11章 不立文字

終章 不立文字

あれから一年が過ぎた。

 相も変わらず俺は、小さな事務所で社長に尻を叩かれながら日々を過ごしている。

 描きたいと望んでもままならなかった向こうでの出来事を思い出すたびに、やりたいことを普通にできる今は本当に幸せなのだと、溜息をつく回数は少なくなったけれど。

結局俺は、旅をしていた五日間の出来事を誰にも話すことはなかった。

「どんな夢を見てたんだ?」

 散々寝事を呟いていたらしい俺は、兄貴やお袋にあの旅のことを話そうと何度も口にしようとしたけれど、旅の仲間たちの名前が喉の奥に張り付き、過呼吸のような症状が出るばかりで言葉にはならなかった。

「事故の一時的なPTSDです」

 だから、寝ている間の俺の身にあったことなど知らない医者の判断を都合よく解釈して、四人で一生懸命に生きた五日間のことは今も語らずにいる。

 例えば、アイリ、カエ、マサトではなく別の名をつけたなら、話すことはできていたかもしれない。

 ただ…退院してから半年の間、俺が仕事でどんなに遅くなっても、眠らずに帰りを待つお袋の姿なんてもう二度と見たくなかったし、もしあの時俺が死にかけていたかもしれないなんて言ったら、それこそ半狂乱になっていたと思う。

 それに何よりも…たとえあそこで起こった出来事を伝えるためであっても、共に過ごした彼らの名前を偽りたくはなかった。

 お花畑が見えたとか、おじいちゃんが向こう岸から手を振っていたとか、臨死体験を語る人をテレビで見たことはあったけど、そんな風に口にできる人たちはすごいんだなと、改めて感心している。

 俺の場合は花畑どころか、出会ったのはセクシー脱衣姐と巨大な文官、甲高い声のじーさんっていう、あの世の住人とは到底思えない人たちばかりだったし。旅の間も現実にあるものしか見てこなかったから、打ちどころが悪かったと解釈されるのも面倒だし…。

 なーんてさ。

 単に彼らとの思いを清算してしまうのが怖くて、俺に伝えるだけの意気地がないだけなんだろうけれど。

 旅を終えても、相変わらず俺はヘタレのままだった。


 そういえば。

 あの時俺が助けた子どもは、国道近くのアパートから抜け出した男の子だったと後で知った。

「どうやってあんなところまでハイハイで歩いていったのか想像もつかないんです。けれど、この子を救ってくれてありがとうございました」

 両目を真っ赤に染めながら、俺の病室に詫びに来てくれた夫婦に抱えられたその子は、にこにこと無邪気に笑っていた。

 思えばあの時彼を助けていなければ、ヒロキ違いであの世界に連れて行かれることもなく、三人に会うこともなかった。

 別のタイミングで行ったかもしれないなんて、しょうもない可能性は置いておいても、きっと皆に会わなければ俺は、不足ばかりの勇気がもっと足りないままに、会社の愚痴を言いながら今も毎日を過ごしていたことだろう。

 俺が三人に会うきっかけを、あの子が作ってくれたのかも…なんて、最近ではそんなことを思う。

 戻ってきた俺は〝てんりん王〟が転輪王で、三回忌さんかいき…人が亡くなってから二年後の裁判を司る王様だと知ってから、三人の辿った過去を調べることはしないと決めた。

 病気で逝ったと思しきカエ以外なら確認できると、今でも時々考えることはあるけれど。

 おそらくどこかの新聞の片隅に、淡白に記されている彼らの『名前』という記号を確認したところで、共に旅した皆の姿は、その文字の上から決して得られることはないだろうから。


 でも、少しだけ。本当に少しだけだけど、変わったものもあるんだ。

 子ども向けの絵本、挿絵、ポスター、グッズ。

 この一年、コンペを見かけては、手当たり次第に応募し続けてきた。

 つい最近、努力が実って小さな出版社の賞の末の末の末の席にすべり込み、印税以外のギャラはゼロだけど、いずれ絵本にすると言ってもらえた。

 描いたのは大きな樹の根元に身を寄せる、親からはぐれた三匹の小さな狼たちが巣立つまでの成長の物語。

 カエ、マサト、アイリをモデルにしたそれが認められたという連絡をもらった時は、本当に嬉しかった。

 近頃、お袋には呆れられている。

 あの日を境に児童を対象とした作品の賞にばかり目を向け、猛烈な勢いで公募に送るようになった俺を、頭を打っておかしくしたのだと思っているに違いない。

 入院していた時に検査はすべてしていたし、俺は原因も理由もわかっているから問題ないけれど、時折脳ドッグのパンフレットが、さりげなさを装ってダイニングに置かれているのを見ると、少しだけ申し訳なく思う。

 自分に何ができるかとか、明日のことだって全然わからない。

 ただ今は、あの世界での冒険を語り合うことは叶わなくても、何より三人に届けたかったもの…俺なりの恩返しの場所を見つけていければと思っている。

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