chapter5



 その六日間は、目の回る忙しさだった。

 サラサの商売相手は、何もエイチだけではない。金魚の売買の場に直接サラサが出っ張ることこそ珍しいが、品評会や研究発表などの場では、サラサが顔を出さないと話が進まないことが多い。今、サラサが早急に取り掛からなくてはいけない仕事は、主に二つ。一つは言わずもがな、蝶金魚の開発。もう一つは、大手玩具メーカー名誉会長の誕生日セレモニーへ向けての準備。何でも、セレモニー会場を会長の好きな金魚で飾り立てたいらしい。金魚の品種開発の第一人者がサラサならば、その金魚を如何に美しく鑑賞できるか知っているのもサラサだ。


「パーティーは六時間続けて行うのですか?」

「はい。六時間、水槽の中を金魚の糞一つなく保っていただきたいのですが、そのようなことは可能でしょうか?」

「硝酸細菌が最も活性しやすい水環境を整えれば可能です。その場合、予定していた水槽ではなく――」


 セレモニーの責任者だというスーツ姿の男と話し込んでいる時だ。下見に訪れたセレモニー会場で、一枚の絵が目に止まった。グランドピアノの真上、巨大な額縁に閉じ込められた絵画。大人五人分はあろうかと思うほど大きな額縁の中には、濃淡豊かな黒で無数の渦が書かれている。黒の渦の中で微かに光っているのは、金箔だろうか。迫力があるのか繊細なのか良くわからないその絵画のタイトルは、「きんぎょ」と書かれていた。


「ああ、これ、最近巷で騒がれている、天才少女の作品ですよ。どうです、見事でしょう?」


 同意を求められても、世情に疎いサラサは、その天才少女の名前すら浮かばない。適当に首肯してしまったが、得意顔で微笑むこの男も、この絵のどこか見事かと訊かれたら、きっと返事に窮するのだろう。

 サラサが肯定したことで天才少女の絵画に興味があると勘違いしたのか、男はその後も懇切丁寧に説明を続けてくれた。何でも、件の名誉会長が天才少女の両親と知り合いらしく、誕生日記念として少女に大好きな金魚の絵を依頼したらしい。そうして完成したのが、この黒い渦の書かれた「きんぎょ」。誕生日に黒を基調とした絵なんて不吉だと、眉を顰めた者も多いようだが、以前から少女のファンである会長はいたくご満悦な様子だとか。云々。


「長いこと金魚の優美さに魅入られてきた会長にとって、千匹の金魚で彩られたこの会場自体がプレゼントと言っても過言ではありません。予算の上限は設けませんので、どうか盛大に頼みますよ」


 つまり商売相手は、誕生日に千匹もの金魚を気軽に買える相手。失敗は大きな損失になる。にっこりと微笑むことで、気もそぞろな心中を隠した。

 久しぶりの大きな商売相手に、心ここにあらずな心中を悟られてはいけない。今日、この打ち合わせが終われば、林檎庵までランシを迎えに行く予定になっている。さっさと仕事を切り上げようと急くサラサの耳に、男の含んだ声が届いたのはその時だ。


「そう言えば、あなたのお父様が研究していた百年金魚はどうなったのですか? 噂では、あなたが研究を引き継いだと聞きましたが……もし完成しているようであれば、会長の金魚コレクションの一つとして贈ることは可能でしょうか?」


 百年金魚という単語に、集中できていなかった脳が完全に覚醒した。思いの他、すんなりと笑うことができた。そんな自分に内心驚きながら口を開く。


「残念ですが、百年金魚はまだ研究途中なんです」

「ああ、そうでしたか」

「でも、近日中に完成の目処は立っています。もしセレモニーに間に合うようでしたら、こちらから連絡させていただきますね」


 そう言えば、男は見るからに上機嫌になった。現金な反応でも、今のサラサにとっては嬉しいもの。自然と頬も綻ぶ。この打ち合わせが終われば、ランシを迎えに行く。元の優しい父を取り戻しに行くのだ。元の優しい父の頭には、百年金魚の研究成果が全て記されている。父が戻れば、必然的に百年金魚の研究も明らかになるはずだ。

 弾む足取りで会場を後にする。送迎役のアイリーンとは特に約束をしていなかったが、どうせサラサの自宅は知られているのだ。自宅で待機しておけば、この間のように迎えが来るだろう。そう思っていたからこそ、会場の脇にひっそりと駐車した赤い車を見た瞬間、思わず驚きの声が漏れた。


