chapter6



 雨は嫌いだ。父が死んだ日も、雨だったから。

思い出すのは、白い布を顔にかけられた、父の姿。

 ガラス窓に雫がぽつ、と落ちる。パステルカラーで統一された病室。機械的に死亡確認をとる医者。気をしっかり、とサラサの肩を抱く看護師。だけどサラサは、周囲の人間が心配するほど、気落ちしていなかった。

 だって、父は戻ってくるもの。

 例え身体は朽ちても、機械の身体となって、心は戻ってくる。

 父だったものを見下ろしながら、手の中の遺言状を握り潰した。ぐしゃり、と音を立てて潰れたのは、死んだらテンカにはしないで欲しい、という、父の最期の願い。そんなの、駄目。父のいなくなった世界なんて、私が耐えられない。一人ぼっちは、寂しすぎる。

 優しい優しい父だ。サラサが遺言状を握り潰したことは、きっと許してくれるはず。そう自分に言い聞かせて、テンカロイド製造申請書に震える手でサインした。だからきっと、罰が当たったのだろう。父の遺言を無視したサラサを、天は許さなかった。だからこそ、サラサの元に優しかった頃の父親は帰ってこなかった。そう自分を責めれば責めるほど、胸の奥がズキズキと痛んだ。

 だけど今は、愚かな自分を責めてばかりはいられない。


「おじさん! ここにお父さんが来なかった!?」


 息も切れ切れに駆け込んできたサラサを、父の同業者は目を丸くして迎える。本業の傍ら、良質な水草を提供してくれる、人の良いおじさんだ。物心ついた頃から慕っているおじさんは、今ではサラサの仕事仲間でもある。


「サラサちゃん、久しぶりだねえ。ランシさんの葬式以来かい? 元気にしてたか?」

「うん、元気。元気なんだけど、あの……っ」

「わかってる、わかってる。アンブリアが良い塩梅に育っているよ。明日にでも届けようと思っていたところで――」

「違うの! お父さんが突然いなくなっちゃって! おじさんのところに来てない?」


 良く日に焼けた顔が、驚きの色に満ちる。その表情で、ランシはここに来ていないことを悟った。挨拶もそこそこに、おじさんの家を飛び出す。外は相変わらずの土砂降りだったが、濡れることなど厭わずに走り続けた。サラサの心中は、父が死んだ時以上の恐怖に満ち溢れていた。


「どこに行ったのよ、もう……っ!」


 テンカロイドは、無限とも言える生前の情報を処理、再生しているにすぎない。だからこそ、生前に体験したことのないようなイレギュラーに対する処理能力はないはずだ。それなのに、今のランシの行動はどういうことだろう。サラサが泣いたり怒ったりした時、ランシはひたすら慰めてくれた。美しい金魚を見せて、いつもサラサの笑顔を取り戻してくれた。だからテンカになったランシも、必ずそうすると思っていたのに。

 ランシは突然、いなくなった。サラサを一人残して、姿を消してしまった。

 あの、雨の日のように。


「ああもう、うるさいな!」


 けたたましく鳴る携帯電話の呼び出し音に怒鳴ったところで、ランシが戻ってくるはずがない。着信相手は見なくてもわかっている。百年金魚を水に浮かぶ金銀財宝としか見ていない、あの男だ。いっそのこと、電源を落としてしまいたかったのだが、いつランシから着信が来るかもわからない現状、それはできない。鳴り響く着信音が、イライラを加速させていく。でも、本当はわかっている。このイライラは、あのバイヤーに対するだけではない。こんな時に父がどこへ向かうのか、わからない自分自身にイラついているのだ。

 自身の寂しさを紛らわすために、最期の願いですら握り潰した。ランシに優しさに甘えてばかりで、自分のことしか考えていなかったサラサは、彼の娘であることすら失格だ。


「ふ、う……っ」


 涙が溢れる。頬を伝う涙は、激しい雨が流してくれた。今なら少しだけ泣いても許される気がした。

 父がそうであるように、人々を笑顔にする金魚師として認めて欲しかったからこそ、蝶金魚の研究を急いだ。だけど、娘であることすら失格な自分が、父に金魚師として認めてもらえる日などくるのだろうか。

