3.
「階数は?」
「23階。はしご車が絶対届かない高さ」
双眼鏡を顔から離し、マティアスは答えた。すぐさまぎょっとした目でこちらを見遣り、一歩後ずさる。
「そんなに乗り出すなよ。転がり落ちたらどうするんだ」
声を掛けられ、吹き上がってくる風の強さを意識する。そして気付いた。地上198メートル、人工のラピュタと宙空を区切る柵が自らの胸より低い位置にあるということに。
うっかり頭が傾ぐ前に、ヘレはガラスの柵から身を離した。高所の涼しさ、朝の清らかさ。だだっ広いばかりで何もない展望台を走り抜ける風のおかげで、冬用のジャケットを身につけていても汗が滲むことはない。
「怖がることない。降下訓練で、もっと高いところから飛び降りたじゃないか」
「今はパラシュートを装着してないし、そもそもこの高さじゃ傘が開かなさそうだ」
首だけ伸ばして真下を覗き込み、マティアスはぶるりと身を震わせた。
「スタントマンなんかやってると、恐怖への感覚が麻痺するんだな。恐ろしい」
規則正しい早寝早起き。朝食の後、博物館巡りに出かけたミリアムと別れ、二人は今日もホテルから目と鼻の先にあるマインタワーへと向かった。お目当ては市内を一望できる野外展望台。既に近隣のバス停には観光バスが数台止まっており、ビルの受付前にはカメラやパンフレットを手にした人間が群を成していた。ここへ上がってくるまでに、高速エレベーターを三回は見送らねばならなかったほどに。
街の中心部、インネンシュタットに立ち並ぶ摩天楼は雨の後に伸びる茸の如し。だがその数に比して、屋上まで上ることの出来る建物は多くない。殆どの高層ビルが金融関係企業の所有物で、最先端の警備が備えられている。
そのもっともたるものが、先ほどからマティアスが観察を続けているコメルツ銀行タワーだった。南東方向に見えるバルトロメウス大聖堂の尖塔よりも高く、市の省庁が入った格式あるバロック調のレーマーよりも威風堂々としたビル。群を抜いた長身とこちらを遮るものは、この街の空間に何一つとしてありはしなかった。
「左から二番目の部屋だ」
「デスクに足を乗せた赤いネクタイの男が欠伸をしてる」
「そう」
三棟の建物で三角形を描く銀色のビルディングは、さながらハーフタイムに頭を付き合わせ、戦略を練るバスケットボール選手。
双眼鏡を受け取り、整然と区切られた窓の一つを覗き込んだ際、ヘレは自らが無意識のうちに、下半分が欠けた円の中に浮かび上がるレティクル(目盛り)を数えていることに気がついた。
頭の禿げ上がった怠惰な男の身長を測るなんて、ただ様子を窺うだけの今は不要な作業だ。能動的に誰かの頭をライフルで撃ち抜いたり、腕の骨をへし折ったりする仕事に就くことは、二度とないのだから。
「ホームページによると、彼はベルヴァルト法務事務所勤務で不動産関連業務を担当するイェルク・ウンラント。例の小屋の持ち主に雇われていて、書類は恐らく、重要書類をまとめてある所長室の金庫じゃなくて、彼の後ろにある個人用金庫で眠ってるはずだ」
壁に埋め込まれた小さな金庫には、ダイヤルすら取り付けられていない。恐らくは電子鍵で開けるタイプ。バルジ戦線を生き抜いたというヘレの祖父ですら、鉄十字勲章と取っときのスコッチを隠すため、もう少し頑丈な代物を家へ据え付けていた。
「安物だな、バールでこじ開けられそうだ」
「工具で叩き回したら警報機が鳴る。磁石を使えば一発で開くさ」
「部屋にたどり着けば、20分以内に書類を手に入れられる」
レンズから離れ、再び眩しく広がる景観に目を細めながら、ヘレは言った。
「問題は、どうやって中に入るかだ。入館証は用意出来そうか」
「厳しいな。監視カメラの数も多いし、スーツを着ていたら入れるって訳じゃない。清掃業者や関連のベンディングも当たってみたんだが、身元チェックとIDカードの発行所持が徹底してる。流石国有数の銀行が本拠地にするビルだ」
