欠陥人間

@3748sss

欠陥人間

 私の値段は千五百万円ほどです。

 正確な値段は分かりません。ただ、ネットに千六百万円ほどが通常の子育て費用とあり、しかし、私の家はお世辞にも平均的では無かったので、恐らく、百万円ほどは人より安いでしょう。

 私の性能は平均以上ですが、動作不良が多発するので、結果的に平均以下となるでしょう。とても世に出せる代物ではないと、そう強く思います。鈍くとも頑丈で、安定的に動き続けられるモノこそが良いモノです。

 両親の産んだ本来の私は、善良で勉学に優れ、手間のかからない自慢の子供でした。両親の産んだ現在の私は、愚かで鈍い、誰にも自慢できない息子でした。きっと両親は強く嘆いていることでしょう。昔は良くできる良い子だったのに、と。

 特に父は落胆していることでしょう。父は有名大学に受かるほど聡明で、会社の売り上げに強く貢献しています。その父の息子がこの体たらくでは、切に切に切ないことでしょう。私はこの通り物書きを趣味としているため、その気持ちは切にわかります。私は私の作品を、その登場人物を自分の子供のように思っています。その子供がこんな無様を晒しているのであれば、私も切なく感じています。とても人様に自慢できるものではありません。いかに愛しているとはいえ、悲しみが増さります。己の愛に応えてくれぬモノほど、悲しいコトはありません。

 私も悲しく思います。恥ずかしく思います。著名な一文を引用するとすれば、「恥の多い生涯を送ってきました」が適当でしょう。私も今の私を恥ずかしく思います。こうしてテキストを打っている今でも、私は何をしているのだろうと、そう強く強く思います。少なくない人を踏みにじって海を渡ったのに、その先でしていることはこの無様です。人に馴染めず、授業が分からず、本土にいた時と同じく、私は今日も孤立していたのです。同室の者は黙々とテキストを読み込んでいます。私はカタカタとテキストを打ち込んでいます。私は何も変わりません。昔から私は何も変わっていません。私は今日も独り孤立し、独りただそこに在るだけの置物となっています。

 思い返せば思い返すだけ、私はいつも独りだったと強く感じます。いいえ。授業の時に私とペアを組むために声をかけてくれた親切な人がいたので、本来はそうではないのでしょうが、私は常に、独りだったと思います。友人を作る努力は、きっとできていなかったのでしょう。私は話すことと聞くことが、というより会話そのものが苦手でした。加えて、良く話のタネとなるテレビなどの芸能関係、お笑いは嫌いで、オチをつけることが酷く苦手でした。更に悪いことに、私は休み時間を図書室か読書をすること、あるいは次の授業で次こそは寝まいと、そのために寝ていました。私の成績はクラスで優秀な部類でしたが、いつからか睡魔が現れ、その度に授業中に夢へと落ちていました。夢へと落ちる度、もちろんのこと、私の成績も落ちていきました。愉快ではありませんでした。

 言い訳をさせていただければ、この現状は私の望むことではありません。私は本当にテレビが苦手で、というよりそれよりも本や漫画がいつもいつも図書館や図書室にこもるくらいに大好きで、昼間に寝てしまうことも本意ではありません。昼間の外は安全で、たくさんの発見があります。好奇心が強いらしい私にとって、絶好の時間帯です。麗らかな日差しと木々草花の彩りに、鳥の声に虫の声。移ろい流れる空模様。それでどうして眠ることを好むと言うのでしょう。夜にこそ見られるものもありますが、それがどうして真昼間に眠ることを望むのにつながるのでしょう。

 私の望む私は、勉学に励み、学生生活に打ち込み、平凡で一般的な、それこそ人間生活のモデルケースと呼ばれるような日々を過ごしている人間です。人並みであることが私の望みです。理想です。私の現状は私の本意では決してありません。今の私を知る人は私に言います。頑張れと、アナタならばできると、いいや、過去にできていたのだから、やる気さえ出せばできるのだと。頑張れば、少し踏ん張れば、理想のアナタに届くのと。だから頑張りなさい。アナタなら、やればできるでしょう。私なら、やればできていたのです。だからできるのですできたのです。頑張りなさいアナタなら必ずやればできるから。アナタはお父さんとお母さんの愛する自慢の子供だから、やればできるの。