 思えば思うほど、涙は止まらないものとなった。けれど、頬を叩く雨粒は、サラサの涙を流してくれるだけでは終わらない。無理矢理にでも父を失った雨の日を思い出すことで、興奮した脳内を徐々に鎮めていく。娘失格でもいい。金魚師失格でもいい。でも、父だけは二度と失いたくない。


「そうだ、あの修理屋……」


 ランシが生前でも金魚を殺していたことまで知っていたのだ。きっと、アイリーンが集めた情報によるものだろう。だったら、アイリーンに尋ねれば、父の居場所もわかるかもしれない。アイリーンが知らなくても、ランシを修理したユキに尋ねれば、何かわかるかもしれない。

 闇雲に走っていた足が、ピタリと止まる。目的地は見つかった。だけど、あの朽ち果てた神社まで向かう道を、サラサは知らない。苛立ちが再燃する。ここまで意図的に店の場所を隠しているのは、やはりサラサに仄暗い隠し事があるからだろうか。もしかすると、イレギュラーな行動を始めたランシは、ユキの仕業かもしれない。


「そうだ。そうに違いない」


 ランシがいなくなってしまったのは、ユキの修理直後のことだ。修理の過程で、何か不具合が起きてしまったのかもしれない。一度抱いた疑いは、そう簡単に晴れるものではない。ユキへの不信感はますます深まる。とにもかくにも、行けるところまで行ってみようと思った。静止を告げる信号機を振り切って、盛大なクラクションと罵声を浴びて、泥水を被りながら辿り着いた先は、ユキやトワと最初に出逢った場所。いつ見ても厭味な公式映像の家族が、相も変わらない幸福そうな笑顔でサラサを見下ろしていた。

 こんな世界は、虚像だ。満ち足りた家族に、惨めなサラサ。空を覆う星空のホログラムに、土砂降りの雨。最愛の人との永遠という虚像で、目の前のリアルを隠してしまっている。

 丸裸にされたサラサは、もう逃げない。誤魔化さない。倖せな現実なんて、最初からどこにも存在しなかった。偽りで塗り固められた幸福の中で、自分は莫迦みたいに右往左往していただけ。最後の砦である父までいなくなった今、虚勢を張る必要なんてどこにもなくなった。

 でも、リアルは残酷だと気づいた今だからこそ、本当に大切なものに気づけた。例え金魚を殺す父親でも、機械の身体でも、サラサにとってはなくてはならない最愛の人。ランシがいるならば蝶金魚の研究などどうでも良いと思えるほどに、大切で大切で仕方がない。


「……ばかね……」


 だからいつだって一番大切なモンに気づくのが遅れる、と苦笑したアイリーンの言葉が思い出される。本当にその通りだ。映像の中の理想に憧れ、生きている実感もなく息をしていたサラサは、本当に大切なものに気づくのが随分と遅くなってしまった。こんなことになるまで、一番大切なものに気づけなかった。

 金魚を殺す父親でもいいの。蝶金魚が永遠に開発されなくてもいいの。ただ、隣にいてくれる。それだけでいいから。

 お願い、お父さん。

 私の隣に、帰ってきて。


「あ、サラサ! やっと見つけた!」


 暖かくて、柔らかくて、澄んだ声。聞き慣れたその声に俯いていた顔を上げれば、淡いピンク色の傘が此方へと近づいていた。


「トワちゃん? なんで……?」

「なんでって、サラサを迎えに来たのよ」

「私を?」

「うん。リンがサラサの家に行ったら、もういなかったって言うから。もしかしたらサラサ、ここに来ているかもしれないと思って探しに来たの」

「探すって……どうして?」

「ランシがうちに来てるの。オマツリをするって言うから、サラサも一緒にどうかなって」


 楽しげに話すトワに、動揺を悟られないように努める。ランシは、林檎庵にいた。林檎庵でオマツリなるものをすると言う。生前、林檎庵の存在を知らなかったランシの行動は、間違いなく異常。既存のデータにない行動を、テンカがとるはずがない。今度こそ本当に、ランシは壊れてしまったのだろうか。