「アイリーンさん! どうしてここが?」

「情報屋の情報網を舐めるんじゃないわよ。その気になれば、アンタのスリーサイズまでわかっちゃうんだから」


 車の窓から紅い唇を歪めて笑うのは、自称情報屋のアイリーン。サラサの自宅だけではなく、今日のスケジュールまで把握されているのだ。彼女の言う通り、その情報網は伊達ではないのかもしれない。

 どこまで自分のことを知られているのだろうかと考えれば、弾む気持ちに水を差された気分になった。空恐ろしい感情がぬるりと顔を出したが、それでも優しい父が戻る喜びに勝るものではない。軽い足取りのまま、真っ赤な車に乗り込む。空模様は最悪。今にも泣き出しそうなそうな曇天だが、サラサの心は晴れ渡るような青空が広がっていた。


「それで、お宅の店長は父を直してくれたのよね?」

「そこんとこはユキに直接訊いて頂戴。アタシの専門は情報の収集と提供。テンカの修理はユキが一人でこなしているから、アタシは何にも知らないの」


 アイリーンに尋ねても、色良い答えは返ってこなかった。まあいい。店に着けば、結果はわかるのだ。焦る必要はない。弾む心を押さえながら、ゆったりとシートに凭れる。見上げたフロントガラスに、ぽつ、と雫が落ちる。ガラス越しに空を見上げれば、先を争うにようにして雨足が強くなっていた。


「やっぱり降り出したわね。最近雨ばっかりで嫌になっちゃう」


 ハンドルを握るアイリーンが、煙草片手にぶつくさと愚痴る。目線はサラサへと注がれているが、今日はよそ見運転を注意する気にはならなかった。


「梅雨ですから、仕方のないことです」

「まあ、それを言っちゃ終わりなんだけどねえ」

「日本も他の国のように四季がなければ、梅雨もなくて楽なんですけど」

「あら、アタシは好きよ。四季によってころころと顔を変えるなんて、面白いじゃない」


 気分によってころころと表情を変えるのは、アイリーンの方だとサラサは思う。雨は嫌いだが、表情豊かなアイリーンを見るのは面白い。空を見るのをやめて、こっそりと隣を盗み見る。曇天の下でも輝くブロンドに、蠱惑的に弧を描く紅い唇。アイリーンは、女としての魅力を全て詰め込んだかのような女性だ。自分も、歳頃の女の子のような生活をしていたら、少しでもアイリーンのようになれたのだろうか。

 大きなサングラス越しに、ぱちりと目が合う。まじまじと見つめすぎたせいか。咄嗟に俯くサラサを、アイリーンは小さく笑った。


「ねえ、アンタはさ、どういう時に一番“生きている”って感じる?」

「…………は?」


 突拍子のない質問に、思わず変な声が出た。“生きている”と感じる瞬間?


「わかりません。というか、考えたこともありません」

「じゃあ今考えてよ」

「急に言われても……だったら、アイリーンさんが一番“生きている”って感じるのはいつですか?」

「アタシ? 簡単よ。煙草が美味しいと感じる瞬間」


 そう言って、紅い唇から紫煙を吐き出すアイリーンは、この上なく妖艶で美しかった。ニッ、と弧を描く紅い唇に、どきりと胸が高鳴る。俯くサラサの鼻先に、チョコレートの香りが届いた。


「ほら、アンタも答えなよ。そんなに難しく考えなくてもいいからさ」

「……わかりません」

「えー、わかんないのー?」


 ころころと笑うアイリーンに、眉がハの字になる。そんなこと言ったって。テンカの発明により、人類は永遠の命を手に入れた。死を恐れる必要のなくなった人類は、わざわざ生きる意味など考える必要はないのだ。

 ころころと鳴っていた笑声が、ふいに止む。紅い唇を真一文字に結んだアイリーンが、どこか白けた声を発した。


「じゃあさ、アンタは何のために生きてんの?」


 どきり、と心臓が鳴る。生きているのか死んでいるのかわからない、とでも言いたげな物言いに、サラサは咄嗟に言葉を失った。

 やりたくもない仕事に追われて、蝶金魚の開発を急かされて、父の異常行動に振舞わされて。サラサは、ランシは、一体何が楽しくて“生きている”のだろう?


