芳ばしい彼

『ほら、よく言うじゃない。火のない所に煙は立たないって』

「え、……でも、私は信じたいし」

『ならうじうじしてないで、直接聞いちゃいなよ!』

「……うん」

『それじゃね』


 これは私たちの問題だから、誰かに相談するつもりなんてなかった。結局なんの解決にもなっていない。

 しかし、自分一人で抱えていたものを誰かに話すことで、少し楽になった気分。……不思議。とりあえず今は落ち着いている。


 問題の発端は、一昨日に彼とした電話だ。


 ――『来週って俺たちが付き合ってちょうど一年記念日だよね。』

 ――そうだよ。先週も確認したじゃん。私が手料理作る当番で、

 ――『俺が、ケーキを買ってくる。一応確認だよ。』

 ――本当? 実はまだ迷ってるんじゃないでしょうね。

 ――『何を迷うっていうんだ。』

 ――だってお互いの好きな物を選んで買ってくるって約束でしょ。まあ私は作るんだけど。

 ――『迷う訳ないだろ。バッチリ目星は付けてある。こっちはだから当日買わないといけないし、当日売ってないとかそういう心配はあるけどさ。』

 ――そう。ならいいんだけど。


 ここまではよかった。そろそろ電話を切ろうとしたとき、スマホの向こう側から『チン』とベルのような電子音が聞こえてきた。そして誰かの足音遠くの方で微かに聞こえる。スマホを耳に押し当てよく聞こうとしたとき、彼の声がそれを遮った。


 ――『それじゃ、今度の日曜日な。』


 彼は一人暮らし。彼の部屋にも遊びに行ったことがあるから、知っている。彼の部屋にある家電は冷蔵庫と洗濯機のみ。あの電子音を鳴らす家電はない。彼はずっと外食派で、冷蔵庫の中にはお酒が水ぐらいしか入っていない。自炊をしない人だからこそ、今回の記念日も私が手料理を振る舞って、彼が美味しいケーキを買ってくる約束をしたのだ。

 それにその後に微かに聞こえた足音。彼の足音であるほかに考えられないのだが、どうしても違う厭な想像をしてしまう。

 私たちはまだ一年。いやもう一年も経つと考えるべきなのか。彼とはこの一年で恋人としてたくさんの思い出を作ってきた。それはこれからも続けていくつもり。お互いの信頼関係は愛情と平行して徐々に深まっていくもの。そう信じていた。それなのに、まだ私の中では彼を心の底から信頼できていない。過去にそういった経験があるからなのかもしれない。でもそれを理由にしたらいけないのはわかっている。過去を言い訳にしていたら、いつまで経っても進まないから。

 ただ、このもやもやを抱えたままで記念日は迎えたくなかった。

 

 記念日の前日。私が彼に黙って彼の部屋を訪れることにした。

 彼は土日休みで私はシフト制の仕事をしている。だから彼は今日部屋にいると踏んで仕事終わりに彼の部屋に向かった。アパートのバルコニー側から部屋の灯りが付いていることを確認する。それから玄関の前に向かい、チャイムを鳴らす。

 きっと彼は驚くだろう。もし私のもやもやがただの気のせいだったときは、待ちきれなくなって会いに来たと言えばいい。疑っていたなんて言えば、彼を傷つけることにもなりかねないから。

 ゆっくりと扉が開く。すると同時になんだが焦げ臭いニオイがした。


「ええ! どうしたの!?」


 驚く彼。ただ、それ以上に彼の格好を見て、私は驚いていた。

 彼は肩から膝元まであるエプロンを身につけ、片手には鍋つかみを付けている。


「ね、もしかしてケーキ作ってた?」

「……うん。本当は明日持っていって食べて貰ってから実は手作りでしたーって驚かせようと思ってたんだけど、上手く作れなくて」


 今まで料理なんてしたことがなかった彼が、わざわざオーブンレンジまで買って私のためにケーキを作ろうとしていた。彼のことを少しでも疑った私が恥ずかしい。謝りたい。


「ごめんね」

「ん? なにが?」

「ううん。……勝手に来ちゃって。なんか会いたくなったの」

「そうか、じゃ入りな。一日早いけどケーキでも食べる? 焦げちゃってるけど」

「うん! 芳ばしい香りがするね。私は好きだよ」

「それは慰めてくれているの?」

「違うよ、褒めてるの。すっごく良い彼氏だなって」

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