4.
こちらの姿を認めた途端、ヘレの表情には明らかな困惑の色が浮かんだ。尋ねたいことは幾つかあるようだが、舌は唇を一度湿したきり、大人しく引っ込んでしまう。
「ミリーならバスルーム」
ベランダから室内へ足を踏み入れざま、マティアスはまず相手が一番重要視しているだろう疑問に答えた。既に味のなくなったガムを舌先で転がしながら、床の上の黒いゴミ袋を指さす。
「窓の外で鳩が爆発したって電話が掛かってきてね。ネズミ捕りを水へ浸けるのも嫌がるような人間に、血まみれの床を掃除させるわけにはいかないだろ。これが現状の説明」
「話が全然掴めない」
ビニールの端をつまんで中を覗き込み、ヘレは呟いた。中途半端に羽を毟ってからオーブンへ入れたような残骸を目にしても、女のような恐慌は訪れない。無表情のまま、手にした紙袋を抱え直す。
「ボロネーゼとか、タルタルとか、そういう料理みたいだな」
「君の軽口は珍しいけれど、ミリーの前では言うなよ。さっきも吐きそうになってた」
箒とちりとりで掃き集めた羽毛をゴミ袋へ流し込めば、お次はブラシの出番だ。外で呼び出され、ここへ来る途中にスーパーで買った掃除用具一式はしめて32ユーロ。
こんなことで金を使うのも馬鹿らしい、フロントへ電話したらと言ったのだが、奥ゆかしいミリアムは受話器の向こうで囁いた。「だって、電線が溶けてサッシへ張り付いてるのよ。配線をいじったのがバレちゃうわ」。
「泥棒避けの仕掛けに鳩が引っかかって、感電したと」
「そう。ちょっとした事故に過ぎない」
柔らかい午後の風で拡散されたとは言え、バルコニーにはまだ匂いが残っていた。肉の焦げ臭さ、そして血の鉄臭さ。マスクも買ってくれば良かったと今更ながら後悔し、マティアスはバケツの中に沈めていたブラシを取り出した。
「コンセントに繋いで、先端を桟にテープで張り付けるだけ。住人が出入りするときはスイッチで電流を遮断、工事いらずで、うちの会社でもなかなか人気商品なんだぜ」
「欠陥商品だろう」
「違う、わざと電圧を高めた」
ミリアムの言うとおり、溶けたうえ血肉にべっとりまみれた電線の先端を見つめ、ヘレは僅かに眉を顰めた。
「鳥が爆発するような電圧なら、人間でも無事じゃ済まされないぞ」
「寧ろその方がいいんだよ」
しゃがみ込んだ膝の上へ乗せるよう呟いた言葉が、聞き取られることはなかったらしい。手伝おうかと申し出ることすらせず、ヘレは石造りのひんやりした手摺りに身を凭せ、広がる景観に見入っていた。
フランクフルトはおろか、この国でも屈指の伝統を誇るホテル、シュタイゲンベルガー・フランクフルターホフは、元来迎賓館だったという。マティアスが姉に取ってやった部屋は財布に優しいスーペリアルーム。調度品と言えばダブルベッドと書見机、一人掛けのソファしかないこじんまりした部屋だが、窓からの眺めは悪くない。カイザー通りを挟んで建つコメルツ銀行タワーが臨めることも、闘志を焚きつける意味で言えば好都合だった。
往来を行き交う人々、車、ルネサンス式の建物やガラス張りのビル、広場の小さな噴水から吹き出す水に至るまで、低い軌道を描く太陽の光で燻した金の色に染めあげられている。だが美しい午後の景色に、ヘレは感慨というものを一切抱いていないらしかった。見下ろす青い瞳は、この世の王のように超然としている。
「今日も付け回された」
ふわふわと浮く短い前髪を、軽く振る頭の動きで払いのける。指し示す眼差しと口調は、ただ事実だけを告げる淡々としたものだった。
「黒のBMW」
「あの真正面にいる奴だろ」
身を丸めた姿勢のまま首だけ伸ばせば、探し回る必要はない。青と白のビーチパラソルが立ち並ぶ店のすぐ側で、件の車はアイドリングを続けていた。
「ベンツの店舗前にBMWが停まってるなんて、ちょっと面白いな」
「本当に、心当たりがないのか」
「今のところね。前の仕事の関係でも無さそうだし。君こそ、うっかり恨みでも買ったんじゃないのか」
「中東で殺したテロリストの親類かとも思ったんだが」
全く笑えない冗談は、本人すらにこりともしないまま放たれる。
「違うらしい。顔が見えない」
