月光館にて
葱羊歯維甫
-Rebirthday Eve-
―――十三夜、二十三時。月光館にて。 神凪 冴月―――
すっと滑るように。重厚な扉は外見と裏腹に音もなく開いた。
まず目に飛び込んできたのは正面の大きな階段だった。左手には応接用の革張りのソファがあって、右手には年代物のグランドピアノ。棚に置かれた壺や壁際に据えられたオーディオ機器。床一面に敷かれているのは毛足の長い赤い絨毯。
何一つ、記憶の中の姿と変わっていなかった。九年もの間、自宅から数十メートルの距離にありながら目にする機会のなかったホールは、少しも損なわれることなくそこにあった。
「早かったな」
上から言葉が降ってくる。聞き覚えのある少しハスキーな声。
こつ、こつ、と階段を下る音。
それに引き寄せられるように、もう一度階段を見上げる。
踊り場に降り立つ一つの人影。
先ほどまではなかったその姿を見て、俺は小さく息を呑んだ。
「昔は、遅刻ばかりしていたのに」
彼女は踊り場の手すりに手をかけ、こちらを見て小さく微笑んでいた。
ほっそりした躰。すらりと伸びた手足。強い意志を感じさせる切れ長の目。背中まで伸びた長い黒髪。もちろん過ぎ去った年月分の成長はあっても、その姿は幼い頃の印象そのままだった。
神凪冴月。関係を問われれば幼なじみとでも答えれば良いのだろうか。幼い頃、毎年夏になるとこの屋敷にやってきていた少女。斜向かいに住んでいた俺は彼女と出逢ってすぐ仲良くなって、毎日庭を駆けずり回り真っ黒になるまで遊んだ。歳を重ね過ごし方が変わっても、夏の間中二人でいることに変化はなかった。九年前、冴月のお祖母さんがここから去っていくまで、ずっと。
溜まった息を殊更にゆっくりと吐き出してから、俺は短く言葉を発した。
「―――よう」
「ああ」
冴月はそう頷きながら、階段を下るのを再開した。背筋がすっと伸びた、少し内股の上品な歩き方。ゆっくりと一段ずつ足を踏み出す度、ヒールがこつこつと音を立て、白いナイトドレスと黒いストレートヘアが左右に小さく揺れる。最後の一歩は、絨毯に柔らかく包まれて音を立てなかった。
「そんなところに突っ立っていないで入れよ」
冴月はそう言いながらソファに向かい、優雅に腰掛けた。無造作に足を組むと、ドレスの裾がふわりと舞った。
「久しぶり」
「ああ」
冴月の言葉に俺は短く答えた。冴月が手のひらで勧めたのに従い、向かいに腰掛ける。この館にはずっと誰も住んでいなかったはずだが、ソファには埃一つついていなかった。黒い皮の表面が、シャンデリアの光を鈍く反射している。
「九年ぶり、か」
冴月はそう独り言のように呟いた。子供の頃から変わらない、起伏に乏しい話し方だった。それでも不思議と、懐かしい温かみが感じられた。俺は軽く頷くだけにとどめて、何も答えなかった。
最後に会ったとき俺はまだ小学校の四年で、冴月は六年。今俺は十九になって彼女は二十一になっているはずだった。
「やはりこれだけ経つと大分印象は変わるな。見違えたよ」と、冴月は軽く微笑んだ。
「すっかり大人の男だ。私の中の聡文は小学生のままだったから」
「……そっちは、変わらないな」
昔のように冴月、と呼び捨てにしようとしかけて、俺は咄嗟に言い換えた。以前は名前で呼ぶことに何の躊躇いもなかったが、この歳になっては年上の異性を呼び捨てにするのは気が引けた。
「そうか? まあ、褒め言葉と受け取っておくことにしよう」
冴月はそう言って、唇の片側をつり上げて笑った。子供の頃、俺に悪戯を仕掛けたときによく見せた笑い方だった。楽しそうに、それでいてどこか小馬鹿にしているかのような。
「いつこっちに来たんだ?」
「昨日だ。着いてすぐ手続きなんかがあってな。昨晩はホテルに泊まったから、この家に入ったのは今日の昼頃だが」
「手続き?」
俺が聞き返すと、冴月の表情が少し、引き締まった。
「ああ。祖母が亡くなったから。遺言でこの家は私が受け継いだ」
「……そうなのか」
冴月の祖母は九年前までこの屋敷に住んでいた。いつでもにこにこ笑っている優しいおばあさんで、俺も大分良くして貰った記憶がある。遊びに行けば美味しいお菓子を食べさせてくれ、それが夏の間の一つの楽しみだった。こんな豪邸に住んでいるのに、チラシの裏をメモにしたり、スーパーの特売へ勇んで行ったりと、いたって普通の主婦だったように思う。
九年前の夏の終わり、東京に帰る冴月の家族とともに引っ越して行って以来、ここに帰ってくることはなかった。この家もそれ以来誰も住むことは無く、時折清掃の業者が入るくらいだったはずだ。
「聡文はあれからどうしていたんだ?」
「どうって……」と、唐突な問いに俺は一瞬言葉に詰まった。
「どうもしてない。普通に中学に進んで、普通に高校に行って。普通に受験して、今は地元の国立大学に通ってる。引っ越しもしていなけりゃ、事件に巻き込まれたこともない。いたって平凡な人生さ」
おどけてみせた俺の言葉に冴月は一瞬寂しげに笑顔を見せて、そうか、と呟いた。
「そう言うお前はどうだった?」
「こっちも大したことはしていないよ。祖母という家族が増えたこと以外に変化はなかった。エスカレーターで高校まで進んで、適当に受験して、都内の私大に通う華の女子大生。お前と同じ、何てことない凡人だ」
「お前の家が何てことないわけ無いだろう?」
冴月の祖父は生前、大手電器メーカーの社長まで勤め上げた大人物で、かなりの資産を遺したと聞いたことがある。俺たちが今こうして話しているこのお屋敷もそんな一つなのだろう。
「なに、他より少しばかりお金があるだけだ。中にいるのはどこにでもいる普通の人たちだけだよ。つまらないちょっとしたことで泣いたり、笑ったり、憎んだりするような、な」
