恋うるヘカテー

七木へんり

恋うるヘカテー


 帝国皇帝を殺せ。

 少女の耳朶を打つには不似合いな響きだった。



 十五歳になったばかりのイレネはアレキア人の娘だ。正確には帝国人との混血児で、属州ラヴィアに生まれた。

 イレネが十二歳の時、ラヴィア最大の都市であるイスカは皇帝によって滅ぼされた。目撃した者によると、口に出すのも恐ろしいほどに凄惨な光景だったという。

 不運なことに夥しい数の犠牲者の中にはイスカを訪れていた父もいた。だが、家内奴隷である母から生まれたイレネにとっては、主人が死んだというだけのことに過ぎなかった。皇帝に対する怒りも特に感じない。ただ家長の死により家は多くの奴隷を抱える余裕を徐々に失い、市場に売りに出されることになったので、その点では大いに影響があったとも言える。

 そんなわけでイレネは粗末な木の檻の隙間から空を眺めていた。

 こんな鈍い色をした空は久しぶりに見た。雪でも降ったらいいのにと考えてイレネは笑った。

 あるわけがない。ラヴィアでは雨すら稀だというのに。

 イレネは雪を見たことがなかった。アレキア人の雪の肌と言われるが、自分ではどんなものかよく分からないのは少し滑稽だ。

 にやついていると奴隷商人が胡散臭げにこちらを見たので、イレネは慌てて表情を消して顔を背ける。

 少し離れたところに壮年の男がいた。ラヴィア人奴隷を数人伴っている。

 黒い髪と黒褐色の目、オリーブ色の肌――生粋の帝国人のようだ。彼は何故か、わずかに驚いた様子でイレネを見ている。

 知り合いだろうかとぼんやり考えていると男はこちらに向かってきた。困惑するほどの性急さで奴隷商人に向かっていくらだと問うている。

 この奴隷商人はがめつい。男のようにがっついていては、イレネみたいに難ありの売れ残りでもひどく吹っかけられるだろう。少し気の毒になりながらイレネは再び空を見た。

 どこまで続いているのだろうか。今にも涙を落としそうな嘆きの空は、自身の心境と重なる。唯一愛情を注いでくれた母と裂かれ、今生で会うことはもう叶わないかもしれない。意識して笑っていないと泣いてしまいそうだった。

 粗雑な作りの檻が軋みながら開いてイレネは我に返る。

 檻の入口にはほくほく顔の奴隷商人と大して出費を気にした様子もない男の姿がある。

 奴隷を衝動買いするとは、余程の金持ちなのだろうか。

 確かにこんなところをうろうろするには似つかわしくないほどに身だしなみは整っている。トガのひだは腕の良い奴隷が火熨斗を当てたようで見栄えが良い。これをケチって下手な奴隷にやらせると目も当てられないことになる。イレネはそれをよく知っていた。


「名は?」


 歩き出すと男は短く聞いた。


「イレネ」


 名を答えた以降は何も言われず、イレネは何なんだと思いながら後をついて行く。

 辿り着いた邸宅は広く、入口の床や壁面を覆う絵からして美しかった。奴隷の数も多く、質も良い。先程のイレネの予想もあながち間違いではなかったのだ。

 どんな仕事を与えられるのだろう。家庭教師は論外だけれど、子供の世話ならできるし、給仕もこなせる。女主人のサンダル持ちか扇持ちになれたら幸運だ。

 しかし、イレネの予想に反して何も命じられることはなかった。

 それどころか驚くべきことに立ち居振る舞いから読み書き、はたまた容姿に至るまでイレネは惜しみなく磨かれ、以前とは見違えるほどになった。奴隷に対して異常ともいうべき破格の待遇だ。

 もしかして夜伽として買われたのか。そう考えたイレネは夜になる度に怯えていたのだが、そんなこともなく一年が過ぎた。

 イレネが十六歳になってしばらく経ったある日、男は告げた。


「帝都へ向かう」

「え?」

「お前は皇帝の元へ上がるのだ。手筈は整っている。何が何でも皇帝の心を捉えろ」


 皇帝。唐突に出てきた突拍子もない単語にイレネは青緑の目を瞬かせた。

 国家の父たる尊厳者ですって? そんな人の元へ?

 冗談を言っているのかとも思ったが、男の顔は至って真面目だ。イレネが何も言えずにいるところへ男は低い声で続けた。


「そして、皇帝を殺せ」


 少女の耳朶を打つには不似合いな響きだった。

 これから花開こうとする瑞々しい乙女に用意されたのは花弁が舞い、光あふれる道ではない。血と死臭に彩られた、凍えるような暗路であった。

 ――イレネはこの時、死の女神となったのだ。



 帝都に至るまでの道すがら自分を買った男が何者なのかをイレネははっきりと理解した。

 奴隷を馬車に乗せる奇特な男は、時のラヴィア総督であった。

 イスカ攻撃後にラヴィアに赴任した総督は、辛くも生き残ったイスカの住人を知られぬよう保護した。彼らからその惨たらしい有様を聞き及び、元々持っていた皇帝に対する憤りを強めたようだ。