「自分の生き様もわからない人間に、死に様なんて想像できるはずないよねえ」

「え?」

「だからいつだって、一番大切なモンに気づくのが遅れるのよ」


 苦笑するように溜息を吐くアイリーンから、目を逸らせない。だけど、アイリーンはもうサラサを見てはいなかった。

 どこか突き放されたようなその態度に、不安が増す。元に戻った父に会いに行く喜びが、一気に萎んでしまった。

 どうして、自分がこんなことを責められなければいけないのだろう。テンカによって、擬似的ながらも人類は永遠の命を手に入れた。終わる心配のない倖せな世界では、生き様も死に様も考える必要はない。そう思うのは、何もサラサだけではない。全人類の総意見のはずだ。アイリーンの言葉は、幸福に溢れる世界へ水を差しているに過ぎない。


「着いたわよ」


 間違っているのは、アイリーンだ。そう自分に言い聞かせても、萎んだ心はなかなか復活しない。優しい父を取り戻す喜びはどこかへ飛んでいき、代わりに不安の種がむくむくと育つ。元の優しい父親が戻れば、全てが上手くいくと思っていた。だけど、本当にそうなのだろうか? 優しい父親が戻れば、この胸にぽっかりと空いた虚しさが埋まるのだろうか?

 考えれば考えるほど、足元からずぶずぶと泥沼に沈んでいくようだ。なかなか車から降りられずにいるサラサを、アイリーンは特に急かさなかった。ゆうらり、と車内を舞う紫煙を目で追う。アイリーンが煙草をたっぷり三本吸う間、考えた。だけどそれは、いくら考えても仕方のないことだった。

 ともかく、ランシに会ってみないことには始まらない。意を決して割れた石畳の上に降りる。壊れた祠まで歩いたのは良いが、それを一人でくぐる勇気はなかなか湧いてこなかった。


(……。アイリーンさんが戻って来るまで待とう)


 駐車へ行っただけだ。すぐに戻るはず。それまで少し、散歩でもしておこう。

朽ちた祠を横に逸れれば、半倒壊した拝殿があった。賽銭箱には苔が生え、深い緑色に変色している。お賽銭の代わりに底へ積もるのは、たくさんの落ち葉や枯れ枝。褪せた鈴緒を振れば、がらんがらんと澱んだ鈴の音が響いた。


(この場所は死んでいる)


 今となっては廃れた神社に、時代錯誤の修理屋。時が止まったような人と場所で、父は本当に戻ってくるのだろうか。

 ぽつぽつ、と忙しげな雨音に耳を傾けながら、石畳を黒く染める雨粒を見下ろす。石畳が黒く染まるのと同じように、心も黒く染まっていくようだ。


(誰かいるの……?)


 鬱々と沈んでいくサラサの心に引っかかったのは、微かに聞こえてくる歌声。サラサの他に誰かいるのだろうか。歌声に誘われるまま、境内の裏手に回る。ぽっかりと窪地になった裏手では、淡いピンク色の傘がくるくると回っていた。


「トワちゃん……?」


 ぱっ、と水飛沫が飛ぶ。ピンク色の傘とミルクティ色の髪がふわりと翻る。嬉しげに自分の名を呼ぶトワを見ると、自然と身体の緊張が解けていた。


「今歌ってたのってトワちゃん?」

「うん。そうだよ」

「流行りの歌? 何ていう曲なの?」

「ふふ、トワしか知らない秘密の歌なの」


 くすくすと笑うトワは、流行りの曲を知らないサラサをからかって楽しんでいるらしい。子供にからかわれるのは悔しいが、世情に疎いサラサに対抗する術はない。


「サラサが来るのが遅いから、待ちくたびれちゃった」

「ごめんね。急ぎの仕事があったから」

「ふぅん。シゴトって大変なのねえ」


 精一杯大人びいた台詞を言おうとするトワに、思わず小さな笑みが零れる。トワの両手は何故か泥で真っ黒に汚れていた。この雨の中、外で泥遊びをしていたのだろうか。トワだって、長の雨で思い切り外で遊べないストレスが溜まっているのかもしれない。


「トワちゃん、泥遊びも結構だけど、服を汚すとアイリーンさんに怒られるんじゃない?」

「んー、大丈夫じゃない? リン、トワの服たくさん持って来てくれるし」


 どうやらトワのフリル趣味は、アイリーンによるものらしい。苦笑いが零れる。泥だらけになった青いドレスワンピを目で追えば、トワの手に握られているのは泥だけではないことに気づいた。


「……ねえ、トワちゃん。それ、何?」


 それに気づいた瞬間、身体の中を巡る血液が、急激に冷えた気がした。

 サラサの目線の先を追ったトワが、手に持つビニール袋を慌てて背に隠す。だけど、もう手遅れ。サラサはばっちり中身を見てしまった。ビニール袋の中に詰められたのは、たくさんの赤い金魚達。袋の底に溜まったそれらは、ぴくりとも動かなかった。


