人身御供奇譚

橘 泉弥

人身御供奇譚

 昔々、この村には怪物が住んでいた。怪物は村に災厄をもたらし、数えきれない程の命を奪った。人々は怪物を藪へ封じ、二度と悲劇が起こらぬようにと供物を捧げ、何百年間も祀り続けていた。

 供物の中には生贄もあった。人道に反する事は分かっていたが、人々は、それ以外に怪物を鎮めておく方法を知らなかった。

 人身御供。それは、人間達がこの村で生きていく為に必要な、犠牲者だった。



 その藪に入ってはならないということは、村人なら誰でも知っていた。

 そこに入れるのは特別な者――十年に一度捧げられる生贄の娘だけだった。

「十年に一度一人だけなんて、魅力的な響きじゃないか。だから、私は喜んで引き受けたんだ」

 十五、六と思われる少女は微笑む。

「あの藪には一度入ってみたかった。和尚の言う通り、私は好奇心の塊だからな」

 平たい胸を張ると、正面に座る住職は肩をすくめた。

「いや、別に褒めていた訳ではないがね」

 強がる声に隠した恐怖を案じ、和尚は夕日に染まる少女の髪をなでた。

「すまないみどり。わしの力が及ばなかったばかりに……」

 それを聞いた少女はまた笑う。

「和尚が謝る必要はないさ」

 仕方のない事だ。誰だって自分の娘を生贄にしたくはない。嫌な役は、寺の孤児にまわってきた。

 翠は赤子の時に和尚に拾われ、村の大人達を親代わりに育った。子供らも彼女を慕い、兄弟のように接してくれた。そんな家族に礼がしたくて、翠はこの役を引き受けた。

 でも……

「私は行くよ。今夜の祭りの主役だからね」

 でも、これ以上話していたら決心が揺らいでしまいそうだ。今までありがとうございましたと三つ指をつき、少女は急いで本堂を出る。庭の草花にも後ろ髪を引かれながら、育った寺を後にした。

 村の広場では、もう儀式の支度が整っていた。いくつもの篝火の中央には山海の幸が積まれた輿が鎮座し、米俵や反物が地面に積まれている。生贄と一緒に奉納される品々だ。

 翠が広場に入ると、村人達は一斉に彼女を取り囲んだ。

「準備はできたかい?」

「ああ。万端だよ」

「ごめんね翠。これが村の風習なんだ」

「なんで謝るの。私だって村の一員だもの、役に立てるなら嬉しいよ」

 一人ひとりに最後の言葉を返しながら輿へ向かう。それに乗って、生贄は藪へ運ばれる。

「翠!」

 翠と同年代の少女が大人をかき分けて進みでた。手には着物を持っている。

「華代! どうしてここに。今夜は私以外の娘は家から出てはいけないんだぞ」

「分かってるわ。でも、どうしても渡したい物があって」

 華代は真っ白い絹の着物を生贄に差し出した。

「これ、村の皆で縫ったの。翠に」

「私に? ありがとう」

 翠は笑う。親友に見せる最後の表情は、笑顔でなければと思った。

 華代がくれた打掛を纏い、翠は輿へと上がる。

 鈴の音と共に儀式が始まった。神主を先頭に食べ物の輿と少女の輿が続く。列は藪の前にそびえる鳥居を少し入ったところで止まった。松明の火が揺らめく中一際大きく鈴が鳴り、輿が下ろされる。神主が仰々しく拝礼すると、儀式は終わった。

 人々が去ると、藪は不気味なほど静まり返った。虫は鳴かず鳥も飛ばず、風の音さえ聞こえない。ここは人の入ってはならない森の中だ。翠は恐怖に負けないよう、拳を強く握った。

 半刻程経っただろうか。どこからか草をかき分ける音がした。翠はその方向に耳を澄ませる。音は真っ直ぐ供物の方へ向かってくる。逃げたいと叫ぶ体を必死に抑える。音が近く大きくなる。目の前の木々ががさがさと揺れ、視界が真っ黒になった。