 総督としての任期を務めながら志を同じくする者たちと密かに打倒皇帝の道を模索する最中、彼は市場で思わぬ掘り出し物を見つけたらしかった。

 任期を終えて帝都に帰還する途中の男は、イレネ相手に深くを語ったわけではない。だが、イレネは彼の短い言葉を注意深く繋ぎ合せてそう解釈した。

 そういえばあの時、驚いた顔をしていたのは何故なのだろう。それを問おうかとも思ったが、今更過ぎて聞くのも憚られた。馬車に揺られながらイレネは代わりにこう聞く。


「本当に皇帝を殺すことができたら、母を自由の身にして下さるんですよね?」

「もちろんだ」

「最期まで心穏やかに生きることができるよう気を配って頂けるんですよね?」

「ああ、約束を違えることはない」


 男の答えにほっとする。これまでに男の実直な人となりを見知っていたので疑うつもりはない。けれどもこうして口に出してもらえると安心できる。

 ――イレネが気にしているのは帝都に発つ直前、男が買い取った母のことだけで、そこに自身は含まれてはいない。男から皇帝を殺せと命じられてからこちら、イレネは一切そんな話はしなかった。男もイレネの先の話を口にしない。

 本当に実直というか、朴念仁というか。

 イレネは密かに少し呆れて笑った。成功した暁には褒美は望みのままだなどと口上手く言ってみせればいいのに。

 もっともそんなことを言われていれば、母のことを頼んだりはしなかった。口滑らかに守るつもりのない約束をする人間に大事な母を任すことなどできない。

 己の先のことなど分かっていた。分かっていることをわざわざ聞くほどにイレネは愚かではなかった。

 待ち受ける未来を考えると手の震えが止まらなくなる。だが、奴隷のイレネに他に道はない。気を紛らわせようとイレネは問うた。


「恐らく皇帝の周囲は美女ぞろいでしょう? わたしなどがお目に叶うのでしょうか? 殿方を虜にするような手ほどきなども受けてませんし」


 しかも難ありだ。この体で皇帝の心を捉えるのは至難の業だろう。


「その必要はない。お前が、お前らしくあれば、皇帝は必ず目を留めるだろう」


 どうしてだろうか。イレネは続きを促したが、男はそれ以上何も言うつもりはないようだった。


「ご主人様は、皇帝をよくご存知なのですね」

「……昔、共に戦ったことがある」


 男は共に駆けたという戦場を思い出すような目をした。

 そこに懐旧の念だけではなく賛嘆も混じっていたのでイレネは驚いた。


「輝かしいほどに雄々しい男だった。自らの危険を顧みず友のために戦い、憤り、嘆き、喜んだ。勇気と名誉心に富んでいながらけっして奢ることなく、多くの美徳をその身に備えていた。あれこそ真の帝国人だと思ったものだ」

「そんなお方がなぜ……」


 何故に無辜の民を軍馬の蹄にかけ、罪とも呼べぬ罪、または無実の罪で処刑し、不当に重い税をかけて苦しめるのだろう。今や皇帝は悪の代名詞だ。未だ彼を支持し続けているのは一部の軍団のみである。


「人とは変わるものだ。ふとしたきっかけで良い方へも悪い方へも転がる。勢いづいて坂道を転がり落ちていくなら、正攻法では止められぬ」


 言いつつも男は納得しきれていないようだった。実のところは男も何故なのだと問いかけたいのかもしれない。かつての戦友に。


「お前には惨いことをする。謝るつもりはない。許してくれとも言わぬ。帝国のためならば喜んでわたしは悪人となろう」


 非情な言葉だが腹は立たなかった。男の顔には隠しきれない憐憫が溢れていたから。本当に奴隷相手に奇特な人だと、イレネはひっそり笑う。

 馬車が止まる。目的地に着いたようだ。

 鉄の車輪が街道の石畳を打つことによって生ずる不快な振動から解放され、イレネはほっと一息をつく。

 男は慣れっこなのか気にした様子もなく言った。


「頼んだぞ、イレネ。首尾よくやるのだ」

「分かりました。お任せ下さい。精一杯務めを果たしてみせましょう、ご主人――いえ、マニウス様」



 手筈は整っている――マニウスの言葉通り、イレネは数人の協力者と共に難なく皇帝付きの奴隷として宮殿に潜り込んだ。

 何でも先帝、そして、先帝を殺し後継者となった現皇帝は共にアレキア人の血を引いているらしい。現皇帝は身の内に流れる血を重んじているのか、周囲を多くのアレキア人で固めているのだった。

