chapter4
豪雨の中を、赤い車が走る。
まるで、水の中を泳ぐ金魚のようだと、フロントガラスに叩きつけられる雨粒を眺めながら、サラサはぼんやりと思った。
「アイツも詰めが甘いのよねえ」
右手にハンドル、左手に煙草を持った美女が、ウインクをしながら「ね」と同意を求めてくる。今時、自動車は全てオートメーション化されているというのに、この美女は何故か手動にこだわっているらしい。だったら前を見て運転してくれと懇願したかったが、美女の迫力に飲まれたサラサは、曖昧に微笑むだけにとどめた。
ピッキング美女、もとい、アイリーンと名乗った女は、紫煙を吐きながらぶつくさとクダを巻く。
「店に来いって言ったのはいいけど、たった一度だけ行った店の場所なんて覚えているわけないわよねえ。肝心なとこで抜けているんだから」
「ははは……」
「なぁに、その微妙な反応。もしかして、アイツに会ったことは夢か幻だと思っていた?」
ぎくり、と肩が強ばる。よそ見運転をしていたアイリーンは、サラサの反応を見逃さなかった。
「あははっ、図星~」
「いや、その……」
「安心しな。夢じゃない。幻でもない。ユキは性格あんなんだけど、腕だけは一流だから。アンタ達親子を悪いようにはしないよ」
真っ赤な唇から、ふんわりと甘い紫煙が吐き出される。この甘い香りは、チョコレート。煙草は苦手だがチョコレートは好物のサラサは、肺いっぱいに副流煙を吸い込む。そうすることで、少しだけ気分が落ち着いてきた。チョコレートの香りが漂う車内で、ゆっくりと首を巡らす。後部座席には、金魚鉢を抱えたランシがちんまりと座っている。金魚を眺める眼差しは、心が溶けるほどに優しい。その姿を見るだけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような痛みを覚えた。
「あの……あなたはあの店の従業員なの?」
「まさか。アタシはしがない情報屋。そして今は、アンタ達親子の運転手兼案内役。あの変人店長とは腐れ縁なだけよ」
テンカロイド専門修理屋というのも随分と変わった職業だけど、情報屋というのもかなり胡散臭い。思わず明後日の方向を向いたサラサを、アイリーンは小さく笑った。
「無駄話はここでおしまい。ほら、着いたわよ」
アイリーンのよそ見運転にびくびくしていたサラサは、どこをどうやって走ってきたのか覚えていない。随分とジグザクに運転していたようだから、もしかしたらアイリーンはサラサが道を覚えないよう、意図的に複雑な運転をしていたかもしれない。気がつけば、古めかしい鳥居の前に、車が横付けされていた。
「それじゃあ、アタシは駐車してから行くからさ、アンタ達は先に行ってて。雨、凄いから気をつけてね」
真っ赤な傘を差して、車から降りる。今時車はホログラムによってどんな外装にも変えられる。だから、アイリーンの車の本当の形なんてサラサにはわからないけれど、銀の糸の中を走り去っていく真っ赤な車は、やはり水槽の中を泳ぐ金魚のようだと思った。
大事そうに金魚鉢を抱えるランシに傘を傾けながら、割れた石畳の上を歩く。半壊した石灯篭に沿って歩けば、朽ちた祠が姿を現した。雨に濡れた姿まできっちりと反映された、精巧なホログラム。人一人通るのがやっとなそれを見下ろして、サラサはやっと夢でも幻でもない実感を得た。
「お父さん、行こう」
祠の扉を開ける。苦労して通った先には、見覚えのある暖簾が見えた。暖簾をくぐれば、あーちゃんとうーちゃんのお出迎え。迫力満点な阿吽のかけ声は、何度聞いても足が竦む。立ち尽くすサラサを見つけたのは、奥の部屋からぴょっこりと顔を出した、天使のように愛らしい少女。
「あ、サラサだあ! おはよう。早かったのね」
「お、おはよう……?」
「あれ、リンは? 一緒じゃなかったの?」
「リンさんって、アイリーンさんのこと? 一緒だったけど、車を停めに行ってるわ。もう来ると思うけど……」
ふーん、と頷く少女は、朝食の支度をしているらしい。焼き魚と味噌汁の香りに釣られ、無意識に腹の虫が鳴った。顔を赤らめるサラサを見て、トワがくすりと笑う。
「サラサの分も準備しているから待っててね」
「あ、ありがとう。そう言えば朝ご飯を食べていなかったわ」
