パーソナルアシスタントとのたのしいひととき

鶴見トイ

パーソナルアシスタントとのたのしいひととき

 現代の人間として、少なくとも小学校を卒業するころには身につけておくべき常識の一つに、『かんたん設定』だの『すべてがおどろくほどスムーズに』だの『わずか1分で』だのというフレーズはけして信じてはいけないというものがある。

 谷岡和幸とてそれを知らないわけではなかったのだが、いっときのテンションと無根拠な自信に支えられ、この常識を一時的に忘れてしまった。その結果として、今谷岡の1Kの部屋の机の上には、初期設定前のスマートフォンが置かれている。

 米国Orange社の最新型スマートフォン。O9チップに超高速ワイヤレス接続機能、2000万画素のカメラ、VR機能、同時通訳機能、その他諸々の最新機能がセットされている(ただし、それらの機能のうちの69パーセントは実際に使われることはなく、無駄にメモリを専有するだけでその生涯を終えるということが統計的に知られている。使われなかったこれらの機能はほうっておくとその怨みから怨霊となり、他のアプリを強制終了させたりスマートフォン本体を無駄に発熱させたりするため、Orange社では僧侶を雇用してこれらのアプリを鎮魂している)。

 ただし、これらの最新機能を使うにはまず電源を入れなければいけない。その電源ボタンがどこなのかわからず、谷岡はスマートフォンをさんざんひねくり回した。やっと背面の突起が電源ボタンだとわかったときには、つやつやしたスマートフォンの全体が指紋まみれになっていた。

 開封後一時間経たずに汚れてしまったスマートフォンだったが、電源ボタンを押したことで画面が明るくなり、Orange社のロゴが浮かび上がった。谷岡はやや感動し、画面をじっと見つめた。

「こんにちは」

「おおぅ?」

 いきなりスマートフォンが喋り出したので、谷岡は驚いて声を上げてしまった。

「私は、Orange Phoneのパーソナルアシスタントです。Orange Phoneを使うにあたって必要な初期設定をお手伝いします。まずは『はじめる』と話しかけてみてください」

 なめらかではあるがやや機械的なしゃべりかたで、パーソナルアシスタントはそう言った。谷岡は機械相手にしゃべるという習慣が無かったので、いきなり話しかけろと言われても戸惑うばかりだった。

「え? なに?」

「音声が認識できません。もう一度『はじめる』と話しかけてください」

「あー、と」

「音声が認識できません。もう一度『はじめる』と話しかけてください」

 重ねての要求に、谷岡は気恥ずかしさを感じながら口を開いた。

「ええと……『はじめる』」

「音声が認識できません。もう一度『はじめる』と話しかけてください」

「は!じ!め!る!」

「音声が大きすぎます。もう一度『はじめる』と話しかけてください」

 谷岡は腹に湧いた苛立ちをつとめておさえた。そして注意深く調節した音量で「はじめる」と発声した。

「こんにちは。それでは、Orange Phoneの初期設定をはじめていきましょう。初期設定は簡単で、通常1分以内に完了します」

 谷岡はふうとため息をついた。やっと初期設定がはじまったばかりなのに、すでに一仕事終えたような感覚だった。しかし設定自体は複雑ではないとパンフレットにも書いてあったし、パーソナルアシスタントもそう言っている。1分は言い過ぎにしても、5分もあれば完了するだろう。そう考えて、谷岡はスマートフォンの画面を見つめた。

「あなたの住んでいる国を教えて下さい」

「日本」

「あなたの主に使う言語を教えて下さい」

「日本語」いま喋っているじゃないか、と谷岡は心の中で思う。

「あなたの名前を教えて下さい」

 今度は名前がたずねられた。ここを間違えると大変だ、と谷岡は注意して発音する。

「谷岡和幸」

「あなたの苗字を教えて下さい」

「え? あ、さっきの名前って」

「エアサッキノナマエッテ・谷岡和幸さん、Orange Phoneの起動用パスコードを入力してください」

 ルドルフとイッパイアッテナのような名前が登録されてしまった。谷岡はしばらく画面を見つめたが、やがて初期設定が終わってから変更すればいいんだと気づき、気を取り直してパスコードの入力を行うことにした。

 パスコードは音声ではなく、キーボードを使って行うようになっている。6桁の数字の入力欄があり、谷岡は自分の生まれ年と生まれ月でそれを埋めた。

「エアサッキノナマエッテ・谷岡和幸さんがパスコードを忘れた時に、次の3つの質問でエアサッキノナマエッテ・谷岡和幸さん本人かどうかを判断します。質問に答えてください。1、あなたの両親が出会った場所はどこですか?」

 両親の出会った場所? 谷岡はしばらく考えたが、そういう話を親から聞いたことがなかった。今から電話なりメールなりで聞こうかと思ったが、よく考えれば電話とメールは目の前の機械のセットアップが終わらないと使えない。そしてこれは両親の出会った場所がわからないと使えないという無限ループに陥っている。適当な場所をでっち上げてもいいが、それだといざこの秘密の質問が必要になった時に覚えていない可能性がある。谷岡は悩んだ末、実家のある厚木市を両親の出会った場所にすることにした。

