1K、肉じゃがの夢。

【雨戸】【肉じゃが】【フレックスタイム】〈福音〉



『手伝いを、お願いしたいんだ。なあに、難しい仕事じゃあない。とある部屋をさ、管理してもらいたいんだよ』


 特に仕事も持っていなかった俺が、知人から借り受けたのは、郊外にあるマンションの一室のカギだった。


『ちょっとした事情で借りたんだけどさ、結局使わなくって。とはいえいつか使うかもしれないし、契約違反金は高いし。困ってたんだよ』


 久しぶりに会ったそいつは、実によくしゃべった。証券会社で働いていること、いくつも年下の彼女がいること。ちっちゃい子ってかわいいよな、と、そいつの年からすれば少々危険な発言をしならがらも、彼女を大切にしていることがよく伝わってきた。今はよく肉じゃがを作ってくれるんだぜ、なんて惚気られた。

 俺はといえば、慣れないカフェで男二人なんていう、奇妙な状況におびえているだけだったのだが。


 それから話し出したのが、奴が今困っていること。相談があるんだが、と言われた時は簗予感しかしていなかったが、仕事のない俺にとってはむしろありがたい話だった。


『で、お前を思い出したんだ。どうせ暇だろ? よかったらさ、掃除とか、ベランダの整理とか、お願いしたいんだよ。時間はそうだな、朝八時から夜八時までの間で、好きな時間を選んでくれていい。好きな時にきて、好きな時に帰ってくれ。あと、部屋の中のものは好きに使ってくれて構わないし、何なら私物を持ち込んでくれたっていい』


 奴はそう言って、こちらを見た。いかにも困った、という表情で、きれいに整えられた頭を搔いていた。

 提示された賃金は、コンビニで丸一日働くより少し多いくらい。あまり出せなくて済まない、と言われたものの、俺はすぐに了承した。掃除なんて1時間もすれば終わってしまうだろうし、その後は好きにしていいのだ。最悪、寝ていたっていい。それだけで金が入ってくるのなら、とすぐに引き受けた。







 そして、1Kの部屋の中、俺が見つけたのは、一人の少女だった。

 

『あ、こんにちは。××と申します。フツツカモノですが、よろしくお願いします」

 意気揚々とマンションの扉を開けた次の一瞬硬直する僕に、彼女はそういって頭を下げた。


 年は10歳ほど。小学校4年生だそうだ。肩につくかつかないかくらいの黒髪、健康的な色をした肌。奥二重に押し込まれた瞳は、少し茶色がかっていた。長袖のTシャツにGパンという、いたって普通の格好をしている。


 彼女は僕を部屋に入れた。キッチンや洗濯機が並んだ部屋の奥にある、6.5畳の洋室だ。

 プラスチックの服入れとテレビ、奴がおいていったらしい漫画が数冊乗ったテーブル。目に映るのはそれくらいで、小学生が暮らすにしては、シンプルすぎる部屋だった。


『私、あの人に誘拐されちゃったんですよ』


 途中だったらしい自身の洗濯物を干しながら、彼女はそう言った。

 黄色いTシャツ、灰色のズボン、白い靴下、パンツ。まだ上の下着をつけるほどではないらしい。中には大きめのワイシャツもあって、奴がおいていったらしいものだと知れた。不揃いの洋服たちは、ベランダまで来た風を静かに受け止めていた。


 洗濯物を干し終え、天気もいいというのに雨戸まできっちりとしめた少女は、こちらを向いて頬を掻いた。


『しばらくは私のことを彼女とか言ってたんですけどね、なんか、〈ごめん、もう、無理だ。僕は、君が怖いよ。僕が言うことではないって、それはわかっている。けれど――君は、異様だ〉とか言われちゃって』


 そのあと、じゃああとは他の人に頼んでいるから、その人に世話をしてあげなさい、と言われたらしい。


 後で聞いて分かったことだが、彼女はどうやら家出の途中、奴からの誘拐にあったらしい。理由は家族のいざこざ。リュックに数日分の着替えを詰め家を出、町をぶらついていたところ声をかけられたという。

 最初から自分狙いだったらしい、と彼女は語った。少女趣味でマンションまで借り、犯罪に走った奴も奴だが、そんな子に目を付け、誘拐した奴の運も運だった。

 誘拐するほど好きになった少女が家出寸前だったことを奴が知らなかったのは、なんだか間抜けだが。ちなみに当然のように、奴の携帯はつながらなかった。


『だから、よろしくお願いします』

 私を家に、帰さないでください。


 少女はそう言って手を止め、再び礼をした。

 








