バーの2人

@josef_lopital

第1話

 春先の雨はしとりしとりと夜と一緒に街を覆う。そんな中を私は傘をささずに速足で歩いた。濡れない手段はある。鞄を開ければ折り畳みが入っている。単に差す気になれないだけだ。

「待ってくれ、佳純。頼むから。俺が悪かった。」

後ろから私を呼び止める声がする。私は見向きもせずに突き進む。

「お願いだ。ちょっとした間違いなんだ。」

傘を振りかざして男が追いかける。

私は自分に言い聞かせるようにため息をついて立ち止まった。踵を返して、きっ、と男を見据えて投げつけるように言った。

「もう沢山なの。今回でよくわかった。私だっていい気分はしないし、あなたは新しい人と心晴れて一緒になれる。別れた方がお互いのためじゃない。」

彼は私の気持ちを知ってか知らずか、私に自分の傘を差しながら答えた。

「悪いと思っているよ。本当なんだ。本当に好きなのは君なんだ。」

彼にとっては殺し文句なのかもしれない。でも私はそれをすでに3回は聞いたことがある。それも別の人から。

「悪いけど、もう口もききたくないの。少しでも私を想っているならこれっきりにして。」

 私はもう一度振り返って、また雨の中に飛び込んだ。彼は相変わらず私に言葉をかけながらついてくる。

 もう嫌なの。うんざり。

 今の私には彼の必死の言葉よりも、歩道の雨音のほうがずっと心地よかった。


 目の前の信号が点滅を始めたのを認めた私は全力で走った。横断歩道の真ん中あたりで赤になった。さっきまで私がいた歩道に彼が取り残されているのが分かった。彼の声が横切る車の音にかき消されていった。

 これで良かった。このままさよならできる。

 ほっと一息すると、冷たい濡れ髪のせいか、急に頭が冷静になった。この先は街のはずれまで一本道だ。どのみち追いつかれるだろう。最も彼がそうする気があるならば、だけれども。

 どうしようか。それではばつが悪いし、早いところあきらめて欲しい。タクシーが通ったらすぐに捕まえようか。

 そんなことを考えて歩いていると、小さな灯りと扉が目に入った。しめた、きっと小さな飲み屋だろう。今となっては雨にぬれ続けるのもばからしく感じてきたし、ここですこしかくまってもらおう。

 そう思ってさっと扉に手をかけて、素早く押し開き中に体を押しこんだ。扉を閉じるととたんに雨音がさえぎられる。憂鬱な空間から切り離されたようで穏やかな心持になった。


「いらっしゃいませ。」

低めの落ち着いた女性の声がした。私はそこでやっと自分が入った場所に注意を向けた。そして自分の行動を後悔した。とても自分には場違いな場所に思えたからだ。

 そこはこじんまりとしたバーのようだった。1つだけのカウンターはゆったりとした茶色の照明に沈んでいた。その向こうでは棚に並んだ洋酒の瓶が間接照明にライトアップされていた。白い灯りがコントラストになってよく映える。そして私に声をかけたであろう女性の店員が立っていた。30歳手前だろうか、私よりは年上に見えた。すらりとした女性で長めの髪を横に結んでまとめていた。黒いエプロンと白いブラウスがよく似合っていた。顔のつくりは不細工ではないけれども、とびきれいというわけではなかった。それでも、クールな気品を漂わせつつ、ちっとも嫌味に感じないそのたたずまいは、私が今まで会った人の誰よりもきれいに見えた


「お一人かしら。」

彼女はグラスを磨きながら私に優しく笑いかけた。母親や姉のそれとは違うけれども、何とも言えぬ安心感を与える振る舞いだった。それでも、どうも私はよそよそしさにも感じられる、なんともいえぬ居心地の悪さを感じた。それで私は、はい、とだけ小さく答えた。

 そんな私は大人の店に迷い込んだ世間知らずな子供に見えただろう。それでも彼女はやはり笑顔で

「お好きな席へどうぞ。」

とカウンターの椅子をすすめた。私はこくりと頷いて、おずおずと店内へ進んだ。

 ほかの客は一人しかいなかった。くたびれたジャケットを着た男だ。その男は眠そうな目で私のことを見ていたが、私が気づくと目をそらしてカウンターに置いてあったたばこを取って火をつけた。店内に独特の臭気が漂う。

 私はその男から一番遠い席をえらんだ。私が腰かけるとすぐにその男が口を開いた。

低めの疲れ果てたような声で、面倒くさそうな印象があった。たばこの煙を深く吐き出し、なんだい、とつぶやいてから

「外はまだ雨が降っているのかい。」

と続けた。男は正面に向かって話していたが、私に尋ねているのかどうか判断に苦しんだ。この男は明らかにずぶぬれになった私をみてそんなことを聞いたのだろう。

 私はもう一度自分がこの店に入ったことを後悔した。こういう気取ったような店にくる男なんてのはたかが知れている。私に興味を持った連中は大概がそうだった。またこんな人間と関わるのは一瞬でもごめんだ。

