魂の安静

対馬守

第1話 魂の安静

私が、帝国大学の学生だったときに、高熱を出して寝込んだことがありました。頭痛、四肢の痛みなどただごとではなかったのですが、寝ていれば直るだろうと医者にも行かず、ただ下宿先で安静にしておりました。これがいけませんでした。次第に、症状は重くなりついには動けなくなってしまいました。大家さんがたまたま来てくれなければ、私の命はなかったでしょう。ただ、生死の淵まで病が進んでしまったので、後遺症が残ってしまいました。

 私の顔は、ただれ、膿がたまり、腐臭を出すという有様でした。大家さんや医者は、私の寝床子から一切の鏡を取り除いて、気づかってくれたのを覚えています。 

 田舎から父親が慌ててやってきました。父は私の顔を見るや、目を逸らしました。そのとき、私は、父親に見捨てられた気持ちになりました。医者から説明を受けるためにそそくさと父親は、私の前から立ち去りました。これ以降、父とあったのは両指で数えられるぐらいなものであったと思います。

 私の家は、代々続く医者の家でした。父は、私と兄に向かい「優秀な方に跡を継がせるからな」と常々釘を打っていました。こんな父ですから、私の顔を見たとき真っ先に考えたのは、「もはや人前に出れぬだろう」と私を見捨てる考えでしょう。また、その後の私の扱いが、それを証明してくれるのです。


私は、田舎に戻されました。私としては、大学に残りたかったのですが、父が療養するためには田舎に戻らなければならないと強情に言い張り、私はついに根負けして田舎に帰ることになりました。もちろん、父の心配事は私の醜い顔を他の誰かに見られはしないか、家に悪評がつくのではないかという一点でした。その証拠に、私が恩師や同輩たちに一応の挨拶をしたいと言っても「引越しの準備やらで時間がない」「相手も忙しいだろう」「病み上がりなのだから外に行くなどもってのほか」などなど、言うたびに新しい理由が飛び出しました。


父の態度は、終始そんなわけですから、田舎に戻った私に自由などがあるはずもなく、いや、むしろ知人縁者が多いだけに、東京にいた時よりも自由を失うこととなりました。医者の家の身内が、病で醜い姿になったなど知られてはなりません。

 私は、苦しみました。家に居場所がない。父に切り捨てられた。なども精神にこたえましたが、何よりも苦しかったのは、何もすることがないことでした。私は、これまで医学生として目も回るような忙しさの中にあったのが、一転して、自室から出て行かない以外にすることがなくなったのです。何よりもこの暇が苦しかったです。

 このあまりの暇から逃れるために哲学でもやってみようかと思うようになりました。別段、哲学が好きだったわけではありませんが、何せやることもありませんし、本を買いに行くことも人に頼まなくてはなりません。哲学であるなら、一冊の本を延々と読み込み続けたりできるだろうという安易な気持ちからでした。

 私は、父の書棚から適当にカントやらショウペンハウエルを持ち出して勉強を始めました。東京に出るまでは、書棚に入ることが禁じられていました。しかし、今となっては父にどう思われても別に気になりません。今まででしてら、勝手に本をもちだせば随分と説教されたものでしたが、もはや何も言われませんでした。家から出れない私を哀れに思う気持ちもあったでしょう。ですが、父にもはや私への興味がないとしか思えませんでした。


暇と戦うために始めた哲学でしたが、しだいに自身は一介の哲学者だと名乗るほどのめり込んでいきました。今までの勉強は、父にどう思われるか、兄よりも進んでいるのか、同輩よりも劣っていないかと周りの目を気にした勉学でした。しかし、もはや、私に興味を持つ人などもこの世におらず、人の目を気にする必要がありませんでした。また、所詮は暇つぶしに始めた学問です。いつでも止めていいという姿勢がむしろ学びには良かったのでしょう。

schoolの語源は、古典ギリシャ語のスコラーに由来するそうです。スコラーこれが余暇という意味だそうです。私の人生そのものが余った暇のようなものです。

私ほど学問に向いた人もないだろうと考えるようになると、監禁されている今の境遇は、何ら恨むことではなく、むしろ、父や兄は私のために忙しくしているとすら思えるようになりました。


 そこから、随分と時がたちました。父は亡くなり、兄が家を継ぎ、私の境遇は変わらず。ただ、いくばくかの書籍を買ってはもらいました。大きな変化というのは、そのぐらいのことだったと思います。

 

 私は、誰よりも醜いのかもしれません。顔は言わずもがなですが、他人に食べさせてもらい何ら人類の生産に寄与していないのですから。そして、そのことに一分の良心の痛みすら覚えていないのです。古今の倫理学者や時代に名を残した人格者たちは、皆一様にどこか傷をもっているものであるのに、私はただひたすら満足なのです。

 もしかしたら、傷だらけにみえる倫理学者の内面も平穏に満ちたものだったのでしょうか。

  

 

 自身の死を前にして  平次郎



 追伸 

最初は、自伝を残そうとしたのですが、いつのまにか、監禁し続けた責任を苦しんでいる兄のことを思い書いていました。文が一貫していないをお許しください

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