冴月は苦笑しながらそう言った。そこに、わずかばかり自嘲するような響きが込められていたように感じたのは俺の気のせいだろうか。
「ここを相続するのだって苦労したんだ。何人もいる孫のなかで、どうして私だけが特別扱いなのか、とかなんとか」
冴月は呆れたような声でそう言った。それから冗談めかして続ける。
「ま、もっともこんな辺鄙な場所にある馬鹿でかくて古臭いお屋敷なんて、精々避暑地としての価値くらいしかない、むしろ税金やら何やらが面倒、とのことであっさり認めてくれた人も多かったがな」
「辺鄙って。人が生まれ育った故郷にずいぶんなお言葉だな」
「冗談だよ。……ここは私にとっても大事な場所だ」
一瞬。そう言い切った冴月に見惚れた。軽口を叩いているような笑顔で、それでいてどこか真摯な口調。外見の印象は変わらなくても、重ねた月日は冴月の内面に確かに変化をもたらしているようだった。
「ん? どうした?」
「……え?」
「人の顔、じっと見て。何かついてるか?」
そう言って冴月は不審そうな顔をしたまま、頬に手をやった。
「そうだな。目が二つに鼻と口が一つずつだ。他に眉毛や泣きぼくろなんかもあるな。感心なことにニキビや染みは見当たらない」
「はあ」と、冴月はこれ見よがしにため息をついた。
「何年経っても減らず口は治らないんだな」
「ほっとけ」
深夜のホールには俺たちの声以外、何の物音もなかった。動くものも一つとしてなく、館の雰囲気とも相まって妙に退廃的な印象があった。
奇妙な感覚だった。子供の頃は毎日のように遊びに来ていたというのに、まるで別の空間のように思える。部屋の造りも調度品も何一つ変わっていないというのに、とても懐かしいのにどこか馴染めない。
「何か飲むものでも持ってくる」
そう言って、冴月はすっくと立ち上がった。長い髪とドレスの裾が目の前でひらひらと舞った。
「紅茶で良いか?」
「お任せで」
俺の返事に、冴月は諦めたように首を振って、ドアの向こうに去っていった。思い返してみれば、たしかにあの奧にはキッチンがあった。小さかった頃は、小腹が空くとあのキッチンに行って冴月と一緒にお菓子をねだったものだった。時には、こっそり忍び込んでつまみ食いしたこともあった。
こうしてホールの中を見渡すだけでも、当時の思い出が幾つも蘇る。幼い時分、危険だとも思わずよじ上ってひどく怒られた階段の手すり。ノートを並べて夏休みの宿題をしたテーブル。ホールの絨毯が温かくて、二人で寝っ転がったこともあった。もう少し大きくなってからは冴月のピアノを聴いたり、このソファに腰掛けて本を読んだり、雑談していることが多かった。
それにしても、四十日という長い夏休みの間、二人きりで遊んでよく飽きなかったものだ。過ごした時間のほとんどが、この家の中か庭であって、外に出た記憶がまったくと言って良いほどない。
もしかしたら、二人で過ごせる時間の終わりがすぐそこに見えていたからこそ、ずっと一緒にいられたのかも知れない。特に九年前の夏は、二人とも本当に最後だということが解っていたからか、余計に密度が濃かったように思う。
―――いつか再会して、さいごまでずっと一緒に―――
九年前の八月三十一日。俺たちはそう約束をした。それから―――
「お待たせ」
背後からの声で、俺は我に返った。冴月はそんな俺に頓着することなく、トレイに乗せたカップやポットなどを机に並べ始めた。砂時計の砂が落ちきるのを待って、琥珀色の液体を注ぐ。落ち着いた薫りが室内に立ちこめた。
「ほら」
「どうも」
差し出されたカップに口を付ける。冴月も黙って紅茶を飲んでいて、どこか弛緩した空気が流れた。
「どうしてお祖母さんは引っ越したんだ?」
沈黙が気詰まりで俺はどうでも良い事を冴月に尋ねた。冴月は持っていたカップをゆっくりとソーサーに置いて、ついとこちらを向いた。
「大した理由じゃなかったよ。ただ、あの歳になって、こんな広い家に一人で住むのが大変になったというだけだ。金目のものもあるし、強盗に入られでもしたら洒落にならない、と誰かが言っていたのを聞いた記憶がある」
冴月は何だか気が乗らないような様子でそう説明した。それからふと棚の置き時計に目を遣って、立ち上がった。
「レコードをかけても良いか?」
「良いけど」
俺は突然の冴月の言動に戸惑いながらもそう頷いた。冴月が慣れた手つきでドーナツ盤をセットしてスイッチを入れると、部屋の隅に置かれた大型のスピーカーからピアノの旋律が流れ出した。どうやらクラシックのようだった。
「何て曲?」
「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。ピアノソナタ第十四番嬰ハ短調作品二十七の二『幻想曲風に』」
ソファに戻った冴月はすらすらとそう答えた。そしてカップに残った紅茶を飲み干してから、囁くように付け足した。
「通称、『月光』」
月光。それは冴月の祖父がこの館に冠した名前だった。幼い頃、お祖母さんに何度もそう聞かされた記憶があった。
ホールに響く、繰り返される三連符と重厚なオクターヴ。このソファに腰掛けて聴くピアノの音色は、何だかとても懐かしかった。
「もう自分でピアノは弾かないのか?」
昔はよく冴月のピアノを聴いていたことを思い出して俺が訊くと、あっさりと首を縦に振った。
「ああ、中学生のときに止めてしまった」
「どうして?」
ピアノを弾く冴月はかなり強く印象に残っていた。少し恥ずかしそうに、でもどこか誇らしげに鍵盤に指を踊らせる姿。何より、楽しそうに弾いていたのをよく覚えている。
「モチベーションの低下、かな。夏になれば目を輝かせて聴いてくれる人が二人もいると思えば、一年の成果を見せてやろうと練習にも身が入ったのだが。それがなくなったからな」
冴月はそう言って、唇をつり上げて皮肉そうに笑った。
