file2-X パンダ、猛る

 ツヨシは目の前に立つ男の威圧感に、だが高揚する心が支えとなって挫ける事はなかった。

 余裕を湛えた表情が憎らしい。だが、今まで体を鍛えたこともない自分にとって、目の前の相手は格が違いすぎた。


「本当にやるんですか、枇々木ひびきさん」

「やります、やるに決まっているじゃないですか!」


 大熊家の道場から程近くにある草むらで、決然と言い放つ。心配そうな顔でこちらを見守るのはえがくだ。

 この場にいないが、この状況を作ってくれた赫真かくまとミトラに心の中で感謝する。

 こちらは絶対的に不利だ。それは十分に分かっている。

 それでもツヨシには、体を張る理由があった。


「描さん。僕はあなたが好きです!」


 堂々と、言いたかったことを口にし。


「枇々木さん、私は」

「僕じゃなくて彼を愛しているというなら、悲しいけど、本当に悲しいけど諦めます!」


 その言葉に、描は答えてはくれなかった。

 だが、伏せられた眼差しに、まだ諦める時ではないと信じる。


「まるでこっちが悪者みたいだなあ」

「僕は諦めが悪いんです。その言葉を聞かない限り、止まれません。止まりません!」


 喧嘩などしたこともなかった。しかし、ウェアビーストのひとりとして、この場で退くことはできない。

 拳を握り、しっかりと相手を――総合格闘家のエドワード佐久間を見据える。


「うおおおおおおっ!」


 自分が小説で描写する時にはスマートに走っているというのに、自分でもわかるほどにばたばたと走りながら。

 大きく振りかぶった右腕を振り下ろす。


「さすがにそれは、ねえ?」


 エドワードがわずかに体をそらせば、それだけでツヨシは空振りをしてしまう。


「くそっ!」


 イメージの通りに体は動いてくれない。次は振り返りざまのアッパーだが、その時には既にエドワードの姿は視界にない。


「ねえ、やめませんか」

「うわっ」


 とん、と軽く背中を押されると、バランスを崩した体は面白いように地面に倒れた。

 すぐさま起き上がるが、エドワードは間合いを既に広く取っていた。


「先祖返りを殴ったなんて知られたら、この社会では生きていけないんですが」

「ここにいるのは、僕と描さんと君だけだ。誰かに知られるわけがない」

「本当に、まいっちゃうなあ」


 困ったように微笑むエドワードは、本当にいい男だ。だが、ここで退くわけにはいかないのだ。

 自分のために。何より、描のために。

 早くも上がり始めた呼吸を整えながら、ツヨシは事態が急転直下したこの一週間のことを思い出していた。


***


 初めてのデートはつつがなく終わった。

 行先は美術館だ。人獣は多くの場合、元になった動物を大事にする傾向にあるので、動物園や水族館はご法度だ、というのが赫真からのアドバイスだったからだ。

 描の家は道場だというから格闘系のイベントも考えたのだが、それも止められた。見慣れているはずだから、という理由だ。

 いちいち納得しつつ、隣の市で開催されている美術展をチョイスする。

 ちょうどツヨシの町と描の町の間にあるのも良かった。

 待ち合わせの時間の一時間前に駅に着くようにしたのだが、誤算だったのはその時間でも描が先に到着していたことだ。


「大熊さん?」

「えっ、枇々木さん⁉ なんで、まだ一時間も」

「た、楽しみで、家で時間をつぶすのがもったいなくて」

「そ、そうですよね。その、どうしましょう」

「時間まで少し時間がありますよね」


 内心で驚いたのは、今日の描のファッションだった。クラシカルな雰囲気のワンピースに昔風のシャツ。すらりとした長身に似合っている。よく知らないが、クラシカルロリータとかいうジャンルだろうか。

