あるパンダの恋
file2-1 相賀赫真は客より肉であるのこと。
『わたしはその満月の晩、確かに幸福を噛みしめたのです。その時、わたしは確かに彼らの同胞でした。彼らと共に味わう充足は、今までに感じたことのない一体感を与えてくれました』
――シェリオ・ルゥの手記より
***
「
一月おきに行われる会議の席で、赫真は
周囲の視線が集まる。赫真はげんなりとしながらもそれに頷き返した。
「いいよ。ならその前に、
「む? うむぅ」
赫真の言に、今度は大虎殿が頬を引きつらせる。
大熊女史と呼ばれた人物の風評は当然ながら彼らにも伝わっていて、それを引き合いにだす赫真の言葉には一定以上の説得力が含まれている。
「彼女が落ち着かないと、俺は安心して彼を
「いや、しかしですね相賀四席。彼は先祖返りのうぇ、ウェア……ぶふっ」
「
ごくまれに、人獣の血を継ぐ者の中から人獣の名の通り、満月の夜に『獣の頭に人の体』という姿に変貌する者が生まれるのだ。
多くは幼少期に『先祖返り』を経験するが、中にはそれなりに年を経てから何らかのショックで『先祖返り』になる者もいる。
赫真は幼少期に目覚めた人虎の先祖返りであり、特に後ろ盾のない私立探偵でしかない彼が虎群会議の第四席に列せられているのもその辺りが主な理由だ。
「それはそうかもしれませんが」
「ああ、分かった。赫真、それは俺の方で何とかする。段取りはしておくから、最初に斑熊党に顔を出す時には必ず同行しろよ」
「はいはい」
ぷらぷらと片手を振って応じる。
大虎殿や上位の席次の者は特に反応を示さなかったが、比較的下位の、それも年かさの席次持ちがその態度に顔を歪める。
が、それを察した大虎殿がじろりと彼らをねめつけると、誰もが表情を改めた。実力主義の虎群会議において、下位の席次の者が上位の席次の者に反意を抱く事は許されない。
「では、次の議題ですね。日向二席――」
会議はまだ、始まったばかりだ。
***
もう二月ほど前になるか。
赫真は大虎殿からの依頼を受けて、小説家『
彼がライトノベルとして書き上げていた作品が、現実の組織や人物と酷似していた為だ。
調査の過程で、北海が予知あるいは千里眼に類する特殊な能力を持っていると判断した赫真は、彼が人大熊猫の先祖返りである事を確認。身柄を保護して人獣であるとの証を立てたのである。
***
この国の人虎にとっての互助組織が『虎群会議』であるならば、熊系の人獣の互助組織が『極東斑熊党』、略して斑熊党である。
ジャイアントパンダの人獣である北海ツヨシ――本名を
「スランプ」
「はい」
本人は今現在、憔悴しきった顔で赫真の前に座っていた。
「どうしたもんかな」
「いや、相賀さんのせいじゃないですよ」
訪問しようと思っていた矢先に、当の本人が事務所を訪れたのだ。彼がこの場に来たのはこれで二度目だ。最初が最初だけに、ツヨシは付き合いの割にここに寄りつかなかったのだが。
彼が極度のスランプに陥った背景は、赫真にあった。だからこそ赫真も頭を抱えるのだが、そもそも解決の方法が分からない。
ツヨシは弱り切った笑顔でそれを否定してくれるのだが。
「だが、要は着想が全部予知か千里眼なんじゃないか、って思ってしまうってことから始まったんだろ? そしたら結局は俺のせいだからなあ」
ツヨシと知り合った時に、赫真の行動がもたらしたものは『ツヨシが満月の晩にはパンダの姿に変わってしまう体質を目覚めさせてしまったこと』と『ツヨシの着想の一部はよそのプライバシーを覗き見ている恐れがあると認識させてしまったこと』の二点だ。
現代社会に生きる上で、満月の夜に獣に変わる体質なんて迷惑なだけだし、小説家としてのインスピレーションにケチをつけてしまったのもいただけない。
とは言え、赫真もまたツヨシの能力でプライバシーを覗かれる恐れがあった立場でもあるのだ。
「なんかすいません」
赫真は今回の依頼で間違った対応をしたとは思っていない。自分以外の者が対応すれば、ツヨシは作家業を続けられなくなっていたかもしれないし、最悪命の危険すらあったからだ。
とは言え、責任がないわけではない。少しくらいのアフターサービスはしておくべきだろう。
新作の締め切りは近い。問題は、赫真にはスランプの作家に対して役立つアイデアがひとつもないことだろうか。
「予定通り、センセイの行動を小説にしてみるのはどうですか?」
思い悩む二人に声をかけたのは、事務所で二人の様子を見ていたミトラだ。
今日も相賀探偵事務所は平常運転――閑古鳥が鳴いている状態――なので、ミトラも暇なのだろう。
「それも考えたんですけどね」
「何か問題でも?」
「普段の相賀さんって、仕事もなくて地味じゃないですか」
「うぐっ!」
実も蓋もない言葉に、赫真が胸を押さえる。
まさかこのタイミングで、正面から正論を叩きつけられるとは。
「事件が起きるのが先か、締め切りが追いついてくるのが先かというギャンブルはちょっと」
「それもそうですねえ。センセイ、どうしましょ」
「どうしましょったって、依頼なんてそうそう来ませんよ」
自分で自分の甲斐性のなさを嘆きながら、ふと赫真は元々ツヨシに会う予定だった理由を思い出した。
駄目なら駄目で仕方ないと、ひとまず提案してみる。