それから冴月はこの館についていくつか話をした。祖父が旧知のデザイナーと共に設計したこと。夫妻で内装や調度品の一つ一つまでこだわったこと。祖父が一線を退いた後、ここでいかに余生を過ごしたか。初孫である冴月が生まれたとき、二人で幾晩も名前を考え続けたこと。どれも子供の頃、お祖母さんに耳がたこができるほど聞かされた内容だった。それでも、不思議と退屈ではなかった。
一通り話し終えると、冴月はしばらく口を噤んだ。俺はその間、じっと黙っていた。逡巡するように口を開きかけては言葉を飲み込む姿を見ながら、ただじっと。
「実を言うと、祖母はここを離れるのを凄く嫌がっていた」
冴月は天井のシャンデリアを見上げながら、またぽつぽつと話し出した。
「どうやらこの家を相当気に入っていたらしい。今になって思えばたしかに、祖母はよく掃除をしたりなんかして建物をとても大事に扱っていたし、引っ越した後もわざわざ業者を手配してメンテナンスをさせていた」
俺もつられて天井を見上げる。下から見ると、円形ではなく、非対称でどこか歪なガラスのシャンデリア。その真上には明かり取りのためか、天窓があった。
「祖母が亡くなったのは一月ほど前だった」
冴月はそう言いながら目を瞑って首を横に振った。長い睫毛が哀しげに伏せられて、俺は少し目を惹かれた。冴月は気を落ち着けるかのように一度息を吸って、それから話を再開した。
「祖母は数年前からアルツハイマーを発症していてな。特にこの一年ほどはまともにコミュニケーションをとるのも難しいほどだった。それで異変に気がつくのが遅れてしまった」
冴月は努めて淡々と話しているように見えた。まるで、自分の裡にあるものを悟られたくないかのようだった。
黙って冴月の話を聞いていたものの、その内容は俺にとって少なからずショックなものだった。あの理知的で温厚だったお祖母さんとアルツハイマーという単語がどうにも上手く結びつかない。その上、既にこの世の人ではないなどとは、到底信じられなかった。
「便に血が混じるようになってようやく気がついて、慌てて検査して貰ったが、すでに手遅れだったそうだ。すぐ入院になったが、結局延命と痛みを和らげることくらいしか出来なくてな」
目を瞑ったまま、冴月は話し続ける。両手を膝の上で組んで、少し前屈みの姿勢で。まるで何かの苦行に堪え忍んでいるかのように。
「その後しばらく入院していたが、九月についに亡くなってしまった。もっとも、その前から意識もあまりなく、機械に頼って生命を維持しているだけのような状態が続いていたから、覚悟は出来ていたけれど」
冴月はそう言って目を開くと、困ったように笑った。今までに見たことがない、まるで力ない笑顔だった。
楽章が変わって、流れ続けているレコードの音色が速さを増していた。最初のゆったりとした旋律と異なり、どこか危うい緊張感を孕んだ音の連なり。
「月が綺麗な十五夜だった。家族の同意の下、呼吸器やなにかが外されることになった。親戚や医者、看護婦、同室の患者が見守る中で祖母は静かに息を引き取ったんだ」
その時のことを思い出しているのか、冴月はふらりと空中に視線を彷徨わせた。その何気ない、どこかに思いを馳せた姿に俺は少し見惚れた。
「私は窓際に立って、ずっと夜空を見上げていた。祖母を看取って大きな満月を見上げて。ああ、そう言えばこの人は月が大好きだったと。そう思い出したんだ。だから今日ここに来た。ここに来なくてはならないと思ったんだ」
冴月がそう語気を強めたとき、ちょうどスピーカーから流れるピアノの旋律が、最後の音を奏で終わった。静謐な空気がホールに満ちる。
「祖母の話になると、いつも思い出す光景があるんだ」
冴月はゆっくりと立ち上がって、階段の方へ歩いていった。電灯のスイッチを消し、階段を半ばまで昇る。ややあって、シャンデリアの灯りが緩慢に落ち、ホールが真っ暗になったように感じた。
「あ……」
暗闇に目が慣れ、俺は思わず声を上げた。目の前に広がっていたのはとても、とても幻想的な光景だった。
真円の天窓から射し込む光が絨毯に灯りを落とす。それが吊り下げられた歪なシャンデリアを通過し切り取られ、まるで光の満月の中に闇の三日月が落ちているように見えた。
それ以外にもいくつかの窓から月光が入り込み、光の絵画を描き出す。空間を通過する光が拡散し、筋となって室内に満ちる。蒼く、淡く。
「ちょっとしたものだろう?」
そう言った冴月の顔は、秘密の宝物を見せてくれる幼子のようだった。少し恥ずかしそうで、けれどどこか誇らしそうに。
冴月がそのままの表情で手招きする。俺は素直に頷いて、階段を昇った。踊り場で並んでホールを見下ろす。幼い頃とは異なり、二人の間に拳一つ分ほどの距離。
「陽の光でも同じようになるはずなのにな。なぜか夜じゃないとこう上手く綺麗には見えないんだ」
冴月の声が、少し鼻にかかりはじめた。掴んだ手すりが、ぎし、と音を立てる。頬にかかった髪を一房、冴月がかき上げた。
「祖母は毎晩のように、こうして眺めてた。私が夜に何かの拍子に起きてきたりすると、いつもここに立ってたんだ。私を見つけると、どうしたの、って抱き上げてくれて。それから、ほら、綺麗だよって頭を撫でてくれたんだ」
冴月はすっと身を寄せ、囁くようにそう言った。その目尻が光って見えた。
それを見た瞬間、気がつけば冴月を抱き寄せていた。冴月は一瞬体を強張らせたが、すぐに力を抜いて、すっぽりと俺の腕の中に収まっていた。俺はその柔らかい体をゆっくりと包み込む。壊さないように慎重に、硝子細工を扱うように優しく。
「祖母の病状が悪化して意識がなくなったとき、治療を諦めるのに誰も反対しなかったんだ。……私も含めて」
俺の胸元で冴月は話し続ける。もう、泣き声であることを隠しきれていなかった。それでも冴月の言葉は止まらない。