「世話をしてあげなさい……ねえ」


 俺はテーブルに頬杖をついて、キッチンの方角をぼんやりと見た。何かを煮込む音が聞こえてくる。

 今日は肉じゃがです、食べていってくださいね、と言われたっけ。

 醤油と砂糖の香りが、鼻をくすぐる。狭い部屋なので、彼女が料理をすると一室全体にその匂いが広がっていくのだ。


 「仕事」を初めてすでに二週間がたっている。少女誘拐の補助をしてしまっている、だなんて自覚はなかった。俺はただ借りている部屋にきて、外に出ない彼女の代わりに買い物に行き、掃除を手伝い、一緒にご飯を食べているだけだった。

 

 世話をしてもらっている、という自覚が強い。家から持ってきた新聞に視線を落としながら、俺は一つ、ため息を漏らす。

 なにやってんだろう、という言葉は声にならず、ただ吐く息としてこぼれていく。


 少女が誘拐され、その行方を追っている、だなんてニュースは、今日もまた新聞のどこにも載っていなかった。ネットのニュース一覧もテレビも見ているが、まったく流れてこなかった。最近あった大きな事件といえば、夫婦殺人くらいだ。結構前の死体らしく、家も荒らされていたらしい。恐ろしいもんだ。


「何見てるんですー?」

「ん、新聞。お前のこと、載ってないぞ」

「そーですかー」


 奥から聞こえてきた声に返事をすれば、間延びした声とともに小さな笑い声が返ってくる。

 彼女の笑顔はどこか独特で、片頬だけが持ち上がる。口を開けば、からころとした秋風みたいな声が漏れた。


「私は、生まれてないですからね、そりゃそうでしょうよ」

「なんだそりゃ」


 訳が分からないよ、という俺に、彼女の笑う声と肉じゃがの煮込む音だけが返ってくる。

 俺は考えるのを諦め、新聞を脇に置いた。

 テレビをつけるのもだるいし、こうなってくるといよいよやることがなくなる。せめて夕日の光でも入れようと窓に近づいたら、やめてください、と怒られた。


「あなた、自分が誘拐犯だってこと、忘れたんですか? 外からこっちの様子が見えたらどうするんです」


 そう言って、触ってもいない窓をもう一度雨戸まできっちりしめなおした彼女は、台所に戻っていった。俺自身は誘拐犯じゃないんだけれど、というセリフは無視される。

 もう少しだから、待っててくださいな。彼女はそんな言葉を残して消えた。


 後には、人工照明によって照らし出された男とテーブル、外の光を完全に遮った雨戸だけが残される。


「……こう見ると、雨戸しめた窓って牢屋の格子っぽいよな」

 つぶやいた言葉は小さすぎたのか、何の返事ももたらさずに壁へと吸い込まれていった。


 しばらくして、使った皿を洗っているらしい音が聞こえてくる。いよいよ煮込むだけの段階に入っているようだった。

 彼女は料理が得意なようだった。チャーハン、カレー、煮込み料理。大抵のものは作れたと思う。

 ただ包丁はまだ怖いらしく、歯のついていない、食事用の小さなナイフを使っていた。包丁も当然キッチンにあったのだが、それが使われることはなかった。そのせいで魚は捌けず、また通常の料理にもひどく時間がかかった。とはいえ、味自体は文句なし、小学校四年生の女の子が作ったとは思えないほどおいしかった。

 

 訊けば、両親の帰宅が遅く、ほぼ自分で夕食を食べていた、とのこと。なんて親だ、とは思ったものの、それによって培われた才能を俺が享受しているのは事実だった。


 実際、楽だった。朝来て、必要なものを聞いて、事前に奴が置いていったらしい金で買い物をしてくる。昼食、夕食付。好きな時に帰ってくれていい、とは言われたものの、一日の大半をここで過ごしている。下手をしたら泊まってしまいそうだ。流石に女の子一人の部屋に泊まるだけの勇気はないけれど。


 そう、とっても、とっても楽だった。

 それ故――不安になる。


「……なあ」

「なんです?」


 俺は、すでに何度か言っている台詞を彼女の背中に投げつけた。


「お前さ、いつになったら帰るつもりなんだ?」


 一瞬、間が空く。

 そのあとに返ってきたのは、すでに何度も言われた台詞だ。


「誘拐しといて何言ってるんですか」


 軽くはじけ飛ばすような、笑いを含んだ声。しかしそこには、確かな怯えが混ざっていた。

 俺は、いつもの言葉を再びぶつける。


「だから誘拐したのは俺じゃないんだけど……ほら、でも事実として家出してるだろ? 『家に帰さないでください』って言ってたけどさあ、いつかは帰る時が来るわけだ。いつかは奴も警察の御用にならなくっちゃいけないわけだし、それはひょっとしたら、残念ながら俺もそうかもしれない。だから……だから」