説明は端的だが、その背後にはマティアスが二日で調べあげた情報がわんさと控えている。
彼がパソコンを睨み、あちこちへ電話を掛けている間、ヘレがしたことと言えばブライヒ通りで古めのBMW7シリーズを見つけて乗り去り、マイン川沿いのガレージでチューンナップするくらいのものだった。ファンベルトとタイヤは念のために交換しよう。シャーシの歪みや車軸は十分耐えうる。
何よりも良かったのは、ボンネットの中身は生まれたままと言っても過言ではない有様だったこと。処女の如く懸命ないきりと強張りを、少しずつリラックスさせる楽しみが残っている。本番までには、じゃじゃ馬慣らしも完了することだろう。
「もう少し当たってみるけれど、まあ期待はしないでくれ……なあ、覚えてるか。マザリシャリフで子供に菓子をやって、テロリストの隠れ家へ案内させたこと」
「ああ」
「ここの人間も、あの子みたいに板チョコレート一枚で懐柔できたらいいのに」
「よく言う」
思わず唇を歪め、ヘレは答えた。
「あの子供、結局隠れ家の前でおまえに銃を突きつけようとしたじゃないか。他人を信用なんて出来ない。Facit Omnia Voluntas(意志こそ決め手)」
その性格からすると、更なる言い募りが返されるものと思っていた。だがマティアスはそれっきり口を噤み、スプリングコートのポケットに手を突っ込んだ。待ち伏せしていたタリバンの元へ帰っていった少年を思い出しているのだろうか。子供なんて好きじゃないと、普段からわざわざ公言しているにも関わらず。
普段とは逆の事態、今のヘレは彼と話をしたくてたまらなかった。相変わらず風は全身で受け止めなければならない程だが、たたらを踏む事すらない。回転を始めた頭脳は、体の末端にまで力を漲らせてくれるようだった。
「あの赤色の建物は?」
もう数秒沈黙を保った後、マティアスはヘレが指さした方向を眇めた目でまじまじと見遣る。
昔に比べて大気汚染はずっとマシになっているのに、そのビルはひどく黒ずんで見えた。傍らで庇護するようにそびえる銀行タワーが影を落とすことで、みすぼらしさは余計に増す。他の都市へ行けば、ランドマークへなれそうなほどの高さを有しているのに。
「タワーとの距離はどれくらいだ」
「さあ、20メートルはないかな」
そう口にしたところで、マティアスは勢い込んでヘレの顔を振り返った。
「まさか君、俺が今想像してることを実行するつもりじゃないだろうな」
「中から入れないなら、外から行けばいい」
もう一度双眼鏡を持ち上げ、ヘレは答えた。退屈しきっている赤ネクタイを一度視界に収め、それから赤いビルの方へレンズを滑らせる。照明もまばらな窓に人影はない。
「前にもやっただろう。クリーブランドのIT関連会社へ入るときに」
「6階だったし、ビルとビルの間隔も半分くらいしかなかった。それに賭けてもいいが、あの窓には振動センサーが付いてる」
「センサー位なら、どうにかするさ」
レンズで縮めて見る限り、助走をつけて飛べば越えられそうに思えるほどの距離。実際のところは、マティアスの目測が正しいのだろう。
どちらにしても、ヘレは恐れというものを全く抱いていなかった。パラマウントの撮影所で、初めてカマロを片輪走行させたときと同じく。
炭酸のように冷え冷えと発泡しながら血管の中を駆け巡るのは、恐怖と似て異なるもの。ヘレは乾ききった唇を親指で撫でた。辿る口角は感情を飛び越えた場所で、微笑みの形に緩やかな湾曲を描いている。
「あのときと同じ準備を頼む」
「本当にやるのかい」
驚きと言うよりは心底呆れたと言わんばかりの口調と共に、マティアスはコートの中で肩を竦めた。
「ロスの太陽を浴びすぎて、頭がおかしくなったんだな。毎日デニムのホットパンツで、ハンバーガーばかり食べてるんだろう」
「ホットパンツなんか履いてない。それに、向こうじゃ仕事前は鶏のささみが主食だ」
