終章 最終話
「ただいま」
玄関を開けると、ぴかぴかに磨いてある靴が目に入った。
「お帰り、広道が来てるよ」
台所からお袋の声。
「見りゃわかるよ」
五日前、兄貴のところに三人目の子どもが生まれた。
ここ数日、入院中の嫁、
兄貴が廊下にひょっこりと顔を出す。
「遅かったな」
「仕事の打ち合わせとか色々あってさ。名前、決まった?」
「ああ、明日届けを出してくる」
初めての息子が誕生したと、出産に立ち会った兄貴は本当に嬉しそうだった。
「聞いていい?」
「勿論。女の子なら
満面の笑みを浮かべ、手にした紙を兄貴は広げる。
「真の人と書いて、マサトだ」
「え?」
俺は兄貴の顔を見つめたまま、その場に呆然と立ち尽くした。
「響きもいいだろ?」
「…だって、兄貴にも陶子にもまったく関係ない字じゃん」
「おいおい、結衣と朝香だって同じだろう」
姪二人の名を挙げた兄貴の声とかぶるように、マサトの呟きが甦る。
『またお前と旅ができたら』
あの言葉は。
「兄貴。それ、本当…?」
「自分の子につける名前を、嘘言ってどうする」
苦笑する兄の手元にある紙には『真人』の二文字が並んでいる。
俺は食い入るように、その紙を見つめた。
「男だし、とにかく元気に育ってほしいよな。そのうち親子でキャンプとかしたいな。ああ、いつかキャッチボールとかもできたらいいな」
野球がしたい、だなんて、インドアな兄貴がそんなことを言っている。
俺は『外国語が好きな、フツーのガキ』になりたいって言ったマサトの言葉を思い出し、思わず笑ってしまった。
『真人』か。
…なあ。
お前にまた会えたんだと、そう思ってもいいんだろうか。
「なんだ、おい。どうした!?」
俺は廊下にうずくまり、声を上げて泣いていた。
不思議なんだ。
『真人』
地球には何千万、何億、もしかしたらそれ以上の…俺には知りようもない、途方もない数の生き物がいるんだろう。
お前があのマサトと同じ魂を持っている可能性なんてほとんどゼロに近いよな。
けど、どうしてかな。兄貴が口にした瞬間に、『真人』はマサトだって閃いたんだ。
――だってお前、あの時言ってたじゃないか。
『王様に、ひとつだけわがままを言ってみようと思う』って。
やっぱりお前も、もっと色々なものを、俺と一緒に見たいと思ってくれてたんだって、そんな風に自惚れたらダメかな?
今度こそ、楽しいことも嬉しいことも、泣いたり笑ったり憤ったりしながら、うんざりするほど一緒に摑んで行けるようにって、生まれてくるところを選んでくれたんだろう?
シングルの俺なんか待っていたらあっという間にジジイになっちゃうし、悠長にしてられないからって、頭のいいお前が考えてくれたんだよな。
…なんてさ。ちょっとお前に感化されすぎかな。
ただ…虫がいいかもれないけど、やっぱり信じたい。
マサトだけじゃない、カエやアイリともいつか必ず会えるって。
「何の騒ぎだい?」
「わからない。
お袋と親父にオロオロと対応する兄貴に申し訳なく思いながらも、悲しくて悔しくて切なくて…けれどあの時とは違う、どうしようもない愛しさに、冷たい床に額をつけたまま俺は声を上げ続けた。
…なあ、マサト。
悲しいのに幸せだってアイリみたいなことを言ったら、お前は笑うかな。
メキシコ、ボリビア、オーストラリア。イタリア、ローマ、スペイン、シリア、レバノン、アイルランド、カンボジア。
もっともっとあったよな。皆で旅する間に見た数々の場所、そこに息づいていたもの。
あれからたくさんの遺跡の写真集や本を読み
…なあ、真人。
もしもお前が望むなら、いつかまた旅に出よう。
あの時見たもの、あるいは見ることのなかった場所、想像ではない本当の歴史に、もう一度一緒に触れたいんだ。
お前が大きくなる頃には、年取った俺はきっと体力もなくなって、今以上にヘタレぶりも増してるに違いないけど。
なぁに、そんなの今更だよな。
あの時みたいに身ひとつじゃない不自由さはあるけれど、剣も楯も杖も携えず、今度こそ俺はスケッチブックと、お前は無限に広がる夢とか可能性とか、もっとずっとオッサンになった俺には青臭くて…それでもやっぱり羨ましいものを持ってさ。
その時は兄貴に、旅することをどんな風に言い訳しようか。
むしろ、嫁の陶子の方が難関かもしれないけれど。
…でもそれも、お前が心から思ったことならきっと、どうにだってなるよな。
『本当にもう一度会いたいものなら、またいつか来ればいいんだ』
そう願ってくれたひとつは叶ったんだから。
だからさ、真人。
お前が望むなら、いつかきっと旅しよう。
お前が好きだと言った、この世界を。
了
重なる刹那の先に マサキチ @masakey
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