 もしかしたらマニウスはあの市場で手駒にできるアレキア人を探していたのかもしれない。イレネはそう納得した。

 ざわめく辺りを見渡すと深みのある赤い髪と緑の目をした者がやはり多い。中には皇帝が好むという深紅の髪に染めたり、精巧な鬘を被ったりする者もいるという。

 イレネがここに来てから初めての朝の謁見の時間だ。帝国の有力者の家では毎朝決まってこういった儀式が行われるが、皇帝のそれは当然のように最も規模が大きい。

 奴隷たちが恭しく控える執務の間の向こうには、柱廊を巡らせた吹き抜けの大広間がある。そこには既に朝早くから門扉が開かれるのを待ち構えていた元老院議員らが大勢居並んでいた。


「お出ましです」


 誰かの密やかな声が起点となってざわめきが静まり返った。

 そして、空気が動く。

 身支度を整えた国家の父、尊厳者たる皇帝が執務の間に姿を現した。

 こちらからは広い背中しか見えないが、すらりとした長躯は紫地の帝衣をまとうためにあつらえられたかのようだ。わずかな所作も悠然として荘重という言葉がしっくりくる。

 イレネは礼を取るのも忘れて凝視した。視線に気づいたという訳ではないだろうけれど、彫刻を思わせる横顔を見せて皇帝がゆっくりと振り返る。

 少し波打つ帝国人らしい黒髪と目、それに反するアレキア人の肌、柔和さとは無縁の頬の線と薄めの唇――軍人出身の皇帝は、華やかな美貌の持ち主という訳ではなかった。ただ峻厳な男神の美ともいうべき、男盛りの揺らめくような熱と、目元に宿るどこか疲れた翳が相まって不思議と目が離せなくなる。

 ――女を破滅に導く男だ。

 本能的にイレネはそう感じた。彼は、意図せずして愚かな深淵に人を引きずり込む、そういう類いの恐ろしい男だ。小娘ですら分かる。

 横から別の奴隷にストラを引っ張られるまで凝視し続けていたので、どうやら皇帝の注意を引いてしまったようだ。彼がほのかに不快げな気配を漂わせている。イレネは慌てて顔を伏せた。

 葡萄酒色の髪が縁取る視界の中、押し黙って床を見つめる。耳が痛くなるような沈黙。息を殺す奴隷たちの緊張が伝わってくる。


「何かわたしの顔についているのか?」


 耳の奥からさらに深く、芯にまで響く声音だった。床の中で囁かれれば、大抵の者は抗う力を失うだろう。イレネはそんなことを妄想したが、皇帝の声が真近くから聞こえたことに気づいて慄く。


「いえ、その――」

「それとも、奇矯な素振りで気を引いて寵でも得たいか? 残念ながら間に合っている。一晩ならくれてやらぬこともないが、わたしを殊更に楽しませる妙技は持っているのだろうな? 不幸なことにわたしは並大抵のことでは、楽しめぬ」


 思わずかっとなって反射的に顔を上げてしまう。本当なら願ったり叶ったりのことなのに無性に腹が立った。

 濃い青緑の目を吊り上げたイレネだったが、陰りを帯びた黒褐色の瞳が思った以上に近くにあって動揺する。

 おかしなことに動揺したのは向こうも同じのようだった。今初めてイレネを目に入れたとでもいう風にまじまじと見つめてくる皇帝は、何か信じられないものを見たという顔をしている。

 どうしたというのだろう。イレネが硬直していると手が伸ばされた。慣れた仕草で頬に落ちかかる葡萄酒色の髪を丁寧に払われる。男らしく長い指がイレネの頬から顎に向かって柔らかく滑り落ちてきて、頭の中が真っ白になったところへ、優しい、見るからに場数を踏んだ手つきで顎をすくわれた。


「この髪、もしや本物か?」


 かすれた声が問うてくる。いや、返答は期待していないらしい。彼は既に確信しているのだ。現にイレネの唇は温かく硬い親指の腹でなぞられていて返答を紡ぐどころではなかった。


「おまえの名は?」

「イ、イレネと申します」

「イレネ」


 ただ音を確かめるためだというのにイレネの心臓が跳ねる。


「グラエキアの女神の名にそんな響きがあったな」


 あれは確か、と続けようとした皇帝は背後から控えめに呼びかけられ、不興顔で眉を寄せた。しょうもなさそうな眼差しで扉の向こうに列をなす元老院議員や庇護者たちを見る。倦んだ空気を全身にまとわりつかせ、皇帝は執務の間中央の玉座に向かって歩き出した。

 未だ踊るような鼓動を不思議に思いながらイレネはその背中を見送った。

 ――皇帝を殺すための日々はこうして幕を開けた。



 この分では存外と早く始末がつきそうだ。協力者の一人は満足げにこんなことを言った。

 イレネは曖昧に笑って頷いておいたが、はたしてそう上手くいくだろうかという思いが過る。

 その思いを裏付けるようにすぐに雲行きが怪しくなった。

 確かに皇帝はイレネに興味を示したものの、以後特に動きはなかった。相も変わらず堕落しきった放恣な生活を続けてはいるが、彼は一向にイレネを寝所に召そうとはしない。

 少しずつ焦れ始める協力者たちとは異なりイレネは落ち着いたものだ。

 性急に事を進めて陰謀が明るみに出れば、全てが水の泡ではないか。そう考えたイレネは宮殿での生活に自然と溶け込むことを心掛けた。

 というのも初っ端から目立ってしまったためにどこへ行っても注目を浴びてしまうのだ。姿を見せる度にひそひそと囁き合われては、目的を果たすこともままならない。

 困り果てたイレネは、興味本位の視線を払拭しようと雑用を率先して引き受けた。元々働くことは苦ではない。苦痛に比べたら数百倍ましだ。

 しかし、少し張り切りすぎたようで、ある時ふらふらと宮殿の片隅に倒れ込んでしまった。宮殿の外れにある小部屋の前で人通りもない。それをいいことに眩暈が治まるまでイレネはしばらく動かずにいた。