「えー、朝ご飯抜きで連れて来られたの? もう、リンってば横暴なんだから」
「あ、ははは……」
猫脚のテーブルに並べられた朝食は、今時珍しい純和風の朝食だった。ほかほかの炊きたてご飯。焼き鮭に、紅白なます。豆腐と油揚げとわかめの味噌汁。
「わー、美味しそう! やっぱり朝食を抜いてきて正解だったわ」
嬉々として暖簾をくぐったのは、駐車から戻って来たアイリーン。阿吽な仁王像の頭を上機嫌で撫でたアイリーンは、軽い足取りでテーブルにつく。
「いっただきまーす!」
「わわわ、待って、リン! まだユキが起きてない!」
「あんな寝坊助放っておきなさいよ。トワの手料理を前に、寝こける方が信じられないわ」
上手に箸を操ってほかほか白米を頬張るアイリーンを見ると、無意識に喉がごくりと鳴った。おそるおそるテーブルにつき、箸を握る。ナイフとフォークを使って食べる食事が主流な昨今、サラサは他の若い子と同じように箸使いが苦手。四苦八苦しながら口に入れた焼き鮭は、塩加減が程好く、とても美味しかった。
「おいしい……」
「でしょー? アタシはもうトワの手料理以外受け付けないわ。味噌汁お代わりー!」
「だめー! ユキの分がなくなっちゃう!」
「働かざる者食うべからずって言うでしょう。朝一で金魚親子を迎えに行ったアタシと違い、ヤツはまだ寝こけているのよ。働き者のアイリーン様を、トワは労うこともできないの?」
半分脅しのような言葉を向けられたトワは、お玉を持ったままうっと固まる。にっこりと歪曲した琥珀色の双眸に凄まれて、とうとうトワは観念した。お椀いっぱいの味噌汁を静々と差し出すトワを一瞥して、アイリーンは満足気に笑う。
「けっこう、けっこう。ほら、アンタも座って食べなさいよ」
いそいそと給仕に勤しんでいたトワを無理矢理座らせると、逆にあれこれと世話を焼き始めたアイリーン。我儘で自由気まま。大胆不敵で破天荒。まるで、裏路地に巣食う野良猫のようだ。
野良猫の瞳が、きょろりと動く。視線の先には、ししおどしを興味深げに眺めるランシの姿。
「ねえ、お父さんも座りなさいよ」
「あの、父は物を食べないから……」
「テンカが飲食を必要としないことくらい知ってるわよ。でも、例え物を食べないとしても、家族と同じ食卓につくことくらいできるでしょう?」
にっこりと微笑まれ、サラサは途端に居心地が悪くなった。そう言えば、父と同じ食卓を囲まなくなったのは、いつからだろう? 父がテンカになった時から? 病状が急変した時? それとも、持病が悪化して入院した時だろうか?
(……思い出せない)
この罪悪感を見透かされているようで、思わずアイリーンから目を逸らしてしまった。不自然なサラサの行動に、アイリーンは得に口を挟まない。自分の隣の椅子を引き、そこにランシを座らせる。きょときょとと目を見張るランシに、トワの手料理が如何に美味であるか、長々と説明していた。
「ところで、これは何だろうか?」
それでも、やはりランシの興味はししおどしに注がれているらしい。食後、トワの髪をいじるアイリーンが、ししおどしの前に屈むランシを眺めて苦笑する。
「ししおどしって言うのよ。ここの店長の趣味。意味わかんないでしょう」
「いやいや、素敵なものだよ。まるで、自然の中にある金魚鉢みたいだ」
「へえ、風流な例えをするのね。じゃあさ、その自然金魚鉢に持参の金魚を放ってみたらどう?」
「良いのかい?」
「良いわけないだろ。リン、ここは俺の家だ」
不機嫌な声に顔を上げれば、螺旋階段を男が気怠げに降りていた。朝が弱いのか、三白眼にいつもの八割増の殺意が籠っている。常人ならば決して近寄りもしない男へ、幼い少女の明るい声がかけられた。
「ユキ! おはよう! あのね、リンに髪を結ってもらったの。似合う?」
喜色満面のトワが、左右に結った三つ編みをぶんぶんと振り回す。はしゃぐトワをぐらぐらと揺らぐ三白眼で見下ろしたユキは、やる気のない声のまま続けた。
「ハイハイ。似合う、似合う」
適当な物言いに、トワの顔がみるみる赤くなる。ぷるぷると震えながらそっぽを向いたトワに、女心のわからない男が暢気に声をかけた。
「トワ、飯」
「……っ、知らない! 自分ですれば!?」
