file2-2 相賀赫真は逃げ遅れるのこと。
『わたしはその翌朝、大きな失望感と喪失感、そして絶望を覚えました。なぜなら、わたしが彼らの仲間になれるのは、二十七日に一度しかないと分かったのですから』
――シェリオ・ルゥの手記より
***
早朝から車を飛ばして三時間。隣県の繁華街にその建物はあった。
もちろん、杓子定規に『極東斑熊党』などと看板を出している訳ではない。特別なものなど何もない雑居ビルのひとつだが、一応商社の体裁を取っているようだ。
さて、極東斑熊党は極東と名がついてはいるのだが、別段世界のどこかに他の斑熊党の支部が存在する訳ではない。
「じゃあなんで『極東』なんて名前がついているんですか?」
「この国には何故か肉食系の人獣が多いんだ。
「はあ、それで?」
「
ある程度、もっともらしい理由を考えてみるが、説得力のあるものは浮かばなかった。
むしろ事実の方が残念なのだが、これからツヨシはそこの一員になるのだ。説明しない訳にもいかない。
「熊って雑食でしょう」
「え、ええ」
「しかもなまじ力が強いからさ、別に庇護する必要がないって判断されたらしいんだよね」
「えぇー……」
「だからまあ、名前だけは大きく『極東』ってしたって聞いてる。昔は名前負けもひどかったみたいだけど、今はそれなりにしっかりとした基盤が出来て――」
「ずいぶんな言い方ですね、『
凜とした声が挟み込まれる。
入口の前に仁王立ちしていたのは、大柄な女性だった。極東斑熊党で最も有名な女傑、
先日初めて会った時にはゴスロリファッションだったのだが、今回はきっちりしたスーツ姿だ。正直、見違えたと言ってもいいだろう。
だがその分、威圧感は明らかに増した。眉根が寄っている訳でもないのに、何とも緊張感を強いる雰囲気をまとっている。
二メートル超の恵まれた体躯、修める武術は大熊流拳法。ホッキョクグマより強いとの噂は真実ではないだろうか。そう思わせるほどの圧力だ。
「ああ、斑熊党の『覇王』殿。本日は私どもの方で保護した
「これはどうもご丁寧に。私がその呼ばれ方を好まないとご存知の上でそう呼ばれます?」
「もちろん。俺も『紅毛虎』は粋がってた頃の呼ばれ方なので好きじゃあないんですが、それはご存知でしたかね」
「ええ、それはもう」
笑顔で挨拶を交わし――もちろん目は笑っていないのだが――握手を交わす。
こいつとはきっと仲良くなれないな、と右手にかかる力の強さに実感しつつ、余裕の表情だけは崩さない。
「ずいぶんと大虎殿が心配されておりましたわ。私をどのようにお伝えになったのかしら?」
「実際にそちらがなさった事をそのまま伝えただけですよ。虎がパンダに追いかけられてどうすると小言をもらいましたが、何か?」
小声のやり取り。赫真はへらりと口角を緩める。
表情で挑発された事で描の顔に青筋が寄るが、本来の目的は忘れていなかったらしく、自分から手を放して聞いてきた。
「で、そちらの方が?」
赫真は決して大柄ではないのだが、人虎なだけあって肩幅は広い。何となくツヨシを先導して歩いていた為、赫真自身が壁になって二人はまだ目の前の互いの顔を確認していなかった。
「そうです。枇々木くん、こちらが極東斑熊党で最も有名な、君と同じ人大熊猫の大熊描さん」
「初めまして。枇々木ツヨシ……で……す」
「ええ。大熊描と申します。枇々木さん、よろし……く……」
赫真が体をずらして、二人が挨拶出来るように場所を開けた。
小柄なツヨシが顔を上げ、描がツヨシに向かって右手を差し出す。
「ん?」
互いの顔を確認した瞬間、二人の態度が目に見えて変わった。
ツヨシの頬に朱が差す。まさかとは思うが。
描の顔が赤くなる。もしやとは思うが。
「あの、大熊さん」
「ええと、枇々木さん」
意を決したらしい二人の次の言葉は、期せずして重なった。
「交際されている方はいますか?」
と。
***
時計を見て、ミトラは小さく溜息をついた。
そろそろ赫真は極東斑熊党の本部に到着している頃だろうか。
センセイには止められたけど同行すればよかったかな、などと事務所の掃除をしながら考える。
「センセイも変な事に巻き込まれないといいけど」
大熊描との邂逅は気分の良いものではなかった。必死の形相で追いかけてくる
基本的にミトラは赫真に危害を加えようとする相手に良い印象を持たない。当たり前だが。
「ま、まさかセンセイに狙いをつけたりしないでしょうね!?」
赫真は『多分俺がミトラさんと一緒に歩いている所を見ると逆上するから』とミトラの同行を断っていたのだ。追いかけられる羽目になったのがミトラとの電話と聞けば、納得できない訳ではなかったのだが。
虎群会議の四席と言えば、この国に住む人獣で知らない者などないと言えた。
あるいは描が赫真に惹かれても仕方がないと、ミトラの顔が青ざめていく。