「痴呆が出て大分経っていたこともある。もしこの峠を乗り切ったとしても、退院できるようになったとしても、得られることなんて何一つ無い。もういい歳だし、立派に大往生だ。親戚中のそんな声が聞こえた気がしたんだ。誰一人、祖母の回復を願ってなんかいないって、解ってしまった」
冴月の目尻から雫が伝う。それは月光を受けて銀色に燦めいた。俺は頬を流れる涙を指でそっと拭った。目許を擦ると赤くなってしまうから。
「私も同じように思ったんだ。血縁関係とか、幼い頃の思い出とか、そんなものを抜きにして損得勘定だけで考えたら、たしかにそうだと認めざるを得なかった。もう祖母に、多くの機械に頼らなければ生命を保つことさえ出来ないものに、生きる価値なんて無いって。私は認めたんだ。この頭の中にある、暗く怜悧な計算を。何一つ間違いなんて、無い。無かったんだ」
冴月は血を吐くような声でそう言った。俺はその顔を覗き込む。端整な顔立ちは、苛立ちや悲しみや後悔でひどく歪んでいた。俺はそれを、とても美しいと思った。
「だから」
俺は優しく話しかける。冴月は俺の目を見て、ぴくりと身じろぎした。
「だから、お前が殺した」
冴月の肩に再び力が入り、顔が背けられる。俺はそれをぎゅっと抱き止めた。どうしても、離したくなかった。
先ほど、冴月の顔を覗き込んだときの感情はどんな類のものだったろうか。美しい。そう感じた。いつまでもそれを留めて置きたいと思う反面、自分の手で壊したいとも感じていた。
冴月の頬に手をかけて、半ば無理矢理にこちらを向かせる。もう一度目が合う。涙はまだ止まっていない。一瞬、揺れるような動きをした後に現れたのは、やはり意志の強い瞳だった。
「そうだ。私が、やった」
すぅ、と息を吸い込んで。
「私が祖母を殺したんだ」
冴月は告白した。
「どうしても我慢できなかった」
真っ直ぐな瞳。
「あんな祖母を見続けることが」
いつもどおりの、迷いのない口調。
「あんな、何の価値も無いものに成り果てた祖母が、許せなかった」
そこまで言って、冴月は小さく息を吐いた。それから俺の胸を両手でそっと押し返す。俺はそれに抵抗できなかった。俺の腕の中から逃れた冴月は、また階段の手すりに寄りかかって下を向いた。
俺は冴月に気づかれないよう、小さく息を吐いた。こちらに背を向けた冴月の体は、その重みをすっかり手すりに預けているのに、どこか固く強張っているように見えた。
静かだった。冴月と俺以外、動くものは何もなかった。二人だけの世界。贅沢な月の夜。床に落ちる蒼い満月。そこに浮かぶ黒い三日月。冴月が天井から射し込む光の筋に、そっと手を差し伸べる。
「どんな思い出が、どんなに思い出があったって、あの衝動を押し止められなかった。楽しかった日のことを幾つも思い出して、自分を止めようとした。だけど」
冴月の右手が蒼い筋を掬う。光を掴むように、白くしなやかな指がゆっくりと閉じられた。けれどそれを掴めるはずもなく、冴月の手は空しく空を切った。
「だけど駄目なんだ。思い出せば思い出すほど、目の前のモノが醜くなっていく。一刻も早くなんとかしないといけない。そんな気持ちばかりが募っていく」
冴月は相変わらず下を覗き込んだままで、その表情は窺えない。口調は殊更に淡々としていて、表面的な感情は何も込められていなかった。その声が胸に、厭に響く。
「私は祖母が大好きだった。いつも優しくて、穏やかで。私の話をにこにこしながらちゃんと聞いてくれた。面白い話だってたくさんしてくれた。ピアノを弾けば上手だねって拍手してくれた。哀しいことがあって泣いていたら、涙が止まるまで背中を優しくさすってくれた」
独り言のように冴月は話す。俺が聞いていようといまいと関係ないように。ただ祖母への思慕の念を語り続ける。
「素晴らしい人だった。数少ない、私が尊敬して止まない人だった。だからこそ、あんな姿を見続けることに耐えられなかった。だから私はあの夜病院に忍び込んで、祖母に繋がった呼吸器を外したんだ。窓辺に立って、祖母が息絶えるのをじっと待った。何も難しい事なんて無かった。あっけないほど簡単に祖母は死んだ」
「もう良い」
俺は冴月の肩に手を伸ばした。平板な声で言葉を紡ぎ続ける冴月をそのまま見てはいられなかった。しかし、冴月は俺の手を強く振り払った。
「これで良い。そう思ったんだ。窓から射し込む月明かりに照らされた祖母は、微笑んでいるように見えた。迷いや、悩みや、苦しみから解放されて、どこまでも安らかで。まるで、私を赦してくれるみたいに」
「冴月」
俺ははっきりと、冴月の名を呼んだ。九年ぶりに発したその響きは、妙にしっくりと舌に馴染んだ。
「あ……」
冴月の体が微かに震え、紡ぎ続けた言葉が止んだ。
「もう、良いんだ」
俺は冴月を優しく抱き竦める。今度は抵抗されなかった。あつらえたようにすっぽりと収まるしなやかな肢体。滑らかなナイトドレスの手触り。鼻先をくすぐる艶のある髪。それら全ての感触を一言で表すなら、冴月は温かかった。
「……聡文」
冴月が首だけを動かして俺を見上げる。濡れた瞳が俺を捉え、それからゆっくり閉じられた。
俺は吸い込まれるように唇を重ねた。しっとりとした、柔らかく懐かしい感触。ただ触れあうだけの幼稚なキス。だけど、今はこれが一番正しいと思った。
あっさりと感触が離れていく。どれほどの時間が経ったのか判然としない。目を開くと、微かに上気した冴月の顔が間近にあった。
「九年ぶりだ」
恥ずかしそうに冴月はそう言った。目を合わせていたくないのか、顔を背けてしまう。
たしかに九年ぶりだった。冴月が東京に帰っていく日、俺たちは再会と二度と離れない約束をした。そしてその後、このホールでキスをした。