真っ赤な顔のままリンに抱き着くトワが何故怒っているのか、ユキは本気でわからないらしい。目線でアイリーンに訴えるも、女は真っ赤な唇を歪めて笑うだけ。今度こそ本気で不機嫌になったユキは、無言のまま自分で給仕を始めた。自分用の味噌汁や焼き鮭が消えている現象に、眉間の皺が増えていく。殺傷力満点の三白眼でアイリーンを睨みつけるも、当の本人はにやにやとおかしそうに笑うだけだ。
「トワを怒らせたアンタが悪いのよ」
「意味がわからん。どうしてお前がここで朝飯を食っているんだ」
「金魚娘と金魚パパを連れて来いって言ったのはアンタでしょ? ギブアンドテイクとして朝食をご馳走になっただけよ」
「何がギブアンドテイクだ。どうせ、後でたんまりと報酬を請求するつもりなんだろう」
「それはアンタの行い次第よ。アタシを満足させるほどの仕事ならば、報酬なんて要求しないわ」
白米がこんもりと盛られたお椀を手に、ユキがサラサへと近づく。本人にそのつもりがなくても、まるで睨まれているような険しい目つきに、無意識に肩が跳ね上がる。サラサとランシを見比べたユキの口元が、ふ、と微かに綻んだ気がした。
「それが金魚か」
非常にわかりにくい表情の変化だが、もしかして初めての金魚を前に、喜んでいるのだろうか。まじまじと見つめるサラサの不躾な視線にも気づかないほど、ユキは金魚に見入っている。ヘソを曲げていたトワまでも、ランシの抱える金魚鉢にとことこと近づいていた。
「わあ、真っ赤なお魚さんだあ。すごくきれい……」
金魚鉢の中を悠々と泳ぐ金魚を、ビー玉の瞳が追いかける。どうして身体が赤いのか、赤いのにどうして金魚という名前なのか、などなど、夢中になってランシに尋ねるトワを見ると、サラサの心はほこほこと温かくなった。
思い知る。やはり金魚は、権力の象徴として使われるものではない。トワのように、金魚を好きな者が純粋に鑑賞するものとして存在すべきだ。
「ねえ、ユキ。金魚さん、池に放っても良い?」
「駄目に決まってんだろ」
「……けち」
「……。ランシが良いと言ったら放っても良い」
不機嫌そうにボサボサの髪を掻くユキを見て、思わずくすりと笑ってしまった。どうやらこの少女には頭が上がらないらしい。胃袋を掴まれた弱みだろうか。
微笑むサラサを咎めるように、険しい三白眼が向けられる。慌てて表情を引き締めたサラサへ、一枚の紙切れが差し出された。
「契約書だ。サインしろ」
横暴に命令されてハイそうですかとサインするほど、サラサは莫迦ではない。まずはじっくりと契約書に目を通した。全部で五カ条の契約書。短い文章だからこそ単純明快な内容かと思いきや、ことごとく首を傾げる羽目になった。
「ねえ、この“報酬の半分は前金として先に支払う”って何?」
修理代は完成した蝶金魚だったはず。まだ完成していないものを前金に支払うなんて、無理な話だ。
「前金ならこれで良い」
ユキが指出す先には、ししおどしがあった。正確にはししおどしの中を悠々と泳ぐ金魚。
「随分と豪勢な前金ね」
多少の厭味を混ぜて返した言葉だったが、ユキは表情一つ変えなかった。どうせ、前金で受け取った金魚達を、売り捌くつもりなのだろう。持って来た金魚の数は少ないが、蝶尾に羽衣、金蘭子など、滅多にお目にかかれない種類を多彩に揃えている。市場で売り捌けば、それこそ一生遊んで暮らせる金が手に入るだろう。
「……好きにすると良いわ」
サラサの中で、何かが急速に冷めていく音がした。やはりこれは、夢でも幻でもない。困っているサラサを助けてくれる正義のヒーローなんて存在しないのだ。
(いや、むしろ彼の腹の中がわかって、すっきりしたわ)
ユキの目的が実体のない親切ではなく、形のある金品だとわかって良かった。ユキだって、金魚を己の権力の象徴としてしか見ていないクライアントと一緒。だからこそ、変に期待を持たず、契約を結ぶことができる。利潤だけを目的に、仕事をすることができる。
(修理に必要な代金は、その都度依頼者が支払うこと。テンカロイド修理中は、一切の口出しを行わないこと。……ふぅん)
修理代はさておき、一切の口出しを禁じるとは怪しい。だが、ランシは人ではない。生身の人間に危害を加えられることなど有り得ないだろう。
