ヘミシンク・ノイズ

【ヘミシンク音】【二人だけで通じ合える秘密の合言葉】【諦めたくなんてない】【かぼちゃの馬車】


 何も聞こえない。

 何も聞こえない。

 何も聞きたくない。

 僕は―――


🎧 🎧 🎧 🎧 🎧


「ヘルマン、ヘルマンだ! ヘルマン・ボーテ! やっと見つけた!」


その声に、僕は振り向いた。短く髪を切りそろえ、ワイシャツにジーンズ、黒いパーカーを羽織っただけという男みたいな恰好をした少女が駆けてくる。耳には、大きなヘッドフォンがはめられていた。


「……ティル! ティル・ウル・デン・シュペーゲル」


 思わず叫ぶと彼女は、やっぱり男みたいだよなあその名前、と破顔する。短めの、まっすぐに伸びた上下のまつげは重なり、薄ピンク色の唇が柔かく微笑む。なんだかんだ言って女の子である彼女の笑顔が、僕は好きだった。


「急にいなくなっちゃって、心配したんだ。……まさかと思って、探したん、だけ、ど」


 ティルの笑顔が少しだけ崩れて、おもちゃを取り上げられた子供みたいな表情になる。僕の姿を、白衣に似合わない大きなヘッドフォンを見た。耳を当てる部分には、彼女のそれにはない赤い印がつけられている。

 ティルの唇が、震えた。


「あれほど気を付けろって、言った、のに」

「―――――ごめん」


 僕は口端を上げるしか、なかった。


🎧 🎧 🎧 🎧 🎧 🎧


 世界はゾンビで溢れかえっていた。

 大昔は冗談みたいに映画や小説、漫画なんかでもてはやされていたらしいのだけれど、今じゃあ立派な現実でしかなかった。


 僕の十六歳の誕生日、とある科学者が「不死身になる薬」なんていう馬鹿な発明をして、自分で飲んだ。結果、ゾンビ化した。他の人を嚙むことによって、被害は拡大、今に至る。


 その科学者は、僕の父親だった。誕生日プレゼント用に作っていた、らしい。


 ……なんて、簡単に言ってしまえばそれまでだ。今まで生き残れたのは、正直奇跡だと思っている。


 生き残った者たちは寄り集まり、それなりに知恵を振り絞った。

 ある者たちは頭をカチ割ればゾンビを殺せる、ということを発見した。その街は、完全に人がいなくなった。ある者たちは施設を大量につくり、そこにゾンビを隔離した。これが一番幸せなのだと、自分からゾンビになりに行く奴すら、現れた。


 元凶であり、しかしそんなバカげた薬を作り上げるだけの脳味噌を持つ者を親に持った僕は、「それなり」の扱いを受けながら強制参加させられた。……ただの、子供でしかないのに。


 幼馴染のティルにはさんざんやめておけと言われたけれど、僕にはどうしようもないことだった。彼女は逃げ、僕はゾンビの住まうガラスケースの外に「閉じ込め」られた。


 僕らは悩んだ。なんてったって、僕らに襲い掛かろうとするのは今まで大切であったはずの人々なのだ。殺すことなんてできない、狭い部屋に閉じ込めておくなんて無理だ。もう一度、彼らに逢いたい。でも、そんな我儘言えない。


 そんな中、科学者仲間のうちの一人が、ある発明をする。


 「ヘルシンク・ノイズ」。


 ゾンビと自分両方が右耳と左耳とで周波数を変えた音を流すことで、自分の想い人ならぬ想いゾンビと精神上で繋がれる、というものだ。当然制限時間は存在するのだけれど、ゾンビの方にもはっきりと意志が見て取れ、人々は大喜びした。小型プレイヤーとヘッドフォンは街の人々にも配られた。


 それからというもの、捕獲され施設に入れられたゾンビたちは一様にこのヘッドフォンをつけられた。勿論装着には危険が伴うのだけれど、誰かの想いゾンビである以上、彼らが出会う機会を与えないなんていう選択肢はなかった。


 ――僕らはこうして、二人だけの世界で、出会う。


🎧 🎧 🎧 🎧 🎧 🎧


「……でさ、今どこに居んの? 多分、ヘルマンが所属していた研究所だろうなー、とは思っているんだけど」

「いや、一般人立ち入り禁止だからね? ゾンビだらけの施設に普通の人入れるわけないでしょうが」

「そんなところに君はいたんだろうが」

「うっ……それに、現実ではあんまり会いたくない、かな」

「……ゾンビ、だもんね」

「…………」


 僕らは黙りこんだ。沈黙がつらくて、僕はあたりを見回した。まだ『壊れて』いなかった頃の、僕らの街だ。オレンジや茶色、淡い黄色といった暖色系の家々が立ち並んでいる。懐かしい、レンズ豆のスープの香りすらしてくるような気する。

 でも、現実世界において、誇り高きドイツの伝統は今やすっかり廃れてしまっている。塀は崩れ、通りにはゴミが散乱している。真っ白な直方体の施設だけが、淡々と並んでいる。