 何事かと上を見ると、三つの紅い満月が供物を見下ろしていた。驚嘆のあまり身動きもとれず、翠はじっと満月を見上げる。

「お前、変な奴だな」

 突然低い声がした。

「いつもの娘は悲鳴をあげて泣き叫ぶ。お前は黙っている」

 年寄りのようにしわがれた声だ。

「俺が怖くないのか。俺はお前を喰うぞ」

 赤い月が近くなり、翠はやっと声の主が目の前にいること、満月に見えた物が大きな眼であることに気付いた。

「……誰だ?」

 三つの眼に射竦められたまま、なんとかそれだけ訊く。

「俺はこの森の主だ」

「私を喰うのか」

「……お前、いつもの娘と違う。俺と話す奴は初めてだ」

 三つ目が揃ってななめに傾いた。そのままの角度で生贄の人間を見つめる。

「お前は変だ。喰う気が失せた。喰えない人間に興味はない。帰れ」

「それはできない」

 まだ残る恐怖心を押し殺し、翠は言う。

「生贄を捧げなければ、村に災いを呼ぶのだろう? 私のせいで村に災難がおきるのは御免だ」

「何の話だ? 俺にそんな妖力は無い」

 今度は翠が首を傾げた。子供の頃から、藪には昔村に災厄を広めた妖怪が封印されていて、十年に一度捧げものをする事で災いを避けていると聞いていた。

「とにかく、喰えない娘はいらない。帰れ」

 三つ目はぐるりと向きを変え、草叢をかき分けて森の奥へ帰っていった。

 月が空を渡って山の向こうへ沈み、太陽が昇って朝が来た。森では鳥がさえずり、朝露に濡れた葉がそよ風に揺れる。

「まだ居たのか」

 翠は頭上から降ってきたしわがれ声で目を覚ました。

「うわぁっ」

 声の主を見て思わず声をあげる。

 翠を見下ろしていたのは、身の丈九尺以上もある大鴉おおがらすだった。不気味なのは大きさだけではない。その顔面には、血のように紅い色の眼が三つついていた。

「なんだ、やはり怖いのか」

 ばさりと広げた翼は四つ。何とも異様な怪鳥だった。

「帰れと言ったろう。なぜまだ居る」

「森から出られなかったんだ」

 暗い森の中月光に照らされた鳥居は見えたのだが、いくら歩いても近付かない。とうとう疲れ果て、傍にあった木の根元で眠ってしまった。その鳥居は今も一間程先に見えている。