 それがまずかったのか、思わぬ人に遭遇することになる。


「……何をしているのだ?」


 視界の端に高貴な紫が翻る。こんなところに何故と思う間もなかった。

 何の気まぐれか。従者奴隷の一人も伴っていない皇帝は、片膝をつくとイレネに手を差し伸べてきたのだった。

 イレネは混乱した。絶対的な国家の父にこんなことをさせているのを誰かに見られた日には、目的を果たす前に殺されてしまう。

 いや、それよりも何よりもまず――


「だ、大丈夫です! 一人で立てますので! どうぞ放っておいて下さいませ!」


 思ったよりも大きく、強い拒否の声が出た。頬と耳が無性に熱い。

 イレネはさらに混乱した。何をしているのだ。こんな口の利き方をした日には、皇帝を殺す前に腹を立てた皇帝に殺されてしまう。

 皇帝はさぞかし怒っているに違いない。イレネは皇帝の不興を買った者たちの末期を思い出して怯えた。

 ところが、予想に反して皇帝は虚をつかれたような顔をしていた。そうしているともう少し若く見える。

 ややあって彼は小さく笑った。思いの外優しい眼差しをしていた。弓形の唇がかすかに開いて体の芯を震わす声が落ちてくる。


「そう言うな。おれの手の行き場がない」


 言葉の合間にわずかな切れ目があった。

 イレネは誰かの名を呼ぼうとしていたのではないかと根拠なく思った。イレネではない誰かの名前を。

 おずおずと手を伸ばすと温かい掌に包まれた。手の皮が厚くなった大きな手は、彼が剣取る者であったことをまざまざと思い起こさせる。

 かつて――先帝の御代、彼は二十五歳という若さで凱旋式を行ったという。帝国史上二人目の異業だ。

 白馬に引かれた立派な戦車の上、月桂冠を戴き、美々しい鎧に緋色の外套をまとって歓声を上げる群衆に応える姿は、光り輝く生ける軍神そのもの。目にしたことはないのにありありと浮かんだ。イレネの胸が我知らず高鳴る。


「おまえは、いつもおれの顔ばかり見るな?」


 面白そうに皇帝は言った。目の陰りが和らいで見えるのは、イレネの願望かもしれない。

 願望? 不思議なことを思ったものだ。帯びた使命には不似合いな胸の高鳴りも理解できない。ここにいる意味を忘れてはいないか。

 奴隷には過ぎるほどの丁寧さで助け起こされたイレネは、身の内からふわりと舞い上がってくるものに困惑する。


「み、見てません。そんな不躾なこと、してません」

「そうか? とすると、視線が突き刺さって痛いのは、おれの気の所為ということか」

「恐らくそうでございましょう。貴方様はどうにも衆目を集める御方ですもの。どこにいらっしゃってもその御姿はすぐに分かります」

「そうか」


 もう笑いを堪えるのが大変だという顔の皇帝を睨む。睨みながら自分は何をやっているのだとイレネは気まずくなった。

 こんなに気安くしていては、本当にいつ機嫌を損ねて殺されてしまうか分からない。だが、彼の眼差し、声、匂い、ちょっとした仕草に心をかき乱されて仕方ないのだ。

 どうもまた無意識に見入っていたようで、皇帝は眩いものを見る目をした。彼はふざけたようにイレネの葡萄酒色の髪を掻き回す。

 そうしたかと思うと口の端に笑みを残したまま、皇帝は瞼を半ば伏せた。


「さあ、もう行け。悪しき酩酊の神に捕まらぬうちに」


 おかしみを押し殺した声だというのにどこか寂しい響きだった。



 これまでに聞いていたよりも恐ろしい人ではないのではないか――生じた思いを確かめるようにイレネの視線は皇帝を追い続けた。何の道、来るべき日のために皇帝の隙を探る必要もある。そう協力者や自身に言い訳しながら。

 ただどう垣間見ていても皇帝にはすぐに気づかれるのでイレネは閉口した。お見通しだと言われているみたいで頭に来るし、その時だけは彼の疲れた目に柔らかな光が滲むので、戸惑う。

