10章 3話

 目を開けて最初に飛び込んできたのは、眦を吊り上げて髪を振り乱した鬼婆の形相。

 …ではなく。お袋の顔だった。

「…お袋」

 息を飲む音を喉のところで立てたまま、目を見開いている。

「大樹?」

 その背後から、眉を曇らせた兄貴の顔が覗いた。

「兄貴」

「目が覚めたか」

 安堵の表情を浮かべながら兄貴は頷いた。

「とりあえず俺、看護師さん呼んでくる」

 立ち上がった兄貴は今まで座っていた椅子を足に絡め、派手な音を立てて引き倒した。

「痛てっ。…いや、騒いでスマン」

 口の中でもごもごと詫びると、いつも泰然たいぜんとして何事にも動じない兄貴にしては珍しく、せかせかとした足取りで部屋を出て行った。

「俺、どれくらい寝てた?」

「…丸五日の間」

「そう」

 お袋の答えに、試練を受けていた時間はこちらの世界でも同じだったのだと、ぼんやりと思う。

 向こうの世界で見たものを、俺は忘れてはいなかった。

 おそらく俺から思い出を取り上げてしまったら、きっと勇気なんてものはマイナスになると思われたに違いない。

 首を持ち上げれば、点滴に繋がれた腕が目に入る。

 手の甲にテープで張り付けられた小さなガーゼが三か所、身じろぎをすると脛に多少痛みが走ったけれど、目に見える範囲に包帯は巻かれていなかった。

「…なの」

「え?」

 電動ベッドのスイッチが目に入り、上半身を起こそうと手を伸ばした時に母親が呟いた。

「お袋?じゃないよ、このバカ。医者の話では軽い打撲と脳震盪のうしんとうってことだったのに、あんた一体なんなの!?」

 深く傾けた頭はつむじしか見えない。

 けれど、年の割に黒いままだというのを自慢にしていた母親の、耳の上に混じる白髪が目に入り、自分が年を取ったのと同じくらい、母にも過ぎてきた時間があったことに今更ながら気付かされる。

「どうしたんだよ、お袋」

 どうしたんだじゃないでしょ、震える声。

「五日だよ五日!この馬鹿、いつまで寝てる気だったのさ!」

 驚くほど強い力で俺の上半身を引き起こし、手を振り上げた。

 看護師を連れ、折よく病室に戻ってきた兄貴が慌てて止めに入る。

「母さん、気持ちはわかるけどやめてくれ」

「だっ…このバッ…」

 わかったわかった、なだめながら兄貴はぼそりと告げる。

「だってこのバカ、だそうだ」

 …今ので良くわかったな、兄貴。

 押さえられた手をそのままに、首を振る兄貴の顔を見つめたお袋は口をへの字に曲げ、顔をくしゃくしゃにした。

「あんたみたいに元気なのがねえ…っ親、より先っ、に逝こうだなんてのはねっ、三国一の大バカもんなん、だよっ…」

 しゃくりあげる声に混じり、大粒の涙が白いシーツをぼたぼたと濡らしていく。

 お袋が泣くところなんて、初めて見た。

 その腕を掴み、こちらを見ている兄貴の鼻もこすったように赤くなっている。

 ああ、そうか…。

 ベッド脇の手すりにしがみつき、ふらつく体を支えながら二人の前で俺は俯く。

 本当は、ありがとうと言いたかった。

「ごめん…」

 口から出てきたのは、詫びの言葉だった。

 ぽこっ。

 兄貴の肩口から伸びてきたお袋の手が、力なく俺を叩く。

「…ごめん」

 もう一度口にしたら、涙が溢れた。

 ぽこっ。

 ぽこっ。

 続けざまに叩かれたけれど、どれも全然力なんてこもってなかった。

 ぽこっ。

 叩かれた後、ここにいることを確かめるよう、俺の腕を掴んできたお袋の手はひどくあたたかくて。

悲しくて悔しくて切なくて。

 …どうしようもなく嬉しくて。

 俺は泣いた。

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