file3-X 悩める母虎
「この馬鹿娘が」
今までに怒鳴られたことは何度もあった。叱られたというだけなら数えきれない程で、長じてからは口論になっても最後まで引いたことはない。
だが、静かに絞り出すように言い放たれたこの言葉ほど、彼女を打ちのめしたことはなかったように
自分が間違ったことをしたとは思っていない。しかし、今までに一度として感じたことのない重圧を身に受けたような。
「もうすぐセンセイが来るそうよ」
「首尾は」
「上手くいったみたい。ティコちゃんとレオルくんが乗ってる」
顔を上げる。
「ティコは、どこにいたの?」
「獅子の結社。センセイがレオルくんを連れて乗り込んだみたい。本当はティコちゃんの情報を手に入れられればいい、くらいに思ってたそうよ」
「ということは、追われておるな」
「後ろに五台くらいついてきてるって。センセイは運転してて手が離せないから、代わりにティコちゃんが出てたけど」
「そう……」
ミトラの話は続く。
「黒幕は、センセイが言うにはユングベイルって男だって。フィエール王太子とも話をしたみたいで、レオーテ王国も事情はだいぶ把握している筈だって――」
「嘘よ!」
「お前は黙っとれ」
本気の怒気がこもった寅彦の言葉に一瞬怯むが、黙る訳にはいかなかった。
ティコとレオルを連れて国を離れたのは、彼らを護る為だったのだから。その相手が王太子だと知ったから国には頼れず、ティコが捕まってしまったから父にも頼れず。
「フィエールが黒幕よ! だから私は何とかこっちに、ユングベイルさんは飛行機を用立ててくれたのよ!?」
「状況を把握しておらんお前は黙っておれ」
「いいえ、黙らないわ! フィエールは
「フィエールは満月の晩に赫真と会ったことがある」
「え?」
脳天に冷や水を浴びせかけられたように、一瞬で頭が冷めた。血の気が引いたと言ってもいい。
満月の夜に赫真と会ったということは、レオルが先祖返りになった時には既に人獣の実在を理解していたことになる。
「いつ!? どうして?」
「あいつを引き取ったのは、あれが十の時じゃ。例の院から引き取り、養父を引き受けたのは
「太賀三席でしょ? 最近は代替わりして赫真の義兄さんが会社を継いでいる筈よね。確か」
「太賀貿易。レオーテ王国と商売を行っている数少ない貿易会社だ。太賀のやつは年に何度か子供たちを連れてレオーテにも行っているし、当時の奴は虎群会議の二席だったからな。王族とも顔見知りなのだよ」
「そんな、そんなこと、知らない!」
「お前もまだ子供だった頃のことだ、知らなくても当然だな」
寅彦の言葉は突き放すような響きを持っていた。
頭が混乱して思考がまとまらない。頬に手を当てる。指先がひどく冷たい。
こちらを見る寅彦もミトラも目つきは鋭く、身内を見る視線ではない。
「じゃあ、なんでアレクシオスは」
「あいつはいい男だが馬鹿で口が軽くて軽率じゃからな。人の言葉を聞いた通りに受け止めてしまう。フィエールは人獣もそれ以外も等しく人として扱うべきだ、と思っているが、その表現が誤解されたのではないか?」
散々な評価だ。
夫の友人として、明るいアレクシオスは好ましい人物だと思っていた。そして、彼の語る王宮の噂話は、真琥にとっては近くて遠いロマンチックな物語でもあったのだ。
「お前の夫はフィエールと会ったことがないのか?」
「旦那は王族と言っても末席に近いから、フィエール王太子と親しく話す機会なんてないわ」
「そりゃアレクシオスも変わらんじゃろ。いや、あいつは馬鹿だがそのぶん交友関係だけは広かったな」
ここにきて、少しばかり寅彦の言葉が柔らかくなる。
そして、真琥にも何となくだが状況が理解できた。そうなると、もうひとつの懸念が首をもたげてくる。
「待って。じゃあティコが
「何じゃと?」
ここで初めて、寅彦が表情を変えた。
普段しているような――特に赫真をからかう時のような――崩した笑みを浮かべ、真琥に向かってぷらぷらと左手を振ってみせる。
「何を言っとるんじゃ馬鹿娘。人獣の因子が混ざり合って表に出るわけがなかろ。そんなことがありえたら世の中ウェアキメラばかりじゃ」
「そうね、そうよね。旦那は普通に人獅子だって言ってたもの。ひどく深刻な顔でアレクシオスが言ってくるから」
「ふん、どうやらそれも仕込みのようじゃな。大方、ライガーではレオーテ王国でも虎群会議でも守ってもらえんとでも言われたか」
「うっ」
鬼の首を取ったような笑みをうかべる寅彦。自分の失態が大きかったことを段々自覚しはじめた真琥だが、こんな顔をされるのは屈辱だ。
「だから言っておいたじゃろ? お前は
「だ、だからって娘を心配することのどこが悪いってのよ!」
「それなら、こちらにティコの髪の一本でも袋に入れて送ってくればいいんじゃ。儂が筆頭をしておる間なら、万が一のことがあってもいくらでも揉み消してみせるわ。馬鹿娘じゃなくて可愛い孫のため、じゃからのう?」
「そういうふざけた姿勢だから、私やミトラからも嫌われるんじゃないのこの馬鹿親父!」
「なっ⁉」
愕然とした顔で寅彦がミトラを見る。当のミトラは二人の問題に巻き込むなとこちらを睨んでいたが、この際だから利用出来るものは全部利用して自分のペースにしなければ。
「み、ミトラ⁉ お、お前も真琥のように儂を嫌うのか⁉」
「一緒にしないでください、姉さん。私は別に父さんを姉さんほど嫌っているわけじゃありませんから」
「ほどっ⁉ ほどってなんじゃ、ほどってなんじゃあっ⁉」
見るからに錯乱する寅彦に、何だか不愉快になる。真琥が嫌いのなんのと言っても、ここまで過度な反応を見せたことがないのに。
「センセイとの結婚を許してくれたらフラットくらいにはなるかなあ」
「ぐぬっ⁉ ゆ、許しておるじゃないか」
「余計な条件をつけなければ今頃私は相賀美虎なんですけどねえ」
「そ、そこは譲れん! お前も分かっておるじゃろう⁉」
「まあ、そこはいいです。あとは浮気の件ですか。そろそろまた母さんに伝えたほうがいいかしら」
「ふぬぅ⁉ な、なんの事かのう」
「
「ふぎっ⁉ し、知らんなぁ」
「ああ、センセイに言われて慌てて清算したんでしたっけ? そしたらええと、
「なぁっ⁉ その娘とは先週初めて……はっ」
寅彦が口走りかけた一言に、二人の視線が突き刺さる。
特にミトラの視線は、先ほど真琥に向けてきた視線よりも数倍冷たい。
「な、なんの、ことかのぅ」
「もう遅いですよ。では、この件は母さんにお伝えしますね」
「ま、待ってくれミトラ! え、
今度は真っ青になって狼狽する寅彦。
いつの間にか傍観者になっている自分に気づき、真琥はふと笑みを漏らした。
どうやら故郷であるはずのここは、十年の間に自分の居場所ではなくなっていたようだ。ミトラが羨ましくもあり、何だか寂しくもあり、同時に納得もする。
自分はもう、この場では眞岸寅彦の娘の真琥ではなく、虎群会議の一員である真琥・エンディーネでしかないのだと。
「ルーディオに会いたいな」
ぽそりと呟く。自分の居場所はきっと、もうそこにしかないのだ。
涙目の寅彦と、ならば結婚を今すぐ許せと迫るミトラを眺めながら、真琥はふと、もうひとつの疑問に行き当たった。
「そう言えば、あいつは何で」
夫の友人であり、レオルの父親。傍流の王族で、継承権のない人獅子。
果たして彼は味方なのか、敵なのか。
馬鹿だと言われる彼が、この状況で一体何を考えているのかだけは、どうしても真琥には予想することができなかったのである。
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