「トワちゃん、ここには一人で来たの?」


 動揺を悟られないように話すサラサに、トワは気づかない。至って楽しげな声のまま、「ユキと一緒だよ」と言う。


「そうなの……」


 ビルの雨よけに凭れるようにして立つ、着流し姿の男。とても不機嫌そうなユキをこそりと盗み見たトワが、内緒話をするように声をひそめる。


「ユキ、ほんとはランシと一緒に飾り付けをしたかったみたいだけど、トワが無理矢理連れて来たの。だから怒ってる」

「飾り付け? オマツリの?」

「そう。昨日サラサが突然帰っちゃったのって、ユキと喧嘩したからでしょう? ユキ、お客さんをよく怒らせちゃうから……。だから、サラサにちゃんと謝るように連れて来たの」


 喧嘩というよりも、父は故障していないと言い切ったユキに、サラサが一方的に立腹しただけ。真実を告げたに過ぎないユキを恨むのは、お門違いだとわかっている。だけど、ゆっくりと近づくユキを睨まずにはいられない。正面から睨みつけるサラサに、ユキは一瞬眉をひそめただけ。視線はすぐに少女へと戻された。


「さっさと帰るぞ」

「急いで戻っても、飾り付けはもう終わってると思うよ?」

「飾り付けの心配をしているんじゃない。あの莫迦女に店を任せて来た心配をしているんだ」


 さっさと帰るぞ、と急かすユキの後を、黙ってついて行く。ユキはサラサの言いたいことをわかっている。ちらり、と寄越した目線が何よりの証拠。だからサラサは、自然な動作でユキの隣に並ぶと、トワに気づかれないように声をひそめた。


「どういうこと?」

「何が?」

「とぼけないで。どうして父はあなたの店にいるの。オマツリってどういうこと?」

「俺は何も知らねえよ。朝っぱらからお前の親父がやって来て、祭りをやると言い出したんだ。俺達はそれに付き合っているだけだ」

「ねえ、だからそのオマツリって何?」

「前に説明しただろう。大昔に先祖供養や豊作を祝う目的で執り行われていた莫迦騒ぎだ」

「それを父がやりたいって?」

「俺を疑ってんのか? そもそも、こんな嘘をついたところで、俺に何の得がある?」


 確かにそうだけど。でも、父が突然祭りをやりたいと言い出した理由もわからない。疑惑の晴れないサラサへ、ユキの小さな溜息が投下される。


「祭りと言ってもあまり期待はするなよ。突然のことだったんで、屋台だって二つしか準備できていない」

「は? ヤタイって何?」

「今時の若い娘は屋台も知らないのか……」


 やれやれ、と頭を抱えるユキに、密かに苛立つ。ユキだってサラサとそう歳は変わらないはずなのに、こんなオヤジ臭い台詞言われたくない。そもそも、サラサが無知なのではなく、ユキがマニアックな日本文化に詳しすぎるだけだ。

膨れるサラサの袖を、ふいに小さな手が引っ張った。


「トワはね、林檎飴屋さんをやるの!」

「林檎飴屋さん?」

「うん。リンも何かお店出すって言ってたよ。でも一番のトリはランシの金魚屋さんなんだって。楽しみだねえ~!」


 素直にはしゃぐトワの言葉で、ヤタイが如何なるものか大方予想できた。だけど、ランシが金魚屋さんをするとは聞き捨てならない。またこの幼い少女に、墓穴を掘らせる結果になるかもしれない。


「早く行って止めなくちゃ……っ」


 慌てるサラサを、ユキはのんびりと追う。全く急ぐ様子を見せない男に、無性に腹が立った。ユキが先導してくれなければ、お店の場所はわからないというのに。


「ねえ、早く案内してよ!」

「それが人にものを頼む態度か?」

「のんびりしている余裕はないのよ。あなたはまた、トワちゃんに墓穴を掘らせたいの?」

「墓穴? ああ、あれはアイツが勝手にやったことだ」

「何よ、それ。あなた、あんな小さな子に金魚の死骸を処理させて、心は痛まなかったの?」

「大げさだな」

「大げさじゃないわよ。金魚と言えども、死んでいるのよ? あなたは子供に死体を持たせたのと同じよ?」

「だから大げさだって言ってんだよ。人でも金魚でも、いつか必ず死ぬ。そんなことは、アンタよりトワの方が余程わかっている」


 相変わらず人の神経を逆撫でする物言いである。だけどここで怒鳴り散らしても、何の解決にもならない。今のサラサにできることは、のんびりと歩くユキの後ろを、せいぜい威圧感をこめてついて行くだけだ。