「やれやれ、そういうところは相変わらずストイックって訳か」
一度落ちたら上るのも早い。スマートフォンの前でポーズを取ったり、3ユーロで3分間楽しめる据え付けの双眼鏡へしがみつく観光客の間をするすると抜けるヘレの背後で、既にマティアスはいつもの鎧に覆われた態度を取り戻していた。
「もうちょっと詰めよう。目標は17日後ってことで」
「えらく中途半端だな」
「姉貴の休暇が終わる」
隣に並んだマティアスの目は、僅かに固くなったヘレの横顔をあまたず捉えていた。
「それまでに、せめて食事くらい誘えよ」
「自分の姉に男紹介して、悲しくならないのか」
「それで姉貴の気晴らしになるならな……あーあ、この仕事が終わったら、俺も西海岸へ行こうかな。こんがり焼けたカリフォルニア・ガールを眺めに」
「期待には添えないと思う」
「あの、すいません」
不意に掛けられた英語の訛りは、二人の頭の中に蓄えられた情景を掠めていく。振り返って目にした姿が、推測を補強した。どんな場所でもTシャツを身につけるアメリカ人。今大きな胸に張り付いているのは海岸沿いで目にするよれよれのヴィンテージではなく、真新しいブランド物だったが。
「シャッター押して貰えます?」
それ以外はカリフォルニア・ガールを絵に描いたかのような金髪娘二人。癖毛とグラマラスな肉体を持つ一人が、にっこり笑顔でデジタルカメラを差し出す。隣に突っ立っていた友人らしき長身の女が、慌てて腕を引いた。
「あ、えっと、カメラ、ドラッケン……ドイツ語、もっと勉強してくれば良かった」
「大丈夫、英語で通じるよ」
カメラを受け取り、マティアスは流麗な英語と共に笑いかけた。
「どこを背景にしようか。高層ビルか、大聖堂は……高さ的に厳しいか」
「どうしようかな、お勧めはある?」
慣れ慣れしく初対面の男の腕に触れる女もどうかと思うが、それでやに下がるマティアスもマティアスだ。どこから来たの? ニューヨーク? 道理でクールだと思った。両脇に侍らせた女たちへ質問を投げかける口調は余りにも滑らかだった。
「固くなるな」だの「童貞じゃあるまいし」だのと散々貶すものの、もしもヘレがあのような態度でミリアムに近づこうものなら、マティアスは容赦なくヘレの鼻をへし折ろうとするだろう。かつて彼女を虐げた男へしたように。
実際、そうやって守られるべき女性なのだ。見目も育ちも気だても良く、それなのに決して遠く感じない。春になれば必ず咲く野の花のように。
守るべき存在に手を出すなんて、最低にも程がある。そのことを馬鹿正直に口へ出すほど、ヘレも子供ではなかった。サンオイルを塗りたくった、彼女よりも余程刺激的なサーファー娘相手でも、ここまで足踏みをしないだろう。
余計な煩いの種を巻いた張本人は、張った根に悩む人間などそっちのけ。撮影を終えても、ぺちゃくちゃ女と話し込んでいる。みっともないくらいの笑顔を、敬愛する姉へ是非とも見せてやりたいところだった。
「もしもし」
ポケットから取り出したキャメルをくわえ、火をつけようとしたところで、傍らから呼び止められる。今度は甘ったるく弾けるような口調ではなく、野太い男の声。たった数歩の距離を近づいてくる時さえ、肥え太った警備員はふうふうと大きく息をついている。
「ここは禁煙ですよ」
「ああ、どうも」
わざとらしく紙巻きを胸ポケットへ戻し、それから男の耳の辺りをじっと見つめた後、ヘレは溜息混じりに答えた。恐るべき全面禁煙の嵐。ニコチン・パッチに頼っているのかどうかは分からないが、宣言通り会ってから一度も煙草をくわえて見せないマティアスの根性には恐れ入った。軍時代は、ヘレに勝るとも劣らないチェーンスモーカーで通っていたのに。
「無邪気なもんだね、全く。『本場のフランクフルト・ソーセージはバーベキューソースを掛けないで食べるって本当なの?』だって」
女たちに手を振りながら戻ってきたマティアスは、ヘレの顔を目にした途端思い切り破顔した。
「何だ。やっかんでるのか」
「馬鹿言え」
揺らめく空気の中にそびえるタワーへ首を固定したまま、ヘレは答えた。
「4時の方向、顔は向けるな。おかしな男がいる」
「警備員じゃないのか」
「僕たちが降りた次のエスカレーターで、観光客と一緒に来た。さっきからずっと、ちらちらこっちを見てる」
マティアスの表情筋から、弛緩が消えた。ポケットから取り出したスマートフォンをタップし、カメラを起動させる。掲げてみせる位置は、自撮りするには少し高い。
「赤いスポーツ・ジャケット、40代、髪型はヘルズ・エンジェルスみたいなマレット」
「あってる」
頬をくっつけるようにして液晶を覗き、ヘレは言った。インカメラが捉えるくだんの人物は、手にした新聞を扇の如く用いて身を隠している、つもりなのだろう。紙の上辺から覗く目は蛇よりも鈍く光り、到底ごまかせるようなものではなかった。
「心当たりは」
「ないね。ほら、笑って(Ameisenscheise)……一人?」
「他に仲間は見あたらなかった。地上で待ってるのかもしれないが……専門の訓練を積んだ人間かも」
「真っ赤なジャケットにマレットとは、尾行向きじゃないけどな」
シャッターをタップして姿を納め、マティアスはまるで他人のような顔をしたままヘレの側を離れた。
「先に行く。ホテルで落ち合おう」
「ああ」
厳つさすら感じさせる歩みは、案内人にまとめられた中国人観光客へするりと混ざり込んで盾とする。頭一つ分飛び出した彼に横目を向け、それからこちらへ一瞬視線を投げかけてから、マレット野郎は携帯電話を耳へと当てた。会話が楽しいものでないことは、不機嫌に歪められた唇へ如実に現れている。
結局その男が動き出したのは、マティアスを乗せたエレベーターの箱が再び屋上へ戻ってきてからのことだった。入り口でたむろしていた観光客を押し退けながら進む突進力は、アメフト選手にでもなれば十分生かされるだろう。
彼が姿を消してから三機のエレベーターを逃した後、ヘレは地上へと舞い戻った。ビルに挟まれ昼でも薄暗いノイエ・マインツァー通りをまっすぐ南へ向かう。
壁が崩壊した直後のベルリンで思春期を過ごしたのだ。もう少し上の世代が注意深く口にするようなこの国に対する恐怖を、ヘレが抱いたことなど一度としてありはしなかった。感じるのはただの不穏だ。ネオナチが騒ぐ時期は少し前に終わっていたが、初夏ざわめかせる気配は背後から途絶えることがなかった。
わざと道端で立ち止まり、ポケットから煙草を取り出す。路上喫煙禁止などくそ食らえ……と中指でも突き出せるような怖いもの知らずの季節はとうに終わっていた。パッケージから振り出した一本をくわえたまま、数秒間動きを止めたのは、相手の出方を窺うためだ。襲いかかってくるならば返り討ちにしてやる。声をかけるなら紳士的に話をしよう、相手が銃を突きつけてくるまでは。
わざわざ機会を設けてやったのに、意気地なしはひたすら様子を窺うばかり。煙草をぷっと道端に吐き捨て、ヘレは再び歩きだした。一筋向こうの路地に入り、最初に目に入った店のガラスドアを押し開く。
可憐なベルの音が静まっても、まだ尾行者は姿を現さない。身を捩った表紙に、腕が積み上げられた古い百科事典にぶつかった。寂れた古本屋には足の踏み場が最低限しかない。店の最奥に据えられたキャッシャーの横で、店主らしい中年男が置物の如く微動だにしないまま鎮座している。
適当な本を一冊手に取り、意識はドアの向こうから外さない。薄暗い通りは文字通り都会の影、時折行き交う人間は誰もが背中を丸めて歩いている。
「『ロッテの家』には行きましたか」
声をかけられ、振り返って目を細める。そんな必要はないのに、店主の声はどこか遜ったような音色をはらんでいた。
「おたく、観光客でしょう」
「ああ、まあ」
ヘレは頷いた。
「仕事のついでに」