 やればできるの。


 私は、やればできる子でした。やれば人並み以上にできる子でした。少なくとも、私が過去にいた場所では、私はやれば、人並み以上にできる子でした。ですが、それだけでした。私は勉学はわかっても、人の心はわかりませんでした。当然でした。私は彼らの興味の無い事柄にこそ、興味を持っていたのです。私は人並み以上に、他人以上に、本を愛していました。マンガを好んでいました。図鑑を好んでいました。青年漫画を好んでいました。科学、歴史、伝統文化を好んでいました。私は彼らの内面に踏み込むために必要なものを知りませんでした。彼らと長く一緒にいるための、楽しむためのものを持っていませんでした。そして私は、彼らに私の愛する本以上の価値を見出せませんでした。見出せなかったので、彼らと関わることは苦痛でした。彼らは私を読書バカと呼びました。私はそのあだ名のような罵倒のようなものを誇りに思いました。母は強く悲しみました。私にはわかりませんでした。私にはその母の心がわかりませんでした。今思えば、私が学校に馴染めてないと、母はその時に感じていたのではないでしょうか。

 そういえば一度、私は親しいと思っていた友人に、よくわからないことを言われました。後にそれは嫉妬からの一言だったとわかり、それ以降ずっと忘れていましたが、あの言葉の裏には、私が孤立しているという事実が含まれていたのだと、私は考えました。私は勉強のできる、良い子でした。けれどクラスで浮いていたので、先生には気遣われていました。その気遣いがきっと、その子には、私が先生に気に入られている、と思った理由でしょう。そしてあんなことを言ったのでしょう。

 後に私は、その友人と同じ塾に入り、その友人より後に入ったにも関わらず、それまで塾に通ったことが無いにも関わらず、恐らくその友人より勉強していなかったにも関わらず、私はあっさりとその友人より上の、一番上のクラスへと配属されました。そしてそのクラスの底辺となりました。その友人の心情は今でもわかりません。私はその友人と、塾にいた頃、そしてこの塾に入るずっと前から連絡を取っていませんでした。付け加えれば、その友人がその塾にいたことも、その塾に入り、一か月以上経った後に知ったのです。ともあれそのように、私の地獄の高校受験は始まりました。私は一番上のクラスで底辺を一年間さまよい続けました。地獄だったと私は言います。一番辛かったのは両親の言葉でした。私はやればできる子だったので、凄く期待されました。一番上のクラスに配属されたこともそれに拍車をかけたのかもしれません。けれど現実は非情でした。私はその塾の最初の授業からついていけず、というより授業でまだ習っていない範囲の先取りでしたので、さっぱりわかりませんでした。けれど私はやればできる子、やらせればできる子。学校の授業でその内容が取り扱われる頃には理解し、学校の授業は余裕でした。けれど塾の授業は苦痛でした。夏休みと冬休みは生まれて初めての密集した場所での長時間勉強をしました。内容が先取りのし過ぎで、私にはさっぱりわかりませんでした。けれどやればできました。やり切ればできました。その単元が終わるころには、その単元の難問を時間をかければ解けるようになりました。けれどその頃にはさっぱりわからない問題が次々と押し寄せてきていました。

 学校は受験期真っただ中で、それまで騒がしかったクラスメイトも集中して授業に臨んでいました。私の通っていた学校は、私の住んでいた地区では一番頭の良い学校でした。私はそこでも、勉強のできる良い子でした。クラスにあまり馴染めない、少しだけ先生に気遣われていた生徒でした。秋ごろに行われた就業体験では図書館を選びました。とても楽しかったです。この頃にラノベという存在を知りました。少し古い漫画チックなファンタジー小説。私はあの時でも、流行に乗り遅れた、興味のある人の少ないラノベを好みました。部活は成績の落ち始めた中学二年生の中頃に辞めました。面識のあるとても優秀な後輩が入ってきていました。私が辞めた後、その子達が中心となって、大きな大会で私よりも優秀な成績を残しました。嬉しかった半面、少し悔しく感じました。けれど彼らは私よりも努力していたので当然でした。

 高校受験を乗り切った私は、第一志望には落ちたものの、滑り止めに受けた高校に受かりました。そこは進学校で、部活の先輩が入学したところで評判の良い高校でした。私は塾の時と同じように一番上のクラスに転がり込み、何の間違いか、入学直後に行われた最初の学力テストで五位以内に入りました。得意な科目は一位でした。中高一貫校でしたので、中学からそのまま進学してきた子もいたのですが、私は、その子達よりも良くできました。彼らは騒がない代わりに、私と同じように寝ていました。私は部活に入っても途中で辞める予感がしたので部活には入りませんでした。良い大学に進学し、一流企業に就職することを目標としました。とりあえず、東京大学や京都大学辺りを狙いました。学部はとりあえず理系にしました。理系の就職率や、給料が高いという話を聞きそうしました。高校の図書室はバラエティに富み、そして綺麗な場所でした。ソファがお気に入りでした。ラノベが置かれていたので、とりあえず読破しました。ある伝奇小説の影響で、古典文学に手を出しました。友人の薦めでミステリにも手を伸ばしました。司書さんに読書遍歴を訊かれ、図鑑やシートン動物記と答えたら、変わっているね、と言われました。私は読書バカでも異端でした。私は常の如く、図書室に入り浸りました。