 そんなイレネに冷や水を浴びせる出来事が起きた。とある元老院議員と彼に連なる人々が皇帝に対する反逆罪で処刑されたのだ。

 命を下す熱のない無慈悲な横顔、高い鼻と薄めの唇が酷薄さに拍車を掛ける。無実を叫び、助命を嘆願する悲痛な声に眉一つ動かさない。彼はまるで大理石の彫像のようだった。冷えた肌を持ち厳然と佇む、軍神の別の貌――血に猛り破壊に狂う荒々しき神の姿だ。

 あの温かい手には確かに人の血が通っていたのに。

 打ちのめされるイレネは、何に打ちのめされたのかも分からぬまま、たたみかけられるように見てしまう。

 金色の満月の夜、出入りした奴隷の誰かが閉め忘れたらしく皇帝の寝所の扉がわずかに開いていた。そこから橙色の光と笑うようなささめきがもれている。夜通し主人の寝台近くに蹲って控える奴隷たちの声ではない。

 いけないとは思いつつ、イレネが興味本位で近づくと、素晴らしく均整の取れた体が目に飛び込んできた。造化の神の最高傑作を思わせる裸身に走る傷痕は在りし日に駆けた戦場でついたものだろう。その傷痕を白い指がそっとなぞる。

 イレネのものではない白い指。それを認識した途端、息が苦しくなった。

 一体この胸の痛みはなんだというのか。イレネは苛立った。苛立ちに紛れて別の感情が込み上げてくるのを必死に誤魔化す。

 幾重にも垂らされた薄絹の向こうで彼の弓形の唇がゆっくりと華奢な背を伝い下りていく。乱れた髪の間から黒褐色の目がふとこちらを見た。いつもの陰りとは違う色に染まっていた目が驚きに見開かれる。

 視線を外したのはどちらが先だったのだろうか。考えるまでもない。イレネだ。

 だってそれ以降、周囲にどれほど人がいようと確実に視線が吸い寄せられていた皇帝の顔を見ることが出来なくなったのだから。

 震える睫毛の先、首筋や耳元、そして、唇に。どんな光を湛えているのか見当もつかない黒褐色の目が向けられていることを知りながら、必要以上に微笑んでイレネは暗い青緑の目を逸らし続けた。

 もう見ない。絶対に見ない。それで彼が傷ついてくれればいいのにと幼くて馬鹿げたことをつらつら考えてようやく悟る。

 傷ついたのは自分だと。

 彼はやはり女を意図せずして破滅に導く男なのだ。小娘にすらはっきりと分かった。

 きっと皇帝は、イレネを滅びへと優しく誘う。

 不本意な自覚が血の通わぬ白さのイレネの肌に妖しい色を添えた。

 ――光に群がる虫のように影が足音を殺して忍び寄る。

 初めは何が起きたのかよく分からなかった。

 すぐに背後から伸びてきた手に物陰へと引きずり込まれたと気づいて悲鳴を上げたが、悲鳴の形に開かれたままの口を布で塞がれる。

 月が雲に顔を半ば隠し、存在感を増した闇に溶け込む影は二つ。おぞましいことに二人で楽しむ気なのだ。女が持ち得る最大の恐怖がイレネの身を縛る。

 襟ぐりを割って滑り込む不躾な手、焦れたように胸元が裂かれる。露わになる雪の肌、必死に抵抗する足を掴まれ、ストラの裾が捲り上げられる。

 荒い吐息に、手首を押さえる手の熱に怖気立つ。望まぬ唇が、指が這う度に全身に汚穢を塗りたくられているような気分がする。自分までが汚らわしいものに思えて涙がこぼれた。ぎらつく男たちの眼光に葬り去ろうとしていた古い記憶が蘇る。

 いや、いやだ。やめて、誰か、助けて。助けて――

 声なき声でその人の名を呼んだ時だった。

 イレネにのしかかっていた男が急に身を起こした。いや、違う。恐ろしい膂力で引き起こされたのだ。

 その人は手にした短剣プギオで男の喉を素早く刺し貫いた。手慣れた様子を裏付けるかの如く一滴の返り血も浴びていない。もちろんイレネにも血飛沫はかからなかった。不埒者が撒き散らす血にさえ触れさせないという意志を感じる。

 待ち焦がれたように顔を出した欠けゆく月の下、表情のない狂乱と破壊の神がいた。

 残忍な神の圧倒的な顕現に時を止めていたのは、イレネだけではない。イレネの手首を押さえ、呆けた顔でを見上げる男は近衛軍団の一人らしかった。


「……へ、陛下」


 皇帝の無慈悲な眼差しが男の体を宙に吊り上げる。男は愚かにも不格好な人形を思わせる動きで逃げ出そうとするが、流れるような挙動で投げ放たれた短剣プギオに打ち倒された。

 皇帝は倒れ伏す男の生死を見定めることもなかった。急所を正確に狙ったのだから当然だ。早々に興味を失い、イレネに向き直る。

 ここでようやく紗が下りたようだった目に痛ましげな気遣いの色が宿った。

 その人間的な光に安堵したら、イレネの視界がぐにゃぐにゃと歪んだ。湧き上がる涙に滲んで皇帝の姿がよく見えない。胸元にストラの残骸をかき集めながら子どものようにイレネは泣いた。

