アバンタイトル
【アバンタイトル】【迷える子羊】【ライバルと手を結ぶ日】【料理】
《ホットケーキが好きだ。》
……なんて物語の始め方は、もはやどこにでもあるんだろう。
僕は数秒キーボードから手を放すと、すぐにBackspaceキーを連打した。
インターネットにアクセスして、「物語 始め方 書き方」で検索。すぐに、同じような質問がいくつもいくつも見つかる。
「上手な小説の書き始め方を知りませんか」
「パッと目の引く物語の始め方を教えてください」
「小説の冒頭の書き方がわかりません」
自分だけでなく周りも苦労しているのだと知り、少しだけ安心する。と同時に、そんなことで自分を慰めている自身が、とても情けなくなった。周りも苦労しているからって、だから何なんだ。
まだ四月中旬だというのに、部屋は夏かと思うほど暑くなっている。せめても、と開けられた窓からは、生ぬるい、静かな風が入り込んできて、明るめの茶色いカーテンを揺らしている。
いつも、レポート作成と動画視聴くらいにしか使っていないパソコンは何も言ってくれない。なれない長時間の起動のせいか、かすかにモーターの起動音がする。
右手の人差し指をキーの「H」に触れさせたまま、左に視線をやる。床に置かれたカップラーメンは、麺が伸び切ってプラスチックの中であふれていた。
そのけだるさが、怠惰さが、今の自分とちょうど重なるようで、僕はカップを足で追いやった。抵抗なく視界から消えたそいつに、どうしようもなく腹が立つ。
「……まあ、こんなやつにいい返事なんぞ貰えるわけないわなあ……」
つぶやくと、彼女のか細い「ごめんね」の声がリフレインする。彼女の長く、明るい髪が記憶の中で翻った。そこからも、たった一言の僕を突き刺した単語が滑り落ちてくる。あふれかえる言葉は、もう脳内をぱんぱんに満たしていて、今にも耳から出てきそうだ。
頭が、痛い。
「せめて外に出してしまえば、無理やりにでも文字にして吐き出してしまえば、頭痛もおさまると思ったんだけどなあ……」
誰に発したわけでもない言葉は、1Kの狭い部屋の中へと溶けて消えた。右手の人差し指は、未だ「H」の文字に爪が当たるばかりで、ただこつこつと音を鳴らすだけだった。
《ホットケーキが好きだ。
柔らかな口当たりに、バターの香り。ホットケーキ、って言葉自体がもうかわいいよね、と彼女も言っていた。お互いに、ホットケーキ友達だね! なんて笑っていた。
……そう、彼女にとって、僕は「友達」でしかなかったんだ。》
頭の中で文章を組み立てていく。物語の始め方なんてどうでもよくって、僕はただこの脳みそに押し込まれたモノを吐き出したいだけなのに、どうしてもこれじゃない、と思ってしまう。違う、こんな文じゃダメなんだ。何がかは分からない、けど、違う。
小学校の作文すら四苦八苦していた僕だ、うまい小説なんて、書けるわけがないのだ。だから、別に綺麗な文を書こうとしているわけじゃあない。
でも、書けない、書けないんだ。
「H」の字を爪が引っ掻いて、小さな音を立てる。彼女のイニシャルだということにいまさらながら気づいて、我ながら苦笑した。
ノートパソコンに向き直る。キーは押せない。右手で画面をつかんで、八つ当たりのように大きく前後に揺らす。
ああああああっ! と、自分でも驚くくらい苛立った声が出る。
ああ、もう、わからない。何が始まりだ、僕が書きたいのは終わりなんだ。こんなところで、詰まっているわけにはいかなくて、ぼくはとにかくこの脳みその中身をぶちまけたいだけで、だけで、だけで――――
その瞬間、カーテンが大きく翻った。
巨大な風が、すべてを吹き飛ばしてしまうくらいの大きな風が、カーテンを蹴飛ばす。明るめの、茶色いそれは、彼女の長い髪に似ていて―――
ふっと、彼女の笑顔が蘇ってきた。
「ホットケーキを食べるとねえ、みーんな笑顔になっちゃうんだよ。甘くって、ほわほわで、優しくって―――我らホットケーキともだーち! ね、そうでしょ?」
凛としていて芯の通った、しかしそれでいて柔らかな声。僕が、好きだった、いや、今も思い続けている、声。そして、心の底からのほほえみ。楽しくて楽しくて仕方がない、そんな、甘い笑顔!
脳みそから指先へと、言葉がめぐっていく。脊髄を通り、血管を通って、文章が、台詞が、キーをひっかくばかりだった指へと一直線に流れ込んでいく。
書きたい。
僕の、不満めいた、どろどろの感情じゃない。
彼女がどんな声をしていたか、どんな優しい台詞を僕に送ってくれていたか。
僕はそれを、書きたいのだ。
フライパンに垂らしたホットケーキのもとがさあっと広がっていくように、言葉が浮かんでくる。
書ける! 書きたい、僕は、書きたい!
僕はキーを、押した。
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