 だから、で、言葉が詰まってしまうのも、いつものことだった。

 続かない。

 ただ口ごもり、何度も唇をもぞもぞと動かすが、言葉自体がそこから紡がれることはなかった。

 はずだった。


「だから、俺は、ここを出ようと思うんだ」


 するりと、言葉が出た。


「……え?」


 彼女が振り向く。


 驚いたのは自分も同じだった。言うつもりはなかったし、それにしたって今言うべきことじゃあなかった。机がカタカタと音を立てて鳴っている。地震? 違う、震えているのは俺自身の腕だった。


 本人の意思に反して、台詞が滑り出していく。


「別に、俺のためってわけじゃあない。いや、違うな、俺のためだけってわけじゃあないんだ。そもそも、小学生の女の子と俺みたいなニートが一緒の部屋にいる時点でおかしいんだよ。誘拐? 家出? 知るかそんなこと、俺はそれに巻き込まれただけなんだ」


「あ、ぅ」


「確かに個々の生活は天国みたいだよ、お前みたいな可愛いやつはいるし、金は手に入るし、ただで飯が食える。でもなあ、流石にこれはダメだ。お互いにダメだ。俺は知人の犯罪を隠していることになるし、お前は両親にも周りにも迷惑をかける。俺らは――そろそろ、この夢みたいな生活をやめなくっちゃいけないんだ」


「ゆ、夢、夢、なんかじゃ」


「夢だったんだよ、これはな。というか、家はどこだ? この際あれだ、どっちにしろ俺は捕まっちまうんだからいいよ、家まで送っていこう。……あ、それとも警察にいったん保護してもらったほうがいいのか? 俺を巻き込みやがった奴も探してもらわなくっちゃならないわけだし―――」



「やめてっ!」



 不意に、少女の高音が室内に響き渡った。

 

「やめて、やめて、やめてくださいっ! お願い、お願いです、なんでもしますから、お願いですから、私をここにおいて、お願い、帰る場所なんてないんです、親なんていないんです、知らない、私は何も知らないんです、夢なら夢でいい、まだ、まだ夢を見ていたいんです、ああ、あああっ」


 一体どれほどの力がこの少女の体内に籠められていたというのか。

 半狂乱になりながら、彼女は叫び続けた。お願い、お願いだから、やだ、やだよう、夢を、夢をちょうだい、お外はいや、現実なんて見たくない。

 焦げているのか、火にかけられた鍋が湯気を大きく立ち昇らせ始めても、少女は声を荒げるのをやめなかった。

 

 俺は、何もできずただ彼女の様子を眺めていることしかできなかった。今更「悪かった、大丈夫、まだ君はここにいていいんだ」とも言えなかったし、かといって彼女に他にかける言葉も見つからなった。


 ただ、肉じゃがの焦げる嫌な臭いだけが、部屋を満たしていった。





 結局、警察に通報したのは隣の住人だった。

 元々から変だとは思っていたらしい。玄関からは男しか出てこないのに、そのベランダに干された洗濯物は小さな女の子のものが圧倒的に多い。

 決定的だったのが、例の叫び声だった。

 隣の住人だって驚いただろう、インターホンを鳴らし、出てきた男の奥で、少女が包丁を握って立っていたんだから。

 

「×してやる」

と、少女は呻いた。


「あの人達みたいに! あの人達みたいに! 私は生まれてなんかないんだ、あの人達が私を×したんだ、モノだけ与えて、生きたお人形みたいに! いっそのこと本当に×せばよかったのに! 意気地なし! 馬鹿!」


 それはもう、純粋な少女の目とはとても言えなかった。いったいどこで一目ぼれしたのかは知らないが、おそらく奴が好きになったのであろう、子どもの綺麗さ、優しさみたいなものは欠片も残っちゃいなかった。


「あなたもだ、私に夢を見せて! 私を誘拐したあの人も、それを見過ごしたあなたも! 許してくれた、自由であることを、私が私であることを許してくれたあなたも! 大っきらいだ!」


 ――結局、その刃が俺自身に突き刺さることだけは何とか回避したのだが。

 

 彼女はやってきた警察に保護された。暴れ、やだ、嫌だと叫ぶ彼女を何とか取り押さえようとしている大人たちの様子を、俺はやはり、見ていることしかできなかった。





 少女の出生届が出されていなかったこと、いつか新聞で見た夫婦殺人の犯人が彼女であったこと――全てを俺が理解したのは、随分と後になってからのことだった。

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即興短編集 はっぴぃえんど。他 桜枝 巧 @ouetakumi

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