第3話
たっぷりと寝たはずなのに、起きるのが億劫だった。嫌いなわけではないが別に好きでもない学校に行くのは面倒だ。
学生服に身を包み、胸元で日和はリボンを正す。今日も変わらず綺麗な顔だが、そこには憂鬱そうな色が多少乗っている。
ただ面倒には思うものの、嫌にならないのは図書室で本を借りられるという大きな利点があるからだ。今日は何を借りようか。
日和の通う私立高校は蔵書が多く立派な図書室を有している。眺めるだけでも心が躍る図書室に心を馳せながら、玄関の扉に手をかけた。
その瞬間、玄関の冷たい鉄扉が何もしていないのにゴン、と物があたったような大きめの音を響かせた。鉄扉特有の低い籠るような音に驚きはしたものの、日和は鞄が揺れて当たったのだと気に留めない。
出る一瞬前に振り向き、「かーくん、いってきます」とぬいぐるみに挨拶をはさんだ。振り返った誰もいない部屋に続く廊下になにやら影があったのを、日和は今日も気が付かずにおわる。
日和のいなくなった部屋で、ソレは思考する。
なんて鈍い奴だ! ふざけるなよ!
強い怒りに反応するように部屋の小物たちが揺れる。壁からも音が鳴り、天井に取り付けられた照明は点滅を繰り返す。
ここまで、ここまで明らかにソレは部屋に干渉できるのだ。
それなのに。
なんで一切、全く、なんとも、微塵も気が付かない‼
今まで入居してきた人間とは全く違う日和の反応に、ソレは怒りと、そして戸惑いが隠せない。決して手心なんて加えてはいないし、手加減をしているわけではない。もちろんできることなら今すぐにでも追い出してやりたい。
ただしかしソレの特性として、あれほど相性の悪い相手もいないのだ。気が付かない、という相手は。
今までの相手はよかった。多少脅かしてやるだけで、勝手に怯えて疑心暗鬼になり、少しトドメをさすだけで出て行った。
気の強い人間だって、一切そういう存在を信じなかった人間だって、「もしかして」という疑惑と、確信に至る現象を引き起こしてやれば簡単なものだ。姿を見せたり、直接危害を加えられれば、もう一日だって部屋にまともに寄りつかなくなる。
日和にも、最初から危害を加えることができればもしかすると追い出すことが可能なのかもしれない。
ただ、問題はそれが実行できないということにある。
実体を持たないソレは、まず人間相手に『存在を知らしめる』ことが必要だ。ソレが見えない人間に、『確実に居ると知らしめる』ことさえできれば。
そうすれば、ソレの少しの気配と存在は、そこにいる人間にとって『確かにそこに居るモノ』となることができる。
人間の意識とは不思議なもので、居ると思えばその感覚は常より鋭く、過敏になる。そして本来なら触れられるわけもないものを実体として扱うことまでもできるのだ。
だから日和がソレの存在を認められたなら、今以上に存在を日和に知らしめることができるようになるし、危害を与えることを含めて触れることだってできるようになる。
……ただ、ゼロに何を掛け合わせてもゼロなように、今がゼロならどうしようもない。せめて1くらいになるように日夜おかしな事象を引き起こしているつもりだが、なかなかどうして報われたことがない。
今だってソレが頑張れば存在は薄くなら人影くらいで示せるし、かすかに触れることもできるのだ。壁や物から音を出すなんて事ならば今でも簡単にすることができる。
でもその程度では日和は一切の理解を示さないことはこの2か月程で嫌というほどソレは理解させられた。まるでソレの存在など空気と変わらない、気が付く必要などないもののように扱われている。
人間として、そこまで鈍いのはむしろ私生活に支障をきたしているだろうと思わずにはいられない。そのあたりを気にかけるのは癪だし、一層イライラしたものが腹の中をかけまわるような心地になるのでできるだけ、何も考えずひたすらに攻勢を貫くようにしているのだがどうにも上手くいかない。
気にしないようにと思いつつ、あまりにも気が付かないこいつは何なのだと観察してしまうのだ。ソレは日和の生活についても思うところが多くあった。
毎日毎日変わらず積み上げられる、パンの数々。しかも同じ物ばかりだ。野菜はすべてパックの飲み物で補給できていると言わんばかりで、彼女にとっての食事における興味の薄さを嫌でも理解させられる。