 大鴉はずいと翠に三つ目を近付けた。

「お前、森の物を喰ったか」

「一緒に奉納された林檎を」

「だからだ。お前はこの森に封じられた」

「そんな……」

 村に帰りたいと思うが、ここは立ち入ったら戻れない藪の中だ。当たり前といえば当たり前かもしれない。

「どうする。失望したなら喰ってやる」

「お断りする。何を失おうが生きていれば何とかなると、和尚が言っていた」

「カァ、残念だ。お前、今見ると美味そうなのに」

 大鴉が顔を寄せてきたので、翠は慌てて押し返した。手に触れた羽毛は、意外と柔らかかった。

 翠の反応が面白かったのか、大鴉は笑う。

「お前が気に入った。俺には名前なぞないが、人間にはあるのだろう。教えろ」

 三つの紅い眼に見つめられ、翠は思わず顔をそらした。

「翠。名は翠だ」

「みどり? 木の葉の色だ」

 大鴉はその音を耳になじませるように、何度も少女の名を呟いた。

「翠、どうせ一人では生きられぬだろう。俺の家に来い」

 化物の住処に行くのは抵抗があったが、彼の言う通り、森の中に一人では何もできない。ここは大人しく従うしかなさそうだ。

 獣道を進む大鴉についていくと、やがて彼は少し開けた場所で足を止めた。見ると何やら茶色い物体が鎮座している。

「どうだ、立派なものだろう」

 怪鳥の家は、枝や枯れ草を寄せ集めた平たい籠だった。人間から見るとただの巣だが、きっと鳥なりの美意識があるのだろう。

「来い」

 突然太い嘴に挟まれ、翠の体が宙に浮いた。

「な、何をする! 離せ!」

 手足をばたつかせていると、怪鳥は翠を降ろした。

「ここは……」

 降ろされたのは巣の中だった。そこから見ると大鴉の巣は予想以上に広く、浅く見えた籠の縁はまるで壁のようだ。

「ここが俺と翠の家になる」

 頭上から大鴉が言った。低音なのでわかりにくいが、初めて聞いた声よりも明るい声だ。

「同じ家に住む者を家族というのだろう? ならば、翠は今日から俺の家族だ」

 こうして生贄の少女は、森の主と一緒に暮らすことになった。



 どんな苫屋でも住めば都というが、それは大鴉の巣にも言えることらしい。しばらくすると、翠はすっかり妖怪との共同生活に慣れた。恐怖は段々と消え、今では互いに言いたい事を言いあう仲になっている。

「大鴉様、何度言ったら分かるのだ。床に石を散らかさないよう頼んだだろう。痛いんだ」

「カアァ、怒るな翠。すまないすまない。今日拾ってきたやつと一緒に、壁に埋め込んでおいてくれ」

 共に暮らしてみると、この大鴉はかなり人間臭かった。食べ物の好き嫌いが多いし、趣味なのか綺麗な石があると拾ってくる。

 家の壁は大鴉が拾ってきた石でうめつくされていた。日光の具合で輝くと、まるでびいどろ細工のようで、翠もいつしかこの家を気に入っていた。

 そして大鴉は伝説が嘘のように人がよく、なにかと翠に気を遣ってくれた。

「虫は嫌いだと言っていたから、魚を捕ってきた。喰え」

「ありがとう。私もトカゲを数匹捕まえておいた。焼くか?」

 何とか互いの食文化も受け入れ、いさかう事もなく暮らしている。ここに来てからの正確な日数は覚えていなかったが、翠にはもう、村での暮らしが遠い昔のように思えた。

「星が綺麗だ」

 翠は焼き魚を頬張りながら夜空を見上げる。

「きらきらしているらしいな。俺にも見えればいいのに。俺はきらきらが好きだ」

 じっと川辺に佇んで光る水面を見ていることもあれば、朝露に濡れた森の木々を見上げ感嘆の声を漏らすこともある。特に雨上がりの蜘蛛の巣が好きで、よくつついては雨粒を散らしていた。

「カラスの一種だからだろう」

「一種? 俺は普通のカラスだ」

「いや、普通のカラスはあなたほど大きくないし、目玉も翼も二つずつだ」

「知っている。仲間はみんなそうだった」

「仲間がいたのか」

 藪の中に彼以外のカラスは居ない。彼と話す者も居ない。ここに封じられてから、一度も会話というものをしたことがなかったのだろう。翠にも、大鴉が彼女を食べない理由が何となく分かった。