そして、サラサの目を最も引いたのは、四つ目の項目だった。
「ねえ、この“当店、及び従業員の存在は一切口外しないこと”って?」
「そのままの意味だ。そして、それが最も重要な契約内容になる」
この上なく怪しい。まさかとは思うが、ここの従業員は皆、お尋ね者が何かだろうか。
思わず目つきの険しくなるサラサだったが、金魚を前にはしゃぐトワを見ると、その疑惑も霧散した。こんなに幼い少女がお尋ね者だって? それに、いくら人相が悪くても、ユキはトワの親代わりのようだし。根は悪い人ではない、と思いたい。
「契約を破ったらどうなるの?」
「最後の一文に書いてあるだろう。即刻なる報酬の全額支払いと、当店との関わりを一切断ち切ること、だ」
「蝶金魚はまだ開発されていないの。全額支払いなんて無理よ」
「どうして契約違反を前提で考えるんだ。アンタが契約を守れば良いだけの話だろう」
「それもそうだけど……」
言葉を濁す。ユキの言うことは最もだが、やはりこんな契約内容は不安すぎる。不安げに彷徨う双眸には、トワと戯れる父の姿が映った。かなり危ない橋だ。そして、かなり胡散臭い商売相手だ。だけど、この男に頼らなければ、金魚師としての父は戻ってこない。
ペンを握る手に力を込める。迷いを断ち切るように、一息にサインをした。サラサのフルネームが書かれた契約書を一瞥して、ユキは表情一つ変えずに言った。
「契約成立だ。テンカはしばらく店で預からせてもらうぞ」
「わかった。でも、私からも一つ条件を出させて」
「あ?」
「父の修理は一週間以内に……ううん、六日以内に終わらせて。これを守れなかったらあなたはクビよ。残り半分の報酬も支払わないわ」
一週間以内に父を直し、蝶金魚の研究内容を明らかにせねば、サラサはスポンサーから手を切られる。スポンサーからのサポートがなければ、飼育にも膨大な金と手間のかかる金魚の開発は不可能になる。サラサの金魚師としての生命は絶たれる。ランシとサラサが心血を注いで研究した蝶金魚は、文字通り水泡へと帰す。ユキに報酬として蝶金魚を支払うことは、夢のまた夢になる。
「了承した。では、六日後にテンカを引き取りに来ると良い」
サラサの事情など知らないだろうに、ユキは案外あっさりと了承してくれた。それを意外に思いつつも、サラサは椅子から立ち上がる。ユキの用事は、契約書のサインと、テンカの引き取りだろう。だったら、これで用事は終わった。そして、サラサもここに長居できるほど暇ではない。
「サラサ、気をつけていってらっしゃい」
鞄を持って立ち上がったサラサに、ランシの声がかかる。膨大な記憶の保持は可能なテンカだが、新たな状況への対処能力はない。だからこそ、鞄を持って立ち上がったサラサを、仕事へ行くと勘違いしているのだろうか。苦笑を零しながら、「行って来ます」と言葉を返す。優しい笑みで見送る父を見ると、目頭が無性に痛くなった。人であった時も、テンカになってからも、父は変わらずサラサに優しい。金魚に傾ける情熱だって変わらない。無機質な機械の身体になっても、たった一人の娘と金魚を愛する心は忘れていない。
それなのに、どうして父は、愛する金魚を自らの手で殺してしまうのだろう?
(……大丈夫。きっと、大丈夫よ)
どんなに胡散臭い修理屋でも、利益のためならば父を直すと言ってくれているのだ。これだけ高価な金魚を前金に貰うくらいだもの。修理屋としての腕も確かなはず。
「大丈夫。大丈夫なの」
自分に言い聞かせるように唱えていた言葉が、無意識に口から零れていた。咄嗟に後ろを振り返れば、胡散臭いと酷評した店長がじっとサラサを見つめている。漆黒の双眸は、どこまでも揺るぎなく、強い。ほんの少しだけ安心感を得たサラサは、潔く踵を返す。サラサとユキは、親切という不確かなものではなく、報酬という形のある絆で結ばれた関係。ユキが蝶金魚に興味を示す限り、必ずランシを直してくれるだろう。だけど、今の自分はこの世に存在しない幻の金魚に縋って生きるしかないのだと思うと、どこまでも虚しい気持ちになった。
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