「ねえ、ユキ。サラサにちゃんとごめんなさいしたの?」

「何故俺が謝らなければいけない」

「だって昨日、サラサを怒らせて帰しちゃったでしょ? 今だってサラサに何か言って怒らせてた!」

「……それはお前が原因なんだろうが」

「え? なに?」

「うるさい。黙って歩け」


 それでも言葉を募るトワを、ユキは無視することに決めたようだ。黙々と先を歩くユキは、敢えて大通りを避けているように見える。ここ二十六区は、碁盤の目のように交差した道が多い。ユキが辿るのは、縦横のメインストリートではなく、猫の通り道のような狭い横道ばかり。頭をフル回転させて地図を叩き込んでいたサラサも、途中から覚えるのを諦めた。それほど複雑巧妙な道を辿るユキは、やはりサラサに道を覚えられなくないようだ。


「ねえ、店の場所は誰にも口外しないから、さっさと連れて行ってよ」

「うるさい。もう目と鼻の先だ」


 ユキの言う通り、生い茂った竹林を抜けると、朽ち果てた鳥居が出現した。目的地を見つけた瞬間に感じた、小さな違和感。鳥居から見える先の景色が、いつもより小奇麗すぎる気がする。


「ねえ、本当にここだっけ?」

「……フン。アンタに気づかれるくらいだ。流石に無理があるか」


 意味がわからない。だけど、亀裂の入った鳥居は確かに見覚えがある。掃除でもしたから単に小奇麗に見えるのだろうか。試しに、鳥居に向かって手を伸ばしてみる。冷たい石の感触。今度は鳥居の奥の風景に向かって手を伸ばしてみる。だけどそこに、現の感触は掴めなかった。


「これ……鳥居から先は全部ホログラム?」

「ご明察。通行人に見られるわけにはいかないからな」


 懐手をしたユキが、躊躇なく先へ進む。ホログラムの中に消えたユキを、トワが弾む足取りで追いかけた。


「サラサも早く! 中すごいんだから!」


 トワに手を引かれるまま、サラサもホログラムの中へ入り込む。無機質に肌を撫でられたような、不思議な感触が一瞬。瞬きをした後にサラサの頬を撫でたのは、湿気を帯びた夜風。それから、見開いた両の眼に映ったのは、拝殿までの道を示すようにずらりと並べられた、温かな灯火。


「ようこそ、林檎庵主催のお祭りへ! サラサ、楽しんで行ってね!」


 はしゃぐトワが、割れた石畳の上をスキップする。荒れた境内には、トワやユキの言うハリボテの屋台が二つあった。一つはトワの宣言通り、林檎飴屋さん。キラキラと真っ赤な光沢を放つ林檎飴が、所狭しと並べられている。そしてもう一つは、何やら怪しげな骨董品が並ぶ屋台。店番は咥え煙草のまま、威勢の良い声を上げる、アイリーン。


「さあさ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 番犬代わりにもなる仁王像。今なら二つセットで四ドルの大特価セール!」

「ああ~!?」

「う~ん!?」

「おい、莫迦女! 俺の神聖なるコレクションを勝手に売り出すな!」

「何よ。こんなもの、腹の足しにもなりゃしないわ。アンタの家計を考えて売りに出してやってるんだから」

「例え明日野垂れ死んでも、これだけは手放さん」

「じゃあこの狸と猫を……」

「それも駄目だ!」

「もー、物を捨てられない男って最低。トワ、絶対にこんな男と結婚するんじゃないわよ」

「わかった」


 三文芝居を始めた三人から目を離し、進む。奥には朽ち果てた拝殿があった。今にも倒壊してしまいそうな拝殿は、明々とした光に包まれている。今時珍しい瓦屋根から無数に吊り下げられているのは、中に金魚を閉じ込めた透明なガラス玉。百も二百もあるガラス玉が、朽ち果てた拝殿を煌々と照らしている。狭いガラス玉の世界で、真っ赤な金魚は優美に尾鰭を燻らせていた。