 先日のスーツもきりりとしていて恰好良かったが、こちらも素敵だ。


「あの、枇々木さん」

「はい?」

「どうでしょう、わたし。変じゃありません?」


 不安げな顔で質問してくる描。

 何か嫌な思いをしたことでもあったのだろうか。


「そうですね。この前のスーツもきりっとしていて素敵でしたけど、今日もとても似合ってます。あ、でも髪飾りはないんですね?」

「え?」

「時間もありますし。途中で似合いそうなもの、買っていきましょうか」

「は、はい!」


 うろ覚えの知識だったが、当たっていたようだ。

 顔をほころばす描。愛らしさが増して思わず見惚れてしまう。

 心臓が高鳴ってしまって、気持ちが上滑りしていく感覚。

 結局、その後のことはほとんど覚えていない。プレゼントした髪飾りを満面の笑みでつけてくれたことで、とても幸せな気分になったのだけは強く心に残っていた。


***


 次の約束の日時を決めてなかったことに気づいたのは、翌朝のことだ。

 半ば自営業のこちらと違って、描は時間に制約がある立場だ。いきなり電話をしてはまずいと、昨日の幸せをできる限りメールに乗せて送る。

 程なく、返信がある。同じ気持ちだという本文に小躍りしつつ、次の約束の日時をそれとなく聞いてみる。

 少し立て込んでいるとのことなので、二週間後の約束を取り付ける。

 久しぶりに筆が進む。文系少年と活発な少女の甘酸っぱい恋愛小説のネタが浮かぶ。

 そこに投影されている二人が誰かなんて、考えるまでもなかった。


***


――そしてその晩、夢という形でツヨシは見た。描が別の誰かに嫁ぐシーンを、見送っている自分の姿を。


***


『すいません、枇々木さん。センセイはちょっと別件で出かけていまして』

「そうなんですか。ちょっと相談に乗ってほしいことがあったんですが」

『ではご用件だけ承っておきましょうか。センセイには後で伝えておきます』

「あ、それならぜひ。実は――」


 不安にかられて電話した先は、やはり相賀探偵事務所だった。

 電話に出たのは赫真ではなくミトラだったが、後にする余裕はなかった。

 相談すれば、すぐに調べますとのこと。少しだけ安心してパソコンに向かうが、前日と違ってまったく手にはつかなかった。


***


『驚きました。あの話、事実です。急に決まったとかで』


 三日後、絶望的な報告がミトラから届いた。

 連絡を受けてすぐに描に電話をかけたものの、既に繋がらなくなっていた。

 遊ばれたのだろうか、とは微塵も思わなかった。何故なら。


「あの夢で、描さんは笑顔じゃなかった。だったら!」


 取るものも取り敢えず、ツヨシは家を飛び出した。

 こういう時に最も頼れる人物の元へ向かおうとするが、まるでそれを見越していたかのように電話が鳴った。


『すみません、枇々木さん。センセイは留守にしているので、私が枇々木さんの手伝いを任されました』

「相賀さんは、何か別の仕事を?」

『別と言えば別ですが、枇々木さんと大熊さんのことで動いているのは確かです。センセイが動いている限り、悪いことにはなりません。今は部屋で待っていてください』

「分かりました」


 赫真に頼れないことの不安を、強く感じる。

 ミトラの言葉を受けて部屋に戻ったツヨシだったが、まったく安心は出来ていない。

 これが赫真から直接もらった言葉だったら、と思うのはミトラに対して失礼だろうか。

 だが、ミトラが赫真の指示という以上、従わない理由はない。


「ああ、くそっ!」


 心が千々に乱れても、不思議と文章だけは湧き上がってくる。あるいは、動いていないと不安に押しつぶされてしまうと無意識に理解しているのか。

 次の連絡が来るまでの三日間、ツヨシは寝ている時間と食事の時間以外は、パソコンに向かって指を動かし続けるのだった。


***


 ミトラからの電話は、連絡と言うより通告だった。


『枇々木さん。センセイが先方と話をつけました。大熊さんのお相手として宛がわれた人物より強いことを証明すれば、今回の縁談は考え直すとのことです』

「強いこと、ですか。喧嘩とかしたことないんですけど」

『センセイもそうだろうって言ってました。けど、大熊さんも受け入れているから縁談は進んでいるんですよね。どうします?』


 ミトラの言葉は、考えないようにしていた自分の懸念を的確にえぐってくる。

 出された条件も、自分にはきわめて不利だ。


『まあ、個人的には諦めた方が良いと思いますよ。相手もちょっと普通じゃありませんからね』


 ミトラは揶揄するわけでもなく、淡々と事実だけを告げている。ツヨシは目を閉じて、自分に問いかける。小説の進行に詰まった時に、いつもしている自分との対話。

 描を諦めて、他に気の合う誰かと付き合い、結婚する。自分はそれで良いと思えるのか。描に笑顔を向けて、結婚を祝福できるのか。諦めるのなら今のうちだ。

 いろいろな言葉が自分の中を通り過ぎて、ひとつの結論が最後に残った。


「眞岸さん。僕は描さんを諦められません。喧嘩なんてしたことありませんが、勝ってみせます」


 それを告げた時に、ずん、と。何か重いものが臍の下に固定されたような気がした。


『覚悟が決まったようですね。それでは今から事務所に来てください。先方に殴り込みをかけます』