「ねえ、トワちゃん。それ、こないだここに持って来た金魚よね? お父さんが全部やったの? ねえ!?」

「サラサ! お願い! 放して!」


 泣き出しそうなトワの声に、はっと我を取り戻す。トワの手からビニール袋を奪おうと、自分でも気づかぬうちに半狂乱になっていた。小枝のように細い手首から、慌てて指を離す。トワの手首には、赤い手形がくっきりと残っていた。


「わ、わた、わたし……っ」


 震える両手で、顔を覆う。どうして気付かなかったのだろう。トワは泥遊びをしていたわけではない。死んだ金魚の墓を作っていたのだ。トワの背後に広がる無数の盛山が何よりの証拠。この小さな手で、ランシが殺した金魚の後始末をしていた。雨の中、一人で小さな手を汚して。

 震えが、止まらない。私と、お父さんの金魚が。大切に、何よりも大切に育ててきた金魚が。白濁とした目を見開いて、土の下でゴミのように転がっている。そうなるように仕向けたのは、他でもないこの子達の育て親だ。


「サラサ、大丈夫だから。落ち着いて。ね?」


 顔を覆う手に、温もりが灯る。手の甲についた泥の感触に顔を上げれば、トワが震える手を握り締めていた。


「サラサ、怖がることはないよ。トワはちゃんと知っているから」

「……?」

「人も金魚も関係ない。生き物はいつか必ず死ぬの。トワはちゃんとわかっているから、大丈夫だよ」


 金魚の死骸が入った袋を握り締めて、へらりと笑う少女。これは、泣きそうなのを必死で隠している笑い方。袋を握り締める手が震えていることに気づいたサラサは、身体中の血液が逆流する感覚を覚えた。


「違う。違うのよ、トワちゃん」

「サラサ?」

「そんなことはない。人は死んだらテンカになればいいのだし、もうすぐ百年生きる金魚だって開発されるの。誰かの死に泣く必要はないのよ」


 言い様もない怒りが腹の底から湧き出るようだった。テンカによって、永遠の命を手に入れた人類。人の死に泣くことのない、誰もが倖せに暮らす社会。その秩序を乱す全てが憎い。何よりも、こんな小さな少女に泣くのを我慢させる父親が、許せない。

 今にも折れそうな少女の肩から手を離し、祠を目指す。半分蹴破るようにして侵入したサラサに、阿吽の像が驚きの声を上げた。顔を真っ赤にして肩で息をするサラサを迎えるのは、見慣れない工具を持つユキと、優しい笑みを浮かべるランシ。


「……お父さん」

「サラサ、お帰り」


 いつもと変わらぬ笑みで出迎える、父親。サラサの一番好きな顔だ。

 視界が、歪む。ズキズキと痛む鼻を、スン、と啜る。ここで泣いたら負けのような気がした。


「見ておくれ。彼から貰ったんだ。大昔に存在した容物でね、金魚玉と言うそうだ」


 心なし嬉しそうなランシが眼前に突き出すのは、ガラスでできた拳大の球体。透き通ったガラス玉の中には、赤い金魚が腹を上にしてぷかぷかと浮いている。既に絶命していることは、誰が見ても明らかだった。


「どういうこと?」


 胸倉を掴みたい衝動を堪えるのが精一杯。ランシの隣に立つユキを、殺気の籠った目で睨みつける。サラサの言いたいことはわかっているだろうに、ユキは勿体ぶった動作で目深に被ったゴーグルを外した。


「随分な挨拶だな」

「ふざけないでよ! あなたは父を直してくれるって言ったじゃない! それなのに、父はまた金魚を殺した! あなた、私を騙したの!?」

「人聞きの悪い。アンタのテンカに物理的異常は認められなかった。それだけの話だ」

「そんなはずない! だったらどうして、父は大好きな金魚を殺すのよ? あなた、言ったじゃない。父を必ず直してくれるって。四の五の言ってないで、さっさと父を返しなさいよ!」


 声を荒げるサラサを、ユキが冷めた目で見下ろす。その態度が、余計に神経を逆撫でした。

 所詮この男も、金魚を水に浮かぶ金貨としか見ないアイツ等と一緒。水に浮かぶ金魚が金貨にしか見えない奴らに、サラサとランシの血の滲むような努力などわかるはずもない。

 ランシが百年金魚に懸けた想いなど、知るはずもないのだ。


「サラサ、お前は何を見ている?」

「は?」

「お前の父親は、ずっと目の前にいるだろう。その二つ目は飾り物か?」


 父を直せないようなヤブ修理屋が、偉そうなことを言わないで。

 思わず怒鳴りそうになったサラサの背後で、チョコレートの香りのする紫煙が立ち上った。


「サラサ、ユキの言うことは真実よ。ランシは生前から日常的に、金魚の虐殺を行っていた。彼の同業者がそう証言しているわ」

「嘘。そんなの嘘よ。信じない」

「否定したい気持ちはわかるけど、それが真実なの。百年金魚の研究だと言って、ランシは随分と多くの金魚を無駄にしていたそうよ。テンカになった彼は、生前の姿を模倣しているにすぎないわ」