 高校三年間はあっという間でした。友人と行ったカラオケでゼロ点を連発したのは良い笑い話です。私は思うように学力が伸びず、結果として評判の良い、けれど偏差値は高くない文系の学部に入学しました。講義は面白いものとそうでないものの差で酷かったです。授業は静かで、寝ている人がちらほらと見受けられました。私は今度こそと部活に入り、部活に打ち込みました。私には言葉のセンスがあったらしく、文章を書きました。そこそこ受けました。友人がたくさんできました。良い先輩に恵まれました。私はそこでようやく、友人との遊び方というものをはっきりと知ることができました。出費が増えました。両親に初めて、お小遣いを頼みました。両親は喜びました。友人の話をせがまれました。私は良い先輩の話と、愉快で面白く人の出来た友人の話をしました。私は部活で重要な仕事を任されました。しかし私はそれよりもしたいことができ、その仕事を他の誰かに代わってもらい、初めて海外へと行きました。一か月間ほどの体験留学でした。刺激的でした。授業はわかりませんでしたが、とても楽しかったです。苦手だったその言語が、少しだけ得意になりました。私はやっぱり、やればできる子でした。やらせないと、できない子でした。


 私は、何もしたくありませんでした。家は貧乏そうじゃなさそうで、貧乏でした。私の娯楽はお金のかからないものを選ぼうとしました。消しゴムと鉛筆は最後まで使い切りました。ノートに書いた文字はお経のようだと塾で言われました。母の勧めで部活を始めました。勉強との両立が辛くなり、どちらもそこそこにやっていたら父に叱られ部活を辞めました。元々部活は辛かったので、その選択を間違いだとは思いませんでした。後輩たちの成果には嫉妬を少ししましたが、当然の結果だと思いました。私はやればできる子でしたが、その部活は楽しみ程度にしかせず、また、私の体はその部活では不利だったので当然でした。私の楽しみは読書だけでした。読書と、一部の学校の勉強だけでした。それ以外はとてもつまらなかったです。話の合う友人は皆無で、私の興味のあることを知っている子はいても、すぐにその子はそれに飽きて、もうその話題は上りませんでした。私の楽しみは読書と妄想とネットサーフィンだけでした。何もかも楽しくありませんでした。私は独り、机に向かい、独り何かをしている時が一番心安らぎました。けれど、それは私の本意ではありません。私は人並みの学生生活を理想としていました。友人を作り、部活をし、恋人が欲しかった。けれど私は何もできませんでした。人並みの学生生活らしいことを何一つできませんでした。それも当然でした。私は他人と違い過ぎました。私は他人の知っていることを知らず、他人の知らないことを知っていました。当然でした。私には、他人の持っているものを持っていませんでした。父と母の親は貧乏でした。父と母はそれに慣れていました。父と母は時代遅れでした。父と母は今を生きるのに必死でした。私を育てることはできても、私を導くことはできませんでした。私は、私が生きていることに罪悪感を持っていました。私は愛されていました。実感はありませんでした。そして私は、誰も愛せませんでした。そもそも、愛するということを知りませんでした。愛し方を知りません。愛を知りません。与えるものを、施すものを持っていません。私には何もありません。私には勉強しかありませんが、その勉強は私よりもできる人がたくさんいました。だから私には何も与えられるものがありませんでした。だから私は、他人に何もできません。できるとすれば奪うだけです。寄生し奪うだけです。もしくは親の持つお金を渡すだけです。私は何もできませんでした。友人が楽しそうに話す経験のほとんどを知りませんでした。したことがありませんでした。私には何もありませんでした。私は何もできませんでした。


 私にかかった費用は千五百万円ほどでした。

 もしもこれが投資の値段で、何の見返りも無ければ、大損の部類でしょう。私は強くそう思います。

 私は両親の期待を裏切りました。これ以上ないほどに。父は私に最大効率を考えなさいと言いました。母は私に頑張ってと言いました。アナタはやればできる子なのだと。

 事実はそうなのでしょう。私は勉強に取り組めばきちんと結果を出しました。出せなくなったのは高校受験の勉強の頃で、私はやればできるとわかっていても、何もしたくありませんでした。塾をさぼりました。宿題をさぼりました。高校時代には、授業を一日丸々さぼったこともありました。罪悪感はありましたが、何もする気がありませんでした。