「もう遠い昔の話だ。幼い頃は仲間と暮らしていた」

 虫を追いかけたり畑の粟をつついたりして、他のカラスと変わらない生活を送っていた。仲間は彼の外見など気にせず、普通に接してくれた。

「でも、人間に引き離された。村に病が流行った時、人間どもは俺のせいだと言った」

「この村の昔話だ。村に死をもたらした妖怪をこの藪に封じた」

「俺は何もしていない。なのに無理やり捕らえられ、閉じ込められた。俺は人間が嫌いだ。憎い。恨めしい。あんな奴ら、皆病で死ねばよかったのに!」

 大鴉は初めて翠の前で怒りを露わにした。羽毛を逆立て三つ目で空を睨み、大声で叫ぶ。殺気さえ孕んだその怒声に、翠は思わず身を竦めた。

 少女の怖気に気付いたのか、大鴉は翠に大きな顔を摺り寄せた。

「人間は嫌いだが翠は好きだ。怯えないでくれ」

 彼は仲間たちと強引に引き離され、長い間暗い森で孤独に生きてきた。恨むなと言う方が難しいのだろう。翠が優しく嘴をなでると、大鴉は三つの眼を細めた。

「今夜は寒い。羽の下で寝るか?」

「ああ」

 虫や梟の鳴き声が不気味に響くが、森の主と一緒なら怖くない。柔らかい羽の下は、安心できる。

 白い月が見守る中、夜は静かに更けていくのだった。

 翠が葉の間から洩れる朝日に目を覚ますと、大鴉は巣に居なかった。散歩か狩りに行ったのだろうと思い、少女も食物を探しに出掛ける。

 しかし、山菜を集めて巣へ戻っても、大鴉はまだ帰っていなかった。これだけ外出が長くなるのも珍しいので、翠は彼を探しに行く事にする。

 大鴉の作った太い獣道は森の隅々まで走っている。彼の散歩道は分かっているので迷わず歩いていくと、彼は小さな広場で秋の空を見上げていた。

「大鴉様、また太陽を見ているのか」

 人間には眩しい太陽も、鳥の眼から見ると別の輝き方をして彼好みらしい。

 翠が下から話しかけると、大鴉は上を向いたまま一言、違う、と言った。

「今年もまた、鳥達が飛んでいく」

「もうそんな季節か」

「そうだな」

 大鴉はカーアと深い溜息をついた。

「あれを見ると、どうにも空が恋しくなる。俺もまたあの大空を飛びたい」

「飛べばいいではないか。あなたには翼が四つもある」

 そういえば、翠は彼が飛翔する姿を見たことがない。彼はいつも二本の足で歩いていた。

「俺はこの森では飛べぬのだ。あの鳥居より高い所へ上がろうとすると、目に見えぬ力に押し潰されそうになる」

 大鴉は翠を咥えあげ、自分の背中に乗せた。翠は彼の目線に少し近付いたところから、一緒に渡り鳥の群れを眺める。野分が森の木々を揺らした。

「飛べずとも、ここでの生活には困らないだろう」

「確かに、食べ物は森の中に余るほどある。翠がいるから寂しくない。しかし、この感情だけはどうにもならぬ」

 鳥類としての本能なのだろう。大きな翼は、あの大空を飛ぶ為にある。

 大鴉はまた嘆息した。

「嗚呼、飛びたい……」

 彼の憂えた表情を見て、翠は決心した。背中から飛び降り、大鴉の正面に立って宣言する。

「私があの鳥居をなんとかしよう」

「カァ? 正気か? 簡単にできる事ではないぞ?」

「分かっている。でも、何か方法があるはずだ。どうにかしてあの鳥居の外へ出られないものか……」

 翠の決意が通じたのだろう。大鴉は座りこみ、少女と顔の高さを合わせた。

「方法は、ないことはない」

「本当か!」

「鳥居の外へ出るだけならな。藪から出られないから、藪ごと外へ持って行くのだ」

 巣へ戻ると、大鴉は藪に来た時と全く同じ格好をするように言った。

「服も髪も櫛も、奉納された夜と寸分違わぬようにしろ」

 言われるがままに、翠は懐かしい着物に袖を通して髪を結う。

「できた」

「これを持て」

 大鴉は傍の大木から折った一本の枝と、自分の羽を一枚、翠に渡した。

「これで、あの鳥居を潜れるだろう」

 翠は驚いて大鴉を見上げた。

「これで森から出られるのか? なぜ最初に教えてくれなかったのだ」

「それは……」

 大鴉は、申し訳ないというように九尺の体を縮こませた。

「俺はずっと寂しかった。翠が口をきいてくれた時は嬉しかった。気が動転して帰れと言ったが、翠が森から出られなくなって、これでずっと一緒にいられると思った。本当は帰したくなかった」

