最終幕 素直になあれ(3)
ネコが自室でユカを熱く説得していた頃。
ユカの家に不法侵入するため塀をよじ登っていたギンタは、背後に立つ人影と目が合って、石像のように硬直していた。
背後に立ってギンタの肩を叩いていた人物。それは……いつもニコニコ笑顔を絶やさない黒縁眼鏡の女性、山岡だった。
ぺこり。
「あ、はい、こんばんは」
礼儀正しく会釈されて、ギンタは慌てて塀から離れ、居住まいを正す。
笑顔のまま、ちょいちょいと道路を指差す山岡。どうやら「少し歩かないか」と言いたいらしい。
「いや、僕は」
これからユカの家に不法侵入しなきゃいけないから。
そう伝えようとして、さすがにそれはないなと言いよどむ。
ギンタが何と言って断ろうか考えていると、どこからともなく不思議な声が聞こえてきた。
(なにか悩みがあるんじゃないですか?)
初めて聞く声に驚き、周囲を見回すギンタ。
だが、周囲に山岡以外の人影は見当たらない。
(私でお役に立てるかわかりませんが、話を聞かせてください)
「そんな、山岡さんに話すことなんて何も……」
声に出して答えてから、ようやくギンタは、声の主が目の前の女性だと確信する。
ニコニコ笑顔の山岡は……唇をまったく動かさずに喋っていた。
(悩みは人に話すと楽になりますよ)
山岡の声は直接ギンタの頭に響いていた。
戸惑いながらも、ギンタは力強く首を振る。
「本当になんでもないですから! 山岡さんにお話することなんて何もありませんから!」
――五分後。
「そのときにユカからもう会いたくないって言われたんです。もう二度と顔も見たくないって。でも僕にはどうしてもあれがユカの本心とは思えなくて。あいつ友達思いだから、ネコちゃんが傷つくくらいなら自分が我慢する道を選ぶんじゃないかって……。いや、本当はユカに嫌われたと僕が信じたくないだけかもしれないけど、でも、だから、どうしてももう一度ユカと会って話して確かめたくて、それで彼女の家に不法侵入を……」
ぺらぺらぺらぺら。
気がつくと、ギンタはこれまでの経緯から自分の秘めたる思いまで、洗いざらい全部ぶちまけていた。
「……ねえ、山岡さん。ユカは僕のことをどう思ってるのかな?」
山岡と並んで住宅街を歩きながら、悩める子羊ギンタが眉毛を情けなく八の字にする。
すっかり山岡に頼りきっているギンタへ、しかし彼女は笑顔を向けるばかりで何も答えてはくれなかった。
自転車を押しながら、ギンタは山岡に誘われるまま夜道を歩いていた。
どうやら山岡は、友人である
(私は正直な人が好きです)
ギンタの頭に、女性らしい透き通った声が響く。
(ユカも、ネコも、ルルナも、もちろんギンタさんも。正直な皆さんの光を見ていると、幸せな気分になれるんです。だから、皆さんが幸せになれるよう、私にも出来る限りのお手伝いをさせてください)
それはありふれた励ましの言葉なのに、ギンタにはどんな名台詞よりも自分を勇気付けられるように感じられた。
山岡の持つ不思議な力を体感して、ギンタは尋ねずにはいられない。
「山岡さん、あなたはいったい何者なんですか?」
(私はナイトメアです)
ナイトメア。
そう呼ばれる異星人の存在を、もちろんギンタはよく知っていた。
二○○九年、七月。エンジェルとともに地球を訪れた最初の異邦人。
人の心を操る術を持ち、その力で国交交渉を有利に導いたとされる宇宙人。
天使と称されるエンジェルとは真逆の、悪夢と名付けられた謎の異星種族。
(世間で思われているほどナイトメアは恐ろしい種族ではありません。ただちょっとだけ、他の宇宙人と『眼』のつくりが違うだけなんです)
ルルナのマンションへ向かいながら、山岡はナイトメアについて簡単に説明をしてくれた。
彼女たちの眼は光を捕らえることに特化していること。
そのため、あらゆる存在……人間でさえ、ナイトメアには光の結晶にしか見えていないこと。
光の色、強さの変化から、相手の意思や感情を読み取るのがナイトメアのコミュニケーション方法だということ。
相手の光に自分の光を干渉させることで、自分の意思を直接伝える術を持つこと。
そのため、ナイトメアは言語によらず相手との意思疎通が可能だということ。
(未開の地で交渉する際、ナイトメアは通訳として重宝されています。多くの異星人が喉に自動翻訳機を巻いているのに、ナイトメアだけが未着装なのはこの能力があるためです。ただ、この力には弊害もあって……)
言語で意思疎通する地球人にとって、光での意思疎通は未知の領域。
そのため極端に抵抗力が低く、ナイトメアに干渉されると過剰に反応してしまう。
(それが「操る」と勘違いされているものの正体です。何気ない私たちの言葉は、ときに地球人の意識にまで干渉してしまう。たとえば、地球人と仲良くなりたいと私たちが語れば、彼らも同じように仲良くなりたいと思ってしまう。たとえば、あなたの悩みを聞きたいと訴えれば、あなたは悩みを打ち明けずにいられなくなる……)