あれは誓いの口づけだったか。それとも幼い二人に出来る精一杯の愛情表現だったか。今となってはもう思い出せないが、あの瞬間の感情だけはやけに鮮明に覚えている。目の前にいる少女が、とても愛おしくて。この約束だけは何としてでも守る。そう決意した覚えが今でもある。
「なあ、一つ訊いても良いか?」
「何だ?」
「今、交際している相手はいるか?」
一瞬、何を訊かれているのか解らなかった。よほど間の抜けた顔をしてしまったのか、冴月がくすくすと笑う。
「いるけど」
大学のサークルの先輩。すらっとした体型の、少し風変わりな年上の美人。付き合い始めたのはこの夏からだから、まだ半年も経っていない。
「そうか」
冴月は、俺の返事に少し困ったように笑った。
「それは悪いことをしたかな」
「いや、別に」
俺がそう言うと、冴月は一瞬きょとんとした後、小馬鹿にしたような顔を浮かべた。
「馬鹿、お前にじゃない。そのお相手に、だ」
「……ああ」
曖昧に笑った俺を、冴月はからかうように小突いた。彼女には珍しい仕草だった。
「冴月にはいないのか?」
「残念ながら」
冴月は澄ました顔でそう答えた。それから、冗談めかした声で続ける。
「幼なじみが格好良くなって迎えに来てくれるのをずっと待っていたんだがな。どうやら期待はずれだったようで」
俺には咄嗟に言葉が見つからなかった。会話が途切れ、ホールの静けさが厭に耳に刺さる。沈黙がとても煩い。
「そんな顔をするなよ」
「悪い」
反射的に謝ってしまった俺のことを、冴月は優しい目で見ていた。何も言わず、ただじっと。
九年前の曖昧な約束。冴月だって当時はともかく、今となっては本気にしているわけがない。そう解っていても、俺は罪悪感を覚えずにはいられなかった。それが、誰に対してなのかは自分でも解らなかった。
冴月と再び目が合う。俺は半ば無意識のうちに目を閉じながら顔を近づけてしまう。
しかし、唇に触れたのは先ほどの柔らかい感触ではなく、立てられた二本の指だった。
「さっき、どうして判ったんだ? その、私が、殺したって」
俺が何か口にするのを妨げるかのように、冴月が俺に尋ねた。その揺れる瞳を見て、俺は訊かれたことに正直に答えた。
「あれは半分鎌を掛けたようなものだから」
「そうだとしても、少なくとも可能性を感じさせる何かがあったってことなんだろう?」 冴月が俺の腕の中で、居心地悪そうにもぞもぞと動く。長い髪の毛が鼻をくすぐり、少しむずがゆい。
「一応は。正直、突然やってきて呼び出されたから、なにかあったんじゃないかと思った、というのが一番大きい」
俺の言葉に、冴月は小さく頷いた。それで、と先を促し俺を見上げる。この構図が新鮮であると同時に、違和感を強く感じた。
冴月をこうして見下ろすのは、初めての経験だった。九年前までは当然、冴月の方が身長が高く、俺は彼女を見上げるように、後ろをついていくばかりだった。
「ただ、お祖母さんが亡くなったときの状況が不自然だと感じただけだ。話の内容からして、親戚も医者も治療を止めれば死ぬって判っていたはずだ。だったら中止するにしてもそれなりの環境を整えてから、というのが普通だと思うが、そうは感じられなかった」
俺はそう言って、天井を見上げる。シャンデリアに阻まれて、天窓はほとんど見えなかった。
ホールを見下ろせば、九年前と変わらぬ光景がそこにあった。ピアノ。ソファ。テーブル。絨毯。変わってしまったのは、そこに動く人たちだけ。俺と冴月は九つの齢を重ね、お祖母さんは永久に帰らぬ人になった。
「息を引き取ったときに満月を見上げていた、と言っていた。満月は日の入りと同時に昇り、日の出と同時に沈むから、見上げるという表現を使うなら夜中になる。だけど、もし亡くなることを前提に治療を取りやめるのなら、そんな時間を選ぶとは思わない。親族や病院の都合もあるだろうし、日中にするのが自然だ」
冴月は黙ったまま、俺の話を聞いている。俺は話しながら彼女をそっと観察した。九年の月日を経て、少女の細い肢体は少し丸みを帯びた。華奢な印象はそのままでも、昔とは明らかに違う成長した姿。きっと俺自身も、冴月から見れば大きく変わっているのだろう。
「それと、看取った人の中に、同室の患者、が含まれていた。患者の容態が急変して、医者が気がつく前に亡くなった、なんていう状況でもない限り、臨終を迎えるときは個室に移すのが普通だ。仮にそんな急変が起きたんだとしても、やはり疑問が残る。話しぶりからしてその場面にお前は居合わせているのに、苦しむお祖母さんを放置していたことになるし、同意の上で呼吸器を外したなんて嘘をつく意味がない」
「なるほど。確かに」
冴月がぽつりと言う。俺は続きを待ったが、冴月はそれ以上何も言わずに、目線だけで俺に続きを要求した。どこか心ここにあらず、といった様子だった。
「覚悟の上で治療を取りやめたにしては不自然な状況が多すぎる。かといって容態の急変にも疑問が残る。それを踏まえた上で、お祖母さんが夜中に普通の病室で亡くなり、しかもその場面に立ち会った冴月がここまでやってくるようなイレギュラーな事態を考えた。そうしたら候補があまり多くは残らなかった」
俺は一つ息を吐いた。さっきから話通しだからか、少し喉が渇く。
言葉が途切れたその時、軽く胸に添えられているだけだった冴月の手がきゅっと俺のシャツを掴んだ。俺は自然とその上に自分の掌を重ねる。冴月の手は驚くほど冷え切っていた。それでも、掴んだ指からは少しずつ力が抜けていった。それを感じながら、俺は話を続けた。
「もちろん、ただの偶然という可能性だって否定は出来ない。急患が立て込んで、容態の異変に気がつくのが遅れただけかも知れない。ここに来たのだって、ただの気まぐれかも知れない。だけど疑念が一度頭にもたげた以上、そのままにしておくのも気持ち悪い。だから鎌を掛けた。そうしたらお前があっさり口を割った」