 翠は黙って怪鳥を見上げる。いつも丸い三つの眼が、心なしか潤んでいるように見えた。

「翠、森を出ても、また俺の所へ帰ってくると約束してくれ。俺を独りにしないでくれ。もう、寂しいのは嫌だ」

「心配するな。私はちゃんと戻ってくる。約束するよ」

 うつむく大鴉の頬に触れて笑顔を見せ、翠は巣を後にする。入口の鳥居は翠を通してくれた。

 久しぶりの村は稲の収穫を終え、冬の支度の真っ最中だった。あちこちの軒に大根や魚が吊り下げられ、柿や茸が干されていた。

 特にこれといったあてもないので、育った寺の門を潜る。

「和尚、ただいま!」

 声をかけるが返事はない。墓地にいるのだろうと寺の裏へまわったが、ここにも住職の姿はない。その代わり、翠は住職の名前が彫られた墓と、翠本人の墓を見つけた。

「嘘だろ……」

 幻であれと願って伸ばした指に触れた墓石は冷たい。二つとも綺麗に磨かれ、周囲の雑草も抜かれている。翠はその場に座り込み、並んだ墓標をぼんやりと眺めた。

「翠?」

 名前を呼ばれて力なく振り返ると、子供をつれた妙齢の女性が立っていた。翠の顔を見て目を丸くし、子供を置いて翠に駆け寄り肩を掴む。

「やっぱり、翠よね! その打掛、私が手渡したんだもの」

「誰だ? お前、華代じゃない」

 親友の華代は翠と同い年だったはずだ。翠は弱々しく女性を突き放した。

「それより和尚は?」

「住職さんは、三年前に亡くなったわ」

「三年前?」

 相手が何を言っているのか分からない。

「私は華代よ。あのね、あなたが贄として捧げられた時から、もう八年経ってるの。私は結婚したし、子供もいる。翠が変わっていないだけよ」

「八年? 嘘だ、まだ二年も経ってない」

 到底信じられなかったが、確かに女性の声は懐かしい友のものだ。それに、先刻まで翠が居たのは怪しい伝説の藪。そういうことも有得るのだろう。

「……本当に華代なのか?」

「さっきからそう言ってるでしょ」

 せっかくだからと言われ華代の家へ行くと、彼女は翠に茶を煎れてくれた。

「帰ってきて大丈夫なの? 藪の妖が怒ったりしない?」

「しないよ。私をここへ帰したのはあの方だもの。見た目は怖いが、中身は優しいんだ」

「大人は皆、翠は死んだって言ってたわ。ねえ、何があったの?」

 翠は久しぶりに煎茶を飲みながら、大鴉のことや森の中での生活について友人に話した。

「大鴉様が空を飛びたいと仰ったんだ。私はあの方の願いを叶えたくて、村に戻ってきた」

「あら、随分大鴉さん思いなのね。つまり、その大鴉さんをあの藪から出すってこと?」

「そうだ。大鴉様は人間の勝手な都合で森に閉じ込められただけ。何も悪くないんだ」

 華代は大きなため息をついた。

「私は、藪の封印を解くのは反対だわ」

 それが当然だろう。村人は皆、幼い頃から、藪には恐ろしい怪物が居ると聞かされている。

「でも、翠は昔から嘘なんてつかないし、一度言い始めたら聞かないもんね」

「ああ。私はきっと、藪の封印を解いてみせる」

 子供の頃と変わらない親友の姿に、華代は目を細めた。

「で、方法は分かってるの?」

「いや全く。正直、困ってるんだ」

 森からは出られたが、封印の解き方が分からない。和尚が生きていたら訊けたのにと、翠は肩を落とした。

「私、予想ならつくわ」

 華代が意外な事を言った。

「本当か?」

「ええ。町の神社に行ったとき、あの鳥居に付いてるのと逆のしめ縄を見たの。神主さんに尋ねたら、向きによって意味が違うって言ってたわ」

 曰く、右元は聖域に不浄な物が入るのを防ぎ、左元は逆に、鳥居の中の物が出るのを防ぐ。

「つまり、鳥居の中への出入りは、あのしめ縄が決めているみたいね。藪の鳥居のしめ縄は、左元だったでしょう」

「じゃあ、あの縄を壊せば、出入りは自由になるんだな」

「多分ね」

 それが正解かどうかは、実際にやってみれば分かる事だ。他の方法を知っている訳でもないし、とりあえず実行に移すしかないだろう。