「この街に生まれた人間は、『若きウェルテルの悩み』へ触れるのも嫌がるんですよ。学生時代に散々読まされてノイローゼになってますからね」
自らが抱える本の表紙へ視線を落とし、納得する。題名とあらすじは知っていたが、ページをめくったことのない物語。恐らくはこの先も。
「文学には造詣が深くなくて……それに、その家にもまだ行っていない」
「読んでご覧なさい、良い作品だ」
「恋愛ものでしたっけね」
漏れるため息が、黴と古びたのりの匂いに飲み込まれて鬱いだ気を一層圧迫する。
「あまり縁がないな……」
「誰かを愛する人間ならば、必ずしろ心をうたれるはずです」
いつの間にか、店主は膝の上から視線を持ち上げていた。
「弱く、卑怯な人間の書いた理想の物語です。実際のゲーテは恋に破れもて、自殺することなどなかったのですから……理想を貫くなら、彼自身も死ぬべきだった」
「死んでしまったら、歴史的な作家にはなれなかった」
そっと本を元の場所に戻しながら、ヘレは答えた。
「死ぬことは確かに甘美かもしれないが……実際は生きたもの勝ちだ。語り体感するのは、生きていなければ」
相手をやりこめたり、追いつめたりしようとする気はなかった。だが店主は再び恥じいったように目を伏せ、読みかけの本へ覆い被さるよう俯いてしまう。
エンジンの低く穏やかな回転音が外か聞こえてきたのは、すぐのことだった。アイドリングから一転、滑るように通り過ぎるBMWには二人の男が乗っていた。逆光で影になって顔までは見えない。
「行ったことがないから、観光してみようか……彼女を連れて」
そうくちにしざま再びドアノブへ手をかければ、嘆くような息が追いかけてくる。
「あまりおすすめしませんね、あそこは」
車は数メートル先でお行儀良く待っていた。その後もしばらくあちこちを散策したが、追いついては停車し、行き過ぎては再び速度を落としと、ぴったり張り付いて離れようともしない。お互いの存在に気付きあっていることは承知の上なのだろう。
いい加減呆れを通り越して感心を覚える。寺院の如き屋根を被ったジャパン・センター前で、ヘレは路駐してあったトラックのバックミラーを覗き込んだ。レンタカーだと一目で分かるBMWはとろとろと背後へ迫りつつあった。
そのまま煮えきらずにいるつもりか。ならばこっちも、好きにさせてもらおう。隠すべきようなことは何一つしていない、今のところ。
先ほど望遠鏡で眺めた銀行タワーは、真下から見上げるほうが正確な高度を実感できる。エントランス前の階段を上り、国旗はためくポールの下を潜り、向かったのは先ほど目を付けていた薄桃色のビルの傍らだった。
足を止めることなく通り過ぎる、タワーとの間にすっぽりできあがった空間は、目測通り20メートルほど。細く切り取られた空を、ちぎって置いたような雲がゆっくりと流れている。それを写し込む磨きあげられた銀行タワーの強化ガラスに比して、ビルはありふれた二枚窓。仁王立ちのガードマンが立つメインタワー、古びた監視カメラが一台ぶら下がるきりのビル。
貧相な設備を掻い潜り、夜中まで身を潜めていることなら、5歳の子供でも容易に違いない。
真ん中が埋まったクロスワードパズルのように、一つが決まればありとあらゆる方向へ解決策は延びていく。準備さえ整えば、ことは予定よりも早く進むに違いない。想像以上の刺激をたっぷり含んだまま。遙か天上を見上げ、今にもそっくり返りそうになっていた頭が、きんと引き絞られる。
出来るだけ早くくだらない散策を切り上げ、相棒と相談したい。その思いを歩みへ乗せる代わりに、ヘレは不意に立ち止まり、背後で息巻く整備不良の排気音を振り返った。真っ向対峙しにかかる微笑みに、尾行者は肝を潰したのだろう。急発進しようとして、盛大なエンストをかました。
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