インギー先生

月狂 四郎

第1話

 あれから十三年も経つのか。光陰矢の如しとはよく言ったものだ。滔々と流れる時間は、この胸に峻烈なノスタルジーを叩きつけてくる事がある。俺にもガキだった頃があった。そう、疑いのないクソガキだった時代が。


 高校時代の俺は目標も持たず、勉学に励むでもなけりゃ部活にも入っていない。短い青春の日々を、ろくでもない仲間とろくでもない遊びで浪費するような毎日を送っていた。


 俺は中途半端に物覚えが良かったせいか、世間では不良にカテゴライズされる人種のくせに、学年の成績は十番以内に入るような変態だった。まあ、教科書に書いてある事を高性能なオウムみたいに答案用紙へとはき出すだけだ。そんなもん楽勝だろ?


 ある日、毎度のようにコンビニの前でたむろっていると、高校の教師に声を掛けられた。教員にとって変な意味で有名人となっていた俺は、知らない教師からも顔が割れていたわけだ。だからきっと俺の名前を知っていて声を掛けたのだろう。


 俺に声を掛けたのはインギー先生だった。本名は一木とかいう名前だったと思うが、本当のところよく憶えていない。体はデカかったからアメフトか何かでもやっていたのかもしれない。まあそんな事はどうでもいい。


 また「人生を大事にしろ」とかそんな説教を垂れられるのか。俺はインギー先生の話を聞く前からウンザリしていた。まあ、進学率という実績が欲しいのは分かるし、学内の成績が上位である俺がどうしようもない不良とつるんでいるよりは、輝かしい未来に向かって一生懸命努力している方が世間にとって口当たりがいいっていうのは理解出来る。


 だから「こんなところでブラブラしてないで受験勉強でもしてろ」って言われるんだろう。そう思っていた。


 だが、インギー先生は俺の事を知らなかった。彼は制服に付いてる校章を見て、俺が先生と同じ高校に通っている事に気付いただけだった。


 インギー先生は想像以上に変わった人で、俺が勤務先の生徒であると気付くやいなや、スーツの胸ポケットから怪しいチケットを取り出した。なんでも今度の学園祭でライブをやるそうで、このままだと客が来ないから、身内の生徒を見つけては当日に来場してくれるよう頼んでいるんだそうだ。俺は不幸にも罰ゲームみたいなイベントに遭遇したらしい。


 いつもだったらブチ切れてチケットを破り捨てるところだが、なんとなしにこの時はそういう気分にならなかった。俺の中に住んでいる獣が怒らなかったのだ、奇跡的に。


 おそらく似たような状況の不良が何人もいたのだろう。当時にインギー先生がボコられたという噂は聞いていないから、あの人の良さそうな物腰にみんな怒るタイミングを逃しちまったに違いない。


 かなり強引にチケットをつかまされたが、どういうわけか満更でもない気分になっていたのは不思議だ。チケットは三枚貰っていたので、いつもつるんでいる仲間二人を道連れにした。二人はかなり面倒臭そうだったが、渋々俺に同意した。


 この頃はとにかく死にそうなほどヒマだった。無為徒食に生きる人間にとって、時に人生というものはおそろしく退屈で、延々と続く地獄に見える事がある。そういう時に薬物へ手を出さなかったのは幸運だったが、代わりに俺は自分がどう生きるべきなのかが分からないまま、ゆるくて退屈な生き地獄を味わっていた。


 いい会社に就職する気もなかったし、手に職も無い。家庭を持って幸せに暮らす願望も無かったし、世間一般の人間がなんで日々やりたくもない仕事に精を出せるのか理解が出来なかった。


 俺はただ漫然とモラトリアムを消化していて、来たるべき世間の荒波に怯えるだけの役立たずでしかないのか。そう思うと、自ら幕を引いてしまうのも一つの手なのかもしれない。そんな事を思っていた。


 俺は渇いていた。


 この胸に巣くう空虚さを埋められる何かを、俺は明らかに渇望していた。問題はそれが何なのか、俺自身にも分からなかった。それこそ野球みたいなメジャースポーツでこの渇きを満たせたらどれだけ楽だったか。甘ったるい嬌声を出しながら近付いて来るケバい女でこの苦しみをごまかせたらどれだけ楽だったか。


 だから渇いていた。とにかく渇いていた。俺はいつも不機嫌だった。


 そんなある日、俺を指差して「アイツはいつも生理痛なんだ」とからかった野郎がいた。今思えば欧米風のジョークだったのかもしれないが、当時の俺はとにかく沸点が低かった。