「あ、あれでセンセイったら女性には紳士だし、まずいかも」
惚れた欲目と言ってしまえば、それまでなのだが。
やきもきしているミトラの横で、今日も相賀探偵事務所では電話もFAXもメールも反応することはなかった。
***
斑熊党本部に入って暫く経って。新しい仲間――それも『先祖返り』だ――であるツヨシの歓迎会が始まったのだが、赫真は何ともいたたまれない気分でそれを眺めていた。
原因はツヨシではない。
「枇々木さん、小説を書かれているんですって?」
「ええ。ライトノベルを少々」
厳密にいえば彼にも責任はあるのだが、問題はその隣で少女のように振る舞う描にこそ責任がある。
周囲の人熊達が、呆然とした表情で二人を見つめているのだ。
二人だけの世界を作られては盛り上がりに欠けるとか、そういう問題でさえなかった。
何しろ進行役の男性でさえ、なんとも表現しがたい表情で描を見ており、遅々としてプログラムが進まないのだ。
「読ませていただきました。
「そんな事ありませんよ。その時には自分自身が頭の中で構築した内容だと思っていたのが、そうじゃなかっただけですから」
周囲の様子を見る限り、どうやら描が異性に一目惚れしたのは初めての事であるらしい。『百の見合いを繰り返しては破談になった婚活の覇王』などと揶揄されていたのは何だったのか。
ツヨシも含め、何とも初々しい二人だ。周囲の異様な雰囲気に意識を回さずに済んでいる事が逆に幸せかもしれない。
「俺、帰ってもいいかな」
なんだか色々と馬鹿馬鹿しくなって、赫真は人知れず溜息をついた。
描によるなりふり構わないアプローチがあるのを懸念していたのだが、まさかツヨシの方も描に一目惚れするとは。
心配材料がなくなった時点で、最早赫真がする事は何もない。よその歓迎会のしきたりが気にならない訳ではないのだが、この状況でいつも通りの形になるとはさすがに思えなかった。
「あの、虎群会議の相賀四席、ですよね?」
そんな事を考えていた赫真に、横から声をかけてくる者が居た。
そちらに顔を向けると、何とも良い体格の美丈夫が、こちらに爽やかな笑みを向けてきている。
そして赫真の方も、そんな彼に見覚えがあった。
「もしかして、エドワード佐久間選手? 総合格闘技の」
「はい、そうです! 知っていてくださったんですね、光栄だなあ」
「それはこちらの方もですよ。今度の『
「あ、ありがとうございます! 相賀四席も番組を見てくれているんですね」
総合格闘技の若きホープ、
話題に上った『神竜』は、参加する格闘家はすべて人獣という格闘イベントであり、番組だ。現チャンピオンの
「でも、相賀四席は藤城さんを応援しているんじゃ?」
「いやいや。応援しなくちゃ勝てないようではチャンピオンとは呼べないでしょう?」
「信頼しているんですね。負けてられないな」
エドワードが苦笑を漏らし、そして司会に向けて声をかけた。
「笹木さん! ほら、進行が止まっちゃってますよ!」
「あ、ああエドワード君、すまない。ええと」
「相賀四席、今日は楽しんで行ってくださいね。それじゃ、また」
「ありがとう。是非また」
一度だけ頭を下げてエドワードが離れていく。それを笑顔で見送り、ふと気づく。
既に誰もが気を取り直したようで、歓迎会は平常に進み始めている。
帰りそびれた。
***
歓迎会は夜まで続いた。
主賓のツヨシは勧められる酒を断ることも出来ず、後部座席で熟睡している。明日の朝はきついことだろう。
運転があるから、と何とか酒を固辞しきった赫真は、後ろから漂ってくるアルコールの匂いに若干閉口しつつも、事務所に向けて車を走らせていた。
窓を開けないのは探偵としての嗜みである。
「ふうむ」
バックミラーをちらりと確認し、一人唸る。
人獣はその素養に目覚めた時から、普通の人間とは違う発達を遂げる。赫真の目は、後ろを走る車内の人の顔をしっかりと捕捉していた。
「そんなに心配なら一緒に乗れば良かったのに」
奥ゆかしいと言うべきか、何と言うべきか。
酔い潰れたツヨシを心配する描に、心配なら家まで同行するかと聞いたのだが真っ赤な顔で固辞してきた。
酒をどれほど飲んでも顔色一つ変わっていなかったから、赤くなったのは照れなのだろうが。運転手つきの車で追いかけてくるくらいなら、この際預けてしまっても良かっただろうか。
「まったく、本来なら君がしっかりする側だろう?」
苦笑いを浮かべ、幸せそうな顔で眠るツヨシをちらりと見やる。
ちらりと見えた描の心配そうな真剣な表情に、愛されているなあと思いつつ。
「ま、幸せは人それぞれってことで」
実にひそかに二人の幸せを祈って、少しだけアクセルを緩めた。
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