「警察関係者ならレンタカーへ乗ってるはずがないし」
ヘレと違い、アクセサリーとしての知識程度しか持ち合わせていないマティアスでも、その車が不審であることは分かった。とにかく、綺麗すぎるのだ。
この国の人間は名だたる名車を生み出して来たが、基本的に車の運転が荒いし、手入れもそこまで熱心に施さない。あんなへこみもなく、ぴかぴかにワックスを掛けられているボディなんて、レンタカーか、ヘレのように偏愛とも言えるこだわりを持っている人間のものか。
目をこらしたところ、運転席に一人乗り込んでいるのが分かる。スモークガラスのせいで顔までは判別できないが、ヘレ曰く飽きる様子もなく四六時中追い回しているのだという。
「おまえのほうは?」
「さっきまで、こっちはアウディだったけれど、あの噴水近くにいたんだ。だが君が来た途端、いなくなった」
つけられていると気づいた最初の三日間、二人は仕事の合間に様々な方法で追っ手に挑んでみた。細い一方通行の通りを徒歩で歩き、突然バスに飛び乗り、興味のない博物館へ駆け込んで。
得られた結論は、相手が土地勘のない人間であること、建物の中にまで侵入を試みる程、無謀で乱暴な人種ではないこと。彼らの真価とは、その粘り強さであることだった。何度撒いても、翌日の朝ホテルを出るときは必ず後ろに張り付いているのだ。
特に何か手出しをしてくる気配はないので、最低限の警戒だけを怠らず、好きにさせることにした。どうせなら、掃除の手伝いでもしてくれればいいのに。実際、下へ降りてアウディの中から引きずり出してこようかと、ヘレがやってくるまでのマティアスは考えていたほどだった。
粉洗剤を撒いては、どろりとした赤黒い水たまりを擦るという地道な作業を続けて15分ほど。ようやく同情の念を抱いたのか、ヘレはバケツの中に片手をつっこんだ。
「それ、ワインか」
「ミリーにと思って」
テーブルの上へ乗せられた紙袋は、どれだけ強く握りしめられていたのだろうか。汗を吸い驚くほど皺くちゃだった。覗くラベルを見て、思わず口から乾いた笑いをこぼしてしまう。ブルゴーニュ・ワインだなんて、ヘレにしては気取り過ぎていて、ミリアムが好むには少し重すぎる。
「風呂から上がり次第、ロッテの家を見に行くんだと。その後、大学時代の友達と夕飯食ってくるとか」
「あ、そう」
濡れタオルで窓ガラスを拭っていた手が、一瞬動きを止める。
「『若きウェルテルの悩み』か。彼女らしいな」
「いつまで夢見る乙女のつもりなんだか」
「彼女はそれでいい」
深々と吐かれたヘレの息は、点々と飛んだ血しぶきと羽毛を擦り落とすためではあるまい。
「彼女、こっちで楽しんでるかな」
「あの鬱陶しいウィーンを出るだけでも楽しいんだ。そんなに気に掛かるなら、君がどこか連れてってやれよ」
「ああ、うん」
タオルを握る指に力が籠もり、ガラスがきゅっと音を立てる。
「そうだな。どこへ連れてけば良いのか……」
背丈の割には広い肩が、先細りの言葉と共に力なく落とされる様は、予想に反して眺めても楽しいものではなかった。
もう30いくつの男が、女一人に振り回されるなんて。彼が決して女性関係の派手な人間でないことは軍時代から知っていたつもりだったが、幾ら何でもあんまりだ。呆れを通り越して、苛立ちすら感じるほどに。
「夜、二人でディナーとか。今回の車は何だった」
「BMWの7。新型じゃないが、よく走る」
「上等上等」
片頬を歪め、マティアスは額へ滲んだ汗を拭った。
「もう一つだけ教えてやるよ。ミリーは内臓料理がそこまで好きじゃない。レバーとか、フォアグラとか。許せるのは腸詰めまでさ」
「掃除終わった?」
すずやかな声と、ヘレの背筋がぴんと伸びたのを、マティアスはほぼ同時に知覚した。それはすぐさま、甲高い悲鳴に上書きされる。
「す、すまない!」
これがタリバンの急襲なら、あっと言う間に蜂の巣にされていただろう。両手で握りしめたタオルを思い切り引き絞りながら後ずさり、ヘレは叫んだ。謝罪と裏腹、見開かれた彼の目は動揺の余り欲望へ馬鹿正直に。バスタオル一枚巻き付けた彼女の肢体を凝視し続けている