 そいつの所までスタスタと歩いて行くと、容赦なく顔面にフルスイングの拳をめり込ませた。それからはいつもの如く大乱闘だ。気付けば関係ない奴まで殴り合いに加わっていやがる。俺とボコられた野郎は、仲良く生活指導の先生のところまで呼び出されたわけだ。


 その時生活指導を担当していたのが、たまたまあのインギー先生だった。インギー先生も俺の事を憶えていて、ちょっとだけ説教をするとわりと早く解放してくれた。


 これは俺の直感だが、インギー先生も昔は結構な不良だったんじゃないかと思っている。彼はなんとなしに俺の渇きに気付いていたフシがあったし、ティーンズ特有の抑えられない凶暴性に対する理解も深かった。


 インギー先生が不良だったかは結局分からなかったが、昔にプロのバンドマンとしてデビューした話をしてくれた。デビュー当時から天才と呼ばれていた先生――もちろん自己申告だ――は、当時音楽シーンで隆盛を誇っていたX JAPANやLUNA SEAの後継者と目されていたそうだ。……しつこいが自己申告だぞ。


 幼少期にギターを弾き始めて、三日でライトハンド奏法をマスターしていたというインギー先生のギターテクはまさに天才的で、誰も彼の演奏についていけなかった。


 なんでもかんでも完璧にしないと気が済まなかった先生は、当時組んでいたバンドにさっさと見切りをつけると、そのまま孤高のギタリストとしてプロデビューする事になる。


 インギー先生は明らかに天才だった。だから、誰もが彼の鮮烈なデビューを確信していたわけだ。


 しかし、世間というのはよく分からないもので、某グループに所属するオンチで有名な歌手が新譜をリリースすると、音楽への審美眼をとっくの昔に失った日本人達は、そちらの傀儡へと群がった。


 インギー先生は関係者の期待値に反して、信じられないレベルのコケ方をしちまったというわけだ。それ以来、彼のキャリアは閉ざされた。


 その後、インギー先生はこの高校の教師となったわけだ。単純にミュージシャンでは食えなくなってしまったからだ。夢を捨てなければいけないと知った時、先生はどれだけの屈辱を味わったのだろうか。俺ですら憐憫の情を禁じえなかった。


 話は長くなったが、インギー先生は「失敗してもいいから一生懸命自分のやりたい事をやれ」と言った。「たとえつまらなくても、大事な仕事は夢破れたその先にある」とも。


 結局喧嘩についてはお咎めなしだったので、これはこれでどうなんだとも思うのだが、インギー先生はやはり俺らの胸に巣くう渇きの存在に気付いたのだろう。


 そんな事もあり、仲間を誘っておきながら当日はすっぽかそうと思っていたインギー先生のライブに足を運ぶ事になった。義理とか恩返しとか、そういう事じゃなく、単純にインギー先生という人間に興味を持ったからだ。


 まあ、正直に言うと大して期待していなかった。誰だって自分の黄金時代は美しく語りたがるものだ。せいぜい底辺のビジュアル系バンド程度の実力しか無かったんだろう。蒸し暑い体育館の中で、俺は冷やかしが主成分となった目でインギー先生の登場を待っていた。


 舞台は謎のオールスタンディング。不良どもが最前線を陣取っている中、どこからか鋭いギターの咆哮が聞こえる。仰ぎ見ると、二階への階段を昇りきったところにギターを持ったインギー先生が立っていた。想像していた以上にクサい演出で、不良達は変な盛り上がり方をする。


 ギターソロを弾きながら階段を降りるインギー先生はまさにロックスターだった。観もしないでバカにしていた自分を殴りたくなるぐらい、インギー先生のギターテクは素人目にもヤバかった。指の動きが速過ぎて、何をやっているのかさっぱり分からない。


 この時演奏したのがイングヴェイ・マルムスティーンの「Far Beyond The Sun」だった。いくらロックが市民権を得ていたとはいえ、メタルは世間からすればサブカルそのものだ。学園祭でメタルを演奏する先生は強心臓以外の何物でもないのだが、そんな事はどうでもいい。