 傍らに膝をついた皇帝は指一本触れてくることはなかった。だが、泣きじゃくるイレネがその腕を伸ばした時、拒むこともなかった。

 すすり泣きが治まるまで辛抱強く待つと、皇帝は自身のトゥニカの胸元を掴んだままのイレネをそっと抱え上げる。

 イレネが連れて来られた浴場は皇帝のもので、身の回りの世話をする少数の奴隷を除き、誰一人として立ち入りを許されていない。

 好きに使えといって去ろうとする彼のトゥニカを咄嗟に掴む。弾みで衣の残骸がこぼれ落ちてイレネの隠したかった秘密が剥き出しになった。

 皇帝が慎ましげに目を伏せる。


「醜いでしょう?」


 微小な声の震えを感じ取ったらしく皇帝は思わずといったように視線を上げた。眉宇にどこか青い惑いを漂わせている。


「このようなものをお見せしてしまうなんて、恥ずかしい。我ながらぞっとします。この体の醜さに」


 これまでの人生で培ったとっておきの笑みを浮かべ、イレネはのろのろと胸を覆う。肌を這う無残なみみず腫れは、何か奇妙な生物に体を乗っ取られているようにも見え、目に入る度にイレネの劣等感を刺激する。何度見ても悲しくてたまらない。


「……醜くなどない。醜いものか。醜いというなら、その傷を負わせた者こそが醜い。おまえは自分を卑下する必要はない。無理に笑う必要もない。強がるな」


 気づかれていたということに少し驚く。イレネを傷つけた相手への滴るような憎悪が込められていることにも。

 イレネは逡巡して、今は亡き父の所業を語った。鬱憤を晴らすための手酷い折檻。その苦痛から逃れるためにイレネは他人事の笑みを備えた。イレネが長じるにつれて次第に奇妙なものを帯びてきた厭な目。イスカから父が戻ったらどうなっていたか。

 ある意味では皇帝はイレネにとっての救い主だったのだ。

 人でなしと言われても良い。正義の女神の断罪の剣が振り下ろされても構わない。あの日、失われた数多くの命よりも自分の身が無事だったことをイレネは神々に感謝した。

 だからだろうか。こんなことになってしまったのは。


「……本当は、貴方にだけは見られたくなかった」


 こちらを見つめる皇帝の目が大きく揺らいで、次の瞬間には軽い衝撃を感じた。

 茫然としてから抱きしめられているのだと気づく。彼には似合わない性急な振る舞いだった。頬に当たる胸の逞しさ、背に回った腕の強さと温かさがイレネに震えるほどの陶酔をもたらす。

 見上げた皇帝の瞳の中で何かがせめぎ合い、躊躇いがちな口づけが降ってくる。

 優しい、抗えない力で手を引かれた。湯に身を浸され、男たちの痕跡を消すように執拗に拭われる。

 上気した肌は温度の所為かそれとも――

 寝台に横たえられたイレネは皇帝の唇が首筋に落ちてくるのをひたすらに待ち焦がれた。

 けれど、望みは叶わない。



 当初の目論見通りイレネは皇帝の寝所に召されるようになった。それも頻繁に、だ。

 協力者たちはとうとうこの時が来たかと手放しで喜んだが、イレネ自身の心は複雑に入り組んだ路地に迷いこんでいる。何度も同じところを行ったり来たり。途方に暮れるしかない。

 悪徳に塗れた皇帝は優しかった。優し過ぎるほどに優しくて、母以外の優しさに慣れていないイレネを落ち着かなくさせる。優しさの反面、イレネ以外のものに対する恐ろしい冷淡さがイレネを慄かせた。

 どうしたらいいのか。どれだけ考えても分からない。自分がここに送り込まれた理由と、その理由を拒否したい気持ちが激しくぶつかりあう。

 母の顔を思い浮かべて決心を固めようとするけれど、母の顔はすぐに薄れて違う人の顔に変わった。

 時折うっかり浮かない顔をしてしまうイレネを和ませる優しい人の顔に。

 皇帝はイレネが雪を見たことがないと言うと、かつて彼が赴いたメッサリアの雪深い冬を語った。メッサリアの話だけではない。彼が知り得る限りのイレネの知らない世界を語った。彼の語り口は軍人らしく素っ気ないが、語られる物語は偏らない透明な視点と諧謔に溢れていてイレネの好奇心をかき立てる。

