煙に巻く彼
彼に初めての手料理を振る舞うことになった。
ダイニングキッチンから彼のことを覗くと、テレビの画面に夢中になっている。
私がちょうど鍋に火をかけた時、ふと彼のほうから声をかけてきた。
「ねえ、おか……いや、なんでもない」
「ん? なんか言った?」
正直なところ耳の良い私は、今の彼のちょっとした失言を聞き逃さなかった。あれは確実に私のことを“お母さん”と呼ぼうとしてしまったのだろう。
まあ、これはよくある話だ。裏を返せば彼にとって今の私は母親のような親しみが湧いているのだとも取れる。
今私に対して背を向けている彼の表情は、恐らくリンゴのように赤く染まっていることだろう。
調子に乗った私は、彼を少しからかってみることにした。
「ねえ、今私のこと“お母さん”って呼ばなかった?」
「よ、呼んでねえよ」
「うっそ。おか……まで言いかけたじゃない」
「それは違うって。“おかずは何か”って聞こうとしてやめたんだ」
「じゃ、なんで途中でやめたのよ」
「……そりゃ、できるまで待っていようって思ったから」
彼が頭をかいた。それは何かを誤魔化そうとしているサイン。もう何度も見た。
私は料理の手を止めて、彼の主張を根底を揺るがす一言を言ってあげた。
「でもさっき“肉じゃがが食べたい”って言ったのはそっちでしょ。その肉じゃがを作ってるに決まってるじゃない。……おかずを聞こうだなんて」
するとちょっと度が過ぎたのか、彼は急に立ち上がり、私のほうに枯れかけたリンゴのような顔を向けた。
「そうだよ! 言いかけたさ。それの何が悪い!」
悪いとは言ってない。しかし、これ以上口論が続くのは穏やかではないと判断し、私は彼を慰めにかかった。
「ごめんごめん。ちょっとからかってみただけだって。そんなに怒らなくても」
私の反省した態度に沸き上がった怒りを静めてくれた彼は、ぼそっと衝撃的な言葉を呟いた。
「……ママの味には絶対勝てないんだから」
初めて私は自分の地獄耳を恨んだ。
するといつの間にか鍋は焦げ臭くなり、私はむせて涙がこぼれた。
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