驚いているのはミリアムも同じ、押さえる手でバスタオルを余りにも引っ張りすぎた。はらりと解けた布から現れたものは、逆光のおかげでそれほど鮮明には見えない。そう思うことにする。新たな悲鳴、そして今度こそヘレは後退しすぎて、どしんと尻を手すりにぶつけた。バルコニーから真っ逆様に落下しなかっただけでも、よく耐えたと褒めてやるべきだろう。
慌ててバスルームへ駆け戻ったミリアム以上に、ヘレは心臓を波打たせているらしかった。今にもへたり込みそうな脚は、子鹿のように震えている。
「君、本当にヴァージンじゃないんだろうな」
手すりを固く握りしめたまま、ヘレは目玉が飛び出しそうなほど剥いた目でマティアスを睨みつけた。
「俺の前ではタオル一枚でも平気な癖して、君がいると大騒ぎだ。こりゃあ、思ってたよりも」
ぼやきの続きは、バケツの中へ乱暴に投げ入れられたタオルに遮られる。水音が消えるよりも早く、ヘレはむっつりと室内に戻った。腰掛ける前に、わざわざソファの背をこちらへ向けるほどの徹底ぶりを発揮する。
先ほどマティアスがベッドの上へ投げ出しておいた封筒を取り上げたのが最後だ。掃除の間、ヘレはそのまん丸い後頭部をこちらへ晒したまま、一言も口を利こうとしなかった。
こうなると、お互い意地だ。マティアスも唇をねじ曲げ、その場にしゃがみなおした。わざとらしく隅々まで丁寧にブラシを走らせ、紙を捲る音をかき消してしまう。
本当に、ポン引きにでもなった気分。しかも相当空気の読めない、馬鹿なポン引き。マティアスは内心うんざりしていた。ヘレはいい年をした大人で、ミリアムもそうだ。そんな真面目腐った関係を築いて欲しいわけでは、さらさらないのに。
仕事終わり、飯を食った後にクラブへ行って、ピットブルの新曲に身を揺らす。車で家の前まで送って、頬にキスしてさようなら。マティアスのスマートフォンにアドレスという形で眠る、数多の女の子たちのような。彼女たちは決してあばずれではない。ミリアムと同じように。
そんな楽しい淑女と一緒にいたくない男など、この世にいると言うのだろうか。ましてや、二人の矢印はお互いを指し合っているというのに。
あるいは、一緒にいたくないと言うより、いることが出来ないのだとしたら?
ドレスデンの候補生学校を出た後、新人士官の常であちこちの駐屯地をたらい回しにされたマティアスと違い、ヘレは叩き上げの下士官として早々にKSK(特殊戦団)入りしている。苦痛も恐怖も、経験値は高いに違いない。
自らについて多く語らない彼のことだから、気付いてやれなかった。PTSDは、戦場を離れて何年も後に発症することだってあると言うではないか。
もしかすれば、自分はとんでもない恥辱をヘレに与え続けていたのではないか。じりじりと照りつける太陽にも関わらず、背中の汗が急激に冷えていくのをマティアスは感じた。血だまりの中から現れたタイルの、油膜を纏った輝きが不穏をかき立てる。
顔を上げて窺ったヘレの後ろ姿は、相変わらずきっぱりした拒絶に満ちている。あれだけからかったのだから、当然の話だ。
男には触れて欲しくない場所というものがある。普段は素知らぬ顔をして無視していられるが、ほんの羽のような軽さで掠めただけで飛び上がるほどの痛みを覚え、なかなか熱の引かない場所というものが。
さて、どうしたものか。すっかり忘れ去っていたガムを袋の中に吐き捨て思案しているうちに、再びバスルームのドアが開く。ミリアムは髪を乾かして顔を少しいじり、すっかり出かける準備を整えていた。飾り気のない、一昔前のジバンシーがよく作っていたような黒いワンピースは、軽やかな歩みへ柔らかく寄り添っている。
「驚かせてごめんなさいね、ヘレ」
平静そのものの微笑みを浮かべ、ミリアムは肘掛けに乗せていたヘレの手の甲を軽く叩いた。
「こんなおばさんの裸なんか、見苦しいだけだったでしょ」
「何言ってるんだ」
背後から見てもあからさまなほど身を強ばらせ、ヘレは顔を跳ね上げた。
「君、僕と同い年だろう。マティから聞いた話だと」
ふっとつかれた息は、何を押し殺したのだろう--はにかみか、もっと純粋な羞恥か。
「とてもそうは見えない。君は綺麗だよ……本当さ」