 華代は翠に、一振りの鎌を渡す。

「家にはこんなのしかないけど、研いであるからきっと大丈夫よ」

「ありがとう」

 華代は協力すると言ってくれたが、翠は断った。村人たちに反対される事は明白だったし、家族を持つ親友に迷惑をかけたくない。

 どう村の大人たちを説得しようかと考えながら歩いていると、懐かしい人にばったり会った。

「あ、ヨシさん」

 村にいた頃、寺によく遊びに来ていた年寄だ。翠が嬉しくなって声をかけると、老婦は怯えて地に膝をついた。

「どうしたんだ?」

「ひぃ、み、翠、許しておくれ。掟だぁ、仕方なかったんだよぉ」

 合掌され、翠は事の難しさを理解する。生贄に対して後ろめたく思っている大人達には、死んだ翠が化けて出ているようにしか見えないのだ。

「違う。私は……」

 説明しようとしても、念仏を唱えられるだけ。すぐに他の村人たちがヨシさんの様子に気付き、次々と翠の周りに集まってきた。それぞれ謝罪の言葉や念仏を口にし、恐れおののいて手を合わせる。

「違う! 私は死んでない!」

 躍起になった翠が大声で言うと、その場は水を打ったように静まり返った。

 村長が、恐る恐る群衆の間から進み出た。

「おめぇ、本当に翠か?」

「ああ。私は喰われなかったんだ。大鴉様に頼まれて、藪の封印を解きに来た」

 初めに言ってしまったのが悪かった。村人たちは、互いに顔を見合わせてまたざわつき始める。

「翠は狂っちまったんだ!」

 誰かが叫んだ。

「化物が翠た誑かしたに違いねえ! 森から出たいんで、洗脳して送り込んできたんだ!」

「そうだ! 騙されちゃなんねえ。あの封印を解いたら、村に災いがくるぞ!」

 誰かの声に誰かが同意し、群衆は熱を帯びる。

「違う! 大鴉様はそんな方ではない!」

 翠の叫びも届かない。

「化物の奴、祀ってやってるからって、いい気になりやがって!」

「もう辛抱ならねえ! あんな気味の悪い森、焼いちまえ!」

「やめろ!」

 翠は我慢できず、村人に掴み掛かった。

「何しやがる!」

 少女の力では大の男に敵わない。あっという間に組み伏せられてしまう。

「誰か翠を縛りあげろ!」

「離せ!」

 翠は必死にもがき、やっとの事で人の塊から抜けだした。大鴉に危険を知らせなければ、と急いで藪に走る。

 追いかけてくる人間たちを撒き、脇目もふらず鳥居を潜った。

 急に体が重くなった。四肢は思うように動かず、目に見えない力に抑えられて前に進めない。

「まさか……」

 翠ははっとして足を止めた。振り返ると、すぐ目の前に見慣れた鳥居がある。

「戻れない……」

 森に捧げられた供物を食べたら、森から出られなくなった。華代に出された村の茶を口にしたから、今度は森に入れなくなったのだろう。

「そんな……」

 これでは危険を知らせるどころか、必ず帰るという約束さえ守れない。翠は呆然として立ち竦んだ。

 村人達が追い付いてくる。捕まりそうになり、翠は必死に鎌を振って追い払う。

「本当に森を焼く気か!」

「安心しな翠、化物が死ねば、きっとあんたも元に戻るさ」

「私は正気だ!」

 刃物を振り回す少女の言葉を、信じる者はいなかった。

 捕まらないよう気を付けながら、翠は石の鳥居に飛びついた。

「今からこの藪を焼く! 村に災いを呼ぶ化物など、殺してしまえ!」

 誰かが雄叫びをあげ、広場が沸き立つ。

「やめろ!」

 掛け声とともに、火のついた松明が森へ投げこまれた。

 森はあっという間に炎に包まれた。鳥たちが騒ぎながら空へ飛びたち、動物たちの悲鳴が鳥居の外まで聞こえてくる。

「大鴉様!」

 翠はしめ縄を目指して鳥居を上る。彼女には、口々に止める村人も、引きずり下ろそうと後から上ってくる男達も見えていない。目に入る汗を拭う事もせず、上り続ける。大鴉を助けたいと、それだけ考えていた。