 どこなりと望むところへいつか連れて行ってやろう。雪を見たいというつぶやきに向けて彼が戯れに言った言葉は、イレネを夢で柔らかく満たした。

 本当に行けたら良いのに。この人とどこか遠くへ。

 少女の儚い願いは一瞬で現実に飲まれる。皇帝の隙を探るという名目は効力を失いつつあった。刻一刻と終わりが迫っているという実感が襲ってきてイレネは焦る。

 その日が来るのを先延ばしにしたくて幾度も明けない夜を願う。しかし、朝は必ず訪れた。望みの叶わない朝が。

 イレネは、いつまで経ってもイレネが望む意味で触れられることはなかった。

 貧相な体だから? それとも綺麗な肌じゃないから? 小さな黒い蟲がひそりと蠢きだすのを見て見ぬふりする。

 様々な不安が顔に出ていたのだろう。誰かがイレネにそっと囁いた。あそこに答えが待っていると。

 かすかに意地の悪い気配を漂わせた声に教えられ、イレネは小部屋に入ってしまう。

 宮殿の片隅の見覚えのある小部屋には一体の彫像があった。

 トガを被いた、流れるひだも優雅な最高神祇官としての装い。肩口から真っ直ぐ流れる髪、繊細な眉とその下の切れの鋭い目、神経質そうな唇――白く輝く険のある美貌がこちらを真っ直ぐに見つめている。

 頽れるイレネは一目で理解した。皇帝が何を見ているのか。

 他の追随を許さぬ張りつめた美しさに誰もがひれ伏さずにはいられないという点を除いて、彼はあまりにもイレネによく似ていた。

 一人踊る愚かな小娘。これこそが選ばれた理由なのだ。

 大きな悲しみの塊が迫り上がって来て、胸につかえて苦しい。そこから今までの陶酔の分だけ冷たいとも熱さともつかないものが体の隅々にまで走る。どんな解毒剤も効かない毒に冒されているみたいだった。

 イレネに向けられたものではなかった? あの腕も、唇も、声も、眼差しも全て。

 暗闇がのしかかる。重みで呼吸が出来ない。何かが心臓をもぎ取ろうとしている。


「貴方は、わたしを見ていない。わたしは透けて、いないも同然なのですね……貴方は、わたしの向こうにいる人を見ている」


 十字路に立つ死の女神が落涙し黒い生贄を求めていた。漆黒に染まったこの心を捧げよと告げていた。

 共に冥府へ下りましょう。イレネは先延ばしにし続けていた日に向かう扉の鍵を開けた。

 戦場に出ることはなくなったが、皇帝は今もなお油断ならない。気を逸らせその隙をついて目的を果たせ――悪政を終わらせる刃は着々と研ぎ澄まされていた。

 思い詰めた顔で恋しげに身をすり寄せるイレネを黙って抱きしめる腕は優しい。優しいからこそ憎らしい。

 その朝も滞りなくやって来た。

 とても静かな、落ち着いた朝だ。とても恐ろしいことが起きるようには見えない。

 イレネは皇帝を宮殿の中庭に誘う。彼は特に理由を聞くこともなかった。

 死の女神の接吻。イレネからの初めての口づけに皇帝は微笑んだ。黒褐色の瞳の陰りが晴れているのは、気の所為だろうか。触れるだけだった口づけは、離れようとした途端に押さえ込まれ、すぐにどんどん深くなった。

 万感の思いを込めたきつい抱擁に眩暈を覚えるイレネの耳に温かい声が滑り落ちてくる。


「おまえは、生きろ」


 イレネの息が詰まった。

 おまえは、ですって? では貴方はどうなるのですか?

 矛盾した身勝手な怒りが身を焼く。

 怒りに衝き動かされたイレネは身分を弁えず皇帝の手を引っ張り、ここではないどこかへ行こうとするが、遅かった。先程のイレネの合図と共に潜んでいた男たちが姿を現していた。手に手に鋭い刃をかざして。