悩みをぺらぺらと喋りまくっていた自分を思い出し、ギンタは表情を引きつらせる。
(とは言っても、私たちに出来るのは、彼らが心の内で望んでいる事を、ほんの少し後押ししてあげる程度なのですが)
宇宙人と仲良くなどなりたくない。そう思っている人が相手では、どんなにナイトメアが訴えてもその心を変えることはできない。
お前には絶対に言いたくない。そう思っている人が相手では、どんなにナイトメアが心配しても本心を語ってくれることはない。
たとえば相手が犯罪者なら、犯した悪事を懺悔したい良心の呵責、犯した犯罪を自慢したい自己顕示欲、言ってはいけないと思うほど誰かに伝えたくなる人の業。ナイトメアの光は、それらをほんの少し後押しするだけ。それがナイトメアの「悪夢」の正体。
本人が「言いたくない」ことは言わせることはできない。
本人が「言いたい」と心の底で望んでいることだけ、言いたい気持ちを後押しできる。
そんなささやかな悪夢。
(それでも十分、地球人には脅威のようですが)
ニコニコ笑顔の山岡に一から十まで説明されて、ようやくギンタは彼女がこれまで一度も言葉を発しなかった理由を察した。
彼女が何かを語れば――光の言語を使えば、それだけで相手の心を操ってしまう。
ナイトメアが対等に人と付き合うためには、不用意に言葉を発してはいけないのだ。
不意に山岡が足を止め、ギンタは現実へと引き戻される。
目の前には、夜空に向かってそびえ立つ、見るからに高級そうな高層マンション。
どうやらここがルルナの住んでいるマンションらしい。
ネコの部屋へ行ったときにも思ったが、改めてギンタは感慨深げにつぶやいてしまった。
「
山岡は機嫌良さそうに微笑むと(と言ってもずっと笑顔なのだが)、丁寧に頭を下げた。
(送っていただいてありがとうございます。ユカに会ったら、ギンタさんのことをそれとなく聞いてみます。ですから、無茶なことはしないでくださいね)
ニコニコ笑顔の山岡が、ストーカーで捕まりかねないギンタに釘を刺す。
ナイトメアに「無茶するな」と言われてしまっては従う他ない。
かくしてギンタは犯罪者にならずに済んだのだが……。
「……あれ?」
マンションに向かう山岡を見送ろうとしたギンタは、そこで闇夜に蠢く怪しい影に目を留めた。
その人影は、マンションのゴミ捨て場で住人のゴミを漁っていた。
ギンタの様子がおかしいことに気づいた山岡が、無言で小首をかしげる。
「いや……。あのおばさん、こんな夜遅くにゴミ捨て場で何をしてるのかなって思って」
ギンタが指差した先では、天然パーマの中年女性がエプロン姿でゴミ袋の山を漁っていた。
(マンションの管理人ではないでしょうか。たまに、ちゃんとゴミの分別がされているか抜き打ちで検査しているようですから)
「それは……おせっかいな話だね」
山岡の説明に一応納得するギンタ。だが、それでも腑に落ちないことがあって、ゴミ捨て場を眺めたまま首をひねってしまう。
……中年の女性管理人は、首に黒い蝶ネクタイを巻いていた。
どうしてマンションの管理人が蝶ネクタイを? それに、あれと同じ物を前にどこかで見たような気がするけど……。
いまだ腑に落ちない様子のギンタに気づき、山岡がゴミ捨て場へと目線を移す。
山岡はゴミを漁る人影を見つけて……。
そのとき初めて、彼女から笑顔が消えた。
(ギンタさん。その中年女性はどこにいるのですか?)
「どこって、ゴミ捨て場に……」
「ゴミ捨て場にはマスターしかいないようですが)
「マスター?」
山岡の言葉を受けて、ギンタの脳内を過去の出来事が走馬燈のように渦を巻いて駆け巡った。
ルルナと初めて会ったとき、ギンタはストーカーと間違われて警察に突き出された。
あのとき、取り調べをした警察官は「メタモルフォス」と呼ばれる「好きな姿に変身できる種族」がいると話していた。
ルルナはストーカーにつきまとわれていたが、誰も怪しい人物を見かけたことがない。
ルルナのチョーカーやネコの首輪のように、ナイトメアを除く宇宙人は、みな自動翻訳機を首に巻いている。
喫茶店のマスターは首に蝶ネクタイを巻いていた。
ユカが「ギンタとルルナを恋人同士にする」と話していたとき、マスターは刺すような目でギンタをにらみつけていた。
ナイトメアは人の外見ではなく、その人物が放つ「光」から個人を特定する。
ナイトメアの山岡は、ゴミを漁る中年女性を見て「マスターだ」と断言した。
「……山岡さん。警察に電話して」
口のきけない山岡に、無理難題をふっかけるギンタ。
そのまま走り出すギンタへ、山岡は(どういう意味ですか?)と心の声で問いかける。
ゴミ捨て場へと駆け出しながら、ギンタは声を大にして叫んでいた。
「あいつがストーカーだ!」
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