「……はい?」


 まさかの完全武闘派な発言に、思考が止まる。

 それを察したのか、ミトラはどことなく呆れたような口調で言ってきた。


『カレンダーを見てください。今日はどんな日ですか?』

「どんなって……あ!」


 絶対に必要になるから、と言われて赫真から渡されたカレンダーを見て、その意味に気づく。

 今日は平日だ。しかし、日付のところに神経質なほどに書き込まれた文字と記号。


『枇々木さんの準備ができ次第、センセイも動くそうです。今日なら万にひとつの勝ち目がある。殴り込みをかけるなら今日、分かりますね?』

「分かりました。今から行きます。眞岸さんって、もう少しおしとやかな方かと思ってましたよ」

『何を言っているんですか』


 今度こそ、呆れ果てたと分かる溜息までついて、ミトラは言い放った。


『私は人虎ウェアタイガーですよ? 獰猛でなくてどうすると言うんですか』


***


 何度転がされただろうか。

 確かにエドワードは拳を振るわなかった。だが、いい加減いらだってきたようで、その動きと勢いが荒々しくなってきている。


「もう諦めろよ。何回やったって、勝ち目なんてないだろう!」

「ひゅう、ひゅー」


 言い返そうとしても、ツヨシの口から洩れるのは空気だけで、言葉にならない。

 ふらつく体で右腕を掲げ、エドワードに向かって歩く。もう走るだけの力は残っていないのだ。


「しつこいんだよ、いい加減!」


 どん、と胸元を押される。

 仰向けに倒れた視界に、きれいな満月が映る。

 ――満月?


「やっと気づいた。もう満月は上っているのさ。獣の姿になれば勝ち目があると思っていたのかもしれないけどね」

「うぁ、あ?」


 エドワードに立ち向かうことに夢中で気づいていなかった。転がされてばかりで気にする余裕がなかった。

 満月は上り、自分の両腕には熊のような太い毛が生えていた。爪も太くなっているが、パンダ特有の六本目の指までは生えていない。

 顔を触れば、毛の感触。既に変身していたのだと理解する。

 最後の可能性が、断たれた。


「ようやく諦めたか。しつこいにも程がある」

「余計なことは言わない、というのが約束だったはずです」


 疲れと痛みに全身の力が抜ける。

 描とエドワードが話しているが、その声も遠く聞こえる。


「そうは言うけどね。これ以上やったら、彼は死ぬよ?」

「っ!」

「君がぼくに興味ないことは知っているさ。だから外に愛人を作っても咎めないと言っているんだ。それ以上の譲歩が必要かい?」

「で、でも」

「だいたい、縁談の持ってきたのは君の家だろう? 何度断っても、それでもしつこく。君はうちに嫁ぐのを待っていたと思うんだけどね」

「それは」


 内容はほとんど頭に入ってこなかった。でも、これだけは分かる。

 描が困っている。エドワードによって。


「えが……さんを……せるな」

「まだ立つ⁉」


 なぜ立ち上がったのか、自分でも分からなかった。

 重い足を引きずりながら、エドワードに向けて歩く。


「くそっ、本当にいい加減にしろよ!」


 苛立ちを募らせて突き出してくるその手を、抱え込む。

 何度となく転がされた手だ。我ながら上手くタイミングを取れたと思う。


「しまっ」

「ガアァァァァァッ!」


 残る力を全て乗せて、エドワードに今しがた生えた牙を突き立てる。

 エドワードも渾身の力で引きはがそうとしてくるが、文字通り必死に食らいつく。


「こっ、のおおおおっ!」


 視界が眩む。少し遅れて感じる衝撃。

 思わず口を離してしまうと、すさまじい勢いでエドワードが離れた。


「痛ぅ。食われるかと思った」


 と半ば恐怖を覚えたような表情で呟くエドワード。怒りと恐怖をない交ぜにした表情で、ツヨシを睨む。

 対してツヨシは、もはやかけらほどの余力もない。両手を地面について、エドワードを見るだけだ。


「まったく、『神竜ZINRYU』も控えているっていうのに。もう加減はやめだ、しばらく起きられないようにきっちり――」

「そこまでです」


 と、そこで凛然と声を上げる者があった。これまで黙って見ていた描だ。随分と歯を食いしばっていたのだろう、口許には血が滲んでいた。


「エドワード佐久間。あなたは人獣種共通の財産である先祖返りの枇々木さんを殴りましたね。プロの格闘家であるあなたの拳は凶器と同じ。人獣種への反逆行為と判断します」

「えがくさん?」

「え、でも殺されかけたのはぼくの方」

「黙りなさい! 本来ならば斑熊まだらぐま党を挙げてあなたを処罰するところですが、お優しいツヨシさんはそれを望まないとのこと。そこで」


 描がツヨシとエドワードの間に立つ。ツヨシに背を向けるその背は、心なしか先ほどよりも大きく見えた。


「ツヨシさんの代理として、私があなたを倒します!」

「ちょ⁉」

「問答無用! 行きます!」


 反論の暇も与えず、圧倒的に鋭い動きでエドワードに襲い掛かり、追い詰めていく描の後ろ姿を見ながら。

 ツヨシは描の雄姿をどう躍動感ある文章に仕立てようか、そんなことを考えるのだった。

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