 ――彼らの刃の標的は一人だけではない。彼らの罪を贖う生贄が必要だからだ。

 イレネは慌てた様子もない皇帝の背後に庇われる。

 といってもこの人が慌てるところなど想像もつかない。

 それよりも、全て知っていたような彼のそぶりは? 全て知った上でこの日を待ち焦がれていたというのだろうか。

 ひどい。なんてひどい人。

 音立てて粉々に砕け散りそうな心に身を揉むイレネの視線の先には、尊厳者の威光を地に落としたと世間では糾弾される男の広い背中がある。


処女おとめに手をかけるという罪悪を犯すのか。おまえたちの所業、神々は見ているぞ」

「貴方がそれを言うのか! 数多の無垢な命を無慈悲に踏みにじった貴方が!」


 暗殺者の一人が堪え切れずに叫んだ。染み出るような悲嘆が混じっている。彼も大切な誰かを失ったのだろう。

 皇帝は嗤った。暗殺者に対するものではない。自身に対する絶望的なほどに色濃い嘲りだった。


「神々が見ていようがいまいが、おれの行く末など決まっている……それへ向かってただひたすらに進むのみだ」


 神々への祈りを捨て去り、とうに腹を括った男の底知れぬ闇が広がる。音無く進軍する闇。イレネは不可視のそれが我が身を取り巻くのが見える気がした。

 刺客たちもそれを感じ取ったのか数歩後ずさった。


「だが、この娘が何をしたというのだ?」


 皇帝は決してイレネを背後から離さない。あまつさえ刺客の手の届かぬ所へやろうとしているようで巧妙に立ち位置を変えつつある。


「た、たかが奴隷の一人や二人! 死んだところで誰も気にもすまい! いや、むしろ血濡れた暴君を打ち倒すための供物となるのだ、いっそ光栄に思うだろう!」

「呪われろ、愚昧な輩め」


 低く吐き捨てた皇帝に突き飛ばされる。イレネを狙った鋭い攻撃を防ぎ、彼は暗殺者の一人の喉を切り裂いた。

 飛び散る鮮血の中に彼らしくもない隙だらけの側面が見える。そこに向かって導かれるように刃が吸いこまれていく。

 目にしたものが信じられない。信じたくない。

 どうして? 貴方が地に伏すなど似合わない。どうか立ち上がって、お願いだから。

 イレネの懇願は誰にも聞き届けられることはなかった。

 完全に砕け散った心の破片を撒き散らし、イレネは金属的な響きを持つ耳障りな叫びを遠くで聞いていた。それが自分の悲鳴だと理解するのを拒みながら。

 こんなこと望んでいなかった。望んでいなかったのに! どうして! 何故?

 何故、一人でいってしまったのか。

 ――何を言っても、何もかも遅い。絶望することさえ遅いのだ。

 反吐が出るほどにどこまでも愚かな小娘。救いようがない。

 イレネの足元から冷気を孕んだ茨が這い上ってくる。全身に絡みつく茨の痛みと冷たさがイレネを凍てつかせ、溶けない氷の中に閉じ込めた。



 帝国皇帝は死んだ。

 白い息を吐きながらイレネはつぶやいた。

 ともすれば疲労に負けてしまいそうになる足を懸命に動かして一歩、また一歩と深い森を進む。

 どこからどうやってどれほどの時間をかけてここまで来たのか。まったく記憶がなかったが、そんなことはどうでもいい。ただ馬には可哀想なことをした。

 松明を掲げ、パルラに包んだそれを赤子のように、これ以上大切なものはないというように抱えてイレネは歩む。茨の上を行くように足は痛んだ。それでも足は止めない。

 恋しい人は死んだ。


「わたしが、殺した」


 つぶやいて涙を落とす。涙など既に涸れ果てたかと思っていたが、違ったようだ。汚れた頬を伝う熱い涙はすぐさま冷たい夜気に凍えた。

 猛犬、あるいは狼の遠吠えにも似た荒ぶる風が吹いて木々を、葡萄酒色の髪を揺らす。揺らめく灯りに照らされた闇の中に白いものが踊った。

 花弁? いや、違う。これはきっと雪だ。では、ここがメッサリア?

 少女の足ではメッサリアまで辿りつける訳はない。だが、イレネはここがメッサリアなのだと信じた。


「雪、見れましたよ、コンスタンス様。……綺麗です、とっても」


 ほの赤い光に淡い雪が浮かんでは頼りなく儚く消えていく。羽のように舞う白銀の雪花、この上もなく美しかった。こんな美しいものに例えられるとは、なんと光栄なのだろう。

 イレネは笑った。いつもの諦めた笑いではない。心の底からの喜びに満ちていた。

 松明を下ろして足を止め、慈しむ手つきでそれを取り出す。もう腐敗が始まりかけているので死の臭いがするはずだったが、イレネは何も感じなかった。

 愛しさが込み上げてくる。涸れ果てることのない泉から湧いてくる。激情に任せてすくい上げたそれの冷たい唇に口づけた。

 何よりも愛しくて、何よりも憎らしい。

 甘く苦く胸にわだかまる想い。イレネは落とされた皇帝の首に頬を寄せて乾いた草の上に倒れ込んだ。蹴られた松明の火が草に燃え移り、一瞬明るく輝く。

 光の中にかすかに微笑んだ穏やかな顔が見えた。閉じた瞼は二度と開かれることはないけれど、安らいでまどろんでいるようだ。


「すっかり荷を下ろしたような顔をして……ずるい」


 ――生きろと言ったのに。おれの言うことが聞けなかったか、困ったやつだ。

 呆れたように優しく笑う、身の内を潤わせるあの声がする。


「置いていかれる者の苦しみは、よくお分かりでしょう? どうして共にお連れ下さらなかったのです。貴方のものにして下されば良かったのに。ひどい人。わたしの望みはご存じだったはず」


 困ったような、詫びるような眼差しが見えた。

 風が勢いを増して炎が消える。でも、イレネは寒くはなかった。彼を失ってずっと感じていた凍えるほどの寂しさももうない。

 美しい白に彩られながら幸福なまどろみに落ちていく。眼差しの持ち主をしっかりと胸に抱きしめ、イレネは二度と開くつもりのない目を閉じた。

 朝など来なくていい。望まぬ朝など辛いだけ。朝はいつだって希望ではなく苦しみを連れてきた。

 ならば、永久に無明の闇夜をたゆたっていたい。

 この恋うる人と。

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恋うるヘカテー 七木へんり @h-nanaki

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