 父に怒鳴られました。家族の金をどう思っているのかと。私には弟と妹がいました。私は両親の第一子でした。私は祖母に子供の頃、好きで第一子になったんじゃないのにね、と言われたことがあるそうです。私の記憶にはありません。祖父は赤ん坊の頃の私の眼を見て、良い眼をしていると私に言ったそうです。私の記憶にはありません。祖父は私を猫可愛がりしていたそうです。私はそう感じたことはありません。祖父は病室で、薬から寝ぼけた影響で、私に金づちをくれと言いました。祖父は職場にいるようでした。私は祖父に金づちを渡しました。祖父はありがとうと言いました。祖父は力無く金づちを振るっていました。しばらくすると眠りにつきました。あの時、私はほんの少しだけ悲しく感じただけでした。祖父が死んだ直後、皆が泣いているのに、私独りだけ泣けませんでした。私はそこで惨めに悲しくなって半ば無理やり泣きました。私はその時に思いました。私は壊れているのじゃないかと。私は人では無い、何か別の何かなのかと。今でこそ私は祖父を想うと涙します。けれど、少し前まではそうではありませんでした。私はようやく人に成れた気分でした。けれど、この気分はあの時の自分悲しさに涙しているのかと思えてなりません。結論はまだ出ていません。出ていませんので、私は自分が人でなしのように思えてなりません。

 大学で希望の進路を訊かれました。出版関係と答えました。出版関係の新卒採用の内容を読みました。コミュニケーション能力と熱意に、首を傾げました。専門知識はもちろんありません。レポートを書くのは苦手です。他人を考えて文書を作成するのは苦痛です。やる気はもちろんありませんでした。私は何もしたくありませんでした。ご両親が悲しむよ、とこのやる気の無さを相談した先生に言われました。きっと悲しむでしょう。生活がより苦しくなるでしょう。下手をすると、弟と妹が大学に進学できないかもしれません。想像はできました。悲しむ家族は想像できました。けれど、他人事のように何も実感できませんでした。私は泣きたくなりました。自分がいかに酷い子供かを知って、泣きたくなりました。実際に、家で独り泣きました。独りで泣きました。

 私は両親に、何もしたくないと言いました。

 父は怒りました。母は泣きました。

 私は。


 過去に、私は祖父に自由研究の課題を手伝ってもらいました。

 私は途中で飽きて、祖父にほぼ全てを任せてしまいました。私は祖父にコーヒーを運んでいました。祖父はいらないからと、私に飲みなさいと言いました。私は飲んで、そして、そのコーヒーが美味しかったのでお代わりを祖母に頼みました。私はコーヒーを飲みながら祖父の作業を見ていました。祖父は大工で、木材の扱いは上手でした。私がのこぎりで苦労して切った木材を、祖父はお手本だと言って易々と切っていました。祖父の作ったものは頑丈で、先生に褒められました。私は先生の手前、祖父がほとんど作ったとはいえず、あいまいに笑っていました。父は過去、このことで私をからかいました。思えば、これが一番初めのさぼりでした。私はやればできる子でしたが、この課題だけはやってもできませんでした。

 いいえ。私はやらせなければできない子でした。

 祖父は厳しい人だったと母は言います。けれど、私にはそうは思えませんでした。祖父は少し気の抜けたおじいちゃんでした。私に甘いおじいちゃんでした。ちょっと厳しいけど優しいおじいちゃんでした。

 私は愛されていました。けれど私はそう感じませんでした。

 なぜならば私はいつも、いつも常に苦しかったのです。生きていることが苦痛でした。楽しいことが無かったわけではありませんが、将来には絶望しかありませんでした。なぜかはわかりませんでした。今でもわかりません。私はやればできる子ですが、それは人との関わり以外のことだけでした。加えて、私には極めるだけの才能はありませんでした。私は天才ではありません。どこまでいってもやればできる子の範疇でした。その苦悩を、誰も真剣に考えてくれませんでした。全ては私の努力不足だと言いました。違うのです、違うのです。私は本当にもうできないのです。頑張ることができないのです。やることができないのです。しんどいのです、疲れたのです、限界なのです。私はもう何もしたくないのです。私は生きているだけで苦しいのです。


 私はたしか、誰かにそう言いました。

 けれど、その誰かは私に頑張れと言いました。

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