 その光景は、あまりにも幻想的で、非現実的で。

 涙が出るほど、美しかった。


「……きれい」

「そうだろう。私はこれを今生最後の作品とし、蝶金魚を名付けることにするよ」


 世界一大好きな声を、辿る。淡いぼんぼりに照らされた道を歩くのは、変わらない微笑を浮かべるランシ。愛しげに細められた目で、サラサと金魚を眺めている。


「蝶金魚……? これが?」

「そうだよ」

「どうして? お父さんは、百年生きる金魚を作るんじゃなかったの?」


 約束、した。サラサが一人でも寂しくないように、百年生きる金魚をプレゼントするって。ランシはサラサとの約束まで忘れてしまったのだろうか。

 どこか縋るような眼差しのサラサを、ランシは変わらぬ優しい眼差しで見つめた。


「ねえ、サラサ。金魚玉の金魚は美しいだろう?」

「え? ええ、そうね」

「でもね、こんな狭いガラス玉の中に閉じ込められた金魚は、明日には間違いなく死んでしまうんだよ」


 びくり、と肩が震える。自分でも気づかぬうちに、死という単語に敏感になっていた。おそるおそる視線を寄越すサラサを、ランシは穏やかな双眸で迎える。その瞳の奥に何があるのか、サラサにわからなかった。


「お父さん……どうしちゃったの?」

「……」

「昔はこうじゃなかった。明日には死ぬとわかっていて、どうして金魚を狭いガラス玉の中に閉じ込めるの?」

「……」

「お父さん……っ!」


 思わず肩を揺するサラサを、ランシがぼんやりと見上げる。そうしてランシは、笑った。くしゃりと、どこか泣き笑いにも似た表情を浮かべた。


「憧れ、だったんだ」

「え?」

「限られた生命の中で、精一杯美しく生きようとする金魚は、私の憧れだったんだ」


 掴んでいた肩を、咄嗟に離す。自分は金魚と違い生命の時間を選べない、と非難するような物言いに、返す言葉がない。沈黙するしかないサラサの肩を、今度はランシが掴んだ。


「ねえ、サラサ。私は、生きたい」

「……っ」

「金魚玉の金魚のように、限られた一瞬を大切に生きたいんだ」


 ああ、やはり。ランシは遺言状を無視したサラサを責めているのだ。口から漏れるのは、「ごめんなさい」の言葉ばかり。許しを請うように謝り続けるサラサを、ランシは柔く抱き締めた。


「ごめんなさい、は私の台詞だよ。テンカとして、君と永遠を生きるのも悪くないと思ったけど、君は私がいなくても十分一人で生きていける、強い女性だ」

「そんなことない! 私はお父さんがいなくちゃ……っ」

「駄目だよ、サラサ。人も金魚もいつか死ぬ。だからこそ、一瞬一瞬を美しく生きることができるんだ」


 ランシの言うことはわからない。一瞬を美しく生きて死ぬよりも、愛しい人との永遠を生きる方が倖せに決まっている。今だって、ランシと永遠を生きる未来を諦めていない。だけど。

 無数の金魚玉の中で、優雅に尾鰭を燻らせる金魚。朽ちた拝殿を最高のステージへと変えた金魚達を見た瞬間、咄嗟に零れた「きれい」の一言は、心からの言葉だった。

 百年生きる金魚よりも、明日には死ぬこの金魚達が、心から愛しく思った。


「まっすぐに生きなさい、サラサ。笑って逝ける、その時まで」

「……っ、お父さんは、もういいの? 心残りのない、人生だったの?」

「……病に倒れたあの時から、一つだけ心残りがあった。たった一人残す娘に為に、私は何ができるのか。機械の身体で娘と永遠を共に生きることもできるけれど、私はサラサに一人でも美しく生きる強さを持って欲しいと思ったんだよ」

「……私はそんなに強くはなれない。いつだって、お父さんがいない寂しさに押し潰されそうになるよ」

「だから君に、この日のことを忘れないでいて欲しいんだ。金魚玉の金魚は、明日には死ぬ。明日には死ぬとわかっていて、精一杯生きる金魚達は、美しいものだろう?」


 しっかりと抱き合った身体から、ランシの本心が伝わってくるようだった。ランシは悪戯に金魚を殺していたわけではない。限られた一瞬を懸命に生きる金魚を、探し続けて。大好きな金魚が最も輝けるステージを模索した。その結果、多くの金魚の生命が犠牲になったのだ。愛しい金魚をこの手で犠牲にしたからこそ、小さな生命が精一杯輝ける瞬間を見つけた。