「ふむ。つまり私はまんまと嵌められたわけか」
「それは悪意に満ちた表現だな」
冴月の顔には悪戯っぽい笑顔。俺も冗談めかして応じた。
冴月がホールの方に視線を泳がす。それを追うと、動きを止めたレコードプレイヤーがあった。さきほどまで『月光』を奏で続けていた機械は、仄暗い室内で微かにランプを灯しているだけだった。
「それより、俺はどうしてお前があんなに簡単に明かしたのかが気になる。黙っていようと思えば簡単だっただろうに」
「ああ、それは」
冴月は何てこと無いように言った。触れた指先に、少し体温が戻ってきているのが分かる。
「そもそも、お前に隠すつもりがなかった。わざわざ話すつもりもなかったがな」
「……それはどういう意味だよ?」
「もちろん、言葉通りだ。端から知られても良いと思っていたんだ。よもや、言う前から気づかれるとは思ってもみなかったが」
冴月はそう言って苦笑した。その緊張感に乏しい笑顔に、俺も毒気を抜かれた。
「人の道にもとる行為だったということは解ってる。周囲に知られたら罰せられることも知っている。だけど、そんなことはもう、どうでも良いんだ。少なくとも、私の中では」
冴月の口調は真摯で、でも相変わらずの笑顔で。その横顔が月明かりに照らされて妖しく浮かぶ。
「大事なのは、私が祖母をこの手で殺したということ。その自らの行為に対して、私自身がどう反芻して、どう受け止めて、どう決断するか。それだけなんだ。糾弾したければすればいい。拘束したいならしてくれてかまわない。そんなことには、何の意味もない」
冴月はきっぱりと、そう言いきった。それから一瞬だけ、手すりの向こう側に、つい、と目線を向ける。そこには相変わらず、いくつも光の筋が走っていた。
冴え渡る月の光。幾晩もこの館で名前を考え続けた祖父母。冴月の名前の由来が解った気がした。
「なあ、聡文はどう思う? 私がしたことは罪なのか? 私は贖うべきなのか? お前の意見を知りたい」
冴月が普段と変わらない声音で尋ねる。まるで、夕飯のメニューでも訊いているかのように。その態度があまりに普通すぎて、少し薄ら寒い。
妖艶に。そう形容するのが相応しいほど鮮やかに、冴月が俺を見て微笑んだ。その瞳が答えを要求している。
「俺は」
一瞬言い淀んだ。
「俺は、罪では、ないと思う」
それでも喉の奥から声を絞り出した。
「そもそも、お前の祖母は」
ただ俺の気持ちを。
「もう」
目の前の冴月に伝えたくて。
「生きているとは」
たとえその言葉が自分の本心と一致していなかったとしても。
「言えなかったと思う」
俺がそう言い終わると、冴月はまた困ったように笑った。俺はその意味が解らなくて、困惑した。
「そう言ってくれると思ったよ」
冴月がぽつりと口を開く。その目尻が落ちた苦笑は、なぜか今にも泣きそうに見えた。
「聡文は、優しいから」
口を開きかけた俺は、けれど咄嗟には何も言えなかった。冴月の目が、細められて俺を捉える。少しだけ寂しそうな眼差しだった。それを見て、俺は何とか声を絞り出す。
「そんなつもりで、言ったわけじゃないぞ」
「ああ、解ってる」
冴月はそう言いながらも、首を横に振った。その態度に、俺は続く言葉を持たなかった。
本心から、冴月のしたことが罪だとは思わなかった。時間的にも、存在価値的にも、もう先がなくなった祖母。機械の力で命をつなぎ止めているだけの、タンパク質の塊。その死を少しばかり早めたところで、何が変わるというのだろう。長らえたところで、それに何が出来たのだろう。―――一体、冴月をどんな罪に問えるというのだろう。
さりとて、諸手を挙げて冴月を肯定出来るかと問われれば、それは難しかった。どうして、放っておいても息絶えたはずの祖母を、わざわざ手にかけたのか。そもそも、殺すに至った理由すら俺には不明瞭だった。生かす価値は乏しかったかもしれないが、それ以上に殺す価値も無かった。俺には、そう思える。そうとしか、思えない。
肯定も否定も出来ないまま、付和雷同に頷いて見せたことなど、お見通しだったのだろう。内心否定しながらおもねったわけではない。そう伝えようとした言葉さえも、冴月には先回りされていた。
また沈黙の帳が降りる。冴月はまたどこかに視線をやっていて、その感情は上手く読み取れなかった。怒っているのとも、悲しんでいるのとも違う。少し寂しそうで、でもどこか吹っ切れたような。そんなちぐはぐな印象。
俺には冴月が解らなかった。突然帰ってきて呼び出したかと思えば、祖母の死を告げ、殺害をあっさり認めた。意見を求め、歩み寄った俺を拒絶する。逃走を図ったわけではなく、懺悔や贖罪とも違う。いったい、俺は何故ここに呼ばれたのか。
「聡文、痛い」
その声に視線を落とすと、冴月がこちらを見ていた。気づかぬ間に、掴んだ手に力が入っていた。
「……悪い」
強張った手から意識して力を抜く。冴月は俺が掴んでいた場所を二、三度、さすった。その度にさらさらと黒髪が流れる。
「すまなかった」
「え?」
「嫌な言い方をしてしまった。困らせるつもりじゃなかったんだ」
冴月はそう言いながら、こちらを見上げた。ほとんど記憶にない、申し訳なさそうな表情だった。柳眉が下がったその顔は、何故か強く女性を感じさせた。
「……ああ」
俺は曖昧に頷いた。冴月が見せた表情に気を取られて、上手い言葉が見つからなかった。謝るのはこちらの方だと解ってはいたものの、何と言って良いのか判らなかった。
冴月が窺うような視線でこちらを見ている。それには気づいていたけれど、俺にはフォローの言葉もなく、話題を変えることも出来ずにいた。
雲がかかったのか、月明かりが細る。気がつけば、床に落ちた三日月はだいぶその位置を変えていた。
「もうこんな時間か」