 ここ幻想世界でしかない。

 張りぼてなのだ。


 そう考えるとどうしようもなく胸が締め付けられてしまう。二人ともうつむいて、まっすぐ続いていく石畳を眺めていた。柔らかな風が駆け抜けていって、彼女の短い金髪を揺らした。ゾンビが街を覆いつくすまでは、腰まであったはずのキラキラした髪の毛。女性は何かと不利だから、と、バッサリ切ってしまった日の事を思い出した。


 ……全部、変わってしまったのだ。変わってしまうのだ。


 ふっと、ティルが顔を上げた。


「――――ヘルマン、私、《研究員》になる」

「……は?」


 《研究員》。一般的に、僕らの事を指す、のだけれ、ど。


 思いがけない一言に、僕は目を見開いた。一度研究員になってしまえば、二度と《外の世界》に戻ることはできない。一般人に知られてはいけないことなんてざらにあるし、ティルが考えているほど甘い世界ではないのだ。


 彼女につかみかかる。――感触は、無い。確かにそのワイシャツの袖をつかんでいるはずなのに、つるりとした感覚も、その内側にある温かさも、何も感じられなかった。


 ――当たり前だ、ここは、科学という魔法で作り出された、おとぎ話みたいな世界なのだから。


 それでも、しかしだからこそ、僕は声を荒げる。ヘッドフォンをしているはずなのに、そして今もなお音の無いノイズは耳元で盛大に流れているはずなのに、自分やティルの声は鮮明に聞こえる。脳みそに、突き刺さる。


「やめ、やめておきなよ、良いことなんて一つもない。オトナたちは、優しくないよ。僕らと同じくらいの年の《研究員》もいるけれど、彼等だって生きるのに必死でティルの事なんか見ちゃくれない。《研究員》は、所詮、一人同士の集まりでしかない」

「それでも、そこにはヘルマンがいるんだろう?」


 その言葉に、僕は詰まった。


「ひょっとしたら、私が参加することで新しいアイディアが生まれるかもしれない。ひょっとしたら、ゾンビを元の人間に戻すことができるかもしれない」

「そんな、そんな、こと、」

「なんたって、ゾンビになる薬、加えてそいつらと話すことができる機械、なんていう馬鹿げたものが作り出されたじゃないか。それなら、元の世界に戻すことくらいできるかもしれない――そうだろう?」

「…………そうかも、ね」


「なら――ヘルマンを、戻せるかもしれないじゃあ、ないか」


 そう言って。

 ティルは、綺麗に笑った。

 僕の大好きな、あの笑顔だ。

――――――そこが、限界だった。

 脳みそが揺さぶられる。


「――――時間、かな」


 ティルは笑顔のまま、首を寂しげに傾ける。

 耳元で、ノイズが溢れ出す。ぐわんぐわんと、視界が歪んでゆく感覚。涙は不思議と出なかった。ただ、心臓がきつく締めつけられるだけだった。ティル。ティル。ティル。


「―――――私は、諦めないよ」


 力に満ちた声を最後に、僕は意識を手放す。


🎧 🎧 🎧 🎧 🎧 🎧


目の前に見えたのは、真っ白な天井。


 僕は黙って起き上がると、大きく無骨なヘッドフォンを外した。コードの先につながれた音楽プレイヤーを、ぼうっと眺める。


「……いい夢は見られましたか? 初めてでしたよね、これ使うの」


 無表情で、《研究者》仲間の一人が聞いてくる。これ、と彼が指さしたのは、もちろん、先程まで僕がはめていたヘッドフォンたちだ。

 夢へと連れて行ってくれる、魔法の道具。


 一瞬だけ考えた仲間が、ぼそっと、言った。


 今日運び込まれたゾンビが、原因ですか。


 訊かれた全ての質問に、僕はまとめて答える。

「……そうです、ね」


「ま、夢は夢にすぎませんが――それでも、生きてる者にとっては救いになっているんでしょう、ね」

「……そうですね」


「それで――あなたの『大切な人外』は、なんと?」

「…………」


「あなたの妄想の中で、『大切な人外』は何を言っていたんです?」

「…………」


 ヘミシンク・ノイズ。

 元々ヘミシンク音というのは、左右の耳に周波数の違う信号を流し、通常とは違う意識状態に置くためのものだ。幻覚作用もあるが、深い瞑想に落ちることができ、安眠効果やリラックス効果がある、と昔は使われていたとか。


 そう――幻覚。


 それを利用したのが――ヘミシンク・ノイズだ。僕らに好きなユメを、見せてくれる。

 例えば――ゾンビ化した友人と、会話するとか。

 勿論、「一般人には知られてはいけないこと」だ。


 ぼうっと、白い壁の向こう側を見る。

 もう、彼女はガラスケースの中に閉じ込められてしまったのだろうか。


「答えてください、データを集めなくちゃいけないんですから」

「……そうです、ね」


 僕は音楽プレイヤーを、止めた。

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