「……ねえ、お父さん」

「何だい?」

「この世は綺麗で美しいものだけじゃないって、私わかっちゃった。泣けなくなるほど辛い現実だって、確かにあるの。生きることってとても単純だけど、実際は息苦しい日常で溢れている。この世はまるで、金魚玉みたいだわ」

「だったら、金魚玉の世界を生きる私達は、さしずめ金魚かな?」

「そう。狭い水の中を懸命にもがく、哀れで滑稽な金魚よ」


 そんな金魚を美しいと讃えるランシに、今のサラサはどう映っているだろうか。泥水と涙でぐしゃぐしゃに汚れたサラサを、ランシは綺麗だと褒めてくれるだろうか。

 背後でぱしゃん、と水溜りを踏む音がする。ゆっくりと振り返れば、相変わらず不機嫌そうな顔の男が、闇色の傘をくるりと回していた。


「お客さん、今なら大特価セールだ」

「は?」

「報酬はそこの蝶金魚一匹。どんな依頼でも引き受けてやるけど、どうする?」


 不機嫌そうな顔のまま、くるくると傘を回す男を見ると、どういうわけか笑い出したくなった。この男は一体何がしたいのか。前払いで支払った金魚はランシが全て駄目にしてしまったし、金魚玉の金魚だって明日には死ぬ。これを報酬として貰ったところで、二束三文の得にもならないだろうに。


「最初に約束しただろう。報酬として百年金魚を貰うと」

「でもこれは……」

「これは、百年先も人の心に残る金魚だ。後で返せって言っても返さないぞ」


 ぽかん、と間抜け面を晒したのは三秒程。それはすぐに心からの笑みとなった。笑いすぎてお腹が痛い。目尻に涙まで溜まってきた。溢れる涙を指で払うと、深々と頭を下げる。

 雨は、いつの間にか止んでいた。


「父の解体を、お願いします――――……!」





 墓穴が一つ、増えた。

 ざくざくと土を掘るトワを眺めながら、サラサはぼんやりと呟く。


「本当にこれで良かったのかな……」

「はっ。人の死生観に一朝一夕で答えが出るなら、誰も苦労はしねえよ」


 傷心のサラサに辛辣な言葉を投げるのは、相変わらず不機嫌そうな顔をした修理屋。慰めの言葉一つ言えないのか。デリカシーのない修理屋を睨みながら、サラサは口を開く。


「あなたにはわからないでしょうね。大切な人を二度も失った悲しみが」

「ははっ、カナシミねえ。そりゃあ結構なことで」

「笑わないでよ! 一応、それなりに傷ついているんだから!」

「笑いたくもなるさ。アンタが固執していたのは、父親の形をしたただの容物だ。悲劇のヒロインを演じるなら他所でやってくれ」


 デリカシーのない男は、人の傷口を抉るのも一流だった。こんなところ、さっさと出て行ってやる。勇み足で立ち上がったサラサを、ユキの声が追う。


「おい。解体したテンカのパーツ、どれか持っていくか?」

「結構よ!」

「何怒ってやがる。せめてこれは持って帰れ」


 ぽい、とユキが投げたものを、慌ててキャッチする。拳大の、透明なガラス玉。咄嗟に目を向けたのは、墓穴を掘り続けるトワ。昨晩までこの中を、美しい金魚が泳いでいた。


「……これはあなたのコレクションでしょう」

「だったらいつか返しに来い。アンタだけの百年金魚と一緒に」


 ユキの視線が、墓穴を掘るトワに向けられる。思いの他優しい言葉と、僅かに和んだ目尻に、サラサは思わず息を止めた。

 父を失った。百年金魚の開発が叶わなかったことで、多くのクライアントも失った。今のサラサに残されたものは、この手の中にある金魚玉一つだけ。だけど今の自分には、このガラス玉一つで十分だと思った。

 どこか晴れ晴れしい気持ちで、朽ちた鳥居をくぐる。ホログラムじゃない本物の日差しが目に痛い。夏は、もうすぐそこまで来ていた。


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