第2幕 あきらめることに慣れていた(3)

 なんだったんだ? あれはいったいなんだったんだ?


 ネコの部屋からまっすぐ帰宅したギンタは、部屋の電気もつけず、パソコンの電源も入れず(ネット依存症のギンタには珍しいことだ!)、ベッドで毛布をかぶって深くて暗い思考の海に沈んでいた。

(僕はネコちゃんに誘惑された? ネコちゃんが何を考えているのかわからない。どうしてあんなHな雰囲気になったのかまるでわからない。からかわれただけ? それともネコちゃんって実はそういう性癖の持ち主? それとも、まさか、あり得ないことだけど、ネコちゃんは僕のことを……。もしそうだとしたら、改めて、落ち着いてよく考えてみよう。ネコちゃんはかわいい。性格も明るく元気で申し分ない。何より巨乳でネコミミだ。……ひょっとして自分はとてつもなくもったいないことをしたのではないだろうか……)

「うわあああ」とうめきながら、下着姿のネコを思い出してのた打ち回るギンタ。今さら後悔しても、もう遅い。

「……でも仕方ないよな。だって、ユカのことを思い出しちゃったんだから」

 ネコを押し倒しそうになった瞬間、ギンタはユカの顔を思い出して、すんでのところで思い留まった。


 ギンタはユカのことが好きだった。


 たとえ見込みがないとわかっていても、自分の気持ちは偽れなかった。

 だから、どうあってもネコに手を出すわけにはいかなかった。

 ユカとネコが友達同士だと知っていたから。二人を傷つけるわけにはいかないから。

「そうとも、僕は間違ってない。ちょっと……いや、すごく惜しかった気もするけど、これは正しい選択だったんだ……」


 ピンポーン。


 ようやく気分が落ち着いてきたところで、玄関から呼び鈴の音が聞こえてきた。

 ギンタはぱたぱたという母のせわしない足音と、玄関のドアが開かれる音と、「あら、久しぶりね~」という母の喜ぶ声と、「ギンタなら二階にいるわよ」という親しみに満ちた母の声と、遠慮なく上がりこんだ来訪者のどすどすという足音と、その重みで階段が軋む音を聞いた。

 我が家って声が筒抜けだよな。

 築15年の安普請に不満を垂れながら、ベッドから起き上がったギンタは目覚し時計に目を向ける。

 時刻は午後六時をとうに回っていた。

 こんな時間に誰だろう? 来訪者が気になってギンタは扉の前へと移動。ドアノブに手をかける。


 ドーン!


「ぎゃふん!」

 ギンタがドアに手をかけた瞬間、ものすごい勢いで扉が内側に開かれた。ドアごとギンタを吹き飛ばし、部屋へと上がり込んだ人物は、

「やいギンタ! てめえ、ネコに何をしやがった!」

 憤怒の形相の、ユカだった。

 ずかずかと部屋に上がり込んだユカは、倒れているギンタの胸倉を掴み、がくんがくんと力任せに振り回す。

「ネコから電話がかかってきたんだ! ネコのやつ泣いてたぞ! 話を聞こうにも泣いてばかりで全然要領を得ないし、よくわかんないけどお前の名前を何度も繰り返すばっかりで……。さてはお前、ネコになにかひどいことをしたんだろ!」

 がくんがくん。首を前後に揺すられて、ギンタは答えようにも答えられない。

「どうした! さっさと答えろ! ……はっ、まさかお前、口に出して言えないようなことをネコにしたんじゃないだろうな!」

 このまま黙っていたら、どんどん状況が悪化していきそうだ。

 慌てたギンタは「落ち着け」とジェスチャーで示し、どうにかユカの手を振り解くと、ゆっくりと時間をかけて呼吸を整え、冷静沈着に彼女の質問に答えた。

「ち、ちちちち違うよ! ご、ごごごご誤解だよ! そ、そりゃネコちゃんの部屋に入って、ベッドで裸にして、さ、ささささ触ったりもしたけど、それだけだから! 最後の一線は越えてないから! だからネコちゃんを傷つけるようなことなんて何も」

「オラア!」


 どごっ!


 殺意の宿った爆裂ユカパンチが、ギンタのあごに炸裂した。

 あまりの衝撃にベッドの上まで吹っ飛ぶギンタ。どすん、ばたん、きゅう。

「てめえ、いたいけなネコになんてことを……。いいか、ネコはオレの親友なんだ! ネコを泣かせるやつは絶対に許さないからな!」

 気迫のこもったユカの声を、ギンタは唖然とした表情で聞いていた。

 なにがそんなに悔しいのか、歯噛みして拳を小刻みに震わせるユカへ、ギンタはかける言葉が見つからない。

「ギンタの顔なんて見たくもない。いいか、二度とオレの前に現れるな! 二度とだ!」

 吐き捨てるように言い放つと、ユカは部屋を飛び出して、叩きつけるように扉を閉めた。

 ギンタの視界がグラグラと揺れて感じたのは、叩きつけられた扉のせいか、頭を殴られたせいか、それとも……。





 これがテレビドラマなら、後を追いかける場面なのかもしれない。

 これがあきらめの悪い男なら、誤解を解こうと電話をかけたかもしれない。

 だが、ギンタはそのどちらも成そうとはしなかった。

 ただ、殴られた頬を押さえたまま、無言で彼女の消えた扉を見つめていた。



 ――やっぱり、僕なんかが恋をしちゃいけなかったんだ。



 ユカと恋人同士になることを夢見ていた少年は、それが叶わぬ望みだと身にしみてわかって……。自分みたいにダメなやつが好きな子と付き合うなんて最初から無理だったのだと思い知って……。


 自分の運命に納得してしまった。


 オタクで、人付き合いが苦手で、超がつくほど奥手で、優柔不断で、人に命令されるまま流されて生きてきて……だけど優しくて、優しくて、誰よりも優しい少年は、我慢をすることに慣れていた。


 自分の気持ちを押さえ込むことに慣れていた。


 あきらめることに慣れていた。

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