その通りだろうね。華奢で、体型も全く崩れてないし。常ならばそうやって茶化すところだ。が、マティアスは殊勝に口を噤んでいた。
「ありがとう」
吐息だけで笑いながら屈めていた背筋を伸ばし、ミリアムはこちらを振り向いた。つかつかと歩み寄る足取りはやはり蝶のように軽く、素知らぬふりなマティアスの後頭部をはたく手つきは蜂のように鋭い。
「何だよ」
「胸に手を当てて考えたら」
エルメスのハンドバッグからスマートフォンを取り出し、スワイプで振動を止める。液晶画面を目にして表情が曇ったのはほんの一瞬だが、マティアスは決して見逃さなかった。
呼び止めようとする前に、ミリアムは目を瞬かせるヘレとまっすぐ向き直った。口角を思い切り両端に引っ張る笑みに、てらいはない。
「後はよろしくね」
「ああ、気をつけて」
7センチヒールの立てる足音は分厚い絨毯へ吸い込まれて、こちらへ届くことがない。ヘレには聞こえているというのだろうか。耳を澄ましているかの如く僅かに頭を傾け、閉じられてもしばらくの間扉を見つめていた。
濁ったバケツの水を豪快に流し、マティアスは同じ姿勢をとり続けたせいで強ばった腰を叩いた。後は自然の光が乾かして、何とかしてくれる。窓ガラスは、と視線を投げかけると、そこは既に鳩がこびりついていたことなど想像できない状態に戻っていた。何があろうとも、一等軍曹はおのが使命を全うするというわけだ。
捲り上げた袖を伸ばしながら部屋へ戻り、ベッドへ身を投げる。無視を決め込む、ように見せかけて、マットレスのスプリングが軋んだ時、ヘレの瞼は一度ぱちりと瞬いた。
「理解は進んだか」
「ああ」
紙の束へ目を落としたまま、答えはぶっきらぼうに返される。
「粗方は」
「持って帰っていいよ……というか、三つ隣の部屋だから、いつでも取りに行けるし」
「すぐ読み終わる」
「そもそも、盗聴器なんか絶対仕掛けられてないと思うけどなあ。天下のフランクフルターホフに」
「万一ってことがあるし」
ようやく書類から持ち上がった瞳は、暗がりの中で一層色味を失って見える。そこには冗談の欠片も見あたらない。彼は心の底から、仕事の破綻を警戒しているのだ。ありとあらゆる感情を飛び越えて。
「僕の部屋もおまえの部屋も、通りに面していない分逆に不安だ」
だからこそ、わざわざミリアムの部屋で作戦会議を行うことにしたのだ。最初に公私を混同したのは君じゃないか。よっぽどそう言ってやろうかと思ったが、結局マティアスはそのまま組み合わせた腕を後頭部に宛てなおした。
「それで、君に頼みたいことなんだけれど」
「アクリル樹脂エマルジョンだな」
「俺が注文するよりも、車関連の君の伝を使った方が早いと思って」
丸っこい指がクリップ留めされた紙を一枚捲り、そして元に戻す。厳然とした顔つきへ覚えた既視感の根源に、マティアスはすぐ思い当たった。小学校の頃、校長のベンツからエンブレムを毟り取れるかという度胸試しに名乗りを上げ、見事成功させた後のこと。呼び出された父親は、今のヘレと殆ど同じ表情で眉間を揉み、応接室で教師の訪れを待っていた。
「猶予は何日」
「5日。週明けには仕込み終えたい。そうすれば、後は君がやりたい放題さ」
「別にやりたいって訳じゃ」
「嘘つけ」
くっくと鳩の鳴き声のような笑いを噛み潰し、マティアスは天井を仰いだ。
「君、何か企んでるんだろう。俺にも言えないような、とんでもないことを」
「企んでない」
何も挟まない人差し指と中指を擦りあわせながら、ヘレは短く反論した。彼の表情筋は、人間にしてはあまり発達していない。だが僅かに張りつめた腕、引っ込められた足、感情そのものは分からずとも、心の振れ幅をこれほどあからさまにする人間も珍しい。
「計画を滞りなく進めようと思ってる」
「そんなこと言って、この前もティファナの靴工場で」
「児童労働者が可哀想だって最初に言い出したのはおまえだぞ」
「だからって、暴動起こさなくても……覚えてるか。君、似合いもしないのにソンブレロなんか頭に乗せてさ、まるでパンチョ・ビラみたいに」
「自分だって革命家気取りだった癖によく言う」
気づけばヘレの顔も緊張を解き、からかいの色がうっすらはかれていた。