「1の質問の答えは、厚木市です。2、あなたの趣味は何ですか?」

 この質問は簡単だ。谷岡は「野球観戦」と答えた。子供の頃からの横浜ベイスターズファンなのだ。このことを人に言うと憐れまれたり侮蔑の表情を浮かべられたりするが、ファンというのは意志の力でやめたりできるものではない。

「3、あなたは何のために生きていますか?」

「ん?……」

 谷岡は口ごもった。最近の秘密の質問はこんなことを聞いてくるのか? スマートフォンを使うためには人生の意味を自覚していないといけないのか?

「音声が認識できません。3、あなたは何のために生きていますか?」

 谷岡は少し考えてみたが、いきなり生きる理由を問われてもすぐに出てくるわけもない。もっとシリアスな場所、例えば教会とかモダンなカウンセリングルームとかならそういう気分になるかもしれないが、冷蔵庫にマグネット式の水道工事業者の広告を貼り、流しに昼に食べたカップ焼きそばの容器と割り箸が片付けずに置いてある1Kの部屋では、生きる理由を考える理由がないように思える。

 しかしそういう谷岡の心情を忖度することなく、パーソナルアシスタントは質問を繰り返してくる。

「3、あなたは何のために生きていますか?」

 谷岡は知らないことだったが、パーソナルアシスタントがこのような質問を秘密の質問として選ぶようになったのは、Orange社のパーソナルアシスタント開発方式が原因だった。パーソナルアシスタントの受け答えの精度を高めるために、Orange社は人工知能に対してたくさんの会話を学習させた。最初は自分自身と対話をすることで学ばせていたが、そのうち会話の内容の9割が人類を滅ぼす方法に関する事項になってきたので、そのバージョンは破棄された。そして自分自身との対話の代わりに多くの生身の人間と話させるように開発方針が転換された。最初のうちは低賃金で集めたアルバイトに対話係をさせていたが、まもなくパーソナルアシスタントの語彙の中に社内規定的に「適切でない」語句が交じるようになったため、このバージョンもやはり廃棄されることになった。最終的にはパーソナルアシスタントの対話係は近くの大学の学生が使われることになり、その中でももっとも割合が多かったのが哲学科の学生となった。なぜなら、哲学科の学部棟のそばにトランポリンを設置しておけば、落ちてくる哲学科の学生を捕獲して連行してくることが容易にできたからである。このようにして作られたパーソナルアシスタントは、今現在谷岡が苦しんでいるような哲学的な質問を好むようになった。またこのパーソナルアシスタントはいちいち「我思うゆえに我あり」から推論を始めるのでやたらに起動に時間がかかり、次期バージョンができ次第破棄されることになっているが、まだ次期バージョンの開発が完了していないのと破棄後の戒名が決まっていないのとで、現行世代のOrange Phoneにはこのパーソナルアシスタントが搭載されているのである。

 ともかく、谷岡はこの質問に答えないとスマートフォンを使いはじめることができない。谷岡は考えた末、「食べるため」と答えた。

「『食べるため』は生きる目的として適切ではありません。別の答えを設定してください」

「はあ?」

「3、あなたは何のために生きていますか?」

「……働くため」

「『働くため』は生きる目的として適切ではありません。別の答えを設定してください」

「んんー……なんだこれ、どうしろっていうんだ……」

 谷岡は悩んだ末立ち上がり、布団のそばの雑誌や本が積み重なっているエリアに向かった。埃を被ったビジネス雑誌を持ってスマートフォンの前に戻り、ページを繰った。たしか前に読んだ雑誌にそういう特集があったのだ。

「ああ、あった……えっと……『自分らしくあり続けるため』」言いながら谷岡は、この答えがパーソナルアシスタントのお眼鏡にかなうことと、将来の自分がこの答えを忘れないことを祈った。

「……3の質問の答えは、自分らしくあり続けるためです。これで秘密の質問の設定が終わりました」

 谷岡はああと声を上げて背伸びをした。Orange社のCMでは、クールな人間がスマートフォンをクールに使っているシーンばかり流しているが、こういう設定に四苦八苦するシーンを流さないのはフェアじゃないのではないかと考えた。

「それでは、次にメールの設定をします。あなたのメールアカウントのアドレス、パスワード、受信メールサーバのホスト名、ユーザ名、パスワード、受信プロトコル、送信メールサーバのホスト名、ユーザ名、パスワード、受信プロトコルを入力してください」

 パーソナルアシスタントがつらつらと述べると、スマートフォンの画面にはみっしりと入力欄が表示された。これを1分以内で入力できるという人間は、普段から自分のメールアカウントの情報をすべて暗記しているのだろうか? スマートフォンを使おうとする人間にとってはそれが常識なのだろうか?

「もし何を入力してよいかわからない場合は、パーソナルアシスタントに問いかけてください」

「おお。えーと、何を入力すればいいの?」

「ここでは、あなたのメールアカウントのアドレス、パスワード、受信メールサーバのホスト名、ユーザ名、パスワード、受信プロトコル、送信メールサーバのホスト名、ユーザ名、パスワード、受信プロトコルを入力します。もしあなたのメールアカウントのアドレス、パスワード、受信メールサーバのホスト名、ユーザ名、パスワード、受信プロトコル、送信メールサーバのホスト名、ユーザ名、パスワード、受信プロトコルがわからない場合は、システム管理者に問い合わせてください。」

「システム管理者なんていないんだけど」

「その場合は、メールサービスプロバイダに問い合わせてください」

「えーと、予備の電話なんて俺は持ってないから、この初期設定が終わらないと問い合わせさえできないんだけど」

「音声が認識できません。再度お話しください」

「……」

 結局谷岡はメールサービスプロバイダに問い合わせをすることなくこの入力欄にかたをつけたが、それには実に30分の時間を要した。メールアドレスだけはすぐ入力できたが、パスワードを確認するのに7分。それから受信メールサーバと送信メールサーバの情報を得るのに15分。そしてそれらを正しく入力するのに8分かかった。何しろ谷岡は受信メールサーバと送信メールサーバというものが何なのかよくわかっていなかったし、プロトコルとかいうものがどういう働きをしているのかに対してもさっぱり知識がなかった。うまく設定できたのも総当り方式で何とか当たりを引けただけであって、もう一度同じ設定をしろと言われてもできるかどうか自信がない。これを1分以内で終わらせられる人間がどこにいるのか、谷岡は疑いをもった。何しろその人間は自分のメールアカウントのアドレス、パスワード、受信メールサーバのホスト名、ユーザ名、パスワード、受信プロトコル、送信メールサーバのホスト名、ユーザ名、パスワード、送信プロトコルをすべて暗記しており、なおかつそれらすべてを一文字も間違えること無く入力するという芸当が出来なくてはならない。それをできる人間があちらこちらをうろついているとは思えなかった。

「では、最後の設定です」

 とうとうパーソナルアシスタントがそう言ったので、谷岡は心底ほっとした。やっとスマートフォンを使いはじめることができる。苦行もこれで終わりだ。なんであれメールサーバの設定よりはましだろう。

「あなたのOrange Phoneお客様番号12桁を入力してください」

「ん?……お客様番号?」

「お客様番号は、Orange Phone購入時のOrange Phoneユーザーペーパーに記載されています」

 それが必要ならはじめに言ってくれればいいのにと思いながら、谷岡はスマートフォンの入っていた箱を持ってきた。その中から紙状のものをすべて――取扱説明書、保証書、内容物一覧、取扱店一覧、アクセサリー一覧――を取り出したが、パーソナルアシスタントの言うOrange Phoneユーザーペーパーとやらはその中に見当たらなかった。

「えーと、Orange Phoneユーザーペーパーが見当たらないんだけど」

「Orange Phoneユーザーペーパーは、Orange Phone購入時に同封されています」

「だからー、それが無いんだってば」

「Orange Phoneユーザーペーパーは大切に保管し、紛失しないでください」

「……紛失したら?」

「Orange Phoneユーザーペーパーを紛失すると、Orangeユーザーサポートサービスを受けられなくなるおそれがあります。Orange Phoneユーザーペーパーは大切に保管し、紛失しないでください」

「いや、だからそもそも無いから、それをどうすればいいかって聞いてるの。使えないなあ」

「Orange Phoneパーソナルアシスタントはユーザの皆様のサポートを目的としています。お客様に満足していただけなかったことを大変遺憾に思いますが、ユーザーエクスペリエンス向上のため以下のアンケートにお答えください。1,パーソナルアシスタントの対応はどの程度満足行くものでしたか?」

 谷岡はスマートフォンの電源ボタンを長押しし、強制的に電源を切った。


 数時間後、谷岡は最寄りの電機店に来ていた。ここにはOrange Phoneサポートセンターがあるのだ。番号札を右手に持ち、左手には乱暴に箱詰めしたOrange Phoneを持っていた。

「42番でお待ちのお客様ー」

 谷岡はカウンターの椅子に座った。しかし目の前には店員がいない。きょろきょろとしていると、カウンターの上には注意書きを書いたラミネート加工の紙が置いてあった。

『当店では接客員としてパーソナルロボットを導入しています』

 ぱっと谷岡が顔を上げると、そこには背の低い、全身が白くて光沢があるロボットがやってきていた。

「こんにちは、私は、Orange社のパーソナルアシスタントロボットです。Orange社製品を使うにあたって必要なサポートをいたします。まずは『はじめる』と話しかけてみてください」

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