グレーな薔薇色
いつのまにか、薔薇色の青春を味わうことの無いまま僕は大人になってしまった。しかしそのことについて焦ったこともなければ、後悔したこともない。
ただ人生は長いようで短い。一度くらいそんな経験をしてみたいという気持ちは、心の片隅にあったのだ。それがまさか、あの“瞹眛喫茶”で味わうことになるとは思ってもみなかった。
相変わらず僕は、カウンター席で文庫本を片手に紅茶のようなものを口に運んでいた。
この街の喧噪から百歩ぐらい離れた深々とした空間。ここをプライベートルームのように利用していた。だから、接客ということをほとんどやらないマスターが、唐突に「いらっしゃいませ」と言葉を発した時には、心臓が一瞬大きく跳ね上がった。
僕以外の客と会うのはそれが初めてだった。入り口を背にして座っていた僕は、恐る恐る振り向くと、そこに立っていたのはまさに絵に描いたような美人であった。無口なマスターが挨拶をするのも無理ない。しかし、僕とその女性とで態度が違うことに嫉妬してしまった自分がいた。
その女性はマスターに軽く会釈すると、慣れた様子で僕から離れたテーブル席に腰を下ろした。すると、透かさずマスターが性能の良いロボットのように女性にティーカップを運んだ。
僕はもう、その時にはマスターの行動に嫉妬するというよりも、女性に対しての意識が強くなっていた。直視するのは失礼だろうし、カウンターに向かっているのだから不自然な姿勢になってしまう。
背中で女性の存在を感じながら、ただの蟻の行列と化したページを捲っていると、ふいに目の前にいたマスターが掃かれた煤のように黒いカーテンの奥に姿を消した。
なぜマスターが姿を消したのかはわからない。そのことについて今すぐに深く考えることは避けた。
そしてマスターが姿を消してから随分と時が経った。いや、そう感じているだけで、実際は数分程度だろう。しかし僕のティーカップの中は空っぽ。店内には僕とその女性だけ。
僕はもう我慢できずに、恐る恐る首を回して女性の方を見た。すると女性の方も僕のことを見ていた。その視線は二人が同時に互いを見つめたというのではなく、女性はずっと僕に視線を向け続けていて、ようやく視線が合ったというものだった。
更にだ。その女性は優しく微笑みながら僕に手招きをしてきた。その誘いに、どう動けば良いのか思考を普段の何倍も働かせた僕は、結局椅子から立ち上がりゆっくりと女性に近づいていった。
自分の鼓動が相手に伝わらないようにするのが精一杯だった。
僕が近寄ると、女性は目線だけで僕に向かいの席に座るように指示した。僕は素直にそれに従い腰を下ろすと、再び女性が僕に向かって手招きをした。上体だけで女性に近づく。すると、急に女性の方から僕に向かって顔を寄せてきた。
そして頬を赤らめている僕に、その女性は透き通った声でこう言った。
「If
微笑む女性の長い睫毛の隙間から見える大きな瞳は、綺麗な灰色だった。
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