 ネオクラシカルと呼ばれるその旋律は、俺にとって衝撃以外の何ものでもなかった。


 学校の不良連中は予想外のバカテクに驚き、その荒々しいメロディーに呼応するように拳を振り上げる。体育館はあっという間にライブハウスに変わった。


 インギー先生も生徒のコールに応えるように、バカみたいに速い指捌きの合間にイングヴェイ本家よろしくギター回しを入れ込んでくる。その度に会場からは歓声が上がり、観客とギタリストは音楽でしか味わえないエクスタシーに達する。


 ――気付けば俺も、拳を振り上げる群集の一人になっていた。


 俺の感じていた渇き――それは、きっとこれだったのだ。


 これが俺のやりたかった事だったのだ。俺はジミヘンみたいな外タレのギタリストに憧れたのでもなく、かと言ってhideやSUGIZOの後継者になろうとしたのでもない。俺の人生を変えたのは、普段はパッとしない元天才ギタリストの高校教師だったのだ。


 インギー先生がピックを投げると、誰もが全力でそれを取りに行った。それぐらい彼は一瞬で観客を魅了してしまうカリスマ性があったのだ。ライブは大熱狂の内に終了した。



 ――さて、あれから随分と時は経ち、俺は自分の選んだ道が間違いだったと苦笑するしかない日々を送っている。


 あの日、音楽の魔力に引き寄せられてしまった俺は、その後の人生なんぞ省みずにバンド活動に邁進した。そこそこいいところまで行ったし、アルバムも三枚発表出来た。だけど、世間の世知辛さというか、俺らのバンドキャリアもアイドルブームに押しつぶされてしまい、レコード会社から見事に契約を切られた。


 音楽そのものを辞めるメンバーも何人か出て、結局バンドは解散。一番人気だった俺も、今や小さなライブハウスで細々とやり続けるだけで、明日がどうなるかも分からない。


 そんな中、俺はまたインギー先生が母校でライブをやるという情報を掴んだ。高校の友人から先生のSNS情報が流れてきたのだ。プロフィールの写真は白髪混じりだったけど、それは間違いなく俺の知っているインギー先生だった。


 ふと、自分の人生を振り返ってみる。たかだか高校教師のライブで感動して、勢いでプロミュージシャンを目指し、大学にも行かずに毎日音楽に明け暮れる。幸運にもプロ活動が出来るも、人気稼業の荒波に打ち勝てずバンドは解散。一緒になった女はバンドの解散とともに去って行った。印税で稼いだ貯金は底を突き、新鋭バンドの前座に使われては打ち上げで気を遣われる。ネットではロートルと嘲笑され、業界の人間には陰口を叩かれる。


 ボロボロだ。気付いたら、本当にボロボロになっていた。


 卒業した日からインギー先生には会っていなかったが、多分先生はあれから少しも変わっていないのだろう。プロフィール写真に映る目の輝きが衰えていないのだ。十三年前から、少しも。


 まさに十三年前の出来事を繰り返すように、俺や当時の同級生は同じ体育館の最前線でインギー先生の登場を今か今かと待っている。その沈黙を彼の音色が切り裂いた時、きっと俺は涙を流すのだろう。女々しいけれど、別にいいのだ、今日だけは。


 彼は俺の中でずっと生きていて、幸いにも今日という日にまでこの世界にいてくれた。俺はボロボロになったかもしれないけど、そんな事はどうでもいい。


 俺はただ一言、インギー先生に伝えたいだけなのだ。「ありがとう」と。


 俺も年を取った。体は動かなくなるし、両親は「いつ結婚するんだ」とうるさいし、昔つるんだ悪友の子供が小学校に入学しているのを知り、時の流れの峻烈さに驚愕したりする。


 人生とはまるで玉手箱だ。不意打ちでこの胸を打ち抜く弾丸のように、時の流れは無慈悲にも俺達を寂寞感の中へと放り出す。


 きっとインギー先生はあの時を、あの瞬間をここに取り戻してくれるだろう。止まった時計が動き出すのではなく、束の間だけその針が巻き戻されるのだ。だからきっと俺は泣くだろう。美しすぎる、その瞬間に。


 でもいいんだ。女々しくても、情けなくても、俺は先生のためになら、いや、そういうのはもうやめよう。あの時が再臨してくれるなら、俺はいくらでも涙を流してやろう。


 蒸し暑い体育館にかん高いギターの咆哮が鳴り響く。


 熱狂に包まれる体育館の二階には、あの日から少しも変わらない白髪頭の男が、両手を広げて立っていた。


【了】

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インギー先生 月狂 四郎 @lunaticshiro

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