「あの演説、『メキシコの息子たちよ!』とか何とか」
「やめろ、もういい!」
頭から被った枕は、交換されてから一度も乱されていない。糊の匂いと照れくささに息が苦しくなるほど笑い転げたせいで、危うくベッドから落っこちそうになる。
「ああ、おかしい……とにかく、今回は馬鹿な真似はなし。マティアス様は金が欲しい」
「20万ドルは簡単に稼げない」
「そうだな、堅気が一度で手に入れるには大きすぎる」
ころりと俯せになり、マティアスは伏せられたヘレの目を掬い上げるように覗き込んだ。
「君は毎度、車に使うんだろう。アメ車なんかに現を抜かして、恥を知れ」
「今回はたまたまさ」
ヘレの顔の動きと言えば頬杖の上で微笑み、片眉をつり上げるだけ。なのに彼が醸し出す期待は、銀色に近い金髪をぱっと輝かせそうなほどなのだ。
「ピコ大通りの中古車屋で、狙ってる奴があるんだ。型落ちのダッジだが、試乗してすぐに分かった。古い言い方をすれば完璧に躾られた馬(gut geartees pferd)だな」
"グート"のGをユーとやんわり発音するベルリン訛りと、とっときの甘く弾む声音を組み合わせ、ヘレは車を語る。マティアスが同じ口調を作るとしたら、それは大抵女の脚か最近行ったレストランを思い出している時だろう。
一番惨憺たる話じゃないか。彼のナニがナニであろうがなかろうと。いや、ナニであることはこの際どうでもいい。大事なのは、問題を解決しようとする意志があるかどうかだ。そしてヘレは、自らから目を逸らしているか、そもそも恥じていない。
「ダッジみたいに暑苦しい車、女が寄ってこないんじゃないか」
「ナンパ用じゃない」
「車ってのはそもそもナンパ(ピックアップ)するためのものだろ」
「おまえには分からないよ」
うんざりだと言わんばかりにソファへ投げ出されていたヘレの体は、マティアスがワインのボトルを掴んだ途端僅かに浮き上がる。
「それ、ミリーに持ってきたんだぞ」
「彼女の好みじゃない。今度はロゼを買って来いよ」
栓を抜くのには引き出しを探って出てきたハットピンを--当たり前のようにそんなものを持っているのだ、ミリアムという女は--使ったから、コルクのかすを中へ落としてしまった。だがこんな小さな欠片では、ビロードの舌触りを阻害することなど出来はしない。一口、二口と煽ったところで、マティアスは自らの体がすっかり乾ききっていたことに気がついた。
「ところでそのBMW、明日の晩使う用事は?」
「いいや、別に……何故?」
「この前マインタワーで会ったミス・ニューヨーカー達と飯に……そんな顔するなよ、先に電話番号を渡してきたのはあっちだぞ」
にやにやを復活させ、マティアスは瓶を掲げて見せた。
「エマルジョンは手に入るな。他の機材も月曜には届くよう手配した。尻を叩いたから割り増しだが……まあ、今回は予算が報酬を上回るなんてことはないだろうから、せいぜい君も準備を整えてくれよ。他に質問は?」
瓶を引ったくる手つきは、野生動物が餌に飛びつく素早さを想起させる。
そのまま無言で立ち上がったヘレは、開け放したままだったベランダへとまっすぐ向かう。次の動作は、マティアスが声を上げるよりも迅速に行われた。
思い切りもよく傾けられた瓶口から、液体が迸る。むっとするような芳香が、部屋の中にまで飛び込んでくる。
最後に軽く瓶を振り、しずくの一滴までタイルの上へぶちまけてから、ヘレは投げ出してあったバケツを爪先で蹴り寄越した。
「おまえがこれを掃除してる間に、最後まで目を通すよ」
滑り落ちるようにしてベッドから降り、マティアスはベランダを覗き込んだ。鳩の屍の非ではない。自爆テロが起こされても、これほどまで真っ赤に汚れはしないだろう。傾きかけた太陽の熱を含む風が、床の上の水たまりに小さなさざ波を作っていた。
「なあ、君もしかしなくても怒ってるんだろう」
おそるおそる尋ねれば、ヘレは目以外の場所に笑みを湛えたまま言ってのけた。
「胸に手を当てて考えてみろ」
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