通勤快速の戦争

岡本 高

通勤快速の戦争


 僕がそのゲンさんと初めて出会ったのは、春先の通勤快速のラッシュアワーの真っ只中だった。


 快速電車に乗り込むその老人の異様なまでの俊敏さに、僕は驚いた。彼は乗車待ちの列の中盤に並んでいたのだが、電車がホームに着きドアが開くと、整然と車内に乗りこんでいった。そして、的確な足運びで、乗車率二百パーセントの車内を潜り抜け、一瞬のうちに優先座席の前に移動した。ただならぬ気配に、優先座席に座っているサラリーマンは気圧され無言で席を立った。老人は一言の礼も言わず、当然のように席に腰を掛け、腕を組んで瞑想するように目を閉じた。


 そして、次の日も、その次の日も、老人は同じ時間、同じ車両に現われ、同じ事を繰り返した。数週間後、とうとうその車両の優先座席には、彼以外誰も座らなくり、彼の指定席と化した。彼はそれでも毎朝、俊敏な動きを緩める事なく、毎日、ラッシュアワーの人の波を掻い潜り、優先座席をいち早く確保した。


 僕はいつしか、この老人の観察を日課にするようになっていた。


 様子を見るうちに、いくつかの事がわかってきた。彼は絶対に、乗車待ちの列を乱したりはせず、手荷物がある時は、きっちり網棚に載せていた。また、席に座ってから、携帯電話やスマートフォンを取り出したりするようなこともなかった。その点、彼は乗車マナーを完璧に守る、まさに模範的な乗客と言えた。


 僕はこの老人に、ゲンさんというニックネームを付けた。ルール厳守のゲンだ。僕は彼の己に厳しい態度と、若者を圧倒する威厳にある種の敬意を感じていた。車内の乗客全員がゲンさんのようであればいい、とさえ僕は思っていた。


 そうして彼の観察を繰り返すうち、僕はある疑問を感じるようになった。彼は何のために、毎朝この電車に乗っているのか。ゲンさんは長袖のシャツの上にチョッキをはおり、動きやすそうな古めかしいズボンを履いていた。会社の役員という服装ではないし、病院通いをするには、どこか健康的過ぎるように思えた。もしかしたら、単に彼が乗客に嫌がらせをしたいだけかとも思ったが、それにしては、彼の雰囲気はあまりに常識人過ぎた。


 そしてまた数ヶ月が過ぎた。僕は彼に対する疑問を解消するためだけに、有給休暇を取り、ゲンさんを丸一日尾行しする事にした。その日も、僕とゲンさんを乗せた通勤快速は、多くの人を吐き出しながら、終点までの一時間、せわしなく走り続けた。そして、ゲンさんは、終着駅に着いても電車を降りる事はなかった。彼は電車が折り返しても、まるで瞑想するようにずっと目を閉じたまま、優先座席に座り続けていた。そして、乗車した隣の駅まで折り返すと、おもむろに立ち上がり、静かに電車から降りていった。


 僕はあわてて彼の後を追った。ゲンさんは定期をかざし、わざわざ有人の改札を選んで駅を出た。そして駅前の商店街を抜け、どこにでもありそうな古ぼけた集合住宅の一室へと入っていった。部屋の表札には「山田」という苗字が手書きで書かれていた。


「あの! すいません!」


 僕は彼を呼び止めた。彼のこの行動の意味をどうしても知りたかったのだ。


 彼は振り返り、大声でこう言った。


「ストーカー青年君! 老人には、常に敬意をはらわねばいかんよ!」


 そして、その声を残すと、彼はガラガラと引き戸を開け、部屋へと入り、ガチャガチャと鍵をかけてしまった。


 一体どういう事なのか。電車に乗って、座って、降りる。単なる習慣なのか。


 ともあれ、ゲンさんとコミュニケーションが取れたとたん、僕は彼に対する興味を急速に失ってしまったのを感じた。どうやら、彼はただ孤独で哀れな、暇を持て余しているだけの老人だったらしい。


 その後しばらくして、ゲンさんは通勤快速から姿を消した。そして、何事もなかったかのように車内の優先座席は埋まり、僕もまた、何事もなかったかのように電車通勤を続けていた。

  

 その年の秋になり、僕はゲンさんと再会した。ある日の会社帰り、改札を出ると、駅前で煙草を片手に佇む彼とばったり出くわしたのだ。先に声を掛けてきたのは、彼の方だった。


「ストーカー青年君か」


「…おひさしぶりです。ご壮健でなによりです」


 ごく自然に言葉が出たのは、自分でも意外だった。


「いまどき珍しい挨拶だな。吸うか?」


ゲンさんは、煙草を箱ごと僕のほうに差し出しながら、話を続けた。


「興味を持ってくれた礼に、機会があれば、あんたにだけには教えようと思っておったんだ。あんたは、わしのやってる事そのものに、関心を持ってくれていたからな」


禁煙中なのでとも言い難く、とりあえず煙草を一本箱から取り出しながら、僕はゲンさんにこう言った。


「僕は、気になってあなたの後をつけただけですよ? そんな…」


「家族やら財産やらのない年寄りはな、気になる、という関心すら持たれんのだよ。ただただ邪魔者だと思われる事が大半だ」


「そんな事は…」


強く言い返せなかったのは、僕自身、その言葉に心当たりがあったからかもしれない。


「まぁ…もうすぐ、わしらの時間になる。来週の朝は念のため、用心しておけ」


彼は、眉間にシワを寄せ、小さな、しかし凄みのある声で呟いた。


「わしら? 時間? ですか?」


「そう、孤独な老人たちの時間だ」


 それだけ言うと、ゲンさんは踵を返し、煙草を手に持って、どこかへ去っていった。


 それから、何日間かが過ぎた、早朝、ふと目が覚めて、スマートフォンのニュースサイトを何気なくチェックすると、信じられないようなニュース映像が僕の目に飛び込んできた。


「…都市部で高齢者が一斉に武装蜂起しています。彼らは恐るべき俊敏さで県庁などを占拠し…社会における老人の優先権を求め…」


 ゲンさんが求めていたのは、車内の優先座席だけではなかったという事か。


 ニュース映像では、猟銃とバールのようなものを手にしたゲンさんが、多くのお年寄りに激を飛ばしていた。そこに映るお年寄り全員が、銃や鈍器で武装し、爛々と目を輝かせ、軍隊さながらの秩序で行動していた。


 やはり、若者はお年寄りに敬意を払うべきだ。僕はそう思いながら、ニュース映像を呆然と眺め続けた。



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