、バレて目配せしたり、二階へ上がって廊下の冷たさになぜか慌ててみたり、三階で空の青さに何かを思い出してみたりして、帰る途中でたどり着いたのは暗い非常階段だった。普段授業で使うこともないし、近くの中央階段で事足りるので着目することすらない。不良の先輩方が授業の合間にはたむろしているので近づかないほうがいいらしいけど、放課後は先輩方が遊びに行くから安全だとか何だとか。俺はその方向から音がしているのが気になってきてしまったのだった。吹奏楽部の練習の音がするのはすごく好きだ。それは腐れ縁が忙しいだとか言いながらも楽しそうにしている姿をずっと見ていたからだと思う。

 実はこの階段、俺の教室の隣の教室のほうに続いている。俺のクラスからは中央階段が近いからやっぱり使う機会はない。帰る途中の道だから、なんて言い訳しながら俺は一段一段音を立てながらその暗い暗い階段を下り、その音へ近づいていく。なんていう楽器だろう、フルートだろうか。どうして近づきたいと思ったのかわからないけれど俺の教室の隣の、1-Fのほうへ吸い込まれていく。苦しそうな、だけど一生懸命さの伝わるその音の連なり、突っかかっているその場所を克服しようとしている姿を垣間見たいと、歩みを進める。光に向かう羽虫のようにふらふらと。

 ……その影は、細い髪を後ろで一つにまとめていて、どこかで見たことがあるなと思った。同じクラスの女の子だった。汗の粒がキラキラと、影を落としているはずの顔に光を受けているような気がした。上気した頬とはりついた残り毛がその努力をよりひきたてる。薄い睫毛を感じさせない瞳が何を見ているのか気になった。そして彼女を悩ませていた音がふっとそこに現れる。やったじゃん、なんて思いながら通り過ぎようとする。その彼女の見せた顔が、この世界のすべての光に愛されているんじゃないかなと思わせる。空が青い。


 そうして俺は、恋に落ちた。

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君と世界の終わり 蜷川杏果 @27gawa_mm

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