俺の視線を追っていたのか、冴月がぽつりとそう言う。壁に掛かった時計を見遣れば、すでに日付が変わって久しかった。
「そろそろ帰るよ。長尻しても悪い、と言っても手遅れな気もするが」
俺は腕の中の冴月と目を合わせないまま、そう言った。やや、間があって抑揚のない声が返ってきた。
「そうか。泊まっていっても構わないが?」
「あ?」
虚を突かれて、間抜けな声が出た。冴月が声を殺して笑っているのが判る。俺は冴月一流の冗談だと気を取り直して、逆に提案した。
「遠慮しておくよ。それより、家に来ないか? ここに一人で泊まるより良いだろう」
「その提案は下心込みかな?」
「まさか」
今度は予想通りの反応に、冷静に答えた。冴月はそれを聞いて苦笑した顔を見せる。
「そこまで言い切られるのも、それはそれでショックだな」
「それは失礼」
「ま、どちらにせよ遠慮しておくよ。この家に来たのも久しぶりだから」
冴月がそう言って、心持ち体重を逃がす。回していた腕を放すと、冴月はステップを踏むかのように二歩ほど距離をとった。ずっと密着していた体温が離れ、肌寒いような気がした。
冴月が少し乱れたドレスを直し、髪を手櫛で梳く。それから俺の方に向き直った。
「聡文、明日は何か用事があるか?」
「特には」
本当は大学の授業があったのだが、俺はそう答えた。そんなもの、冴月に関わることに比べれば優先順位は限りなく下だった。
「では済まないが、明日またここまで来て欲しい。何時でも良いから」
「それは構わないが」
冴月の目を見て俺は訊いた。冴月にしては珍しく、要領を得ない頼みに疑問を覚えた。
「どんな用事だ?」
「来れば解る」
しかし、冴月は短くそう言っただけだった。視線もすっと逸らされる。
「ほら、もう帰るんだろ。送っていこうか?」
しかし、まるで俺の違和感を誤魔化すかのように、冴月がそうせっつく。
「まさか。徒歩十五秒の道のりだぞ」
先に立って階段を下りていく冴月の後を追う。床に落ちた三日月の上を真っ直ぐに横切り、冴月は扉を開け放った。そこに並んで、俺は一つだけ、尋ねた。
「なあ、どうして俺を呼んだんだ?」
「どうして?」
冴月はびっくりしたように俺の顔を見て、鸚鵡返しにそう言った。
「そんなの、決まっている。会いたかったからだ」
それから何気ない調子で答えた。そんなことも解らないかと言わんばかりの口調だった。
「この家での記憶の中には、いつもお前と祖母が隣にいたからな。そばにいてくれないと、何だか違和感があって気持ちが悪い」
「そうかい」
俺はなんとかそう言って、一歩外に踏み出した。晩秋の夜半の空気は、かなり肌寒かった。
「後は、呪い、だな」
「呪い?」
振り返る。冴月はどこかぎこちない笑顔を浮かべて、部屋の中に立っていた。俺の質問を無視して冴月はにこりと笑った。
「じゃあ、また明日」
「あ、ああ」
冴月が頷いて、扉に手をかけるのを見て、俺は踵を返し自宅に向かって歩き出した。ぱたんと、扉が閉まる音がする、その直前。背後から声がかけられた。
「さよなら」
*
翌朝十時、俺は再び月光館の前に立っていた。陽光に照らされた瀟洒な建物は、月明かりの下で見た姿とは、大分趣が異なるように感じた。
呼び鈴を押ししばし待つが、昨夜と同じで何の反応もない。もしかしたら、どこか故障しているのかも知れない。諦めて、玄関の方に向かう。
一応ノックをしてから扉を引き開ける。ホールの中は窓からふんだんに射し込む太陽の光でかなり明るかった。
冴月は昨夜と同じナイトドレス姿のまま、ソファに座っていた。良家のお嬢様らしく姿勢が良い彼女にしては珍しく、背もたれに体重をすっかり預け脱力しきっていた。
「冴月」
声をかけながら近づいても、冴月は身じろぎ一つしない。もしかしたら昨晩から、ここで眠り続けているのかも知れない。
「冴月?」
艶やかな黒髪。白磁のような肌。作り物じみた、美しい造形と質感。陽の光の下でも、月光に照らされたときと変わらず、神秘的なものがそこにあった。
異変に気がついたのは、冴月の様子ではなく、テーブルの上に置かれた二封の封筒を見たからだった。
「冴月っ!?」
俺は慌てて冴月の肩を掴んで揺さぶる。しかし、その感触は哀しいくらいに硬く冷たく、その首は俺の手の動きに合わせて力なく揺れただけだった。
どんな大きな声で名を呼んでも、どんなに力いっぱい揺さぶっても、冴月は何の反応も示さなかった。切れ長の目は固く閉じられ、意志の強い瞳を見ることはもう二度と叶わない。昨夜抱きしめた温かい体は、今は冷たくソファに沈み込んでいる。
俺は力なく冴月の肩から手を離した。冴月の体は何もなかったかのように、またソファに力なく落ちた。四肢は何の抵抗もなく垂れ、頭も俯いたように下を向く。
「冴月」
信じられなかった。昨夜久しぶりに会ったばかりの冴月が既に死んでいるなんて。散々揺さぶって呼びかけそれが徒労に終わった今でも、冴月がぱちりと目を開き、冗談だよと俺をからかう。そんな光景が頭に浮かんで止まない。
その一方で、俺はひどく納得していた。突然ここまでやってきたこと。昨夜語った内容。幼い日の約束。そして別れ際のぎこちない笑顔。
冴月がここまで死にに来たのだとしたら。全てがぴたりと符合していた。そのことに気がついて、俺は愕然とした。いくらでもヒントがあったのに、どうして気がつけなかったのか。いくつも冴月はメッセージを発していたというのに、どうして止められなかったのか。
俺は冴月をしっかりとソファに座らせ、揺さぶったせいで乱れたドレスや髪を簡単に直してやった。こうしていると、雪のように白い肌や鴉の濡れ羽色の髪とも相まって、精巧な人形が鎮座しているように見えた。
昨夜と同じように、冴月の対面に腰掛ける。机の上には白い無地の何の変哲もない封筒。表にそれぞれ大きく、『家族へ』『聡文へ』と書かれていた。冴月の前に僅かに中身が残ったカップ。そしてその隣に封を切った半透明の袋。内側にわずかな白い粉が付着していた。
