井の中の蛙水さん
僕のクラスの蛙水さんは、ちょっとおかしい。
そんなこと本人を目の前にして言ったら、きっと殺される。
「殺しはしないわよ。でも、できる限り頸動脈が痺れるぐらい噛みついて上げても良いけど」
ほらね。
あのギョロッとした大きな瞳から、細く鋭い瞳に変わった時こそ危険信号だ。青白い肌に長い黒髪。無機質な輪郭に特徴的な大きな瞳。美女ではあるが、不気味さを兼ね添えた蛙水さん。
以前彼女の後ろを通ろうとした時、偶然彼女の長い後ろ髪に触れてしまったことがあった。その時の彼女の瞳は、今でも忘れない。
「あれは、事故だよ」
「あれが事故なら、私が止まっている所にあなたがぶつかってきたのだから、過失の十割はあなたで良いのよね?」
「過失って、そんな大袈裟な」
「あら、女の子の髪は、命の次に大切なものなのよ。あなたみたいな縮れた陰毛みたいなものと一緒にしないでちょうだい」
これは立派な天然パーマだ。と反論したいところだったが、言葉が喉につっかえて出てこない。
「それにしても、蛙水さんは変だよ」
「何のことかしら?」
「だってほら、この間だって先生に問題を出されて変な解答してただろ」
「……ああ、あれね」
先日の現代文の授業中。先生からとある物語の主人公の心情に、当てはまる解答が何なのかと求められた。選択肢はない。文章中の前後に正解はあると先生はヒントをくれたが、誰も手を上げて答えようとはしなかった。
しばらくすると、先生は単純に出席番号で割り当て、その時偶然日付と出席番号が一緒だった蛙水さんが解答者として指名されたのだった。
「主人公の心情なんて興味ないわ。物語は、読み手が常に主人公であり、地の文に隠されているからといってそれが正解というのは、あまりにも不条理だわ。この世に解き放たれた物語は、全て読み手の性格や年齢、性別に理解力によって色を変えるもの。物語に共通の正解なんて求めちゃいけないのよ」
僕に対してはそう講釈してきたのだが、あの時蛙水さんが言い放った言葉は、クラス中の視線を独り占めするものだった。
あの物語は、主人公の男が妻帯者がいるのにもかかわらず、他の女に対して恋愛感情を抱いてしまう人情物。あの時の先生の問いに対する正解は、『主人公は自分自身を客観的に判断して、妻に対する罪悪感を抱いた』というものだった。
しかし、蛙水さんの解答は、こうだった。
『発情期にしても、腐敗臭がするわね。色を作った女に対して溺れ、色を成した女に泣かれる。ほっんとに吐き気がする』
「蛙水さんの言ってることはわからないこともないけど、あれはないよ」
「正解がないのだから仕方ないじゃない。殺すわよ」
蛙水さんの瞳が、細く鋭いものに変わった。僕は思わず身構える。
「ごめんよ。だけどね、ほら常識っていうものがこの世には存在するんだ。空気を読むとか、一般論とか、きっと蛙水さんは嫌うだろうけど、この社会で生きていくには大衆の色に染まらないといけない時だってあるものだよ」
「つまらない」
僕の必死の説得も、蛙水さんに一蹴されてしまう。
やっぱり蛙水さんはおかしい。でも、そんな蛙水さんを僕はどうしてか気になってしまう。彼女を井戸の中から救う方法はないだろうか。
「さっきから思ってたんだけど」
唐突に蛙水さんは言った。
「あなた、私に発情してるんじゃないでしょうね」
どう答えるべきか悩んだあげく、正直に僕は答えた。
「僕らは同じ年だし思春期でもある。互いに独り身だし、何も問題はないと考えたら、僕は蛙水さんに発情しているのかもしれない。だって、僕は蛙水さんになら頸動脈を噛まれても良いと思っているから」
そう言うと、不思議と蛙水さんの瞳がいつも以上に丸く大きく変わった。そして頬を赤く染め、声を漏らした。
「なまいき。舐めてるでしょ」
「それは、蛙水さんです。むしろもっと舐めてくださいよ」
「……そのうちね」
どうやら僕は、井の中にいる蛙水さんになんとか手が届きそうだ。
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