思い人のような

 文庫本を片手に、僕は“紅茶のようなもの”を口に運んでいた。

 これは、紅茶であることは確かなのだが、経験のない香りが鼻を通り、味わったことのない風味が舌を包む。言葉で表現するのが難しい。まさしく“紅茶のようなもの”であった。


 瞹眛喫茶に通い始めて三ヶ月が経とうとしている。マスターの趣味が手品であり、自分以外にほとんどお客が来ないという情報は得ることができた。僕はこの喫茶店に週に一度ぐらいのペースで通い、その度に、この不思議なメニュー表から飲み物だけを注文してきたのだが、僕は今日、初めて“店長のお薦め”を注文しようと決めていた。


 なぜこれまでに注文しなかったというのには理由がある。正確に言えばできなかったのだ。


 前に一度、マスターに「店長のお薦めって何ですか?」と訊ねたことがある。しかしその時は「大変恐縮ですが、そちらのメニューは思い人のような方とご一緒の時でしか、ご注文を承ることができません」と言われてしまったのだった。

 当時の僕には、その思い人は存在しなかった。当然今でもいない。しかしマスターは『思い人ような方』と瞹眛な表現を好む人だ。例え僕が連れてきた人物が『思い人』ではなくても『思い人のような』人物であれば問題ないのではないかと考えたのだ。


 多少の不安を抱えながら僕は、カンターの向こう側にいるマスターに向かって言った。


「すみませんマスター、店長のお薦めを頂けますか?」


 するといつものように動かしていた手元の動きを止め、僕と向かい合った。そしてマスターは僕から視線を逸らし、僕が連れてきた『思い人のような方』を一瞥してから言った。


「確かに、お客様の思い人のような方でいらっしゃるようで。――お待ちしておりました。では少々お待ち下さい」


 手品を披露する前の時のような嬉しそうな笑みを見せて、マスターは背後にある黒いカーテンの奥へと姿を消した。

 しばらくして姿を現したマスターの手の中には何もなかった。


「お客様、という言葉をご存じですか。に知らないと書いて瞹眛と読みます。当店におきましては、そのようなお方にとって最も優先されるべき憩いの場を提供するのがエンティティ。本日はお客様の思い人のような方をオーセンティックとしてお迎えいたしますとともに、私からのプレゼントをお受け取り下さい」


 そう言って、マスターは手品のようにあるもの出現させ、それを僕に渡してきた。


「裸ではお肌が傷つきますゆえ」


 僕はそれを受け取り、素直にお礼を言った。そして側にある夏目漱石の『こころ』に、マスターから頂いたそのブックカバーをつけた。

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