 私は意図的に答えなかった。すこしの沈黙のあと、彼女が静かに笑いながら口を開いた。

「私の言った通り。よかったでしょ、傘持ってきて。」

男はたばこの灰を灰皿に落として、ははは、と短く笑って答えた。

「別に言われなくとも持ってきたよ。ここに来るまでだって降ってたんだから。」

 彼女は笑みを保ったまま、グラスを磨いていた。そして私のほうに目をむけて

「メニューお持ちいたしましょうね。」

と申し出た。正直なところ困った。そんな高い酒は飲めないのだけれども、私はこういうところの酒の相場が全くわからなかったからだ。

 そんな心配をよそに彼女は私の前にメニューを広げてくれた。価格を見て私はやはりどうしようか悩んだ。入った以上は何かを頼まなければ、店に悪い。しかしながらこの店は大抵が千円くらいなものだった。大学の飲み会くらいしか経験のない私にとっては一杯の酒にそんな金を出すのは抵抗があった。

 そんなことを考えていると扉が開く音がした。私を追いかけて彼が入ってきたのかと思った私ははっとして扉を振り返った。しかしながら扉を開けたのは店員の彼女だった。扉を半分ばかり明けてから外の誰かと話していた。

「ごめんなさい、もうお店閉めるんです。」

「ここに女性が来ませんでしたか。雨に濡れている人なんですが。」

私は思わずできるだけ身を小さくした。カウンターの反対の端っこで男が煙を吹く音がした。

「いいえ、来ていませんよ。」

彼女がやんわりと否定した。

「もう閉める時間なので、お客さん断ってるんです。」

彼女がそう続けると、そうですか、と答える声がした。彼女は謝罪しながら外灯を消して扉を閉めた。

 私は、あの、と彼女にお礼を言おうとした。しかし彼女は私には見向きもせずにカウンターに戻った。男はふん、と鼻で笑って

「気の毒なやつだ。入れてやりゃあよかったのに。」

とこぼした。彼女はやはりあの笑顔で、あら、応えた。

「でもあなたが私でもそうしたでしょう。」

「そう思うかい。」

「ええ。」

それに男は笑っただけで応えなかった。彼女はもう一度グラスを磨き始めた。

 二人は静かに微笑んでいた。グラスを磨きながら、たばこをふかしながら。たばこのにおいだろうか、鼻につく臭気の中にほのかに甘い匂いがした。私はやはりじっとメニューを見つめることしかできなかった。

 やがて男は吸い終わったたばこを灰皿に押し付けながら、さて、と切り出した。

「そいじゃあ、僕は帰るよ。」

彼女は尋ねた。

「もう帰るの。せっかく話し相手が来てくれたじゃない。」

男は私を一瞥することもせずに答えた。

「別に僕と話したくて来たわけじゃない。口もききたくないだろう。」

 私は心中を言い当てられて少しぎくりとした。男はやはり微笑んだままだ。彼女もやはり笑顔のまま答えなかった。男はまた明日来るから、と彼女に告げて、扉に向かって歩いた。

「明日も同じくらいかしら。」

「いつも通りだよ。」

男は扉を開けて、雨音の中に消えていった。


 彼女は男を見送った後、さぁ、とため息をついて

「紅茶は好きかしら。」

と私に尋ねた。尋ねつつすでに支度をしていた。

「いいえ、どうかお構いなく。」

と断った。

「いいのよ、気にしなくて。お代ももちろんいいわ。お店閉めちゃったし。」

彼女はティーセットを準備しながら答えた。私としてはだからこそ遠慮したかったのだけれども。

 静かな店内に彼女がお茶を淹れる音だけが響いた。

やがて彼女が紅茶の入ったカップを私の前に出した。どうぞ、と言いながら私に差し出すそのしぐさは、照明の雰囲気もあいまってとても優雅に思えた。私はお礼を言ってその紅茶を飲んだ。とても良い香りがした。暖かい紅茶は雨で冷え切った体に染み渡った。

「隣、いいかしら。」

彼女が自分の分のカップを用意しながら尋ねた。私はどうぞ、とだけ答えた。彼女はにっこりとうれしそうに笑って、ありがとう、と答えた。彼女はいったん店の奥に消えた後、真っ白なタオルを片手に現れた。

「女の子が体冷やしちゃだめよ。はい。」

といってタオルを差し出した。このころになると私はもう遠慮をしなくなっていた。この期に及んで親切を断る方がずっとみじめに思えた。

「でも、そんな気分のこともあるわよね。」

と、彼女は紅茶を含みながら切り出した。

「わかりますか。」

「わざわざ雨に濡れるときなんて、大体そんな気分のときよ。」

私は言い返すこともできずに肩を落とした。

 あの、と私はさっき言えなかったお礼を言おうとした。

「さっきはありがとうございます。かばってくれて。」

彼女は余裕のある微笑みを私に向けて

「いいのよ、ひどい人だったんでしょ。」

と答えた。

「わかりますか。」

「なんとなくだけどね。」

彼女はもう一口紅茶を飲んだ。少しの間、心地よい静寂を過ごした。


 その後、私は堰を切ったように彼女に愚痴をこぼした。浮気されたこと、こんな経験がもう何回もあること、云々、云々。そのたびに彼女はへぇ、とかたそうなの、と頷きながら終始ゆったりと構えていた。今思えばなぜ初対面のバーの店員にこんな話をしたのかわからない。しかしなんとなく話したくなるような魅力が彼女にはあった。友人とも、家族ともつかないような包容力。知り合って数時間の人間にこんなことを感じるのはとてもおかしなことに思える。


 私は調子に乗ってしまったのか、こんな疑問を投げかけた。

「さっきの人と付き合っているんですか。」

すると彼女は少しだけ驚いた後、いつもの笑顔に戻って、どうして、と尋ねた。

「二人を見てると…その…雰囲気がそうかなぁ、と思って。」

彼女は正面の自分のティーカップに目を落とした。口元には優しい微笑みが残っていたが、目が少しだけ切なそうに見えた。私は続けた。

「なんというか、全部しゃべらなくても互いのことが分かるような…。」

彼女は先ほどの姿勢を続けたままだ。そのまま、そうね、とこぼした。

「それは確かにそうかもしれないわ。でも外れよ。」

彼女はもう一度、さっきまでの表情を取り戻して、私に向き直った。

「恋人なんかじゃないわ。そんな花のあるものじゃない。だけどもあの人のことは私もよくわかっているつもりだし、私のこともあの人、たぶん誰よりも知ってるわ。」

彼女はため息をつきながら答えてくれた。

「不思議よね。私もあの人も恋人なんかいない。だからなろうと思えばいつでもなれると思うの。」

そういう彼女の言葉にはうぬぼれとか、そういうものは微塵も感じられなかった。

「ただの友達だというにはすでにお互いに入り込みすぎているし…」

私は自分の考えをぶつけた。このころにはすっかり彼女によそよそしく思わなかった。むしろ彼女へ強い興味を持っていた。

「それは友達以上恋人未満のような…。」

彼女は首を横に振った。

「それも違うわ。むしろ恋人以上かもしれない。恋人なんかよりもずっとありがたい人よ。」

彼女はにっこりと答えた。

「お互い恋人なんてものにはもう懲りてるから…。だからこんな感じなのかもしれないわ。」

 そう答える彼女の横顔は優しさに満ち溢れていた。遠くを見つめる彼女の視線の先には何が見えているのか、私にはわかる気がした。彼女に興味をそそられた私は彼女とあの男の関係を知りたかった。しかしそれを理解することは難しく思えた。きっと私が体験したこともないような絆なのだろう。あの男のことは、私は全く知らなかったが、彼女とのこの会話だけで知り得たような気分になれた。しかしながらやはり男も私が過去にあったことのない人間なのだろう。

「さぁ、遅くなってきたわ。帰りましょう。車で送ってあげるわ。」

彼女はティーカップを引きながら奥に戻っていった。

「その傘。使っていいわよ。」

彼女の視線の先を見ると、さっきの男が座っていたところに傘が置いてあった。あの男が忘れていったものだろう。そう思った私が、大丈夫です、と答える前に

「いいのよ。あの人、わざ置いていったのよ。」

彼女はあきれたような表情をしていった。

「この傘、使っていいよって、そんな簡単なことも言えないのよ、あの人。」

今度の彼女は少し嬉しそうだった。


 帰りの車の中で、私は尋ねた。

「この傘、どうしたらいいでしょうか。」

「明日持ってきてくれると、あの人喜ぶと思うわ。」

それを聞いてがっかりしたような気持になった。なんだ、やはり私のこと気になってたんじゃないか。男ってのは結局のところ。そういうことも嫌だったし、そう考えてしまう自分も恥ずかしかった。そんな私のことを察したのか、彼女は続けた。

「あの人、そうやって他人との縁を試すの大好きなの。きっと寂しい人だからこんなやって人を試すようになったのね。」

彼女はため息交じりに続けた。

「単に試してるだけなのよ。そしてもし縁があったら、私に嬉しそうに話すのよ。」

彼女との会話はこれっきりだった。


 家まで送ってもらうのは悪い気がしたので近くの駅でおろしてもらった。

「じゃあね、今日は来てくれてありがとう。あなたはいい恋人を捕まえてね。」

私はありがとうございます、とお礼を言って、彼女の車を見送った。


 彼女たちの関係はとても理解しがたいものだ。お互いのことを想いあっているのに、恋人になることを恐れて逃げているようにもとれる。しかしながら、彼女たちのこの微妙で、壊れそうな関係が尊いものに思えた。

 そうどこにでもある絆ではない。どこか切なさを抱えたまま、あの二人はどうなるのだろうか。その先はとても不安に思える。きっと彼女もそれを知っていて、私に言ったのだろう。


あなたはいい恋人を捕まえてね


 部屋に戻って形態を見ると着信もメールもない。きっとあいつは新しい人のところに行く決意をしたのだろう。私はこれからどうしよう。そう思うと、あの二人のことが頭をよぎり、もう一度傘を携えて、あそこに行こうと思った。

 しとりしとりと、群青色の夜明けが来る。

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