ファジー

おきましておめでとう

 夜更けになると、急に孤独を感じる。

 年のせいかしら。あまりそんなことは思いたくもないのだけれど。


「お母さん、大丈夫?」


 傍で付き添ってくれている娘が心配そうに見つめてきた。


「ううん、何でもない」


 小さな表情の変化にも敏感に感じ取る娘。この子が立派に成長してくれただけでも、私にとってはもう充分すぎるぐらい。

 今さら懐古することもない。もう飽きるぐらいしてきた。最愛の夫を病で亡くして、もう十年が経つ。その間、夫と初めて出会ったときから付き合い、そして娘を産み育てて来た歩み。もう何度も私は想像の中で懐かしんでいた。暇を持て余しているんじゃないのかって彼には叱られちゃうかもしれないわね。


「ねえ、お母さん。ひとつ聞いてもいい?」

「なに?」


 唐突の質問に首を傾げ、私は娘を見つめる。その表情はいつもと変わらなかった。


「明日の朝ご飯は目玉焼きと納豆、どっちがいいと思う?」

「なによその質問、どっちでもいいわよ。あなたの好きな方にしなさい」

「えーでも、やっぱりお母さんが好きな方にしたいじゃん」

「気をつかわなくてもいいのよ。私は好き嫌いが無いことが取り柄でもあるんだから」

「そんなの取り柄って言わないよ。……もう、わかった。じゃ目玉焼きにするね」

「うん、ありがとう。でも――」


 私はそこまで言いかけて言葉を詰まらせた。


「でも、なに?」


 娘からは当然の言葉が返ってくる。


「……なんでもない」

「ないよ、それ。気になるじゃない」

「いいの。そんなことより、あんたは大丈夫なの。私にばっかりで」

「大丈夫よ。旦那に任せてきてあるから。仕事も休みだし」

「そうじゃなくて……」


 そうじゃなくて、もっと自分の身体を大切にして。そう言いたかったけど、どの口が言うのかって叱られそうで言い淀んだ。しかし、今度は娘からの返答はない。顔を見ると私が何を言おうとしたのか理解している様子だった。


「もういい時間だから帰りなさい」

「わかった。でも、また明日も来るからね」

「……うん」


 娘はゆっくりと立ち上がり、荷物を持って病室の扉に立つ。


「そういえば、お父さんは納豆派だったっけ?」

「そうね、卵をきらすと叱られちゃうから、いつも納豆を買うときは一緒に卵も買ってたわ」

「うちの旦那も実は卵かけるんだよね。やな感じよね」

「いいじゃない。似たもの同士、あんたもきっと最期まで幸せに暮らせるわよ」

「変なこと言わないで、じゃあね」



 扉が閉まると同時に、静寂に包まれる空間。それでもいつもよりも孤独感はない。

 窓硝子には、澄んだ夜空が広がっている。ときより吹く風が、中庭の梢を揺らす音が聞こえてくる。

 手元の灯りを消して、ベッドに横になってみると本来真っ白の天井が暗闇に包まれていた。光りのない世界は、どこまでも広く永遠と深淵を除いているように感じる。もう光りのある世界へと戻ってこられないのだろうか。

 私の身体はもう長いこと悲鳴を上げている。きっともうすぐ。なんとなく、そう感じるのは嘘じゃない。私を見つめる瞳に寂しさ映っている。先生も看護師も友人も娘も。みんなどこか寂しそう。

 今、瞳を閉じたところで、光りのない世界にいることに変わりは無いのだけれど、なんとなく閉じたくない。そんな悪足掻わるあがきをしてみる。童心に返った気分。

 最期に娘には本当のことを話さなきゃいけないと思っていたけれど、けっきょく言えなかった。

 実は私にも好き嫌いはある。

 私は

 でも、我慢して食べていた。夫に嫌われたくなくて。ほんと、子どもみたいね……。





















「おはよう、お母さん。」

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