俺は深くソファにもたれかかった。後悔と自己嫌悪が全身を包んでいて、物に当たる気力もなかった。
歪なシャンデリアが視界に映っている。金属と硝子で出来た照明器具。その向こうには光射し込む丸い天窓。どんなギミックか、陽光の下でもやはり、床には三日月の影が落ちている。
昨夜冴月はどんな気持ちでこれを見上げたのだろうか。祖母が遺したこの館に来て、何を思ったのだろうか。何を考えて、薬を溶かした紅茶を飲み干したのだろうか。
俺はテーブルの上にのろのろと手を伸ばした。俺の名が書かれた封筒を手に取り、乱暴に封を切る。中から出てきた、丁寧に畳まれた質素な便箋を震える手で広げる。
まず、目に飛び込んできたのは謝罪の一文だった。
「聡文へ。
すまない。月並みな表現になってしまうが、聡文がこれを読むときには既に私はこの世にいないだろう。もうこれ以上謝れないが、本当にすまないと思っている。まず間違いなく君が私の死体を発見する羽目になるだろうし、その後も厄介なことに巻き込まれるかも知れない。こんな面倒を押し付けてしまって心苦しいのだが、私の最後の我が侭だと思って勘弁して貰えると有り難い。
これで本当に最後かと思うと、伝えたいことが次から次へと浮かんできて、ちっともまとまらない。取り留めが無い文章になって申し訳ないが、おつきあい願いたい。
約束とは、一種の呪いだと私は思う。一度結んでしまえば、それはいつまでも頭の中に残り続けて、意識しようとしまいと行動を雁字搦めに縛る。解呪には互いの合意が必要で、約束した相手と会えなくなれば呪いは永遠に続くことになる。私はそのことを身に沁みて感じた。
一つ、誤解しないで貰いたいことがある。私は決して、祖母を殺した罪を償うために死を選ぶわけではない。そもそも私が死んだところで償えるはずもないのだが。
私が死を選ぶのは、本当に子供じみた、単なる意地のようなものだ。そんな些末なことに拘って馬鹿な奴だと笑われるかも知れない。だが、それは私にとって、命と引き替えに出来るほど大事なことだった。それだけのことだ。
祖母を殺したことについて後悔はない。正しいことをした意識はないが、悪いことをしたという認識もない。何度同じ状況に立たされたとしても、私は同じように殺害することを選ぶだろう。そして遺言を読み、私に月光館が与えられることを知って、同じように愕然とするのだろう。
聡文が知る由もないが、祖母から私だけに宛てられた遺言があった。日付は二年ほど前、痴呆が出始めてしばらく経った頃のもの。既に自らの能力が衰えている認識があったようだ。
内容は簡潔だった。『赦す』と。本文はそれだけだった。追伸として、この館をくれぐれも大事にしてほしい、とも書いてあったが。
恐らく二年前の時点で、こうなることを祖母は正確に予測していたのだろう。私が、どんどん衰えていく祖母の姿に耐えきれなくなって、殺害を試みると。そして自責の念に駆られて思い悩むことまでも。
だからこの館を与え、よろしく頼むと念を押したのだ。事を成した私が早まって全てを投げ出したり、やさぐれて自暴自棄になったりしないように。お前にはまだやるべき事が残っている。私を殺した責任を取って、月光館をいつまでも管理し続けろ。そのために生き続けろ。そう優しい呪いをかけたのだ、命と引き替えに。
そのことに気がついて、私はずっと悩んでいた。祖母の言うとおり、私は生き続けなければいけないのだろうか。それとも、他の道があるのだろうか。
しかし、その悩みは無意味だった。結局、私には生きるか死ぬかの二択しかない。前者を選んだ瞬間、私は祖母の軍門に降り、祖母の掌の上で踊り続けたまま、祖母の計算通りに生きていく。恐らく、それはそれで幸せな人生なのだろう。けれど、私の矜持がそれを許さなかった。
祖母は聡明な人だった。だけど、だからこそ、その思い通りになるのは堪らなく嫌だ。私は祖母の仕掛けた罠を逃れ、呪いを打ち破り、自分が祖母より優れていることを証明する。そのためだったらこの命でさえも惜しくはない。
これが私が自殺するに至った理由だ。下らないと笑ってくれて構わない。だが私には、あの衰え耄碌しきった祖母の姿を見続けてきた私には、これだけはどうしても譲れない一線だった。恐怖と言い換えても良い。私はあんなものより劣っているなど、決して認められなかったのだ。
さて、長くなってしまったが、そろそろ筆を置こうと思う。最後に、聡文に知らせておかなくてはいけないことがある。
この月光館だが、私が死んだ後、相続先が聡文になるよう公的な遺言を書き、手続きをしておいた。それと税金対策に私名義で積み立てられていた若干の現金もある。
どうか私の代わりにこの館をずっと守っていって欲しい。これが私が君に遺す呪いだ。くれぐれも解呪などしないようにと、願う。
それでは、末永く達者で。
神凪 冴月」
俺は読み終えると、手紙を綺麗に折りたたんで元の通り封筒にしまった。それから冴月のカップの脇にある、半透明の袋を手に取った。太陽に透かして中を覗く。わずかだが白い粉が付着しているのが見える。
俺はビニールを慎重に裂き、袋を分解した。平面状に分解されたそれを冴月のカップの上で揺すると、ぱらぱらと中身が落ちた。粉は僅かに残った琥珀色の液体に触れると、すぐ雪のように溶けた。
カップを手に取る。
―――お祖母さんの呪い
液面に細波が立つ。
―――冴月の呪い。
俺は縁に口を付け。
―――呪い。
中身を口にすることは出来なかった。
了
月光館にて 葱羊歯維甫 @negiposo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます