file2-4 相賀赫真は恋愛相談は専門外であるのこと。
『わたしは人であって人ではなく、狼であって狼でもなく。どちらにもなりきれず、どちらの仲間にも入れない。わたしは何もかもを忘れて、彼らとともに草原を、森を、駆け抜けたかった』
――シェリオ・ルゥの手記より
***
焼肉屋「かなや」。
「ありがとよ、ヒロ。これで裏が取れた」
「また厄介な筋に首を突っ込むことになったな?」
「今回はどちらかというと自分が蒔いちまった種だからなあ。できる限りの手は尽くすさ」
「そうか」
焼けた肉を遠慮なく頬張りながら、資料を一つひとつ吟味していく。
美味い肉を味わいながらも、だんだんと表情が悪くなってくるのは書かれている内容が気に食わないからだ。
「度を越した過保護とみるべきか、極めて身勝手な親の都合とみるべきか」
金網の上でぱちぱちと脂の弾ける音。最後の一枚を口に放り込み、
「ふう、ごちそうさん。今からジジイのところだけど、何か届け物はあるかい?」
「おや、頼んでいいのかい
声をかけたのは先代店主である寛人の父だ。
頷いて、冷蔵庫から取り出された包みを受け取る。
「こんないい肉を老い先短い爺さんに食わせるのはちょっと勿体ないと思うんだけどな」
「そうかい? 筆頭様は向こう三十年くらいは今のままのような気がするけどねえ」
「ぞっとしないね。了解、確かに届けるよ」
「済まないねえ」
「んじゃヒロ、支払いはまたミトラさんと来た時にでも」
「別にいいんだがなあ」
「払わないと来にくくなっちまうよ」
この家族は、赫真からの支払いは決して受け取らないのだ。家族のように扱ってもらえる幸せを感じながらも、その厚意に甘えてしまっては良くない。
一応、ミトラからなら受け取ってくれるので、その時までツケておいてもらうことにする。
店を出た赫真は、資料を入れた封筒を小脇に抱え、
***
虎群会議には、席次の世襲はない。
現筆頭の大虎殿は、ガドゥンガングループと呼ばれる企業連合のトップであり、高い経済力と権力を持つ。
人虎としても不世出の身体能力を持っており、七十を超えた老境にあってなお、虎群会議最強どころか、世界中の人虎で最強であると噂されている。
「で、そうこうしているうちに跡継ぎを決めるタイミングを逸したと」
「だからお前さんを跡継ぎに指名しとるじゃないか」
「ヤだよ面倒くさい」
「儂も先代から指名された時はそう思ったもんだ」
報告書を読みながら、大虎殿は表情を曇らせた。
最後まで読むに堪えないと思ったか、ばさりとテーブルに報告書を投げ捨てて一言。
「馬鹿だな」
「そだな」
「で、赫真。お前はどうしたいんだ」
「まあ、枇々木くんが諦めるにしろ諦めないにしろ、ちゃんと決着をつけられるようにね」
「北……じゃない、枇々木ツヨシか。スランプというのは本当か?」
大虎殿が聞いてきたのは直球の質問ではなかった。
つまりそれは、赫真の返答次第だということ。
「ああ。それに関しては主に俺のせいだなあ。思い浮かんだものが自分の生み出したものかそうじゃないのかが分からなくなっているらしい」
「まあ、それはお前のせいとばかりは言えんじゃろ」
本人に自覚させなければ、もっとややこしい
それは大虎殿も認めるところであって、この件については大虎殿も日向も赫真に文句をつけてこない。
「そうだな。これで想い破れて悪化した、なんてことになれば、儂が日向から小言を言われてしまうわ」
「動いていいんだな?」
「ああ。虎群会議上位席次二名の決済により、この案件を虎群会議として支援することを認める」
期待していた通りの返答を得て、席を立つ。
テーブルの上の荷物を片付けていると、どうやら今日は機嫌が良いのか、大虎殿は赫真を手で制してきた。
「待て待て、赫真。食っていかんのか?」
「ヒロのところでたらふく食ってきたところでね。ミトラさんに黙っていい肉を食うのも忍びない」
「ならばミトラも呼べばええ」
「枇々木くんのサポートを頼んでる。俺がそっちに動けないぶん、ミトラさんも忙しくしているんだ、今」
「ぬう」
「邪魔したね。次はミトラさんと一緒に来るよ」
「仕方ないな。約束じゃぞ」
内外に畏れられる大熊殿も、末娘にはとてつもなく甘いのである。
***
表では遠く、何かが転がされるような音と怒号が聞こえている。拳を握ったことがあるかどうかも分からないツヨシにしては、よく粘っている。
表に注意を払うこちらの様子に気がついたか、大熊道場の師範である大熊泰志は畳で悠々と胡坐をかく赫真に声をかけてきた。
「終わったか?」
「いや、続いているよ。格闘家を相手に、枇々木くんもよく頑張っている」
「ふん。諦めばかりが悪くてもな」
苦々しい表情で吐き棄てる泰志。よほどツヨシの事が気に入らないようだ。
「枇々木くんは良い奴だぞ。あまり偏見を持たないでやって欲しいもんだ」
「ちっ」
聞こえよがしに舌打ちしたのは、道場の誰だったか。
描とエドワードを交えて結婚の打ち合わせをしている大熊道場に乗り込み、話をつけたのが昨日。
エドワードに勝てば描の自由意志に任せる、という言質を取ったことで、赫真は道場の者たちから少なからず恨まれていた。
陰ながらの助力を疑われると困る、とのことで高弟と道場主の監視下に置かれているが、赫真はそう心配してはいない。
ツヨシが先祖返りだとかそうじゃないとかいう問題ではなく、彼の執念が実れば勝ちを拾うことは難しくない。
話が終わった後に、描に詰め寄られた時の会話を思い出す。
『なんてことをするんですか! 枇々木さんでは佐久間に勝てる筈がないでしょう!? こうなるって分かっていたから、諦めたのに』
『エドワードくんが枇々木くんを殴るようなことがあったら、なんか理屈をつけて彼に手を貸してあげればいい』
『えっ!? で、でも。枇々木さんが佐久間に勝たなくてはいけないのでは』
『俺は手を貸さないって約束したけど、他が手を貸してはいけないって話はしていないなあ』
『……悪党ですね』
『ま、そこらへんの判断は任せるよ。真面目な話、本当に枇々木くんを納得させたいなら君が面と向かってちゃんと言えばいいんだから』
『ご親切、痛み入ります』
大熊道場は比較的古い、人獣専門の拳法を伝える道場だ。
当代の泰志は道場の生まれではなく、婿養子だという。
描の母も人羆であり、生まれた時に道場には
元々、細々と斑熊党の党員に護身術などを教えていたこの道場であるが、腕自慢の人獣達による無差別格闘イベント『
描は大熊道場の最終兵器、などと囁かれ、神竜への参戦を切望されているとも聞く。決して体格に恵まれた訳ではない泰志を見ると、その辺りに歪みの根源はあるのかもしれない。
まだ表ではかすかに動いている音が聞こえている。描が動いていないということは、エドワードはツヨシを殴ったりはしていないということだ。
三人ともずいぶん我慢強いな、などと考えていると、沈黙に飽きたのか泰志が口を開いた。
「なぜ、この条件を飲んだ? 佐久間が相手では、いかに先祖返りとは言え、格闘家でもない男に勝ち目はないはずだ」
「俺も格闘家じゃないがね」
「お前は別だ」
「ひでえな」
苦笑いしてみせるが、泰志たちの顔に笑みはない。どこまでも不利な条件を受け入れた赫真への不信のみがある。
そろそろ理由を明かしても構わないか、と口を開く。最後まで黙っていると、後で約束を反故にされる可能性もあるからだ。
「あんた、シェリオ・ルゥの手記は知っているか?」
「人の社会にも狼の群れにも適合できず、心を病んだ一世紀前の
「枇々木くんも先祖返りだ。彼を第二のシェリオ・ルゥにしたくなかっただけさ」
「どういう意味だ?」
「先祖返りなんて、いいことはあまりない。彼は自分の両親とも満月の晩には顔を合わせられなくなってしまった。同じ先祖返りとして、彼には幸せになって欲しい」
「だが人獣としてみれば選り取り見取りだろう。うちの描よりももっと器量よしの娘がいるではないか」
「それはまあ、彼がいいって言っているんだから大熊さんがいいんだろうさ」
「あの男では佐久間には勝てるはずがない。負ければそれで終わりだ」
「そうだね。ところでさ、諦めきれないのは一人しかいなかったっけ」
「なに?」
一瞬、意味を捉えかねたのか泰志が聞き返す。
だがすぐに赫真の意図に気付いたのか、顔を真っ赤にして声を荒げた。
「描を代理に立てさせるということか、卑怯な!」
「お嬢さんが代理に立ってはいけないという約束はしていないし、そもそも代理を立ててはいけないって話だったか?」
「お前は代理にならないと自分から――」
「そうだな。だから俺はここにいるじゃないか」
にやりと笑みを浮かべて、赫真は立ち上がった。背後で立ち上がり、エドワードの助力に行こうとした弟子を牽制するためだ。
「エドワードくんに手を貸すというなら、約束違反だ。俺も動くことになるな」
「最初に約束を破ったのはお前だろうが!」
「『エドワードくんに枇々木くんが勝つ。そしたらお嬢さんの好きにさせること。俺は枇々木くんには手を貸さない』という話だったよね。俺が何か約束を破ったか?」
「この」
ひりひりと首筋に熱がこもり始めた。月がのぼり始めた予兆だ。
大事な話の最中なので、全身に力を入れつつ気になっていたことを聞く。
「大体だ。何のためにあんたはお嬢さんに別の結婚相手を宛がった? 先祖返りなら選り取り見取りって言うなら、お嬢さんが見初められたのはいいことじゃないか」
「
「くだらねえな」
道場主としての身勝手な理屈の方だったか。度の過ぎた過保護だったらまだ救いはあったように思う。
赫真は意志の力で抑えていた本能を解き放つことにした。
全身の骨格が軋み、本来あるべき形に蠢く。そよぐ髭が捉えるのは、自分を見る男の感情のすべてだ。
怒り、困惑、敵意、憎悪、そして恐怖。
「これが人虎の先祖返り、か」
「ゴォォォォォォォォォゥ!」
平静を装う泰志に向けて、喉を強く鳴らし、吼える。
既に威嚇ではなく、殺意の発露に近い。
思わず後退った泰志が、段差に足を取られて転ぶ。
「う、うぉっ。ち、違う! 私は、私はこんな無様な――」
「その恐怖は正しいよ。被食者の本能ってやつだ」
見下ろして告げれば、泰志は憎々しげにこちらを睨みつけてきた。だが、その足は既に笑ってしまっており、立ち上がることは出来そうになかった。
「その無様が、あんたら先祖返りではない人獣の限界」
「違う、そんな筈は――」
「位負けというやつさ。先祖返りじゃない人獣は、先祖返りには畏怖が先に出るそうだぜ?」
「私は怯えてなど!」
「いるさ。怯えているから、立ち上がれない」
一歩、足を前に踏み出せば、泰志はそれ以上に後退る。
人獣として先祖返りに対する畏怖と、人として肉食獣に対する恐れと。
「いい加減、最強とかそうじゃないとか、そういうしがらみからお嬢さんを解き放ってやるんだな。素質があることと、素質を活かして生きることはイコールじゃない」
「ふざけるな! 描お嬢様はより強い男と結ばれるべきなのだ!」
横合いから言い放ってきたのは、どこかで見た顔立ちの男だった。帯の色からしてこの道場の高弟であるらしい。
確か、描の運転手をしていた男だ。
そちらを睨みつけて牙を剥いてやれば、びくりと体を震わせながらもこちらをそれなりに強い視線で射貫いてきた。
「人の幸せを、他人が決めるもんじゃねえよ」
「何を――」
赫真は歩みを止めない。泰志の背が、道場の壁にぶつかって止まる。
「親の希望を託すのはいい。だが、そうあることを強要するのは違うだろ」
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ! この道場を継がせるには、誰より強い男でなくてはならんのだ!」
「そうかい」
何を言っても、泰志を始めとした大熊道場の心を変えることはできないようだ。
ならば、赫真は赫真の立場で伝えるべきことを伝えるだけだ。
「まあ、この後のことは彼ら次第だ。だが、忘れるなよ。枇々木くんは虎群会議第四席、相賀赫真が後見だ」
赫真は周囲を順繰りに睨みつけると、
「ことが定まった後で、あんまりごねるようだと――」
がばあ、と口を開いて告げた。
「食っちまうぞ?」
***
道場から出て、歩くことしばし。
草むらで赫真を出迎えてくれたのは、特に外傷のないエドワードと、泥だらけで大の字になるツヨシ、そしてそのツヨシに膝枕をしている描の三人だった。
「よう、お疲れ様。枇々木くん」
「相賀さん」
「挨拶する相手はこの向こうだ。動けるようになったら、あとは君の心を彼らにぶつけるだけさね。頑張れ」
口角を上げるが、笑みとは取ってもらえなかったようだ。
立とうとするツヨシと、心配そうにそれを支える描。ツヨシに代わって頭を下げてくる様は、既に永年連れ添った夫婦のようで。
「何から何まで、ありがとうございました」
「俺が手を貸せるのはここまで。頑固親父を納得させるか、納得させられずに駆け落ちでもするか、大熊さんが道場を見限って枇々木くんの処に押しかけ女房するかは、君たちで相談して決めればいい」
「ええ。ツヨシさんとのことは、二人で話し合って決めます。道場も斑熊党も関係なく、二人の意志で」
「そうかい」
赫真は、ツヨシの――描に支えられていない方の――肩にぽんと手を置いた。
「精々大声で、お嬢さんを僕にください、と言うのが君の今日最後の仕事だぜ、ツヨシくん」
「描さんに負担をかけないように頑張ります。赫真さんも眞岸さんとのこと、頑張ってくださいね」
「おっと」
思わぬ反撃。ツヨシも随分と言うようになったものだ。これならそこまで道場の連中を脅しつける必要はなかったかもしれない。
会釈して歩み去る二人。程なくツヨシの大声が聞こえてくることだろう。
赫真は地べたに座って呆然としているエドワードに声をかけた。
「お疲れさん。怪我はないようだね」
「道着をパンダに嚙まれましたけどね。大熊さんからはきっちり怪我しない程度に手加減されました。プライドはズタボロですよ」
「まあ、北極熊より強いそうだから」
「生き物としてのカテゴリが違う感じですね」
よいしょ、と軽やかに立ち上がるエドワード。思ったより元気そうだ。
慈愛に満ちた目で見つめるのは、道場の方向だ。赫真は思わず、残酷な言葉を口にしていた。
「本当に愛してたんだろ?」
「敵わないなあ、相賀四席」
返ってきたのは否定ではなく、寂しげな笑み。
返す言葉もなく、頷いてやると、エドワードは背を向けて歩き出した。
「一目惚れでしてね」
「ああ」
「でも、会ったばかりの筈なのに、あんな笑顔を交わしてさ。勝ち目がないのはすぐわかりましたよ」
「うん」
「まあ、向こうはぼくにそういう興味はなかったみたいだから、それはもういいんです。幸せになってくれれば、ぼくも嬉しい」
「君も本当にいいやつだな」
ゆっくりと歩調を合わせ、慰めにもならない相槌を打つ。
目の前で失恋した男には、下手な慰めは無用だと思っていた。
「あぁ、くそ。大熊さんが相手なら、ぼくでも行けた気はするんだけどなぁ」
「……えっ?」
そして、次いで聞こえてきた言葉については、なんとなく聞かなかったことにするのだった。
「相賀四席、誰かいいひと、いませんかね?」
「いやあ、俺は恋愛相談は専門じゃないからなあ」
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