 やっとしめ縄に手が届いた。迷わず鎌で太い藁の束に切りかかる。縄は少し揺れただけだった。しかし何度も刃を突き立てるうちに切れ込みは広くなり、縄はもろくなる。あと少しだ。

「おい、やめろ!」

 追いついた男に足を掴まれ、翠の体勢が崩れる。下ろされまいと必死に石柱にしがみつく。なんとか片方の腕を伸ばして渾身の力を振り絞り、縄を切りつけた。

 みしみしと音をたて、しめ縄が切れる。鳥居を囲む群衆が静まり返った。翠も、翠を止めに来た男達も動きを止め、皆固唾を吞んで燃え盛る藪を見つめた。

 ギャアアアアアアァァァァ!

 地の底から揺り動かすような咆哮が村中に響き渡り、異形の大鴉が炎の森から飛び出した。煙で黒く染まる空に四枚の翼を広げ、三つの紅い眼で人間達を見下ろす。

「よくも森を焼いたな人間ども! もう我慢ならぬ! お前達全員、喰い殺す!」

 低くしわがれた声で叫び、大鴉は村人の群れをめがけて急降下する。

 村はたちまち混乱に陥り、人々は悲鳴をあげて逃げ惑う。伝説の妖怪は、やはり人間を喰らい、村に災厄をもたらす化物だったのだ。大鴉は一人の男に狙いを定め、大きな嘴を開いた。

「大鴉様!」

 翠が村人を庇うように、怪鳥の前に飛び出した。大鴉は驚いて翼をばたつかせ、二本足で地面に降り立つ。

「翠、どけ」

 翠は大鴉に駆け寄ると、両腕を広げて黒い胸に抱き付いた。

「大鴉様、こんな事はやめてくだされ。あなたは、本当は優しい方なんだから」

「……俺は人間が嫌いだ。憎い。恨めしい。全員殺したい」

 大鴉は村人たちを睨み付けた。三つ目を向けられた者は怯えて数歩後ずさる。

「人間を許すことなどできない。でも、翠が悲しむなら、殺すのは止める」

 緊張していたその場の空気が緩んだ。村人たちはとりあえず胸をなでおろし、怪物の様子を遠巻きに眺める。

 大鴉は首を曲げ、少女に甘えるように頬ずりした。

「ありがとう翠。こんなに傷だらけになって、呪いを解いてくれた」

「別に苦労はしてないさ。大鴉様のためだもの。本当に、無事でよかった」

 翠はやっと、自分がこの大鴉に抱いている感情に気付いた。相手は人間ではないが、そんな事はどうでもいいように思えた。

「俺は翠が好きだ。翠、これからも、俺と一緒にいてくれるか?」

「ああ、もちろん」

 孤独な大鴉に言われたからではなく、翠の方が彼の傍にいたいのだ。翠はこの異形だが心優しい妖怪を愛していた。

 大鴉は翠を咥えあげ、自分の広い背中に乗せた。

「森は焼けてしまったが、俺は自由だ。また二人で暮らせる場所を探そう」

「ああ。大鴉様、これからもずっと一緒にいよう。もうあなたを独りにはしない」

 翠はしっかり大鴉の背につかまった。恐怖は感じない。まだ見たことのない世界への好奇心と、大鴉と共にいられる喜びに胸を躍らせていた。

 大鴉が青い空に翼を広げて飛び立つ。その姿が山の向こうへ消えると、もう二度と、少女も大鴉も、村へは帰らなかった。



 それからというもの、この村では人身御供をつくることはなくなり、恐ろしい妖怪の話をすることもなくなった。その代わり、世にも珍しい大鴉と少女の恋物語が語り継がれるようになったという。

 そして今でも秋の暮れには、村の娘らが縁結びを祈念し、しめ縄のない鳥居の奥の小さな祠に、たんと供物を置くそうな。

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