「そんなはずはない!」

「……ねえ、サラサ。あなた、本当は気づいていたんじゃないの? 父親の金魚殺しは、生前からのものだって。あなたのテンカは、故障なんかしてないことを」


 首が千切れそうなほど左右に振る。そうすることで、アイリーンの言葉の全てを否定した。

 気がつけば、ランシの手を取って外に飛び出していた。朽ちた鳥居をくぐるサラサを、トワが追いかけていたような気がする。切なる声を無視したサラサは、ランシの手を引いたまま、灰色の街を無茶苦茶に走り抜けた。両の足がパンパンに腫れるまで、ずぶ濡れになるのも厭わずに走り続ける。自分を痛めつけるように走るサラサに、ランシは何も言わずに付き合ってくれた。

 どこをどう走ったかなんて覚えていない。ふと気がつけば、見覚えのある高層ビルが目の前にあった。ビル一面に映し出されているのは、テンカロイドの公式映像。誰もが倖せいっぱいに笑う映像から、勢い良く目を逸らす。ユキやトワと出逢ったあの夜から、自分達は一歩も前に進めていない現実を突きつけられたようだった。


「…………お父さん。うちに帰ろう」


 適当に拾ったタクシーに乗り込んで、自宅までの道を辿る。全身びしょ濡れのサラサとランシを見た運転手はあからさまに顔を顰めたが、倍の金額を支払うといえば快く自宅まで送り届けてくれた。感覚を失うほど冷え切った身体で、倒れこむように玄関に座り込む。


「サラサ、風邪をひくよ。早く風呂に入っておいで」


 タオルを差し出すランシに、歯の根噛み合わない声で礼を言う。触れた指先は、涙が出るほど温かかった。どんなに雨に降られても、機械の身体は体温を失うことはない。そう自覚すれば自覚するほど、言い様のない切なさが胸に広がった。


「…………お父さん。約束、したじゃない」


 タオルが床に落ちる。タオルを受け取らなかったサラサの手は、皺だらけの職人の手をしっかりと掴んでいた。驚いたように座り込むランシに、渾身の力で抱き着く。生きている。例え機械の身体でも、ランシは確かに生きている。サラサの愛してやまない父親は、この腕の中で確かに存在しているはずなのに。

 サラサと金魚を愛した父の心は、一体どこにあるのだろう?


「……お父さん、私が子供の頃に約束したよね? お父さんが死んで、サラサが一人になっても寂しくないように、百年生きる金魚を作ってくれるって」

「……」

「尾鰭が蝶の羽のように綺麗な、とっておきの金魚をプレゼントするって、約束したじゃない」

「……」

「お父さん……私、今とっても寂しいよ」


 ギリギリで堪えていた感情が、決壊した。ぼろぼろと頬を伝う涙を、止めることができない。

 テンカになれば、全てが良くなると思っていた。生前、多くの金魚を無駄にしていた父は、ただの気の迷いで。テンカにさえなれば、元の優しい父親が帰ってくるはずだと思っていたのに、戻って来たのは変わらず金魚を殺し続ける父だった。だったら、サラサを愛し、金魚を愛した父親は、どこへいってしまったのだろう。サラサが寂しくないようにと、百年生きる金魚を作ると言った父の心は、どこにあるのだろうか。

 子供に戻ったかのように泣きじゃくるサラサを、ランシはずっと抱き締めてくれた。背中を撫でるあかぎれだらけの大きな手は、間違いなく父のもの。この体温も呼吸も鼓動も、間違いなく父のものであるはずなのに。

 サラサが一番欲しい言葉をくれないこの人は、本当に父の心を持つロボットなのだろうか?





 いつの間にか、ランシの腕の中で眠っていたらしい。鬼のようにかかってくる電話で目が覚めた時には、既に太陽が中天に昇っていた。冷たい床から身体を起こしたサラサは、鳴り響く電話を無視して家中を駆け回る。だが、家の中のどこを探しても、ランシの姿は見つからなかった。


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