「なら枇々木くん。普段とは違う経験をしてみるのはどうかな」
「普段とは違う、ですか」
「そろそろ君も熊の
「虎群会議に入れていただくわけにはいかないのでしょうか」
「無理だねえ。人獣の互助組織はそのあたりは比較的かっちりしてる。本来はどの獣の素養が強く出ているかを調べる手段があるらしくてね。君と一緒で俺も見れば分かるっていうんで調べ方まではいまいち詳しくないんだが……ミトラさん?」
「親子で因子が違った場合は、それぞれ別の互助組織に所属することになります。人狼や
何しろ人獣が現れたのは古代も古代、実際の年数は誰も知らないほどの昔だ。入り混じるなんていうのもばかばかしいほど、人獣の血は多くの人々の血脈の中で眠りについていると考えられている。
「実際、枇々木くんのご両親は人獣じゃなかったはずだし」
「ええ。いま、自分が人獣になったなんて両親に言っても信じないと思います」
「まあ、そんな訳さ。人獣の素養が出るだけでも相当に奇跡的なことなんだよ。人獣の素養が目覚めた同士の子供だと、どちらかの素養をほぼ受け継ぐんだけどね。片方が目覚めてないと、引き継がない確率が八割を超えるというし。けどまあ、その辺りはもう、学者が頭を悩ます領域かな」
素養のない両親から人獣が生まれ、あまつさえそれが先祖返りという極端なレアケースだ。しかも本人の素質の発現が成人後となれば。
「だからこそ、虎群会議は人獣のルールを破る訳にはいかないんだ。それに、国内事情だけで言えば互助組織同士の仲は決して悪くないから大丈夫。最大の懸念案件も最近片付いたところだしね」
「はあ、そうですか」
「心配しなくても、ちゃんと最初は俺が同行するとも」
「あ、それなら」
心配そうな顔をしたツヨシだったが、赫真が同行すると聞いて露骨に安心したようだった。
「別に誰も取って食いやしないよ?」
「いやあ、最初が最初だったもので」
「それについては本当に申し訳ない」
追い立てた上に食っちまうぞと脅かして気絶させたのは全部赫真の手配だ。これこそ言い訳のしようもない。
「その辺りはまあ、相賀さんと知り合えただけでおつりがきますから、ええ」
「そうか! そう言ってもらえると助かるよ。じゃあ、日程とかは改めて。この後時間あるかい? 良かったら飯でも食いに行かないか」
「あ、いいですね。時間はあるのでぜひ――」
と、ツヨシの言葉が止まった。
赫真の方に――厳密にはその奥に――何か恐ろしいものがあるかのように顔を青ざめさせている。
「ぜひ、なんですか?」
「い、いえ、用事を思い出しました! それでは今日はこれで。あ、明日にでも都合をお伝えしますね! じゃっ!」
「え、枇々木くん?」
焦った様子でばたばたと荷物をまとめ、事務所を出ていくツヨシ。
訳が分からないと振り返ってみるが、そこにはいつも通りの笑顔のミトラだけ。
「枇々木くん、どうしたんだろ。ねえ? ミトラさん」
「さあ?」
「まあ、いいか」
ミトラにも心当たりがないとなれば、これ以上気にしても仕方がないだろう。
時計を見れば、そろそろ夕食の準備をする時間だ。
「じゃ、そろそろ店じまいにしますかね。ミトラさん、晩飯どうします?」
「まったく、不真面目なんですから。実はですね」
と、苦笑まじりのミトラがごそごそと事務所の冷蔵庫を探る。
取り出された包みは、中身が肉だと自己主張していた。
「これ、届いたんです」
「こ、これ! 鹿肉ですね!?」
赫真の鼻が、鋭敏にその中身を捉える。
ごくりと喉を鳴らし、ミトラの元に駆け寄る。
「金谷さんのお父さんが持ってきてくださったんです。纏めてお支払いしたばかりなのに」
「結構な量ですね。焼きますか? 揚げますか? 鍋ですか!?」
「そうですね、どうしましょうね。ふふ」
人獣は、元となった獣の食性を引き継がない。これは先祖返りだろうとそうでなかろうと変わりはない。話に乗った金谷家は
だが、何とも不思議な事に人虎は、ほぼ例外なく鹿肉を大好物としている。それを分かっているからか、金谷家からは不定期に鹿肉の差し入れがあるのだ。
ミトラも嬉しそうに微笑んでいる。赫真は包みを受け取ると、ゆっくりと開いた。
「モモかな、アバラかな、ロースかな♪」
「ヒレだそうです」
「ひ、ヒレ!?」
そこにあったのは一頭の鹿からは殆ど採れないというヒレ肉だ。一部の熱狂的な愛好家には賄賂としても成り立ちそうな輝きを感じる。
赫真はかっと目を見開いた。
「ミトラさん!」
「はい!」
「すべての外部との連絡手段を遮断してください! 俺はドアと窓に鍵をかけてきます!」
「わかりました!」
そこから先、二人の間に言葉は要らなかった。
事務所の電話、FAX、パソコンはおろかスマートフォンの電源まで切り、流れるような動きと連携で必要なものをすべて準備し、席につく。
敷く油は最高級のものを用意。
「焼きます! お覚悟を」
「やってください、センセイ!」
ホットプレートにヒレ肉を置いた瞬間、二人の耳を、鼻腔を、視界のすべてを幸せが満たしたのである。
翌朝まで、二人が互いと鹿肉以外のことを思い出すことはついぞなかった。
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