それに物が少ないために散らかりはしないが、その分生活感もない部屋。彼女が日常に行うことはほとんどが本を読むことだけであるし、家事もおざなりだ。必要最低限ではこなしてはいるものの、その手際は恐ろしく悪い。
それを見ているだけでソレは苛々とするし、その苛々している自分がまるで日和を気にしているようでまた苛々とする。
つまり、ソレはただひたすらに日和が来てからというもの、今までにないほどに感情が揺れ動いているのだ。
なんと面倒な毎日だろうか、とソレは恨みの感情を今は居ない日和にぶつけるように部屋にあたる。ガタガタと音を立てる部屋を見ながら、これほど明らかなのに何故気づかない! と改めて思い、また怒りが募る。
だがこの他にも苛々とすることがある。
彼女が「かーくん」と呼んでいるぬいぐるみに何かできればいいと考えたことがあるのだ。しかし、ソレはその「かーくん」には全く触れることができなかった。
何故なのかはわからないが、ソレにはできることとできないことの差が大きくあるらしい。最近、初めて知ったことだが。
今までは外に出られないこと以外、出来ないことが無いと思っていたのだ。今まで出来ていたこと以外、しようとも思ったことが無かったから。
出来ないことをどんどんと思い知らされる日々に、ソレはますますと日和を追い出したくなる。しかし追い出そうといろいろ試してみても鳴かず飛ばず。一切の成果が見えない。ソレにとっての悪循環だけが続いていく。
負の感情。それを思い知るのが面倒で、嫌で全てを避けてきた。なのに、今では毎日のようにその感情に直面させられている。どうしようもない感情はまた、部屋に悲鳴を上げさせた。
ソレがそんな思考を広げている時、玄関からガチャガチャと鍵を開ける音が鳴った。
まだ日和が出てから一時間ほどの経ったくらいの時間。
いつもよりも早く帰ってくる音と、いつもよりに鍵を開けるのに手間取ったような音にソレは疑問を抱いたが、疑問を抱くほどに把握してしまっていることがまた嫌になる。
ソレのそんな思いも知らないように、扉はいつものように明るい光を差し込ませながら開いた。
「これが……日和さんの部屋……」
誰だお前は‼
ソレは思わず叫んだ。叫んだといっても音が出るわけではない。なんとなく、気分の問題だが。
入ってきた男は長身の若い男で、顔は整っているが如何せん黒く真っ直ぐに伸びた髪が全体的に長く、残念ながらあまりその顔を表に出していない。
男の服装は白いシャツと黒いズボン、その上にグレーのコートを羽織っていて、年の頃は20代前半といった所だろう。整った顔は少し目つきの悪さが目立ち、本来なら冷たそうな印象を与えるだろうが、今は夢見心地といったような恍惚とした表情を浮かべていて目は眩しそうに細められて冷たさからはほど遠い。
男は玄関で立ち、ときめきを隠せない少女のような火照った頬で、手は胸の前に置かれていた。その手にはビニールの手袋がはめられ、さらにはカギとして使ったのであろう銀色の工具が握りしめられている。――明らかに、正規の方法で入ってきてはいない。
「はあ……日和さんの、部屋。日和さんの、香り……」
深呼吸するその男のあまりの気持ちの悪さに、思わずソレは全力で部屋に音を鳴らした。
部屋中の多くの場所から音が響く。地震が起こった時のような音とは全く違う、明らかな異常。この異変に気が付かない人間など……日和くらいのものだろうと思えるような、そんな異質な空気が部屋をまとっていた。
「何か、いるのか」
その空気に男は当然のように気が付いた。その反応に、久しぶりに明確に気が付かれたことに少しだけ気分が浮かんだことをソレは認めはしないが、怒りは少しだけ和らいだ。
恐怖すればいい。そうして急いでここから出ていけばいい。ソレは愉悦を感じるような気持ちで男の反応を眺めた。
だが、男のその反応はソレの予想から大きく外れたものだった。
異常な事態に対する恐怖も、不気味さも感じていない。
「お前……日和さんの部屋に、なに無断で侵入してんだ? ああ!?」
男の目に宿る、強い怒り。
あまりな言い草と予想外の反応に、ソレは思考が止まった。
本来ならばお前が言うのか、なんて思考が出来たのかもしれない。けれど、強い怒りを宿した目は、確実に。
――ソレを捉えていた。
それでも彼女は @tumeawase
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